五智について
明主様御教え 「五智を説く」 (昭和25年1月30日発行)
「単に智慧といっても種々ある。今それを分類してみよう。
まず最高は神智、次が妙智、叡智、才智、奸智の順序で、大別して五段階になる。
私は名づけて五智という、これを一つずつ説いてみよう。
神智とは最高の智慧で、これは普通人には得られない、特別の人間が神から受ける智慧で、
それはその人が、重大使命を神から委任されたからである。
昔から「学んで知るを人智と言い、学ばずして知るを神智」と言うが、一言にしてよく表わしている。
妙智というのは、観音妙智力などといい、前述の神智に対し仏智ともいうべきもので、
神智は男性的とすれば妙智は女性的ともいえるので、妙の字が女偏であるのも面白いと思う。
叡智とは、賢明な人間が表わす智慧で、仏教で智慧証覚とか、単に智慧というのはこれを指すのである。
しかし今の世の中はこの叡智さえも働く人は洵(まこと)に少ないのである。
それはいうまでもなく、邪念のために物の正しい判断がつき難いからである。
この例を一つかいてみよう。
今日政治家はもちろんの事、あらゆる有識者といえども、ある問題に対し会議をする場合、
小さい問題でも、多数の人間が何時間も掛って頭をひねらなければ結論が見出せない。
少し大きな問題になると、十数人あるいは数十人が額をあつめ、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を闘わし、
何回も何日も会合しても仲々結論を得られないというのであるから、いかに頭脳の働きが鈍いかという事である。
考えても見るがいい。いかなる問題といえども結論はたった一つである。
決して幾つもありはしない。
それが多勢の頭脳と、幾日もの日時がかかるというのであるから、実に情ないの一言に尽きるのである。
これというのも全く叡智が足りないからで、叡智の足りないという事は頭脳が曇っているからで、
頭脳が曇っているという事は邪念があるからで、
邪念があるという事は唯物主義を信奉するからで、
唯物主義を信奉するという事は、神の実在を認めないからで、
神の実在を認めないという事は、神を信じさせ得る宗教がないからであるとすれば、
神の実在を如実に知らしむる宗教こそ、本当に生きた宗教というべきである。
かように くどくどしく言わなければならない事程さように、現代人は頭脳が悪くなっている訳である。
この意味において叡智ある人は、いかなる問題にぶつかっても数分間、ないし数十分間に結論を発見し得るのである。
これについて私は部下に対し、いかなる問題に当っても結論を見出すまでの論議はまず三十分くらいを限度とし、
長くとも一時間以上になる場合は、その会合を一時中止し、
他日を期して再会議するか、または直接私に相談せよというのである。
私の事を言うのは心苦しいが、私はどんな難問題に対しても数分間で結論を見出すのである。
たまには急速に結論を見出し得ない場合もあるが、そういう時は強いて見出そうとしないで、一時それを延ばすのである。
そうすると間もなくインスピレーション的に、必ず結論が頭に閃めくのである。
次に才智であるが、これは誰も知っている通り表面だけの浅智慧であるから、
一時的良くても、時が経つと必ず失敗したり信用を落したりする。
言い換えれば愚智または鈍智とも言えるのである。
奸智は、これも読んで字のごとく邪悪の智慧で、悪智慧である。
これも世間にはなかなか多く、しかも智識階級、指導者階級にも相当多いのだから、社会が良くなりよう訳がない。
ゆえにこういう悪智慧が無くなる日本人になってこそ、明朗な社会が出現し、立派な国となるのである。
しからば、この奸智を抹殺する方法はありやというに、それは訳はない。
悪智慧の発生地を全滅させる事である、その方法こそ、神の実在を信じさせる力ある宗教の活動による外はない。」
明主様御教え 「智慧の光」 (昭和24年5月25日発行)
「世の中で一口に智慧というが、智慧にも種々あり、浅い深いもある、それらについて解説してみよう。
智慧の中でも神智、善智、叡智は最上のものでこれらの智慧を磨くべく大いに信仰を励むべきである、
何となればかような智慧は神を認め、正しい誠心からでなくては湧起(ゆうき)しないからである、
ゆえに善智によって行動の規範とし努力すれば、決して失敗はなく、真の幸福を獲得し得られるのである。
右に引換え、悪から発生する智慧は奸智、才智、邪智等で、あらゆる犯罪者はこれらの智慧の持主である、
特に詐欺のごとき智能犯は、この最も優れた者である、
この意味において昔から英雄や一時的成功者等も実はこの悪智慧の輪廓(りんかく)が大きいというに過ぎないのである。
ところが面白い事には、善智である程深く、悪智は浅いという事実である、
これは昔から今に至るまでの悪人の経路を見ればよく表われている、
非常に巧妙に仕組んだようでも、どこかに抜けてるところが必ずある、
その隙が破綻のもととなり失敗するのである、
この理によって一時的でなく、永遠の栄を望むとすれば、深い智慧が働かなくては駄目である、
そうして深い智慧程 誠の強さから湧くのであるから、どうしても正しい信仰人でなくてはならないという結論になる。
今日の社会悪も右の理が判れば何でもない、全く現代人の考え方の浅い事は各面に表われている、
例えば、政治家にしてもただ目先ばかりを考え問題が起ってから周章(あわ)ててその対策を講ずる、
この点医学の対症療法とよく似ている、ところが問題の起るのは起るべき原因があって起るので、決して偶然に起るものではない、
また浅智慧では将来の見透しがつかないから本当の政策は立てられない、
ちょうど、碁、将棋と同じようなもので、達人は五手も十手も先が見えるから勝つが、
ヘボは二手か三手先がやっとであるから負けるに決っている。
以上の意味において、人間は大いに善智を養わなければ何事もうまくゆくはずがない事を知るべきで、
それには信仰によって誠の心を培わなければならないのである。」
明主様御垂示 「四魂について」 (昭和24年3月13日)
信者の質問
「真神霊、一霊四魂につき御教示をお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「これはよく聞かれますがね、
四魂とは荒魂(あらみたま)、奇魂(くしみたま)、幸魂(さきみたま)、和魂(にぎみたま)の四つですが、
荒魂とは勇気です。よくいけば勇気ですが、悪くいけば強盗なんかそうですね。
奇魂っていうのは智慧ですね。
智慧にもいいのと悪いのとある。
勿論叡智(えいち)でなければいけません。
奸智や才智はよくないですね。
幸魂は慈悲ですね。
人を幸せにする気持ちです。
和魂というのは人と親しむ、まあ怒らないことですね。
人間はこれが平均して働けばいいんですが、
この四つが完全に備わっていればたいしたものです。
そんな人はまずないですね。
せいぜい三魂か二魂、まあふつうは一つがやっとでしょうね。」