使命と浄化について


明主様御教え 「名刀を作る」 (昭和24年発行)

「昔名刀を作るには火で焼を入れ、鎚で叩いては水に突込み、これを繰返す。

いわゆる鍛えるのである。この理は人生にも当はまるが、実に面白いと思うのである。

本教が開教後日を経るに従って、毀誉褒貶(きよほうへん)、叩かれたり煮え湯を浴びせられたりヒヤッというような冷水に突込まれたりする事が度々ある。

これはなぜかと人から聞かれる。

私は右に対し名刀のたとえを言うので、相手はよく了解するのである。

この事は昔から人並外れたような仕事をする者は、例外なく名刀的苦難を嘗(な)めるものである。

これを宗教上からいうと、神は使命の大きい人程大きい苦労をさせるとの事であるから、むしろ喜ぶべきである。」




明主様御教え 「旭日昇天」 (昭和25年1月28日発行)

「本教に対し、次から次へと妨害者が表われるのはなぜであるかをかいてみよう、

本教のような明朗な宗教に問題など起るはずがない訳で不思議に思うであろうが、それには理由がある。

これを最も判りやすいたとえは、朝太陽が東天に昇る時、大抵は雲が表われては光を遮る、

それと同様で本教は旭日昇天の勢で広まろうとするのを、次々雲が出ては遮ろうとする、

それが妨害者であるから、その仇雲(あだぐも)の消散するまでには相当の時を要するは致し方ないのである。」




明主様御教え 「ある日の対話」 (昭和24年4月30日発行)

彼「貴教会の急激な発展のため、世間であんまり騒ぐので、当局もだいぶ調査しているような話を聞くが、別に御心配はないですか」


僕「お説の通り、本教発展のため恐怖を感ずるもの、嫉視する者、為にする者などが入り混り

種々の不正手段を用い、当局を動かそうとしていることはよく判っている、

これは新宗教には必ずつきもので、キリスト、マホメットなどの大聖者を初め

日本においても法然、親鸞、日蓮などの例をみても明らかである、

ただ釈尊だけそれがなかったのは皇太子という地位のためであった、

しかし文化の進んだ今日はむしろ迫害というほどの峻烈(しゅんれつ)な圧迫がないことはありがたい時世と思うくらいである。

本教が大いに問題の焦点となっていることはそれだけ本教が大宗教であることを如実に物語っていると言うべきだ」


彼「最近○○連合会大会の席上、本教が話題に上り、本教の急激な発展は現当利益が著しいからだということに帰し、なにゆえに利益が顕著であるかを調査することに一決したが、貴下はどう思う」


僕「それは結構でもあり、結構でないかもしれない、

なんとならば右の結果として自分の宗教を捨てるという危険があるからである、

これについて本教にいささかでも疑念がある人士は徹底的に調査されんことを希望してやまない、

それによって本教の正しさと日本再建に当たっていかに有要な存在であるかを認識され得るからである」


彼「よく判りました」と言って帰った。




明主様御講話 「特に使命のある人は一時貧乏になる」 (昭和10年6月21日)

「いずれ、本部の地所の候補地もおよそみつかりました。

なぜおよそかと言いますと、まだ金を出して、こちらのものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、

金さえできれば、いつでもこちらのものになるようになっているんであります。

それも、他の宗教のように、みなさんから寄付を強要するなどということはぜんぜんなく、ぜひ出さしていただきたいという方はお断りはいたしませんが・・・

すべて神様のことは、どうか出さしてくれと言うて出すのが本当であって、

いくらいくら出してくれと金高まで書いた奉加帳を門並を持ってまわり歩くなどは間違っているんであります。

それはいままでのやり方で、既成宗教へいくと、どこどこまでも伸ばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教のため、苦しみ悩む人がたくさんできる。

それはなくさねばならない。

それは信仰の病気で・・・

それで、病気治しを願うとき、その病気は治してやるからいくら出せ、などいうのは、実に恐るべき迷信で、こういうことは断然なくしてしまわなければならないのであります。

そういう方法は、あらゆる宗教にあるんであります。


観音様のほうは実にうまいもので、これは、いま発表はしませぬが、それについてこういう標準があります。

いまここにある人があって、ある宗教へ入ったとすると、その宗教へ入ったときと入った後と比べてみればいい。

その宗教に入ってから病人がなくなり、体が丈夫になったかということ、また財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。

もしか、財産が減ったか、またつぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。

なんとなれば、本当の宗教は病貧争をなくするんでありますから、

貧のほうへ接近させるのは本当の教えではない
のであります。

そういうふうに見るのが一番判りやすいのであります。

まず信仰に入って財産が増えたか減ったか、あるいは、商売が衰微したかどうかをみればいい。

もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差し支えないのであります。


ところが、観音会には決してそういうことはないのであります。

もしあればこういうことは言えません。

しかし、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでいたのが、小さい家に一時入るようなことがあるのは、特にしかたがないと思っていただきたいのであります。

観音会のほうの博使や医者ができても、ほかの既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリいっぱいであります。

けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むようになるのであります。


既成宗教を見ますと、ちょうど「一将功成り万骨枯る」という状態で、これはあらゆる宗教に当てはまると思います。

本部は馬鹿に太くなって、御一統はすばらしい豪奢(ごうしゃ)な生活をし、信者は切り詰めた生活をしているのであります。

それはたいへんにいいように思われるんです。

それはたいへんに間違っているということは、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。

すべてのそういう種々な、いままでの欠点や、いままでの間違ったことを、本当の治ったやり方になってくるのであります。

そういう新しい形式、新しい文化が生まれるんであります。」




明主様御垂示 「使命の大きいほど苦しみも大きい」 (昭和23年6月18日)

信者の発言
「いろいろと精神的御浄化をいただき、ありがたく御礼申し上げます。」


明主様御垂示
「苦しいでしょうがもうしばらく我慢しなさい。

観音様はいっぽうで奇蹟を与えてくださるんです。

結局良くなるための苦しみです。そうなるとむしろ苦しみが楽しみです。

その人の使命の大きいほど苦しみも大きいのです。

私の浄化もかなり苦しかったが寿命は約二十年のびましたね。

以前は健康でいててもどうも調子が変だった。スーとしなかった。

しかし近ごろはせいせいしています。」




明主様御垂示 「大きい使命のある人はより磨かねばならない」 (昭和24年3月1日発行)

信者の質問
「私は東京で戦災に遇いただいま他地に住まっておりますが、

相次ぐ物心両面の苦しみに耐えかねつつも救いのお道のため、大いに働かせていただきたいと衷心より願っておりますが、

それも思うようにできませんが、どういうわけでしょう。」


明主様御垂示
「これは罪穢がたくさんあるためでもあり、また大きい使命があるからでもある。

大きい使命のある人はより磨かねばならない。

それがため苦しい浄化はあっても、その人に信仰のある場合神様は必ずそれに堪え得るような奇蹟や、

いっぽう良いことを与え希望を持たせてくださるものである。

故に信仰さえ動かなければさほど苦しまず必ず一歩一歩好転してくる。

故に結局は良くならんがための苦しみと覚るべきである。」




明主様御垂示 「使命と苦しみ、迷いと苦しみ」

「罪の多少による。容れ物の掃除をする。

大使命があるほど大苦があると神様は言われる。

故に使命の大なるほど苦しみは大きい。

よく磨かなくては役に立たぬのである。私などそうである。

信仰は単純な人間の理屈で考えるのが一番危い。

迷っているうちは苦しみが来る。迷いがなくなると苦しみは来ない。

迷うのは心にスキがあり、そこで邪神がゆさぶる。

絶対動かなくなると苦しみはなくなる。

病気の場合でも、生きたいと思う病人は死ぬ。諦めるのは助かる。

迷うのは固まっていない。しかし大いに迷っていい。迷い抜いて固まる。

前に麹町へ支部を出した時、風呂屋で足の悪い娘で、もう一息でよくなる所でやめた。

査べると、これがよくなると阿弥陀信仰をやめなくてはならぬ。

娘一人殺しても止められぬという人もあった。

夫婦と同じで、女に欠陥があれば、他の女と接しても疑う。

迷うのも疑うのもウンとする。中途半端で入るのは面白くない。本当に使命と因縁があれば・・・。」




明主様御垂示 「入信後の苦しみや迷い」 (昭和24年8月10日)

信者の質問
「光明如来様を御祭りして病気がよくなったり、種々の災害から奇蹟的に救われたといって非常に喜んでいる人もあり、

また光明如来様を御祭りしてから家族の者が次々と色々な浄化の起る家がありますが、いかなる理由でしょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「その家の罪の多少による。

例えば汚れた袋はきれいにしてから良い物を入れて下さる。

大きい使命のある人程苦しみは大きい。

よく磨かなくては使えないからである。

私の苦しんだ時よく思った、信仰は単純な自分の気持で決められないと。

決心すれば苦しみはなくなる。

病気でも生を諦めると助かる。迷う中は苦しみが続く。

迷わすのは邪神で、信仰をやめさせようとする。

迷う事はしかし信念を強める。故に疑うのも大いによい。

治療時代、ある男、途中で来なくなった。

聞いてみると死んだら阿弥陀の側へ行けないと言う。

絶対に信じたらいかなる宗教に入るも自由である。」




明主様御教え 「怒る勿れ」より (昭和23年9月5日発行)

怒る事の多い人程、重大使命を与えられている

「昔からある、有名な格言に「成る堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」といい、

また「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え」という事があるが、全くその通りである。

私はよく人にきかれる事がある。

「先生が今日あるはいかなる修行をされたのであるか、山へ入って滝を浴びたか、断食をされたか、種々の難行苦行をされたのではないか」と。

ところが「私はそんな修行はした事がない。

私の修行は『借金の苦しみと怒りを我慢する』というこの二つが主なるものであった」と答えるので、聞いた人は唖然とするのである。

しかし、事実そうであるから致し方がない。

私は私を磨くべく神様がそうされたのだと信じている。

特にこれでもかこれでもかと言うように怒る材料が次々にぶつかってくる。

元来私の性格としては怒るのは嫌いなほうであるが、不思議なほど怒らせられる。

一度などは非常な誤解を受け、大多数の人に顔向けの出来ないような恥辱を与えられた。

私は憤懣(ふんまん)やる方なく、どうしても我慢が出来ない。

するとその時、よんどころない所から招ばれ、断われない事情があったので、その家に赴いた。

頭がボンヤリして精神が集中しない。

どうにも致し方ないから、紛らすため酒を一杯所望し、酒を飲んだのである。

その頃私は一滴の酒も嗜まないから、よくよくの事である。

そんな訳で、二、三日たって漸く平静を取り戻したというような事もあった。

ところが後になってその事のために、ある大きな災難を免れ得たのであった。

もしその時の怒りがなかったら致命的打撃を受けるところだったので、全く怒りによって助かったわけで、

神様の深い恩恵に感激を禁じ得なかったのである。

右のように、神様は重要なる使命のある者に対しては種々の身魂磨きをされ給うので、

その方法の中でも怒りを制える事が最も大きい試練と思うのである。

従って怒る事の多い人程、重大使命を与えられている事を思うべきで、

この意味においていかなる怒りにも心を動ずる事なく、平然たり得るようになれば、

まず修行の一課程を経た訳でこれについて面白い話がある。」 (後半省略)




明主様御垂示 「使命の大きい程怒る事も大きい」

怒るのを我慢するのが一番の修行

信者の質問
「私は生来短気なので、それに修行も出来ていず、人一倍怒りっぽい性なのかも知れませんが、

何かかにか絶えず怒らなければおられない事が出来てきます。

私のやり方が間違っているからと反省しても、中々反省して自分を慰めきれぬ時もあります。

これは私のやり方にまだまだ誠が足りないと神様が御訓(さと)し下されているものでしょうか。

それとも邪神が仕事を妨害しようとでもするのでしょうか。

爆発をして心を晴らすのと、堪忍するのといずれが勝利者になれましょうか。」


明主様御垂示
「神様が修行をさせるので、怒るのを我慢するのが一番の修行である。

神様は一日のうちでも次々怒らす。

が、決して爆発さしてはいけない。

でないといつまでも続くであろう。

怒らないような人間も駄目だし、怒る人間でも駄目である。

使命の大きい程怒る事も大きい。

怒っても我慢出来る人でなくてはいけない。

怒る事があっても一方に大きい倖せを戴ける。

神様が邪神に邪魔をさせる。邪神を働かさせるが、邪神のためにお蔭をもらう事はよくある。

段々よくなる。気永に時節を待つのがよい。焦るのはすでに地獄へ落つる。

人間の智慧などは駄目で、人間は常識で考えてやればよい。

焦っては苦しくなる。苦しみの元は執着である。」




明主様御垂示 「神の試練はない」 (昭和24年1月8日)

信者の質問
「いままでの夜の時代のいろいろな人生の苦しみは、ただ夜の世界だから苦しみがあったというばかりではなく、やはり神様の人間に対する試練としての苦しみもあったと考えてよろしいでしょうか。

さらに昼の世界においても人間を向上せしめ、深み、うるおいをつけるため神の試練としての苦悩、悲哀、・・・例えば恋愛における失恋の苦しみのように・・・もなんらかの形で存在するのでしょうか。」


明主様御垂示
「神の試練ということは本当はないのです。

人間のほうでそういう理屈をつけたんです。

神様が人間にいいものを授けようとするとき、容物が汚れているのでまずその容物を掃除してくださる、そのときが苦しみなのです、だからそれが浄化なのです。

そしてそれがすんできれいになればいいものを神様が与えてくださるのです。

だからそこで人間は、「あああの苦しみは神の試練だったのだ」というふうに考えるのです。・・・

また、失恋の苦悩といっても、恋愛というのが一つの執着なんだから、結局、自分で勝手に執着して苦しんでいるのです。(笑声)だから問題ないですね。」




明主様御垂示 「神の試練というのは人間の側の解釈」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「不幸や災難を受けるということは神様がその人やその家の罪をお許しになるためでしょうか。あるいは試練を与え給うものでしょうか。」


明主様御垂示
「罪を許すんではなくて罪を尤めるんですよ。

だから、アベコベですね、これは。

神様のほうだって罪を許すわけには行かないんですよ。

しかしね、人間はだいたい自分で罪を作って苦しんでるんですよ。

だから、馬鹿なもんですね、人間ってものは。(笑声)

不幸ってのは人間が自分で作って苦しんでいるんですよ。

そりゃあ、先祖の罪ってこともありますがね。

しかし、先祖と言ったって結局は自分だから、やはり自分の罪ですよ。

なぜって、先祖は自分かあるいは自分の父母とか兄弟と言った肉親ですからね。・・・

試練を与えるのは神様がその人をお使いになるとき、汚れを取り除くために浄めてくださる、それが苦しみなんで、

それを人間のほうで、「ああ、あれは神の試練だったのだ」というふうにいい解釈をするんです。

まあ、これはいい考え方ですが、そういうふうに言えますね。」




明主様御垂示 「人生は思い通りにいかない」 (昭和27年3月1日)

信者の質問
「御教えを実行させていただきますのに、次々と破綻が来ますが、

神様にお詫びいたし、できるようにならなければならないと思いますが、効果がございません」

明主様御垂示
「例えばどんなことですか。あまり抽象的で解らないがね。」


信者の質問
「算盤と能率の場合も非能率的となり、大乗と小乗の場合もできませず、人に反感を買ったりいたします」

明主様御垂示
「それは、それで良いじゃないですか。

最初から、人間は思う通りにいったら、その人は命がなくなっちゃうよ。

年中、自分の思うようにならないところを、思うようになろうとするところに人生があるんだからね。

思うようになったら世の中は面白くない。

第一、人のことでなく自分自身が、自分の思うようにできないんだからね。

自分で自分の思うようにできたら大したものです。

だから、それを思うようにやろうというところが人生なんだから、それで良いんです。

何も心配することはいらないんです。

だから、神様の思し召し通りになる。

どうにもならなくて困るから、ならせようならせようとするところに、その人に値打があるんだからね。」