運命と宿命について


明主様御教え 「運命は自由に作られる」 (昭和27年10月25日発行)

「これから運命についてかいてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。

しかしこれは全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生まれながらに決ったものであるが、

運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。

誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、

前記のごとく人各々の宿命という枠で決められているからで、

それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。

従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、

実はこれが仲々難しいので、むしろ不可能といってもいいくらいである。

この限度が分らないため、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。

ところがその場合でも早い内に気が付き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、

宿命の限度が分っていないから、無理に押通そうとするので失敗を大きくするのである。

また世の中を甘く見すぎたためであった事ももちろんである。

そんな訳で盛返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、

散々な目に遭ってやっと目が醒める人が大部分である。

しかしまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の醒めない人も大いにあるが可哀相なものである。

以上は信仰のない人の運命をかいたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。


それについては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。

浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。

すべての悩み苦しみの因はことごとく浄化作用である。

たとえば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。

このように普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、

曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。

つまりある程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。

これが真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。


ところが前記のように苦しまないで魂が浄まるその方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。

しかし信仰にも色々あるから、立派な力のある信仰でなくては、真の幸福は得られない。

そこへゆくと我メシヤ教こそ右の条件に叶う宗教である事を知らねばならない。」




明主様御教え 「運命と自由主義」 (昭和23年9月5日発行)

「宿命と運命についてよくたずねられるから説明をする。
 
まず、宿命とはその人に与えられた決定的のものであるから、いささかも換える事はできない。

しかるに運命は、限定されたある枠内の中は自由自在で、その人の努力次第で、枠内の最上位にまでは到達なし得ると共に、その反対であれば下位に転落するのである。
 
今日人々の関心事となった自由主義なるものも右の運命とよく似ている。

何となれば、真の自由主義とは、ある一定の枠内に制約されているものであって、無限の自由は決してあり得ない。

真の自由とは、限度のある、即ち有限の自由である。

故にその枠を越えた場合、それは他人の自由を侵害する事となり、文化の反逆者となる事は、運命の枠を越ゆる場合、失敗者となるのと同様の理である。」




明主様御垂示 「運命と宿命」 (昭和28年9月1日)

信者の質問
「人間の宿命は上中下のうち一段で、その上にも下にも行けないということでございますが、

地獄的苦しみから天国的状態に変わることがありますが、そこに矛盾を感じます」

明主様御垂示
「それは違います。

宿命といっても、地獄の宿命、天国の宿命というのはないのです。

今の宿命、運命というのは階級です。

天国、地獄ということとは関係ありません。

例えてみれば、人の上に立つ人間、親分とか首脳者になる者はもう決まっているのです。

それで親分になる人は必ず良くなります。

乞食になっても、そういうのは乞食の親分になります。

それからどんなに偉い人でも、親分になれない人は、番頭とか支配人になります。

そういうように決まっているので、これが宿命です。

またそれでなければその人としての本当の発揮ができないのです。

植物でいえば蔓性植物と言ってからむのがありますが、人間でも同じで、竹なら竹がなければ、それに巻きつけないから生存ができないのです。

それと同じで、誰かに頼らなければ生きて行けないのがあります。

それからまた痩せても枯れても親分にならなければならない人があります。

からませるほうですが、それはその人の宿命です。


ですからそういう宿命がない人が無理に親分になろうとすると失敗するのです。

私は昔からどこに行っても、乾分(こぶん)はできるのですが、決して私を引き立てるとか、私が助けられるという場合はないのです。

私は、私には助けられるという性能はないと思って諦めていました。

何かにすがることはできないのです。

ですから最初は親しくしていても、後になると先方で相談にくるようになるのです。

私は信仰にはいる前から、誰かに相談するということはできなかったのです。

どうも後になると先のほうが下になってしまうのです。

それは私が大木のような宿命だからなのです。

それが宿命というものです。

それは生まれながらにしてそういうようにできているのです。

労働者などでたまたま出世しても、宿命が相応しないのは、やっぱり落ちてしまいます。

それからまた少し出世した人が、労働者とかを見て、なぜ一生懸命にやって出世しないのだろうと思うことがありますが、

それはそうではないので、その人はそれで満足しているので、それが宿命です。

ただその宿命の中で上になったり下になったりするのは自由で、それが運命です。

ですから運命は自分で変えることはできますが、宿命を破ることはできません。

宿命というのは限定したものです。

しかし運命というのは宿命の最高にまではなれるのです。

ですから人に使われる者としての最高になるのは、店の番頭とか支配人とかですが、それは親分に使われる者の中では最高のものです。

その最高のところまでは行けるのが運命です。

ですから運命は変えられるが、宿命は変えられないのです。」


信者の質問
「商売人に向くとか農業に向いているという、人間の職業も宿命に関係があるものでございましょうか」

明主様御垂示
「それが宿命です。

それで同じ農家になっても、上になったり下になったりします。

小作になったり自作になったりするのは運命です。」


信者の質問
「宿命ということと幸福とは関係がありますでしょうか」

明主様御垂示
「あります。

例えてみれば、生まれながらにして非常に良い所に生まれて、一生身分が良いということは、苦しまずに済んでいるから幸福です。

それは幸福の宿命を持っているわけです。

また同じ幸福でも、身分だけが良くて、あとがはなはだよろしくないということもありますが、それは運命が悪いのです。」




明主様御講話 「運命と宿命」 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「宿命のようなことであっても、神様からご覧になられて情状酌量されるということは」


明主様御垂示
「それは宿命ではなく運命です。

宿命というのは一定不変なもので、絶対にどうにもなりません。

ここからここまでという枠が決められていて、その間だけの階級はありますが、それよりも上に行くことも下に行くこともできないのです。

その間は自由に行けるので、それが運命です。

それだけに面白味があります。

その人のやり方によっては運命の最高に行けます。

たとえてみれば、現界で言えば、日本は大臣などにもわけなくなれますが、

大統領とか総理大臣というのは、いくら骨折っても苦しんでもなれない人はなれないのです。

そういうのになる人は決まっているのです。

それは宿命です。」




明主様御垂示 「宿命は枠、運命は枠の中での自由」 (昭和23年7月8日)

アブサシ病

信者の質問
「運命と宿命について御解説をお願い申し上げます。

また病人を一生懸命御浄めしても死んでしまった場合、それは寿命で死んだのかあるいはそうでないかを判断する基準を・・・」


明主様の御垂示
「宿命というのは定ってるのです。ちょうどワクのようなものでこれの外へは行けない。

運命とはワクの中ではあるがある程度自由なのです。

だからそのワクの中でも上のほうへ行けばより自由であり幸福なんです。

しかし生まれながらの宿命の一番上までは行けるがそれ以上は駄目なんです。

それ以上の宿命の人はまたそれだけ大きいわけです。

寿命は定っていてしかも変えることができるのです。


以前こんな話を聞いたことがあります。

ある人が田舎道を夜おそく家に帰ることになったが途中の産土の社で泊めてもらった。

すると社前に一人の人間が来て「申し上げます」と言うと社の奥で「言ってよろしい」と言う返事がする。

「今日何時ごろどこそこで某が生まれました」「それは寿命は二十五歳で死因はアブサシだ」。

ところがその某という人は社に泊った人の隣の人であった。

それから二十五年経ったところその人は正しく死んでしまった。

そのときの死因はアブに刺されて死んだのだそうです。

そんなこともあるんですよ。


私のほうへ入る人も危険を救われて入る人が多いのですが、その場合それ以後の生命は寿命をつぎたしたことになるのです。

つぎたされた生命を勝手に使ったり、金を儲けることばかりしていては駄目なのです。

神様は運命を変えることができる。その人の生き方しだいでは永生きもするのです。」

(註 アブをナタで払いのけようとして、ナタが腹にささり、出血多量で死亡したという話らしい)




明主様御垂示 「結婚で苦しむのも霊的地位の低さが原因」 (昭和24年8月3日)

信者の質問
「夫婦が互いに憎しみ合うような間柄を子供が知って、その親達をも憎む・・・という生活をしている人もあり、これは宿命とは存じますが、

神様が人間にそのような組み合わせをお与えになるのはなにかを教えてくださるものと解すべきでしょうか。」


明主様御垂示
「教えるとか教えぬとかいうんじゃなくて、その人がそういう霊的な地位なんですよ。

霊的の地位がそれだけの者は、やはりそれと同じくらいの地位の配偶者ができるんですよ。

いまの人はだいたいみんな地獄にいるようなもんだから、みんな苦しむんですよ。

だからこの地位は宿命じゃなくて運命ですね。

だから、霊的に向上すればね、よくなるんですよ。」




明主様御垂示 「早婚晩婚は宿命か」

信者の質問
「早婚と晩婚とは宿命によって定まっているものでしょうか。」


明主様御垂示
「大体宿命である。運命もあるが、宿命の方が多い。

その人の霊の磨け方によって早くなる。

一生夫を持てないというのもある。

晩婚は龍神系に多い。前の世に男女関係で不幸になった場合。

また前の世の男が女に生れた場合、男の分子が多いのは骨格も男のようである。こういうのは女傑型が多い。

女の心理は男の女がよく知っている。こういうのは前の世は女だった。」