経済観念について 1 (借金1)


明主様御教え 「貧乏の原因」 (昭和24年6月30日発行)

「本教のモットーである、病貧争絶無の世界を造るというについては病気に関する事は、あらゆる角度から相当検討し解説したつもりであり、

なお今後も引続き、神示の医学として解明するはずであるから、次の問題である貧と争についてかいてみよう。

そもそも貧の原因はもちろん健康の破綻からである事は言うまでもないが、それ以外の原因にも重要なものがあるから、それをかいてみよう。


貧の原因が、病気のため働けないばかりか、多額の医療費を要する事、それも短期間ならいいが、長期にわたるとすれば、勤務先は馘(くび)になり、病気の悩みの外生活苦も加わり、二重の責苦に遭い、

前途不安の暗雲に閉され、進退きわまり、その苦悩たるや実に地獄のドン底ともいえるのである、

かような境遇にある不幸な人々は世間到るところに充ち満ちているのである、

そういう多くの不幸者が、本教を知ってたちまち地獄から脱出し、前途に光明を認め、歓喜の生活が開始されると言う実例は、おかげばなし中に、無数にみられるのである。

これだけで貧の大半は、解決出来るのであるが、なお進んで今一つの重要事をかき、絶対的貧の解決の秘訣を知らしめるべく、私の体験をかいてみよう、

私は若い頃無信仰でありながら、社会改善の志望やみ難く、それには新聞事業程効果なるものないと思い、調査したところ、当時百万円くらいを要するとのことであった、

私は貧乏人の伜(せがれ)で、親から貰った僅かばかりの金で世帯を持ち、九尺間口の小間物小売業を創めたところ、大分成績がよいので、

一年余りで問屋を創め、十年くらいで業界から成功者と言われるようになり、資産も、当時の金で(大正八年頃)十五万円程をかち得た、

そこで新聞事業の資金を早く獲得しようと大いに焦って手を拡げすぎたため遂に大失敗をし、逆にマイナスになってしまった、

その結果最早新聞事業どころではないと諦め、苦しい時の神頼みで宗教にはしり波瀾重畳の経路をたどりつつ多額の借金に苦しめられる事約二十年程であった、

しかし今考えてみれば、これが私の難行苦行であったのだ、世の常の宗教家といえば山に入り滝を浴び断食をするというような訳だが、

私はそれよりも一層の難行であり苦行であると思った、もちろん貧乏のドン底に喘いだ事も一再ではなかった、その時覚り得た貧乏哲学をこれからかくのである。


およそ貧乏の原因は、病気以外は借金である、人間借金をしなければ決して貧乏にはならないという結論を得た、

というのは借金をすれば返済の期日が必ず来るとすれば、払う金は確定的だ、ところが入る金は決った日が来ても大抵は延びるものだ、そこで喰違う、

また借金は皆済するまでは一日の休みもなく利子がつく、ゆえに算盤では儲かるようにみえても、利子を差引くと、案外儲からないことになる、

また借金は絶えず精神的に脅かされ、心に安心がないから良い考えが浮ばない、智慧が鈍るという訳である。


以上のごとくであるから、世間多くの失敗者や、貧乏に落ちる人のほとんどは借金が原因といってもいい、

この意味を悟った私は常に人に向かって言うことは

十万円の資本があるとすれば、まず三分の一、三万円で商売をしろというのである、

このような行き方は、最初は小さいようではあるが、実は時が経つと案外大きくなるものである、

というのは三万円なら少々失敗があってもこの次は失敗の経験で知識を得ているから、

別の方法で、また三万円で創める、これで大抵は成功の緒に着くものである、

万一それでも失敗したら、最後の三万円でやれば、今度は必ず成功するのである、

ところが世の中で大抵の人は十万円の資金をもつと資金一杯で創めるが、中には反って五万円の借金を足して十五万円で創めるという訳で、実に冒険である、

ゆえに失敗したら最後、再び起つ能わざる致命傷を蒙るのは当然である、

ところが私のいうやり方だと資金に余裕があるから非常に安いものとか、確実な金儲があればすぐに乗り出す事が出来るから、案外ボロイ利益を得る、

それに引換え、資金が手一杯だと支払にまごつくような事もあり、延ばすような事もあり得るから信用が低下する、

ところが余裕があると、いつも支払は確実だから信用が厚い、という訳で種々な利益がある、この事について私は大きい例をかいてみよう。


日本が今日のごとき敗戦国となったその最大の原因は借金政策である、これに気のつく人は余りないようであるが、これは大いに関心を持たなければならない、

今次の大戦前までは日本の貿易は年々輸入超過であって、借金は年々殖えるばかりで、ついには借金のための借金をするようになってしまった、

その借金でどんどん軍備を拡張し、領土を拡げ益々侵略の手を伸したのである、

もちろん国外の借金ばかりではなく、国内の借金、すなわち公債政策も極度に拡張した、今赤字で困っている国鉄もその遺物であったという訳で、

もしも日本がこの借金政策を行わないとしたら、侵略の野心家もあるいは出なかったかも知れない、

そればかりではない、年々貿易は出超となり、富裕な国になったに違いない、

その結果平和的文化は大いに発展し、国民の道義は昂揚し世界で羨まれるような幸福な国家となったであろう事はもちろんである、

このような富裕国とすれば、食糧の不足は必要だけ楽に輸入されると共に、

日本人の平和的である事の安心感を各国に与える結果、広茫(こうぼう)の土地の所有国は挙(こぞ)って日本移民を歓迎するであろうから、産児制限の必要などはあり得べくもないということになろう。

国家でさえ、借金政略の結果は以上のごとくであるとすれば、個人といえども何ら変るところはないのである。

貧の解決法は以上によって理解され得るであろう。」




明主様御教え 「借 金」 (昭和24年8月30日発行)

「私が中年頃から二十余年間は、実に借金との苦闘史時代といってもよかろう。

忘れもしない私が三十五、六歳の時大失敗をして、借金と縁を結んでしまった。

しかしそれから何とかして借金と手を切ろうと焦ってはみたが、焦れば焦る程反って借金を殖やすという結果になり、それがついに数人の高利貸から差押えらるるという事になったのである。

差押えらるる事、実に六、七回に及んだ。

これは経験のない人はちょっと判り難いが、差押えを受けるという事はおよそ気持の悪いものである。

執達吏君が来て、妙な紙片を眼ぼしい家財にペタペタと貼る。

特に弱ったのは箪笥(たんす)の抽出(ひきだ)しである。

抽出しを開けられないよう貼るのだから衣類など出す事が出来ない。

しかも右の紙片を毀損する時は刑法に触れるという事を執達吏が申渡すので、どうしようもなく、これには一番閉口した。

そうして幾つもの裁判の被告となり、また高利貸と交渉したり歎願をしたりして、ついに十数年の日時を閲(けみ)してしまった。

もちろんその間借金のための苦悩も並大抵ではなかった。何しろ相手は数人の高利貸で、中にはある意味において当時相当有名な悪辣家もあったから、全く生易しい訳のものではなかった。

手形の切換えに日歩十銭から五十銭くらい支払った事もあった。

また一度は破産の宣告をも受けたのである。

これも経験のない人は判り難い事だが、破産は実に嫌なものである。

まず第一、銀行との取引が出来なくなるし、興信所の内報には掲載される。

その頃私は小間物の問屋をしていて相当手広くやっていたが、一度破産となるや、現金でなくては絶対取引が出来なくなり、手形取引は全然駄目になったので、これが一番困った。

そればかりではない。私宛の郵便物は残らず一旦破産換算人の所に配達され、換算人が一々開封してから私の手に渡るので不快極まりないものである。

そんな訳で借金を全く解決したのは六十歳過ぎてからであるから、つまり二十四、五年間、借金と闘い続けて来たという訳である。

私は何かの本でみたが、九十幾歳の寿を保った故大倉喜八郎翁の「長寿の秘訣」という話の中に、人間長生きをしたければ借金をしない事だ、借金くらい命を縮めるものはないと書いてあった。

この意味からすれば、私などは恐らく借金のために縮めた寿命は少々ではあるまい。」 (「自観隨談」より)




明主様御教え 「借金談義」 (昭和25年2月25日発行)

「私は長い間借金で苦しんだ事はいつもいう通りであるが、借金くらい嫌なものはない、

これは大抵な人は経験するであろうが一度借金をすると仲々返せないものである、

借金をする時は出来るだけ早く返そうと思うが、さて返せるだけの金が出来ても仲々返せるものではないのが人情である、

それで今少し延してその金を働かせ、もっと儲けてから返しても遅くはないと、都合のいい理屈をつけたがる、

幸い思い切って一旦返すとすると、先方は信用が加わるからまた貸してもいいような顔をする、そこでこちらも前より高を殖して借りる事になる。

そうして金というものは、入る方は予定と食い違い出る方は予定通りだから期日には返せないものである、

という訳で一度コビリ着いた借金は容易に綺麗にはならない、ついには借金のある事が癖のようになってしまう、

世間には借金がないと気持が悪いという人さえある、ゆえに一度借金してそれが抜け切ってしまうという人は恐らく十人に一人もあるまい。


今日世界の忌わしい問題は金の貸し借りが一番多いであろう、ほとんど民事の裁判はことごとくといいたい程賃借関係が原因であるそうである、

従って、この世の中から紛争を除く第一条件としては出来るだけ賃借をしないようにする事である、

但しやむを得ず借りたい場合は、一日も早く返す事で、これをみんなが守るとしたら、いかに明朗な社会となり、お互いの不愉快が減るかは贅言(ぜいげん)を要しまい、


今一ついいたい事は、借金は人間の寿命を縮めるという事である、

故大倉喜八郎氏はその事を言ってよく戒めたそうであるが、これは全く間違いない言と思うという事は、借金くらい人間の心を暗くするものはないからである、

私の経験から言っても借金無しになってからの心は、長い牢獄から出たような気持になったのである。」




明主様御教え 「借金是か非か」 (昭和24年11月12日発行)

「私は二十数年間、借金のためあらゆる苦しみを舐(な)めて来た、差押え数回、破産一回受けたるにみても想像されるであろう、

それらの経験によって帰納されたものが、今言わんとする借金哲学である。

今借金をしようとする人を解剖してみるが、単に借金といっても積極と消極とがある、

積極とはこれからある事業を始めるに際し、これだけの借金でやればこれだけ儲かる、すなわち利潤から利子を差引いても相当に残るという計算でやるので、これは誰も知っている、

ところが消極の方は入金よりも出金の方が多いのでどうしても足りない、やむを得ず借りるというのが普通ではあるが、いよいよ詰ってくると、先の事など考える余裕がない。

目前焦眉の急を逃るればいいと差迫った揚句利子の高い安いなど問題にせず、借りられればいいというようになる、

今日新聞によく出ている高利貸の高歩の記事などがそれである、こうなると十中の八、九は崖から落ちる寸前ともいっていい、全く断末魔である。


以上が借金を大雑把に分けてみたのであるが、今度は、借金なしの場合を考えてみよう、

借金無しといえば、まず自分が現在持っている資金で事業を創める、したがって洵(まこと)に小規模であるのは致し方がない、

例えばここに十万円の資金があるとする、それをまず半分ないし三分の一くらいで創め、後の金は残しておくのだから、理屈からいえば頗(すこぶ)るまだるっこい、

しかもその十万円の金も無論人の世話にはならない、己の腕一本で稼いで蓄積したものでなくてはならない、全く身に着いた金であるから、力が入っている、

そうして出来るだけ小さく始めるのである、


この例として私は信仰療法を創めたのは昭和九年五月、麹町平河町へ家賃七十七円、五間の家を借りた、

少し上等過ぎると思ったが、至極条件が良いので思い切って借りたのである、

この頃は古い借金がまだ相当あったが、自分が借金によって覚った哲学を実行しようと思ったからである。


というのは、その根本を大自然からヒントを得たのである、それは人間を見ればよく分る、オギャアと生れた赤ン坊が、年月を経るに従い段々大きくなり、力も智慧も一人前となる、

また植物にしてもそうである、最初小さな種を播くや、芽が出、双葉が出来、真葉が出、幹が伸び、枝が張り、ついに天を摩す巨木になるのであって、これが真理である、

とすれば人間もこれに習わなくてはならない、したがってこの理を忠実に実行すれば必ず大成すると覚ると共に何事も出来るだけ小さく始める事を決心したのである。


ところが、世人多くは最初から大きく華々しくやろうとする、そういう人をよく見るとそのほとんどは失敗に帰してしまう、そういう例は余りにも多く見るのである、

世間大抵の事業はそうで、最初は大規模に出発し、失敗してから整理し縮小し止むを得ず小さく再出発して、それから成功するという例はよく見るのである。

ところで、世の中は決して理屈通り算盤(そろばん)通りにゆくものではない、

なぜゆかないかというといろいろ理由があるが、その一番大きな点は精神的影響である、

すなわち返済期はキチンキチンと来るから、その心配がいつも頭にコビリついている、もちろん現実は決して予算通りにはゆかない、

その煩悶が始終頭脳を占領しているから良い考えが浮ばない、これが最も不利な点である、

またいつも懐が淋しいから活気が出ない、表面だけかざっても、内容は物心共にはなはだ貧困であるから、万事消極的で伸びる積極性がない、

という訳で、いつも不愉快でおる。商人などは安い売物があってもすぐ買えないから儲け損なう、

また大抵は返金が延びる事になるから信用が薄くなる、利子も仲々馬鹿にならないもので、長くなると利に利がつく、

そうなると焦りが出る、無理をする、何事にも焦りと無理が出たらもうお仕舞だ、

私はいつもこの焦りと無理を戒めるが、大抵の人は案外これに気がつかない、焦りと無理は一時は成功しても決して長く続くものではない、


その例として二、三かいてみるが

彼の信長も秀吉も焦りと無理で失敗者となった。

そこへゆくと徳川幕府が三百年の長きを保ったのは家康の方針が、最初天下をとる時から焦りと無理がなかった、

彼は有名な負けるが勝ちの戦法に出たので少し無理だと思うと一たん陣をひいて時を待ち、自然に自分に有利になる時を待っていた。

自然に天下が転がりくるようにした、それがよかったのだ。

彼の訓言に「人の一生は重き荷を背負うて遠き途を行くがごとし、急くべからず」とは彼の性格をよく表わしている。

今回の日本の敗戦も種々の原因はあるが、この焦りと無理が災いした事に間違いはない。

それは最初の出発が非であるからである。

そこへ気がつかず焦りと無理を通そうとしたのが原因であろう。


一番いけないのは、苦しまぎれに借金のための借金をする事である、敗戦の末期頃はそれであって、紙幣の乱発をしたのもそのためで、インフレもそれが大きな原因となったのである。

彼の英国労働党内閣が成立間もなく三十七億ドルを米国から借金したが、私はこれは将来経済的苦境の原因とならなければよいがと思ったが、果せるかなその後借金に借金を重ねなければやれない事になった、今度のポンドの切下げもその現れである、

大英帝国華やかなりし頃は、植民地その他からの収入年三億ポンドというのであったから、実に今昔の感に堪えないものがある、

それまで英国の健全財政は同国の誇りでもあったが、二回にわたる戦争によって今日のようになったのも、またやむを得ない運命とも言えるのである。


以上によってみても、借金は否とすべきもの、何事も小さく始めるという真理をかいたが、これを座右銘とされたいのである、

もっとも短期で返済可能の確信ある場合に限り、例外としての借金は止むを得ないのである。

以上が私の提唱する借金哲学である。」




明主様御教え 「再び借金を論ず」 (昭和25年2月18日発行)

「私は先頃借金是か非かという論文を本欄に載せたが、いまだ言い足りない点があるから再び書くのである、

というのは現在の世の中を見ると、借金のために善い結果よりも悪い結果の方が多い事実である、

そうして近頃のごとく自殺者の多い事は今まで見ない程で、しかもその原因の大方は借金のためとされている、

もちろん青年男女の自殺や情死はほとんど痴情が原因であるが、

中年以上のもの特に相当社会的に知られている人なども、ほとんどは借金が原因とされている。


この間米国から来日した名は忘れたが某有力者の談話中にこういう一節があった、

「日本の実業界を視察して一番驚いたのは余りに借金の多い事である」と、

これにみても判る通り現今は猫も杓子も借金のない者はほとんどあるまい、

なるほど戦争であの通り叩きつけられた揚句であるから復興するにも無一文では不可能で、借金によらなければならない事は判るが、

多くは必要以上の借金をする、それがいけないのだ、

大体日本人はどうも虚栄が多過ぎ見栄坊である、この点も原因中の主なるものであろう、

この見栄坊が祟って少し調子が良いと思い切って拡張する、

じっくり落着いて考える事をしない、

勝ちて兜の緒を締める格言などは忘れてしまう、

もちろん理外の理などという事も知らない、

ただ理屈と算盤に合い儲かりさえすればいいという、

いわば刹那主義的で、大胆を通り越して無謀に突進する癖がある、

要するに実業家でありながら、やる事は乗るか外るかの投機である、

ところが世の中はそんな甘いものではない、およそ計画通りにゆかないのが常道である、

というのは目紛(めまぐる)しい程変る世の中とて、最初の見込とは予想外に違うものである、

何よりも今日の金詰りがそれで、今困っている人は、最初の計画当時と余りに違う現在に驚いているに違いない、

衆知の通り、今日数多くの工場の閉鎖、不渡手形の激増、労銀の遅払、滞貨の漸増、取引の不円滑等々はもとより、

一時景気の好かった高利貸ですら、最近は気息奄々(きそくえんえん)として倒産する者さえあるにみても、

いかに金融逼迫のはなはだしいかが判るのである、

右のごとき事実によっても最初の世の中の激しい変り方を算盤に入れないからである。


以上のごとくであるから今日の金詰りを緩和し、現在の難境を切抜ける唯一の方法は、従来の頭脳を切替える事である、

すなわち借金をしない、無理をしない、焦らない事の三箇条であって、

何よりも前途を低く見る事である、

言うまでもなく、出来るだけ緊縮方針で放漫にならないよう戒める事で、それより外に適確な道はあり得ないのである。


今一つ大いに注意したい事がある、

由来 日本人くらい他力本願の強い国民はあるまい、これが最もいけない

見よ、少し大きな事業になると政府の援助を求めたり、補助金を貰いたがったりするかと思えば銀行から借りなければ事業は出来ないように思う、

大会社などは少し好い時は配当を多くし、社内保留が少ないため無暗に社債を発行したがる、

今日現に大きな問題としている外資導入のごときもそれである、

ところがこの外資導入に対し、米の資本家が遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)しているのは何がためであるかを考えてみるべきで、

全く日本の経済界が堅実味に乏しいからである、

したがって、日本が外資の必要がないという状態になれば、米国の方から進んで金利は安くてもいいから、金を使って貰いたいと言って来るに決っている、

その機微な点に気がつかなければならないのである。


最後に言いたい事は、今後日本の経済はどういう進路をとるかという事である、

言うまでもなくデフレ時代に入るのだから、緊縮方針を守り、堅実の上にも堅実で行かなければ乗り切る事は困難である、

また別の話だが、農家にしても近来一時の農村景気はどこへやら、今は非常に窮迫している事実である、

これらも農民の経済知識の不足からでもあるが、

為政者の無能なため前途の見通しが着かず、今日ある事に警告を怠ったからで、政治家にも一半の罪ありというべきである。


右によっても明らかなごとく、すべての事業は、借金政略で最初から大きくやる事がいけないのである、

どこまでも堅実に小さく始めるべきで、どこまでも自力本位である、

したがって他力を蔑視し彼の「天は自ら助くるものを助く」という事を信条とし、

焦らず撓(たゆ)まずコツコツ主義で努力を重ねるとすれば必ず予想外な好結果を得らるるもので、

これは私の生きた経験から得たものであるから間違はないのである。


右は私が長い間借金で苦しんだ体験の結晶で、借金皆済後、一生涯借金をしない事を心に誓って今日に至ったのである、

果せるかな、それ以来予想外の好成績を挙げている、

第一借金がないと心は常に明朗であるから頭脳も良く、思わぬ良い考えが浮ぶものである、

よく「笑う門には福来る」とか「憂えは憂えを生み、愚痴は愚痴をよぶ」などと言うが、全くその通りで、

心が裕かであれば物質的にも豊かになるのは当然である、

本教が世間から非常に経済上恵まれている事を実際より高く買われているのは、借金をしないからで、支払渋滞などがないためもある。


以上のごとく長々と借金の非なる点をかいたが、

これを要するに、全然借金をするなというのではない、

根本は自力本位で借金は最少限度に止める事、この二箇条を守るだけである、

そうすれば焦りも無理も必要がないから、一切は順調に進み、楽々成功する事は太鼓判を捺すのである。」




明主様御教え 「借金二十年」 (昭和28年7月15日発行)

「私は大正八年から昭和十六年に到る二十余年間借金で苦しんだ。否苦しめられたのである。

忘れもしない大正八年三十八歳の時、今の妻と結婚の話が纏(まとま)り、黄道吉日(こうどうきちにち)を選ぶや間もなく、出し抜けに生まれて初めての執達吏(しったつり)という、いとも気持の悪い種族三人が飛込んで来た。

何か変な紙片を差出し読ませられたが、何しろ今までそんな経験のない私とて、ただ目をギョロつかせる許(ばか)りだった。

そうこうする間も彼らは部屋部屋を見廻しながら、目ぼしい家財道具に小さな紙片をペタペタ貼ってしまった。

また差押え理由を細々とかいてある半紙半分程の紙を読んでくれろといい、箪笥(たんす)の横ッ腹へ貼って帰って行った。

よく見ると色々な法律的箇条書があったが、その中でギョッとしたのは、差押物件は自由にすべからず、貼った紙片を破棄すると、刑法第何十何条に処すという事がかいてあった。

ところが弱った事には、右の小紙片は箪笥の抽斗(ひきだし)とその仕切りにかけて貼ってある。

もちろん開けさせないためだが、しかし開けなければ着物が出せないので困った。

そこで色々工夫の末、仕切りの方だけは巧く剥(はが)れたが、抽斗の方は貼ったままでどうやら開ける事が出来たので、ホッと安心したという訳だ。

ではなぜこんな目に遭ったかというとそれはこうだ。

私は以前もかいた事があるが小間物屋で成功し、無一物同様から十数万の資産をかち得たので、大いに自惚(うぬぼ)れてしまい、

かねての念願である新聞事業を一つやってみたいと思いよく調べてみたところ、

当時百万円の金を持たなくては難しいとの事なので、何とかしてその百万円を作りたいと思い、種々な金儲けに手を出した。

ところがたまたま吉川某なる海千山千のしたたか者と懇意になり、その頃の私は同業者から羨望の的とされていたくらいなので、

世の中を甘く見すぎ、右の吉川の言うがままに第一次欧州戦争後の株熱の旺(さか)んな時とて、株屋相手の金融業を始めた。

何しろ私の信用で先付小切手で銀行が貸してくれるので、借主からは日歩五銭の利子が取れるのだから堪らない。

一文要らずのただ儲けという訳で、到頭現金と小切手で十数万円に及んだのである。

ところがそれを扱った銀行で倉庫銀行というのが突如破産したのである。

彼はそれをヒタ秘(かく)しに隠し、小切手を高利貸方面で割引いたから大変だ。

それがため高利が嵩(かさ)んで進退きわまり、到頭彼は私の前に叩頭(おじぎ)してしまった。

全く私にとっては青天の霹靂であったので、止むなく一時逃れとして銀行に頼んで小切手の支払全部を拒絶したから、怒ったのはアイス連中(高利貸しのこと)だ。

たちまち前記のごとく差押え手段をとると共に、私に対して詐欺の告訴を提起したので、私は検事局へ喚び出されて散々油を絞られたのである。

そこで数人の高利貸に泣きついて、ようやく約三分の二の八万円でケリが付き、半額現金、半額月賦という事になったが、これからがそれを払う苦しみが始ったのである。


その事件のため約束の結婚も不可能なので、ありのまま打ちまけたところ、

先方は普通なら秘密にすべき事柄を、正直に言うとはめずらしい立派な人だと反って賞められ、反対に是非実行してくれと言われたので、

私も世の中というものは妙なものだと思ったことで、今でも覚えている。

この痛手のため営業も窮屈となり、店を株式会社に改め、一時は小康を得たが、忘れもしないアノ翌九年三月の経済界のパニックである。

商品下落、貸倒れ等これが第二の打撃となったが、それにも増して今度は彼の大正十二年九月一日の関東大震災である。

当時京橋にあった店も商品も丸焼、貸金全部貸倒れと来たので、一時は駄目かと思ったが、

どうやら営業だけは続ける事が出来たには出来たが、

そんなこんなで私は金儲けがつくづく嫌になり、活きる路を宗教に求めたのである。

そこで色々の宗教を漁(あさ)ってみたがこれはと思うようなものはない、

その中で一番心を惹かれたのが彼の大本教で早速入信した。

これからの事は以前かいたから省いて、借金の方だけかいてみるが、何しろ以上のような訳で、

金儲けを止めた以上借金返済は不可能となったので、アイス族共代る代る差押えに来た。

何しろ信仰的病気治しの御礼くらいでは知れたものだから、

そこで生活費を極度に切り詰め、最低生活で辛抱し、少しずつは返したが、中々思うようにはゆかなかった。

そうこうする内幸いにも段々発展し取入も大分増えたので、ようやく借金残らず返し切ったのが昭和十六年であった。

数えてみるとちょうど二十二年間借金で苦しんだ訳だから、それまでは重い荷物を背負わされていたのが急に軽くなり、せいせいした訳である。

ここで特に言いたい事は、借金の抜けない内こそ、寝ても覚めても金が欲しい欲しいので心は一杯だったが、

信仰が深くなるにつれて金は神様が下さるものとの訳も分り、

しかも全部返済ずみになったので気持も悠々となった。

ところが皮肉にもそれから思いもつかない程金が入るようになり、年々増える一方なので、

つくづく思われた事は、金という奴欲しい欲しいと思う間は来ないもので、忘れてしまった頃入るのである。

つまり私の二十数年間の経験によって得たのがこの借金哲学である。

宗教家の私がこんな事をかくのも変だと思うかも知れないが、これも何かの参考になると思うからかいた次第である。」