運命の振り替えについて
信仰により大難が小難になる
明主様御垂示 「災難を失くす方法」 (昭和23年)
「光明如来様にお願いすれば避けられる。霊だけで済む。
大難は小難に祀りかえてもらう。
大難は小難、小難は無難にされる。
最も軽いのは夢ですまされる。」
明主様御垂示 「災難を小さく変えて頂くようお願いするのが本当」 (昭和24年7月30日発行)
信者の質問
「私は家業として建具製造業を営んでおります。
昨年十一月夢でサイレンの音が聞こえ驚いて起きてみますと、工場の残り火から出火して危く大火事になるところでしたが大急ぎで消して事なきを得ました。御守護を厚く御礼申し上げます。
近来頻繁にかかる災難がありますがいかなるわけでしょうか。」
明主様御垂示
「災難ってのはね、だいたい人間には決まってるんです。
ちゃんとその人はそのときに災難に会うように決まってるんです。
そこで大難を小難に、小難を無難に変えていただくようにお願いするのが本当ですね。
この人はしかし、まだ無難にするだけの御利益をいただいてないんです。
だんだん徳を積むと無難に変えていただけるようになりますよ。
一番無難に変えていただくのは夢ですませていただくんです。
本当は死ぬべきところを、夢で死ぬ形をするだけですむことがあるんです。」
明主様御講話 「信仰に入ると浄化が小さくて済む」 (昭和28年11月17日)
「信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。
大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。
熱海などは随分良くなりました。
まるで東京の銀座に行ったような気がします。
他の都会でこんなに新しいピカピカしたような町は、今見られないくらいですが、熱海はたいしたものです。
これは焼ける前の熱海と比べたら、それこそ乞食と大名ほど違います。
というのは、焼けたためにそういった汚いものが霊的に消えたわけですから、そこで後は良いことが来たわけなのです。
これなどもよい見本です。
ですから一切の人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。
それで病気の浄化のときには他のことの浄化もちょうど同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、ということを知っていればよいのです。
ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるということは、どうしても運が良くなるということですから、これを心得ていればよいわけです。
それから神様は、人間というものは働かせるようにできているのですから、本当に神様の御意志通りの働きができれば、その人は神様の方では重要な人ですから、
なるべく病気で苦しまないように、長生きをするように、いつまでも働けるようにと、神様の方でやるのです。
ところがあんがい早く死んでしまったりするのは、神様の方に対して、世の中のために間違ったことをしたり、間違った考えを持っているからして、
どうしても神様の方では、その人を間引かなければならないのです。
そういうことは一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破することができないだけのことです。」
明主様御垂示 「不幸の運命は避けられないが信仰により軽くて済む」 (昭和24年12月)
信仰の向上により離婚することもある
信者の質問
「私は一年前より肺浸潤と腹膜炎を患いましたが、わずか三日間の御浄霊にて起きられるようになり、
あまりに顕著な御利益にさっそく母とともに入信いたしこのたび御神体もいただきました。
しかし私の主人は私を全快の見込みなしとし、私の父母と私を養って行けないとて子供を置いて実家に帰ってしまいました。
籍はまだそのままですが、ぜんぜん送金もいたしません主人と一緒になることはいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「これはね、光明如来様にお願いして、もうなにも考えないほうがいいんです。
根本を言いますとね、この奥さんに霊の曇りが少なくなって、霊的に向上すると、
もし一緒になったほうが仕合せなら一緒になるし、
一緒になっては不仕合せなら、その主人とは別れて、別の人と一緒になるか、それともしばらく一人でいるかになりますね。
とにかく、この信仰に入って、光明如来様にお任せしてればこの御婦人が仕合せになるようになりますよ。
ここでちょっと夫婦のことを話すと、夫婦は霊的に言うとたいした違いはないんですよ。
ところが、いっぽうが信仰に入って霊的に向上すると非常に離れてしまう。
その場合霊の下のほうは生き別れるか死に別れるかしないとどうしても釣り合いがとれないんです。
けど下の人が気がついて一心に信仰すると一緒になれるわけなんです。
だから、主人の信仰が進まずにずっと離れてしまうと、いくらくっつけようとしても、もうくっつかないんですよ。
どうしても別れるようになっちゃうんで、またそれでいいんですよ。
そこで神様が因縁によって同じような人を一緒にさせてくださるんですよ。
結婚だってそうなんですよ。
非常に違ったのが一緒になろうったって駄目なんですよ。
自分が磨けてりゃ必ずいい配偶者が来るものなんですよ。
だから、嫁入りのときにいろいろ家系だとかなんだとかを調べますね。
けど、ああいうことはいらないんです。
神様にお任せしときゃ必ず同じくらいの人が一緒になるんです。
なんにも心配はいらないんです。
家の引っ越しなんかもそうなんです。
家相だとか方位方角なんかちっとも気にしなくたっていいんですよ。
ちゃんとその人に相応した方角の家に越すことになるんです。
中有界の人は中有界の方向へ越すし、身魂が天国にある人は、どうしたっていい家でなけりゃ越せないんです。
同様に霊が地獄にいる人が、いくらいい家相や方角の家に越そうとしたって、決してそんな所へ行けやしないんですよ。
私なんかそれを知ってますから、家相もなにも調べやしないんです。
気が向けばそこへ行って見る。行くと必ずいい家なんですよ。
かえって越してからその家のいい所がたくさん判ってくるんですよ。
なんにしても原因は自分にあるんですよ。
自分が自分の運命を造るんです。
言いかえれば運命はその人の徳によるんです。
いいことをすればいいことが多くなって運命はよくなるんですよ。
なんのことはないんですが、ただできにくいんですね。(笑声)
「言うは易く行うは難し」でね。
しかし、いいことをやり出すと、いいことに興味が出てくるもんで、
いいことをするのがおもしろくなり、悪いことをするのがバカバカしくてできなくなっちまうんです。
悪いことは癖がついてると離れ難いもんですが、信仰するとその癖が離れやすくなり、それだけいいことをしやすくなるんですよ。
それに、いいことをするようになれば神様の御守護があるからなおさらよくなるんです。
といって、勿論その人にはその人だけの運命があるから、その運命だけのものはきますからね。
ただその場合、大難は小難にしていただき、小難は無難に振り替えていただけるわけなんですよ。」
明主様御垂示 「御神体祈願により火災も小さい型だけで済む」 (昭和24年2月27日)
信者の質問
「今月七日の御面会の時、火柱は火災の前兆の場合もあるとお教え下さいました。
そういう火柱の現象が表れてしまえば、どのようにしても火災は避ける事が出来ないものでしょうか。」
明主様御垂示
「避けられる。
光明如来様にお願いすると、霊だけですむ。
お蔭戴くと小さい型ですむ。」
明主様御垂示 「御神体祈願により火災も小難だけで済む」 (昭和24年3月19日)
「火災は先に霊界で焼ける。そして霊が体に映る法則により、現界で火事になる。
しかし、入信した人は大丈夫である。龍神がやる事もある。
祝詞を奏げ、光明如来様にお願いすれば大事に至らぬ。」
明主様御垂示 「火災に関して大難が小難になった事例」 (昭和25年2月25日)
信者の質問
「本年一月昼、光明如来様を御祀りしています信者の家が、原因不明の出火をしましたが、
軒を少し燃したのみにて大事なく消し止め、大変な御利益と感謝しています。
ところが火災の十日程前より鼠が全然居なくなり、不思議に思っていたそうですが、
火災後今日も未だ鼠がいませんので、災難が来るのではないかと心配していますが、いかがなものでしょうか。
またこの火災はいかなる意味がございますでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「火災はすべて、罪穢が溜る。汚れる。
物質の霊が汚れる・・・その浄化である。人間の病気と同じである。
焼ける所を御守護で、大難を小難にして戴いた。そう心配しなくともよい。」
明主様御垂示 「優曇華の咲いた時」 (昭和24年6月28日)
信者の質問
「本年一月頃より、私の居間の天井に、二ケ所「ウドンゲ」の花がさきました。また今月初に店の入口の上に一ケ所咲きました。何か変った事があるのでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「日本ではうどん華を虫としており、動物という訳であるがこれは印度から渡って来た言葉で、インドでは本当は立派な花だという。
三千年に一度咲くとしてあり、これが咲くと大変吉い事があると言われる。
日本では不吉という。
そこの一家の霊界が曇ると、そういう微生物が湧くので、それが形に表われたのがうどん華である。
即ちその曇の浄化作用があるのであるから、災難や病気等が起る訳である。
故に普通の家で優曇華が咲けば、家の曇りと知って光明如来様によくお願いし、そういう行をする。
すると大難は小難になる。」
明主様御垂示 「松の木の枯死は凶兆」
信者の質問
「家の松の木が枯れましたが、その家に何か異変でも起るのでしょうか。またこれを除ける方法をお教え下さい。」
明主様御垂示
「よくない。何か不幸か災難があるべきである。
光明如来様を御祭りしていれば、軽くは来るかも知れぬが大丈夫である。
信仰がなければ、生命の危い位の事がある。」
明主様御垂示 「災難は御守護によって軽く済む」 (昭和25年5月18日)
信者の質問
「私儀四月初め頃より御神体にお参りの節、毎日瞬間的に神床に金色の大光明如来様が映ります。
五月十日朝起床致しますと、首にかけております御守様が中の袋共紛失致しており、首には空の袋だけがかかっておりました。
吃驚致し、探してみますと枕より一尺位離れた所に置いてありました。
これは私が無意識の中に引出した事と存じます。
早速御神前へ参り御無礼をお詫び申し上げました。
その後、腰と胃が一日三、四回位痛み、同時に上半身が電気に触れたような激痛を感じます。
肩は非常に張り首が回らなくなります。
御浄霊をいただきますと大変楽になりますが、またすぐ元のように痛みます。
いかなる御浄化で御座いましょうか。御伺い申し上げます。
なお、五月十一日、父(K・五十七歳)が茅ケ崎市よりの帰途、バスにて、列車との衝突事故のため負傷、当然生命の無きところを明主様の広大なる御守護を頂きまして軽傷にて済ませていただきました。
会長先生と岡田先生の御浄霊を頂きまして大変傷も良くなりました。
突発の事とて市立病院に入院しておりますが、退院次第御礼に参上させて頂きたく存じております。
本日は父に代り御礼に参上させて頂きました。謹んで御礼申し上げます。今後共御守護の程御願い申し上げます。
右は霊的にいかなる訳が御座いましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「袋は無意識にやった。憑っている副守護神が苦しいからやった。
やはり浄化だから、気長に浄霊すれば治る。
災難は決っている。それが御守護によって軽くすむ。」
明主様御垂示 「引き潮出産難産か」 (昭和24年7月28日)
信者の質問
「昔の人の言うのに、引き潮の時に生まれた子供は寿命が短いと言われ、また親の体が弱く割合い難産と言われます。
いかなる訳で御座いましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「少しはあるが、あるというのはその人の罪の軽重による。逆の事になる。
人助けにより逆の運命に直る。
神は大慈大悲で、よい方へして下さる。」
明主様御垂示 「人間の災難と身代り」
信者の質問
「庭の松の木が家の棟をこしますと、同時に不幸続きにあいましたが、昔からの言い伝えによりますと、庭の木が家の棟をこしますと悪いと申しますが、それが原因で不幸続きがありますのでしょうか。お伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは迷信である。人間の災難は決っている。
大難を小難に祀りかえていただく場合もある。
それで松が身代りになる事がある。」
明主様御垂示 「大難が小難で済むのは神様の慈悲」 (昭和25年4月23日)
「間違った考え方と言えば、この間もある人が火事に向かって浄霊したら、風向きが変わって大難が小難ですんでしまった。
ところがその人は「これは焼くべきものを焼かずにすましてしまうんだから悪いんじゃないか」って言ってましたが、そうじゃない、非常にいいことなんです。
つまり、それが神の慈悲なんですよ。悪人も助けなくちゃいけないんです。
火事が起ったっていうのはそこが穢れているからそれを浄化するために焼かれるんですが、浄霊すれば曇りが消えて難を小さくしていただけるんです。
不仕合せはこの浄霊によって消滅するんです。
なにごとでも、人間の苦しみを減らすことは神の慈悲なんですから、
よけいなことはなにも考えないで、無意識に、ただかわいそうだからやってやる、それでいい。
無意識でいいんです。それがやむにやまれぬ慈悲なんですよ。
そして、そうすることがまた、神様の御旨にかなうんですよ。」
信仰による寿命延長について
明主様御垂示 「寿命延長も可能なり」 (昭和23年8月8日)
型による命の継ぎ足し
信者の質問
「病人を一生懸命御浄めしても、死んでしまった場合、それは寿命で死んだのか、あるいはそうでないのかを判断する基準はありましょうか。」
明主様御垂示
「人間の寿命は決まっているが、変える事も出来る。
ある日拝殿に寝ていると、「申し上げます」と聞える。
奥の方から人の気配がして、「言っても宜しい」と言う。
「今日○○時、村の××○○、男の子が生れました」すると「寿命二十五歳、死因は虻さし」と聞えた。
それから二十五年後その男は果して虻に刺されて死んだ。
それで生れながらにして寿命は決ってる事を知った。
それでこの道を知らなかったら死ぬ人が非常に多く入っている。
その場合は、そのような型をするもので、それから継ぎ足しされる。
その継ぎ足しされた寿命は 観音様のため使わなくてはいけない。
神様は運命をかえる事も出来るので、その人のやりようで随分長生きするのである。」
明主様御垂示 「入信は命の継ぎ足し」 (昭和27年3月10日発行)
信者の質問
「人間が、まだ死ぬ資格がないのに、突発的事故で死んだ場合に、まだ霊界に行く資格がないので、向うで苦しんでいるか、ということを聞かれましたのでございますが・・・」
明主様御垂示
「おかしいですね。資格も五角もないですよ。
殺されると言うのは、霊の資格というんじゃなくて、霊の状態ですね。曇っているとかですね。だから、霊が汚れているとかね。
それで、御守護がないと言うんでね。それで、殺されたりする。
本当に魂がある程度浄まっていれば、そういうことはないんです。奇跡的に助かるんです。
だから死ぬ信者が奇跡的に助かるというのは、霊的に助かるべき状態になっているんです。」
信者の質問
「死ななければならないというのは、御経綸で生まれて来たということで・・・」
明主様御垂示
「生まれて来たというんでなく、現にあるんですよ。命のない者ばかりですよ。
危なくてね。もう生きているのが不思議なくらいですよ。
その中で、祖先のうちで良いことをしたのもあるしね。
いろんな者があるからね。
そういうのは、わずかにね。」
信者の質問
「だいたい、メシヤ教に入れていただくというのは、お許しがなければ入れませんので、そのとき・・・命をいただくということで・・・」
明主様御垂示
「そうです。だから、命の継ぎ足しですね。
それは、祖先の骨折りで・・・一生懸命、助けたいのでね。
ちょっと入っただけでも、何年ものだがね。」
明主様御垂示 「神様は運命を変えることができる」 (昭和23年7月8日)
アブサシ病
信者の質問
「運命と宿命について御解説をお願い申し上げます。
また病人を一生懸命御浄めしても死んでしまった場合、それは寿命で死んだのかあるいはそうでないかを判断する基準を・・・」
明主様の御垂示
「宿命というのは定ってるのです。ちょうどワクのようなものでこれの外へは行けない。
運命とはワクの中ではあるがある程度自由なのです。
だからそのワクの中でも上のほうへ行けばより自由であり幸福なんです。
しかし生まれながらの宿命の一番上までは行けるがそれ以上は駄目なんです。
それ以上の宿命の人はまたそれだけ大きいわけです。
寿命は定っていてしかも変えることができるのです。
以前こんな話を聞いたことがあります。
ある人が田舎道を夜おそく家に帰ることになったが途中の産土の社で泊めてもらった。
すると社前に一人の人間が来て「申し上げます」と言うと社の奥で「言ってよろしい」と言う返事がする。
「今日何時ごろどこそこで某が生まれました」「それは寿命は二十五歳で死因はアブサシだ」。
ところがその某という人は社に泊った人の隣の人であった。
それから二十五年経ったところその人は正しく死んでしまった。
そのときの死因はアブに刺されて死んだのだそうです。
そんなこともあるんですよ。
私のほうへ入る人も危険を救われて入る人が多いのですが、その場合それ以後の生命は寿命をつぎたしたことになるのです。
つぎたされた生命を勝手に使ったり、金を儲けることばかりしていては駄目なのです。
神様は運命を変えることができる。その人の生き方しだいでは永生きもするのです。」
(註 アブをナタで払いのけようとして、ナタが腹にささり、出血多量で死亡したという話らしい)
明主様御垂示 「神様が命をくださる理由」 (昭和24年10月25日発行)
信者の質問
「私は昨年九月まで長年医薬の厄介になっておりました。
喘息も御浄霊により楽にさせていただき、主人は昨年十一月、私は同年十二月入信いたしました。
まだ御神体はお祭りしてありません。
今年三月ごろからふたたび御浄化をいただき、四月ごろは一時たいへん痩せましたが、
五月ごろよりは午後になると熱が出て、四時五時ごろまでは激しく頭痛発汗があります。
翌日朝は気分がよいのですが、膝のあたりが震えて悪道路を馬車に揺られるように震え、約四十分ほど四回にわたって震えがくるという状態が一日おきにくるのでありますが、なにか霊的な関係がありましょうか。
また今後いかにしたらお救いがいただけましょうかお教えください。」
明主様御垂示
「震えがくるのは寒気で、つまり浄化熱で結構である。
病気はすべて一日おきに善い悪いがある。
光明如来様をお祭りするとよい。
早く治るには信仰に入れば神様がよくしてくださる。
よくしてくださるのは、「ない命をやるから世の人を救え」という意味であるから、ただ治っただけではいけない。
多くの人を救えばますます早く治してくださる。
神様は人間が役に立てばできるだけよくなるようにしてくださるし、また悪くならないようにしてくださる。」
夢による振り替え
明主様御垂示 「高所より落ちる夢は大難が無難になったもの」 (昭和23年12月発行)
信者の質問
「夢の中で高所よりドンと墜ちて眼を覚ますことがございますが、いかなる理由でございましょうか。
また、正夢はなぜ事実が夢になって予知できるのでございましょうか。」
明主様御垂示
「夢の中で高所より墜ちるということは地獄に墜ちることを意味する。
人間の運命は何年何月にどういうことが起るということは決まっている。
夢で墜ちるということは、死ぬとか災難のあることを無難ですまされるので、夢として災難の型をすましてくださるから一番よいわけである。」
明主様御垂示 「死ぬ夢はとてもよい」 (昭和23年12月1日)
信者の質問
「夢の中で高所よりドッと落ちて眼を醒ます事が御座いますが、いかなる理由で御座いましょうか。
また、正夢はなぜ事実が夢になって予知出来るので御座いましょうか。御教えを御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「落ちる夢は、そのつど地獄へ落ちるのである。
よく、大難は小難に、小難が無難になる人がある。
人間の災難は決っている。一番無難なのは夢である。死んだ夢は非常によい。
今迄の自分が死んで新しい自分が生まれるから信仰が進む。
正夢は正守護神がありのまま見せる夢と、シャレた見せ方をするのとある。
以前私が弾圧される前に、トンネルを歩いていると真黒になり、それから明るくなった。これが弾圧の正夢であった。
も一つはその日にある事は前の晩に夢を見た。これは一週間続いた。」
明主様御垂示 「溺死の夢」 (昭和24年9月28日)
信者の質問
「私は最近毎晩のように水に溺れる夢を見ます。何か霊的の原因で御座いましょうか。
私の知っている範囲内には、水死した先祖はありません。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「水死する運命が来ているのを、御霊徳により、夢で済まされた。
災難などでも人間一生の中大難は決っている。
それを一番軽くして下さるのが夢である。」
明主様御垂示 「死んだ夢は非常にいい」
「悪い方にのみ解釈は出来ぬ。これは良い意味である。
先のその人が死に、新しいその人が生れる。
(私など)自分が死んだ夢を見た事もある。非常にいい。その度に新しい自分が生れる。
(この人は古い自分では信仰に入れぬ)
本当に死ぬ時は死ぬ報せは殆どない。
人間に知らす事は禁じられる。神様の規則になっている。」
明主様御垂示 「閻魔様の焼判」 (昭和24年1月15日)
信者の質問
「一昨年の春より母が首が痛いと申しますので浄霊をしておりましたが、中々よくなりません。
するとある晩の二時半でした。
突然母が物凄いうなり声を出しまして、暫くするとよくなり、一人で有難い有難いと申しております。
後でよく話を聞いてみると次のような事を申しました。
近くの道で鎌で首を切られ半死半生で苦しんでいると、通りがかりの人に無理に首を締められ、遂に息を引取りました。
自分は確かに一度死んだ。身体は死んだが霊はある。
だが今迄と同じように苦しんでいる。
自分の死体のまわりには大勢人が乗ってワイワイ騒いでいる。
けれども私が苦しんでいるのに皆知らん顔をしている。
すると天より一人の男のような人が降りて来て道案内して細い道を天の方に向い上って行きました。
到着した場所は川があり丸い橋が懸っておりました。
門を入ると裁判所のようなところに来ました。
するとその中の一番偉そうな人が「お前は何でここに来たのだ」
母は「私は首を切られたから参りました」と申しますと
「お前は前世にいる時何か白い四角なものを糸にて首にかけていたろう」と言われ、
母もハッと気付き「持っておりました」と答えますと、
その偉い人は「お前は死ぬのは未だ早い。また向こうの世に帰り人を救いなさい」と両手の中間に焼判をおしまして、コンニャクのようなものを弁当に下さいました。
そうして家に帰ってから私(K吉)の名を呼んだようですが、その声が「うなり」声だったのでありました。
母はただ有難い有難いと申し、また自分で気がついた時は未だ身体が冷たかったそうです。
右の場合、私の先祖に首を切られて苦しんでいる人があるのでしょうか。この事は夢ではないと本人は申しております。」
明主様御垂示
「夢ではないであろう。
首を切られた人が助かって有難いのであろう。
偉い人というのは閻魔様である。
白い四角いものはお守。お守によって生命が延びたのである。
人間の死ぬのは決っている。その時が寿命であり、それを延ばされた。
信仰に入った徳により、死の型をしたのである。
焼判は、閻魔様が助けてやった・・・死の要はないという印である。
コンニャクは寿命の元かもしれない。」
明主様御垂示 「畜生を生んだ夢の後に猫が来る」 (昭和24年10月16日)
信者の質問
「光明如来様をお迎えして後畜生を生んだ夢を見ました。
その後猫が家に来るようになりました。何か意味がありましょうか。」
明主様御垂示
「畜生道へ墜ちている霊界の霊が畜生に生れ代る所を夢で済ませていただいて人間に生れる訳である。
人間の大難は小難に、小難は無難にして下さるが、神様は、畜生に生れ代るとか大難とかは夢で済まされる。
その形を済ませてくれる事がある。
畜生を生んだのは猫であろう。来る猫は、霊で生んだ猫に関係があろう。」
御神体・お光による身代わり
明主様御垂示 「御神体の破損 身代り事例」 (昭和25年5月8日)
信者の質問
「四月二十八日午後二時過ぎ、風のないのに戸が倒れまして御神体をお切りしましたことを深く御詫び申し上げます。
同時刻に主人が工場で旋盤の機械にまき込まれるところを、ズボンだけまきこまれて事なきを得ました。御守護誠に有難う御座いました。」
明主様御垂示
「これは身代りである。」
明主様御垂示 「御神体を台風で紛失 身代り事例」 (昭和28年10月1日)
信者の質問
「今度の十三号の台風で、高潮により、本人は御守護をいただきましたが、
光明如来様は表装の天だけを残し、御屏風観音様も行方不明となりました。謹んでお詫び申し上げます」
明主様御垂示
「それは身代わりになるということもあるのです。」
明主様御垂示 「お光が血だらけになった事例」 (昭和27年10月1日)
信者の質問
「信者でございますが、ダイナマイトで片腕がなくなり、
他の所にはかからずに御守り様が血だらけになったそうでございますが、
命は御守護いただきましたそうでございます。
明主様御垂示
「つまり大難を小難で御守護をいただいたのです。」
信者の質問
「血でベトベトになった御守り様はいかがいたしましたら。」
明主様御垂示
「記念に取っておくと良いです。
そうして新しくいただくと良いです。」
信者の質問
「大光明様でもよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「その人の資格によって決まっているでしょう。」
明主様御垂示 「お光の紛失には深い理由がある」 (昭和27年12月1日)
信者の質問
「本年九月二十一日入信の五十五才の男でございますが、十月二十一日に御守様を失いました。
そのことにつきましてお詫びとお伺いをさせていただきます。
入信する一週間前に炭竃(すみがま)が焼け、その二、三日後に家の中にあったぜんぜん火の気がないストーブから火が出て、周囲に積んであった薪だけが燃え、家にはぜんぜん火がつきませんでした。
御守様をなくした当日は家のまわりで仕事をしており、お昼にはございましたそうですが、夕方に御浄霊を頼まれて気がつきましたそうでございます。
本人は外した覚えはぜんぜんないそうでございます。お詫び並びにお伺い申し上げます。
なお樺太よりの引揚げ者で、蛇を殺すのが好きで、当日もマムシ何匹かを背中を割って吊ってありましたそうです。
蛇を殺しておりますので、そのほうのことで何かあるものでございましょうか」
明主様御垂示
「蛇と火事は関係ありません。それからどうしました。」
信者の発言
「お詫びをいたしまして、もう一度いただくようにいたしております」
明主様御垂示
「それで良いです。火事は結構なのです。
さっき言った通り資格が足りなかったので、汚いものは焼いて、それだけ浄めたために入信できるというわけです。
それから御守様がなくなったのは、蛇とかということでなく他に意味があるのです。
それは今に分かります。
御守様がなくなるとか汚すとか、いろいろなことは深い理由があるのです。」
信者の発言
「御守様をいただきましてから今日まで十八年以上になりますが、その間二度ほど落とそうとしましたことがございますが、
そのことで考えさせていただきましたことは、かねがね御守様を物質扱いにしてないと、落ちなければならないときも奇跡的に落ちないということでございます。
一度はお風呂に入りますときにシャツと一緒にぬぎまして竹にかけ、風呂に入りましてから気がつき、見ますとシャツのボタンに紐がかかっておりました。
もう一度は、まだ箱の中におしまい申し上げました当時に、おしまいしようとするとき用事で立ちましたときに落としまして、思わず手ですくいましたら、下に落ちる前に紐が手にかかっておりました。
そのことから、常々想念を正しく持っていれば御守護をいただけるということでございます」
明主様御垂示
「そうですよ。今の人のも、そこに非常に曇があるのです。
むしろ御守様をなくしたということは、その曇を除ってくれたのです。御守様が背負ってくれたのです。
焼けたのもそうですが、それだけでは足りないのです。
罪にもいろいろ種類があり、罪穢れによって、先祖がいろいろ徳を積んだりしているので、その罪穢れを除って救われるとい因縁があるのです。
だから御守様がなくなったという意味は悪い意味に解釈できないのです。
むしろ良い意味に解釈して良いのです。」