悟りと覚りについて


明主様御教え 「悟りと覚り」 (昭和24年9月25日発行)

「単にサトリといっても二種ある。

すなわち標題のごとき悟りと覚りである。

ところでこの二つのサトリは意味が非常に違う、むしろ反対でさえある。

悟の方は消極的で、覚の方は積極的ともいえよう。

仏教においても等覚(とうがく)、正覚(しょうがく)、本覚(ほんがく)などといい覚の方をいうが、事実はそうでもない。

仏教は悟の方が多いようである。というのはこの娑婆(しゃば)は厭離穢土(えんりえど)とか火宅とかいい、人間は生病老死の四苦からは逃れ得ないとしている。

それも間違いではないが、そのような苦に満ちた娑婆を排除し革正して、極楽世界たらしめようとする積極性こそ宗教本来の役目であるにかかわらず、

苦の娑婆はどうにもならない、諦めるより仕方がないという。

洵に消極的退嬰的であるのは悟の方であるが実は、これが仏教の真髄とされて来た。

何よりも印度の衰亡の原因はそこにあったのではないかと思う。

また今日の日本仏教が危機の状態にある事もその現われであろう。

しかしこの事実を吾々からみれば今まで夜の世界であったからで、いよいよ時期来って昼の世界に転換せんとする今、一日も早く目覚めて、覚すなわち自覚の境地にならなければ救われないのである。」




明主様御垂示 「貧すれば鈍する」 (昭和23年11月28日)

信者の質問
「恒産なき者は恒心なし」との格言がありますが、現在の世相においても当てはまるものでございましょうか。」


明主様御垂示
「これは当てはまります。

どうしても、人間貧苦するとろくな考えが出なくついごまかしたりする。

だから生活の心配のないところまで行かねばいけない。

宗教を信じるならそこまで行かねばならない。

ところがいままでの宗教は体を救えなかったのです。

例えば病気で苦しんでいて、感謝なんか出るはずはないんです。

あれは自己を偽っているのです。・・・

いままでの宗教で言う「さとり」とは「悟」の字を使い、諦めの意味ですが、私のは「覚」であり知るさとりです。」

(註 「恒産なき者は恒心なし」・・・財産や生業による安定した収入のない者は、定まった正しい心が保てないということ。)




明主様御垂示 「仏教の悟りというのは諦め」

信者の質問
「神典の主旨に通達するには私達はいかに勤めさせて戴けばよろしゅう御座居ましょうか。」


明主様御垂示
「神典とは昔ある古事記等である。

神よりの現魂への命は誠心ならばひとりでに浮ぶ。これが通達である。邪念があるとそれを遮ぎる。

後は大先生の御言葉を心に入れて判断すれば間違いない。そのための今度の御本である。

今迄の神典でも仏典でも夜だったので、本当の事が判らずかけなかったために書いてなかった。

だから名僧のかいたものは浅い。

キリスト教のは現代的でいくらか判る。

仏教に至っては殆ど判らぬ。言う人が判らぬから判る筈がない。

この世は火宅とか、厭離穢土とか、仮の娑婆とか、生者必滅、会者定離などと唱えてあるから希望を失う。

この世は汚ないというのである。

仏教の悟りというのは諦めである。

夜の世界は滅する。仏教は滅する。夜の世界は本当のものが出来ぬ。必ず滅する。空々寂々だという。

昼間になると本当のもの、滅せざるものが出来る。

五六七は順序が正しくなる事である。

三六九・・・小中大。

汚い所へ蛆がわく。強盗不良児など出るのは日本人全体が間違っている。皆よくなれば自然に消滅する。悪い人間も、どういう役目をしているか判らぬ。

民主々義は今迄の封建制打破のためにはいいが、それのみではいけない。

アメリカは階級制、日本は民主々義を採入れるのでなくては、本当によくならぬ。」




専従者の寄稿 「覚りと反省」 AS (昭和29年8月18日発行)

「我々が何か仕事をして、その結果が良く行かず失敗に終った場合に、よく「反省してみる」という言葉を使うのでありますが、

そのような場合、明主様は「覚る」のであると仰せられるのであります。

この二つの言葉は至極簡単でありまして、その間にさ程の差異がないように思われますが、

よく考えてみますと実は大変な相違が存するのであります。即ち精神的にこれを分析してみますと、

「反省」という言葉は消極的であり、退歩的でありますが、

「覚り」ということは積極的であり、前進的であると思うのであります。

前者におきましては、その根底に「あのために失敗した」とか、「あんなことを為さなければよかった」とか、

「あんなときには、こうすればよかった」とかいうようなある執着を含んだ悔悟的の精神状態によって生ずる言霊であり、

これをさらに煎じ詰むれば、「我」ということに到達するのではないかと思うのであります。


ところが「覚り」におきましては、そのことによって「かくかくと分らせて頂いた」「事の真相はかくあるものだ」という意味から出発する言霊であります。

積極的に一歩前進したことになり、非常に胸襟が開けた明るい気持になるのでありますから、

更にこれは、「素直にする」という事に繋がると思うのであります。

一方は地獄的苦しみの境地とすれば、他方は天国的救いの境地と申しても宜しいと思います。


信仰の妙諦は我を出さないことと、素直にすることであるとの御教えより申せば、

この二つの言葉の間には甚だしい相違があるのでありまして、

明主様の仰せらるる通り、「反省」でなくして「覚り」でなくてはならぬのであります。

由来、人間意欲の中で最も魅力を持つものは、神秘を探り当てようとすることでありましょう。

熱心に信仰をするということも、神秘を探究するがためでありまして、一つの神秘を探り当つれば次の神秘を求め、

更に次の神秘をというふうに、知れば知る程、益々その奥を求め極めんとするのであります。

そして「覚り」得たとき、換言すれば事物の真相を知悉し得たとき、即ち神秘の探究に通ずるのでありまして、

そこに信仰の魅力を感じ、妙味を覚えるというものであります。


本教が驚異的大発展を遂げつつあるに引き替え、既成宗教が不振なのはこの神秘に対する解明が出来ないからであります。

「反省」はあっても、「覚り」がないからであります。

按ずるに、今までは夜の世界でありまして、事物の考え方はすべて仏教より出発しており、

仏教にいわゆる反省とか、悟道とか申しておりましたのは、その根本におきまして、現界を苦の世界とし厭世的に諦めるより仕方がないという事に基づき、

結局この世の苦を排除して天国的世界を作る力が、生まれなかったに因るものと言わなければなりますまい。

ところがいよいよ時期到来し、昼の世界に転換し一切を解明する御力を振わせらるる、

明主様の下にある我々信者としては、「覚り」によって救っていただかねばならぬと思うのであります。」