見真実について
明主様御教え 「神秘の扉は開かれたり」 (昭和24年8月30日発行)
「私が解くところの多くの説は、そのほとんどが前人未踏のものばかりといってもよかろう。
これについて、良い意味の疑念を起す人が数多くあろうと思うから、その訳を簡単にかいてみる。
私は常に地上天国建設を唱えているが、これは私が考え出したのではない。
天の時到って神が私をして実現すべき計画と様相を示すと共に、目的を遂行し得る絶大なる力を与え給うたのである。
その力の中、物を識る力の発揮が私の解く説となり、今日まで暗幕に鎖されていた謎や、霧に覆われ朦朧(もうろう)としていたものなどがはっきりと霊覚に映り、そのままをかくのであるから、一切が開明せられる時となったのである。
ちょうど今日まで夜の世界であって、暗の夜の不可視はもちろんであるが、月明といえども、鮮明に物を見得る程ではない。
それが現在までの世界の実相であった。
ところが、昭和六年の半(なかば)頃から黎明期に入ったのである。
その時を契期として、漸次太陽は上昇しつつ昼の世界に入った訳で、今や光明世界は来らんとし、地上天国は出現せんとするのである。
この意味においてあらゆる謎も秘密も社会悪も光明に晒される事になった。
いわば不透明が透明となり、悪の隠れ場がなくなる事となったのである。
人間の三大苦である病貧争の原因が、悪から発生したとすれば、悪の追放によって病貧争絶無の世界が生れるのはあえて不思議ではない。
そうして右の三大苦の中の主たるものはもちろん人間の病苦である以上、
病患の根源といえども明らかとなるのは当然で、ここに病無き世界が実現するのである。
そうして今日までの宗教を初め、哲学、教育、思想等あらゆるものは一切万有に対しある程度以上の解釈は不可能とされ、深奥なる核心に触れる事は出来なかった。
彼の釈尊は七十二歳にして吾見真実となったといい、日蓮は五十余歳にして見真実となったと言う事であるが、見真実とは、前述の核心に触れた事を言うのである。
それによって明らかとなったのが、釈尊においては法滅尽と弥勒下生であり、日蓮においては六百五十年後浄行菩薩が出現し、義農(ぎのう)の世となるという事であった。
キリストは見真実の言は発せられなかったが「天国は近づけり」という事と「キリスト再臨」の予言は、見真実によらなければ判るはずがないのである。
その他昔から見真実でないまでも、それに近い聖者の幾人かは現われた事は想像され得るのである。
そうして見真実を判りやすくいえば、ピラミッドの頂点の位置に上ったと思えばいい、
ピラミッドの高き尖端に立って俯瞰(ふかん)する時、高い程視野が広くなり、多くを見得ると同様である。
ここで私の事を言わない訳にはゆかないが、私は四十五歳にして見真実になったのである。
見真実の境地に入ってみれば、過現未にわたって一切が明らかに知り得る。
もちろん過去の一切の誤りは浮び上って来ると共に、未来の世界もその時の人間の在り方も、判然と見通し得るのである。
といって知り得た総てを今は語る訳にはゆかない。
何となればサタンも提婆(だいば)もパリサイ人もいまだ妨害を続けつつあるからである。
ゆえにある範囲だけを発表するの余儀ない訳であるから、今一歩というところで、徹底しない悩みのなきにしも非ずであるが、これも経綸上止むを得ないのである。
しかし、今までだけの発表でも前人のそれとは格段の相違のある事は、私の文章を読む限りの人は認識されたであろう。
以上標題のごとく、すでに神秘の扉は開かれたのである。」
明主様御教え 「光への道 はしがき」 (昭和24年12月30日発行)
「これは私の自舒伝である。最初わが半生の記と名づけたのであるが「光への道」の方が感じがいいのでそう名づけたのである。
私の前半生は洵(まこと)に平凡で世間ありふれた経歴で、おもしろくないから書かない事にしたのである。
それが三十八歳の時私は運命の一大転換に逢着した。それからが波瀾万丈の生活が始まったのである。
ある時は高山へ登りある時は谷底へ転落したというような経路を経つつ、あらゆる人生の苦悩を嘗(な)め尽して来たのである。
とはいうものの三十八歳は私の第二の誕生でもあった。
それからは予期しなかった信仰生活に入り、初めて私に課せられたる天の使命を知ったのである。
宗教人となってから苦悩の大きい代り、また実に欣喜雀躍する程の喜びもあり、全く文字通り悲喜交々(こもごも)の人生を経て来た訳である。
もちろん神幽現三界にわたり神仏の存在、生と死の本義や、過現未にわたる世界の動向、人生の意義等々、何人も窺知し得なかったところの彼の釈尊が七十二歳にして到達し得たところのいわゆる見真実の域にまで達したのである。
この喜びはいかばかりであったであろう。ちょうど達磨が面壁九年八月十五夜の満月を仰いで悟道に徹したという歓喜に勝るとも劣らないと思ったのである。
由来一宗の開祖たる人は、昔から非常に奇蹟に富んだ事は普く人の知るところであるが私も同様幽玄にして神秘極まる奇蹟の生活を続けつつ今日に至っている。
今一つ特に言いたい事は、文献等による今日までの宗祖開祖に比し、私というもののすべてが余程変っている。
その中の著しい点は、私の生活態度は凡人と少しも変った所がない事で、これは人からもよく言われるのである。
そのように私は常に常識をモットーとし、奇矯な言動は極力嫌うためでもあろう。
また私ほど多角性のものもないと思う。私は宗教家でありながら、政治、経済、芸術、教育、美術等々ほとんど人生百般のものに、趣味と関心をもっていないものはないと言ってもよかろう。
この事は実に多幸とも思っている。これは私として常に神に感謝しているところである。
以上のごとき、私がたどって来た奇蹟に富める活歴史をこれから書こうとするのであるが出来るだけ興味に富めるものを主として記事を進めるつもりである。」 (「光への道」より)
明主様御垂示 「覚りの段階はピラミッドのようなもの」 (昭和24年7月23日)
「根本から言うと「覚り」っていうこともあるんです。
信仰の深いことが判ってくると、霊力も従って強くなります。
勿論、深いと言ってもどこまでも深いものなんですがね。
ちょうど、ピラミッドのようなもんですよ。(お煙草二本で∧の形をお示しくださる)
この辺が(図略)ふつうに活動している人の程度ですが、
この辺(図略)になると霊的に位がついてきて、霊力がずっと違ってくるんです。
もう、この辺(図略)から上になると神秘が判るんで「見真実」となるんですが、
一番上は主神で、ここになるともう判らぬものはなにもないんです。
お釈迦は、まあこの辺(図略)だったんですが、この一番上まで上った人は未だだれもいないんですよ・・・」 (長文は「資格者の心得」のページ)
明主様御講話 「信仰の目的は早く見真実になること」 (昭和29年3月6日)
「見真実というものは一番高い所ですから、そこですべてを見下ろすからはっきり分かるのです。
結局この見真実を分からせるために私がいろいろ説いているのです。
要するに信仰の目的は早く見真実になることです。
そうするといろんなことがよく分かります。
けれども本当に見真実には、それはふつうではなかなかなれないのです。
だからそれに近寄ればよいのです。
ところで釈迦やキリストも見真実にはなったが、見真実にも上中下があって、中位の見真実だったのです。
その先は分からなかったのです。またあの時代には分かってはいけなかったので、時期が早すぎたのです。
しかし今はもう分からなければならないのです。
本当に地上天国を造るのですから、それには人間の主だった人たちに、ある程度は見真実を分からせなければならないのです。
ということは救世教の信者ですが、特に幹部の人です。こういうよう(ピラミッド)になっていて、
その頂点が見真実の境地になって、段々になっているのです。
この間の論文に説いた科学というのは下なのです。
それで私が説くことはみんな科学ですが、科学にも上中下があって、現代科学はずっと低いのです。
そういうようで、段々になっているのですが、深く高くなっているものほど上等です。
私が説いている科学は上等な科学です。
そこで下等な科学のことを批判しているわけです。」
明主様御講話 「見真実は明主様の専売特許ではない」 (昭和26年9月25日)
「まだ時間が有ったら仏教の起源と言うのを・・・これは面白いのですが・・・いずれ読ませます。
仏教は誰が始めたかと言うと、インド人ではない。
日本の神様が言って化身、化仏されて・・・伊都能売神様ですが、伊都能売神様がお釈迦さんに教えられて、お釈迦さんがびっくりして広めたんです。
化仏と言うのは、神様が仏に化けたんです。
日本の神様はインドに行かれて、今度メシヤ教が出て五六七の世を造る、その準備に用意された、その準備に用意された。
それを「文明の創造」に書きつつあるんです。だんだん知らせますからね。
そんな訳で、神様は前から、世界的に準備した。
だから、キリストもマホメットも、地上天国の用意のために、何千年も前に色々な事をされたんです。
そう言う事も、色々と書くつもりです。
それを、最初は日本人に知らせますが、最後は世界中に知らせます。
これが「見真実」です。これは専売特許ではない。
全人類に知らせなければならない。
そうすれば、五六七の世が出来るんですね。」
明主様御講話 「人間がほとんど見真実になると五六七の世になる」 (昭和26年9月11日)
「今、文明の創造の医学の方は大体終わったんで、宗教の方を書いている。
つまり、医学篇、宗教篇、天国篇となる。一番最後の天国篇と言うのが一番面白い。これはミロクの世の状態ですからね。
今は宗教篇ですが、仲々変わった、余り今までに説かない事ばかり書いてあるから面白いと思いますが、最初は宗教的に病気と霊ですね。
霊に関した事です。それから既成宗教を説き、それから、極く神秘な点に入ろうと思っている。
それで、既成宗教ですが、大体仏教の事を書いてある。
それから、これからは自然農法と言う様に、医学の方も宗教医学としますからね。
今の医学は唯物医学で、こっちは宗教医学と分けて言うようにしようと思います。
現代医学は唯物的に治すから唯物医学で、こっちは宗教的に治すから宗教医学です。その方が分かりがよいですね。
(御論文「唯物医学と宗教医学のあとの御教え)
こんな具合に宗教を説く積もりですが、そうすると、はっきり分かりますからね。
それでなくては、人を救うことは出来ない。
これは「見真実」で見ると、こういう事になるが、大体人間がほとんど「見真実」になる。
そうすると、それが五六七の世になる。
と言うのは、つまり今まではピラミッドみたいなものだったが、「見真実」は一番上なんです。
ところが、人間が下に居たら分からなかったが、段々魂が上がってこの辺(ピラミッドの頂上付近)まで上がる。
そうすると、悪い事したりするのはつまらないと言う事が根本的に分かるんです。」
明主様御垂示 「五六七の御代には誰でも真実が判る」 (昭和24年9・10月)
信者の質問
「「見真実」の地位には信仰が深くなればだれでも到達できるのでしょうか。」
明主様御垂示
「これは絶対にできませんね。
特に何千年、何万年に一人選ばれた人がなるんです。
勿論、ふつうの人でも信仰が深くなればその手前までは行けますよ。
そして、将来は世界中の人がそこまで到達するようになるんです。
けど、いまはまだ秘密なんですよ。やはり邪神がいますからね。
しかし、もうじきですよ。五六七の御代には「見真実」なんてなくなってしまうんですよ。
だれでもみんな真実が判るようになってしまうんですから。」
明主様御講話 「みんなが見真実になれば間違ったことはなくなる」 (昭和26年9月8日)
「ここ(御論文)にも、私の書いたり説いたりしたことがそうとうあるが、大体第三者に見せるのですからやむを得ない。
つまり宗教ですね。宗教の説き方はこういうふうに説いて行くと良い。
飽きずに読めます。
一番、誰にも読みやすい。手近な例を説明して行きますから分かりやすい。
こういう説き方でだんだん説いていくつもりです。
そうして初めて、人間は悪いことをしてはいけないということが分かってくる。
今までのバイブルなんか・・・「汝こうするな」「汝なにせよ」と言ったところでピンとこない。
こういう意味も書いてあります。
要するに、新しい宗教の説き方で、それをだんだん説いていくうちに神様ということになる。
神様を科学的に説明するんです。
これも非常に大胆な、新しい試みです。驚くだろうと思ってます。
今まで神様なんてことは、みんな恐れ戦慄(おのの)いて触れることを避けているが、無理もない。
それを書く人の方が神様より下だから恐いが、私の場合は、私より上の神様はないんだから、大いに知らせるんです。
またそれでなければ五六七の世はできないんです。
「見真実」というのは、一人の専売ではなくて、みんな「見真実」になれば、悪い・・・間違ったことはなくなる。
これも時節です、今まではそういうことができないがね。
今までは悪が実際に必要だったんです。
悪がなければ物質文化は発達しないんです。
悪がここまで発達すれば、かえって悪があっては困るんです。
それで、悪を打ち切りにするんです。そのためにメシヤ教が出たんですから、すべてはっきりしなければならない。
これから宗教に入るに従って、そういうことを徹底して書いてます。
非常にためになるものです。」
明主様御講話 「見真実にも浅い深いがある」 (昭和28年7月15日)
(御論文「医学革命の書」「科学で病気は治らない」)
「この後「神霊の解剖」というのを書くつもりです。
つまり神様を解剖するわけで、随分変わったことですが、神様を解剖するなどというと、今までの人は恐ろしくて罰が当たってはたいへんだと、そういうものに触れる人はないのです。
けれどもそこまで分からなければ信仰の真髄は本当に分かるわけがありません。
神様というと、ただ漠然としてありがたいような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れることはならないように思われてきたのです。
というのは、今まで神様を本当に分かっていた人はなかったのです。
つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分かっていなかったらしいのです。
神様が分からないと、病気、人間の生命力ということが分からないわけです。
なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分からなければ生命に関したことも分からないわけです。
ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。
つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面(うわつら)の所だけしか説くことができなかったのです。
ですから見真実といっても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分からなかったというよりか、分からせなかったのです。
分からせてはいけなかったのです。
ところが今度は分からせなければいけなくなったわけです。
そこで私は知らされたわけです。」