黴菌人間について 2


明主様御講話 「家族の信仰反対も浄化作用」 (昭和27年10月7日)

「運命は自由に作られる」というのを書いたのですが、これは良く知っておくと非常に楽になるのです。これは特に信者の人にも大いに必要ですから、今読ませます。

(御論文 「運命は自由に作られる」 拝読)

よく、奥さんが信者になっていて、どうも親父は分からないといって煩悶しますが、

親父が分からないといって煩悶するのが浄化作用なのです。

その奥さんの浄化作用なのです。

だから奥さんが浄化されるということは、それだけ曇りがあるからです。

ですからその奥さんの曇りが除れると、その親父は反対できなくなり、やっぱり信仰したくなるのです。

やっぱり相応の理です。その点を良く知らなければならない。

「あいつはオレがあんなに親切にするのが分からない、むしろオレを苦しめたりいじめたりする、けしからん」と言うが、それはやはり自分に曇りがあるからです。

ですから人間の一切の悩み苦しみは、みんな浄化されているわけです。

「あの畜生、人を酷い目に遭わせやがる、あいつのためになんて酷い目に遭った」とかという「あいつ」というのは、浄化作用をやってくれている人です。

その点が分かると、自分を苦しめる人を恨むことができなくなるのです。

それを知るのが人間には肝腎です。

で、すべて浄化作用は苦しみによって除るということに、昔からなっている。


そこで信仰すれば良いということになるが、信仰といっても難行苦行をするのです。

無理に断食をしたり水を浴びたり、苦しむようにするのです。

よく、お百度参りをしたり、襦袢一枚で町を駆け出したりするのがありますが、あれでやはり魂が浄まるのです。

ところがそれは夜の世界の時代だったから、どうしても地獄的に身魂を浄めるのです。

ところがメシヤ教はそれとは反対に楽しみながら、苦しまないで浄めるのです。

ですから美術館なんかというのは、そういった意味です。

あれは、美術を見ていると、美術を楽しみながら自然に浄まる。

向上するのです。魂のレベルが上がります。

それからお祭りの時の余興とかもそうです。

大体余興をする芸能人なども、だいぶ信者になるのが増えてきましたが、

ああいう人たちが信仰が分かり・・・まあ、信者なら結構ですが、

そうするとその人は霊的にそれだけ高くなりますから、

そういう人の言葉や声を大衆に聞かせると、

大衆がそれによって楽しみながらいくぶん浄化作用が行なわれるのです。

神様のそういう仕組みなのです。


そこでメシヤ教は今までと反対に、苦しまないでつまり楽しみながら磨けていくのです。

これが天国的宗教です。つまり昼間の世界の宗教です。

これはたいへんな違いです。

ですから私はいつも、苦しんでやることに、ろくなことはないというわけです。

私はその方針です。

例えてみれば、私が物を造ったりしますが、そういう場合に苦心したり考えたりしないのです。

ですから人が、これだけのものを造るのは随分苦心なさったでしょうと言われますが、返事に困るのです。

しかし信者以外の人には「なかなか骨折って苦労しました」と調子を合わせておきます。

それから私は、なにか考えてちょっと考えが出ないと、止めてしまうのです。

それをどうしても考え通そうとはしないのです。

止めるのです。そうして忘れていると、ある場合にヒョッと気がつくのです。

ああこれだということになる。

ですからちょっと考えて良い考えが浮かばないと止すのです。

考えが浮かばないということは、時が来ないのです。

それで時が来ると神様の方でヒョッと知らせますから楽なものです。

ですから、苦しまないで実にスラスラと順序良くいくのです。

とにかくこの味というものは、今までの頭では信じられないのです。

ですから私は苦しむようなことはしないのです。

よく展覧会などに行って思うことは、絵が苦しんでいるのです。

だから、それが楽しみながら画けば良いのですが、

一生懸命画こうとか、なんとかの苦悩が画面に表われているのです。

ですからそれを見てそれから受けるから楽な良い気持ちはしないのです。

楽しみながら画くとそれが画面に出ますから、それを見て楽しい気持ちがするのです。

ですから展覧会などをまわってみても、良い気持ちがしないのです。

なんとなく変な気持ちがする。

それは骨折って画いてあるからです。

そういうことは今の人は知らないのですが、メシヤ教はそういうことをだんだん教えるのです。

そんなわけで運命というものは自由なのです。

自由ということは、こっちの魂の状態さえ曇りがなくなれば良いのです。

曇りに相応して苦しみは来るのです。

だから伝染病が伝染するといっても、濁った血があるから伝染するのです。

濁った血がないと黴菌は死んでしまうのです。

それと同じで、苦しみや禍もこっちに曇りがなければ来ないのです。

よくお蔭話で「高い所から落ちて助かった」ということがあるが、

そこに曇りがあればその時に死ぬとかするが、

御守によって曇りが減っているから、そこでどうしてもそれを避けてしまうということになる。


一切は相応の理によって動いているのです。

それを知れば楽にうまくいくのです。

どうも、自分はこれほど骨折っても成績が上がらない、ということは、まだそこに曇りがあるのです。

成績が良くないということは、こういう層(良い運命と悪い運命の上下の層)があるが、

自分はここ(下の層)にいるから、良い運命は上を通り越してしまう。

こっち(下の層)は成績が悪い運命です。そういうわけです。」




明主様御講話 「巾着切も空き巣狙いも必要」 (昭和28年7月16日)

(御論文「台風の霊的考察」)

「こういうことも知っておかなければいけません。

いつも言うとおり、相応の理というものは、なんでも穢れれば自然にその穢れを浄化するという、そういうものが発生するのです。

ですから世の中に悪い奴が多いということは、悪い奴が必要なのです。

これは大乗的の見方ですが、人間がずるいことをして金を溜め、財産をつくる。

そうするとそういうずるいことをしたものは穢れてますから、どうしてもそれを掃除しなければならないのです。

そうすると泥坊が必要であり、巾着切も空き巣狙いも必要なのです。

必要というよりか、悪い奴がそういうものをつくるのです。

掃除をさせるようなものです。

ですから悪い黴菌が湧くということは、人間が間違ったことをして、毒素や膿のようなものを溜めるから、どうしてもそれを掃除するものが自然に発生するのです。

自然に発生して、それが伝染して伝染病やなにかになって、それによって掃除するのですから、

つまり言うと、人間にそういった害を与えるようなものは、害を与えるようなものを人間がつくるのです。

だから人間の一切の災いというものは、みんな浄化作用の道具です。

己が汚いものを溜めるから、それを掃除するものがあるので、それが自然にできるのですが、本当は自然でなくて人間がつくるのです。

そこをよく知れば、いろんなそういった災いというものはしかたがなく、やむを得ないものです。


だから九州の大水害にしても、それは人間がそういった大水を出して洗わなければならないように汚すからです。

汚れを溜めるからです。

従って台風は天災ではなくて人災だということを前に書いたことがあります。

すべてそういった頭で見るとよく分かります。


自分が苦しみ、ナンテ不運だろうということを嘆く前に、そういった不運やそういうことをつくるということです。

自分がこしらえるのだからして、誰を恨むこともないので、まず己を恨むよりしようがありません。

今の人間はそれを知らないからして、自分の罪を棚に上げて、人が悪い、社会が悪い、教育が悪い、政治が悪い、制度が悪い、

となんでもかんでも自分以外に原因があるように考えるのです。

それをまた偉い学者とか偉い人が(自分などもそう思うのですからしかたがないが)大いにそういうことを言いふらすのです。

だからみんながそう思い、そう思うからなんでもかんでも人を恨み世を恨み、始終不平満々としている。

そのために自分でまた罪をつくり、その罪を掃除しなければならないいろんな苦しみやなにかを起す。

そこでまた恨むというので、結局二進も三進も行かなくなって自殺するとか人を殺すとか、いろんなことになるのです。

人を殺すという罪は、自分が霊界に行っていろんな苦しみをするということになります。

ですから根本を間違えているために、どこまでも悪いことをするのです。」




明主様御講話 「神様が急がれる場合は荒っぽい浄化作用もありうる」 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「ただ今の正邪のことにつきまして、霊界において罪ほろぼしのために修業をさせられ、そうして現界に生まれてまいりますが、

よく生まれながらにして悪役と申しますか、悪の権化というのがおります。

今朝も新聞に、五つになる子供が三回も火付けをしたとありました。

また新聞によくあります二十前後の青年が簡単に殺人をしたりいたします。

そういうのは一つの悪役の役割というのか使命というものがあるのでございましょうか」

明主様御垂示
「それは客観的に見るからで、まだ見方が半分なのです。

つまりこういうことがあるのです。

それは前の世では良い人で良いことをしていたが、悪い奴に会って酷い目に遭って、死んで霊界に行くと少し違いますが、

まだ現界で生きているときに、危ない瀬戸際に、これはオレが間違っていた、これだけ悪い奴がいていばっている、

それならオレはこの次は悪い奴になって敵(かたき)をうってやる、善人はコリゴリした。

と、それで死んで、それが残っているわけです。」


信者の質問
「そういう危険な者を神様はお出しになられるのでございますか」

明主様御垂示
「神様がお出しになるわけではないので、宇宙はそういうようになっているです。

神様というのは決して自由ではないので、天地の律法があり、その天地の律法はどうしても守らなければならないのです。

神様もそれを外すわけにはゆかないのです。

ですからこの人ならこの人が信者になって、とても一生懸命にやっているとすると、神様は恵を与えたいが、

その人のメグリを消してしまわなければ与えるわけにはゆかないのが天地の律法です。

ですから、一生懸命で、熱心でなかなか恵まれない人がありますが、

それは前のメグリが残っていて、それがとれないために恵を与えることができないのです。

ちょうどここにザルがあるとして、そのザルに物を入れてあげたいという場合に、

ザルが汚れているために掃除をしてきれいにならなければ物を入れられないのです。

そういう場合に、神様のほうで急がれる場合には荒っぽくとるのです。

たいへんな危難を受けるというのがありますが、これはそういうわけなのです。

その例としてある家で長男が道楽で、金を湯水のように使って困る、親の財産はなくなるというので、どうしたものかと私に相談に来たのです。

「神様のお蔭でよくしてくれ、金を使わないようにしてくれ」と言うから、

「それはできない、むしろ使ったほうがよい」と言ったら、びっくりして、どういうわけですかと、その母親が来てましたが、

そう言うので、「あなたの所の財産は罪がある。本当にできた財産ではない、先祖が他の人をいじめて作ったとかいう金だから、

神様はあなたの信仰に対し、あなたにお蔭をあげようと思うが、罪の固まりがあっては駄目だから、それを早くなくさなければならないので、

長男はそれをなくする役目をしているのだから、早くなくなったほうが、あなたの家の罪がなくなってよいのだ」と言ったが、分からなくて、とうとう駄目になりました。」


信者の質問
「宿命のようなことであっても、神様からご覧になられて情状酌量されるということは」

明主様御垂示
「それは宿命ではなく運命です。

宿命というのは一定不変なもので、絶対にどうにもなりません。

ここからここまでという枠が決められていて、その間だけの階級はありますが、それよりも上に行くことも下に行くこともできないのです。

その間は自由に行けるので、それが運命です。

それだけに面白味があります。

その人のやり方によっては運命の最高に行けます。

たとえてみれば、現界で言えば、日本は大臣などにもわけなくなれますが、

大統領とか総理大臣というのは、いくら骨折っても苦しんでもなれない人はなれないのです。

そういうのになる人は決まっているのです。

それは宿命です。」


信者の質問
「それは悪をする者の祖霊にも止めることはできないものでございましょうか」

明主様御垂示
「それはできません。

それは正守護神ですが、正守護神も骨が折れるのです。

というのは悪をするのは、邪神の眷族が憑いてやるのですが、それを押さえる力がないのです。

そこで信仰にはいると、正守護神に力が出るから、悪を止めさせることができるのです。

ですから信仰にはいると悪いことをしたくなくなるというのは、悪霊が萎縮するからです。」




明主様御講話 「道楽息子は先祖の罪を消す役目」 (昭和28年11月17日)

「火事で焼けるとか、この間のような水害とかありますが、そういうこともやはり浄化作用なのです。

それについてこういう考え方があるのです。

すなわち伜(せがれ)が二人あります。

一人は非常な道楽者で、親の金を使ってしようがない、一人は律儀正道(りちぎまっとう)で、親の心配をかけないというのです。

これはどっちが親孝行かは分からないのです。

その家は先祖代々のいろんな罪を背負ってますし、それからその親の財産というのは、人をいじめたり苦しめたりして作った財産とすると、祖先はその罪を早く除ってしまわなければその子孫は繁栄しないので、

そこで祖霊がついてそういう道楽者を作ってドンドン使わせるのです。

ですから早く使ってしまえば早く罪が除れるのです。ところが律儀正道な方の伜は、減らないようにし、かえって増やそうとするのです。

これは早く除った方がよいのですから、大乗的に見るとイコール道楽者の伜の方が親孝行ということになります。

そこで、そういう道楽者の伜を治そうとして、いろいろ苦心惨憺しますが治らないのです。

それはそういうことを知らないし、ぜんぜん思いもしないからです。

そこで学校を怨んだり、傭っている主人を怨んだりするようになるのです。

そういうわけで、一切のそういう苦しみは浄化作用ですから、その苦しみというものも、それが分かれば喜ぶというまでもゆかないが、そうクヨクヨする必要はないわけです。

それで除かれるだけ除かれてしまえば、あとはないので良くなるばかりです。


それと同じように、信仰に入ってから損をしたり、いろんなことがあります。

これはたいへん結構なのです。

それからまた熱心になればなるほど、そうなるのです。

信仰がボヤボヤしている間はそうでもないが、これは熱心にやらなければならない、

というようになってから損をしたりすることがありますが、これがたいへんにありがたいのです。

これは神様が、お前は熱心だから大いに褒美をやろうとする。

ところが入れ物が汚いから、これを掃除しようというわけで掃除をされるのです。

それを待っておれば、それがきれいになった後は一度に良くなります。


私が借金で苦しんだのが昭和十六年までの二十年ですが、最初のうちは金が欲しくてしようがない、なんとかしてと思っても、駄目で、この借金の催促が苦しいのです。

それに下手に動くと差し押さえになるのです。

それで金が欲しい欲しいと思っている時は駄目なのです。

そのわけが分かって、これは神様にお任せしておこう。

食ってさえいればよいと思って、気やすく思った。

そして昭和十六年にやっと返しきったのです。

そうすると十七年からは、予定していたのより多くの金がドンドン入ってくるのです。

ですから金なんかどっちでもよいと思うようになった時に入ってきたのですから、そう嬉しくもなかったのです。


だからかえって欲しい欲しいと思って、今いくら金が入れば助かる、という時には決して入るものではないのです。

これはなにごともそうです。

変な話ですが、女を思っていて、アノ女をどうにかならないかと思っている時には、決して女の方では振り向きもしないのです。

それでアンナ女なんか勝手にしやがれと思うようになると、かえって女の方で来るのです。

つまり逆になるわけです。

それが真理なのだから、そこを本当に知ると非常に気楽になります。


だから苦しいことが起こると、これは楽しいことの前提だ、これによって楽しいことになるのだと思うから、さのみ苦痛ではないということになります。

ちょうど病気が起こって、熱が出て痛んだり苦しいが、これによって良くなると思うから、心から苦しくはないのです。

それで病気のことはよく分かるが、ほかのことになると気がつかないのです。

それで火事によって丸焼けになるが、これは非常に良いのです。

これは祖先が、金銭的、物質的の罪穢れが溜まっているから、そうなるのです。

ですからよく「焼け太り」と言うが、焼けたために後が良くなるのです。


それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。

大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。

熱海などは随分良くなりました。

まるで東京の銀座に行ったような気がします。

他の都会でこんなに新しいピカピカしたような町は、今見られないくらいですが、熱海はたいしたものです。

これは焼ける前の熱海と比べたら、それこそ乞食と大名ほど違います。

というのは、焼けたためにそういった汚いものが霊的に消えたわけですから、そこで後は良いことが来たわけなのです。

これなどもよい見本です。

ですから一切の人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。

それで病気の浄化のときには他のことの浄化もちょうど同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、ということを知っていればよいのです。

ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるということは、どうしても運が良くなるということですから、これを心得ていればよいわけです。

それから神様は、人間というものは働かせるようにできているのですから、本当に神様の御意志通りの働きができれば、その人は神様の方では重要な人ですから、

なるべく病気で苦しまないように、長生きをするように、いつまでも働けるようにと、神様の方でやるのです。

ところがあんがい早く死んでしまったりするのは、神様の方に対して、世の中のために間違ったことをしたり、間違った考えを持っているからして、

どうしても神様の方では、その人を間引かなければならないのです。

そういうことは一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破することができないだけのことです。」




明主様御講話 「一切は浄化作用」 (昭和29年1月26日)

「(前半省略) だから浄化作用というものは一切にあるのです。

これを大乗的に言うと、もっとおもしろい浄化作用があります。

仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引っ掛かって瞞されるとか、

それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人がたくさんありますが、これはやっぱり浄化作用です。

その人の持っている金の中に非常に汚い金があるのです。

そういう金はどうしてもその人が持つことができないので逃げてしまうわけです。

こっちにそういった汚い金があるからして、誰かがなにかの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。

だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。

そうすると、そういうものも必要ということになりますが、

これは必要不必要ということでなく、すべて汚いものはきれいにするというように、神様がこの世界を造られたのです。

だからそれを本当に分かるということは大乗的見方なのです。

ところがこれはあんまり私が話をしないというのは、その話をすると泥坊も必要だということになります。

間違えますから、こういうことは腹の中で覚ることです。」




明主様御垂示 「ノミ・黴菌・泥棒も相応の理で発生」 (昭和24年5月23日)

信者の質問
「お道に入らせていただいて黴菌や蝿の存在の意義は判らせていただきましたが、蚤、虱(しらみ)などにも同様の意味があると存じてよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「同様の意味でいいんです。蚊だとか蚤だとかはみんな人間の毒血を吸うんですよ。

刺されたりするとそこに毒血が集まるんです。だから本当は結構なんですが、ただ痺いんでね。(笑声)

私も以前は刺されるとよく赤く腫れましたが、疥癬をしてからなんともなくなりました。


それから「相応の理」なんで、汚い所には虫や微生物が湧くようにできてるんです。

これを大きく言うと、泥棒があるって言うのは、人間が汚れた財産や富を持っているから、それをなにかで取らなくちゃいけない、で、泥棒はその取る役目をしてるんです。

だからむしろ泥棒に感謝すべきです・・・

しかし、こんなことを言うと泥棒を奨励してるみたいで、誤解を招くといけないからあまり言えませんがね。(笑声)

悪人がはびこるのは、汚い所に害虫が発生するのと同じです。

悪人っていうのは人間の形をした害虫ですよ。(笑声)

きれいな心の人ばかりになれば悪人なんて出ませんよ。


また、人間には濁った血がたくさんあるんで濁った血を掃除するために呑み込むのが黴菌で、その黴菌を人間につけてくれるのが蝿ですからね。

蝿はたいへんいい役目をしてるんです。だから私は蝿がいくらたかったってなんとも思いませんよ。ちっとも気にしませんね。

うるさいからって追うほうがかえってうるさいですよ。(笑声)」




明主様御垂示 「ドロボウや人殺しが発生するのも自然」 (昭和28年11月1日)

信者の質問
「キリスト教の各宗派が分裂するのに、カトリックだけは信仰を深く持っていますが、これは機構によるものでしょうか、教義に理由があるものでございましょうか」

明主様御垂示
「理由がないこともないが、あれは正統だからです。

キリストが中心になっているのです。外はみんな枝なのです。

ローマのヴァチカンがキリスト教の本部というわけです。

それで伝統的にとにかくあそこが、ちょうどマホメット教ならメッカというわけで、それが一つの伝統の本拠だからで、そういうわけです。」


信者の質問
「教皇を選定するというのは合理性があるわけでございましょうか」

明主様御垂示
「あそこは教皇で、ローマ法王というのです。

だから新しくできても歯が立たないのです。合理性はあるわけです。」


信者の発言
「合理性といいますと、カトリックは政治的にも動いておりますが」

明主様御垂示
「そうです。昔は政治的に実権を握っていたのです。」


信者の質問
「政治的に動くということも合理性があるものでございましょうか」

明主様御垂示
「そうです。だからあの時分に政党と宗教が一致したのです。

それであんまり宗教に勢力を集中したので被害が起こったために、今度は別に宗教を切り離して、政治と宗教ができたのです。

ですからローマ法王というのは絶対権を持っているのです。

それは日本の天皇以上でしょう。

なにしろ生殺与奪の権を握っていたのです。

法王の一言によって罪も許されたのです。

ですから裁判も法王庁で行われたのです。

そのために一時たいへんな権力になったのです。


それで英国などは天皇の位を低くしたのです。そのために英国は良くなったのです。

そういった政治の力を強くするというのが悪いので、それに反対してできたのがアメリカです。

アメリカの発展というのは、天皇がないから発展したので、一つの権力があるとそれに押さえられるから発展がないのです。

人間というのは欲の固まりだから、骨折ればいくらでも出世ができる、いくらでも収穫を得られるという、競争の自由ということで国が発展するのです。

ちょうど日本の戦国時代と同じようなもので、あの時分には偉い者は出世放題というので、秀吉のような者がでたのです。

ところが徳川のように非常な実権を握ってしまうと、偉い奴は出なくなります。

むしろ偉い奴が出るとやっつけてしまうというわけで、泰平は泰平だが、だんだん疲弊していって、その結果、王政維新というものができたのです。


だからどれが良いかということは言えないので、うまくできているのです。

それは大きな目で見ると自然の動きです。

何でも一つの自然というものが一切を支配しているわけです。

これは大きいことでも小さいことでも同じです。


虫が湧くということはそこが汚くなるから、神様は浄化しなければならないので、浄化するには虫を湧かしてその虫に汚いものを食わせるわけです。

これが今度の報告にあった、貯蔵米に穀象虫が湧いて米を吸殻みたいにしてしまったというが、これはそういうわけです。

米の中に肥料という汚い物を含んでいるから、そこで虫が湧いて肥料分だけを食っていったわけです。

そこでガラガラになってしまったのです。

人間の腹の中にも回虫とか条虫(じょうちゅう)とかいろいろ湧くが、それは腹の中にいろんな汚い物が溜まったから、それを掃除しなければならない。

そのために一つの生物が湧くということで、やっぱり自然なのです。

それで、泥坊や人殺しがあるということも自然なのです。

人間がずるいことをして金を溜めたり、買ったりする。

そこで自然に泥坊というものが湧いて、汚い物をとるのです。

すなわち人間が泥坊ができるようにするのだから、ずるい者は神様はどうしても赦すわけにゆかないから、泥坊というものを作るわけです。

そうすると泥坊というものが神様のためにたいへんな良いことをしたわけですが、しかし泥坊という悪いことのために裁かれるわけです。

それから火事というのは、いろんなずるい悪いことをして造るから罪が溜まっているから、家が穢れているから焼かなければならないわけです。

ですから火事が多いということは、ずるい奴が多いというわけです。

ですから火事というのは理屈に合わないようにして燃えるものです。

昔の明暦の振袖火事というのは、娘の振袖に火がついて、東京中が火事になったのですが、それは理屈に合わないが、そういうことになるのです。

それでは鉄筋コンクリートで焼けないようにしたらどうかというが、これも結局掃除をしなければならないので、この間の欧州戦争のようにローマとかをドイツが爆撃して壊してしまったわけです。

これはみんな浄化作用なのです。

戦争も浄化作用なのだから、いくら国際的の条約を結んだところで、どんなに軍備をしたところで、戦争が始るときには必ず始るのです。


ですから第三次戦争を逃れようとしてアメリカなどでやってますが、やっぱり駄目なのです。

私がいつか書いたように、戦争を逃れるには間違ったことをしないで、そういった穢れを溜めないようにするのが戦争から逃れる方法で、そうでなければ決して逃れられないのです。

第三次戦争をいくら逃れようとしても、汚いものを溜めれば駄目です。

どんなに完備したものでも、地下を作っても、原子爆弾というのを作って焼いてしまうのだから駄目です。

第三次戦争は必ずあります。

それはどうしても掃除をしなければならないからで、それが宇宙の原則です。

ですからそういう見方で見ればよく分かります。

いくら養生しても消毒をしても、やっぱり病気は減りゃしません。

この病気が良くなると思うと他の病気が悪くなるのですが、それは根本を知らないからです。

だから根本をいろいろと教えてやってもなかなか分からないのですが、みんな超愚になってしまっているからです。

すべてにそういうような見方をすれば分からないことはないので、簡単に分かります。

肝腎なことを知らないで年中心配したり苦しんだりしているのです。

つまりわれわれのほうは個人的に浄化作用がくるが、神様のほうは全体的に浄化作用をなされるのです。

この間も書いたとおり、水害なども土を穢すからで、ある程度まで穢すとどうしても洗わなければならないので、そこで雨とか高潮によって肥毒を掃除しなければならないのです。

だから台風は人災だというわけです。」




明主様御垂示 「物が腐ればウジが湧く」 (昭和23年8月28日)

信者の質問
「「果報は寝て待て」とのありがたいお言葉をいただいておりますが、難関にぶつかったときいかに考えたらよいでしょうか。

(イ)最善の努力が払われなかったか。(ロ)神様が止め給うたのか。(ハ)邪神が邪魔しているのか。(ニ)時期でないのか。」

明主様御垂示
「「果報は寝て待て」とは寝て待つほどにゆったりすることです。

果報を追いかけてはいけない、来るのを待つということです。この(イ)から(ニ)まではみんな合ってますが、最善の努力とはどの程度か分からない。

これは智慧です。だから智慧の足らなかったことが多いのです。」


信者の質問
「例えば弟子の教導所が不振であるというふうなことは・・・」

明主様御垂示
「私だって昔はそうだったんです。いくら待ってもお客さんが来ない。

いろいろ考えたが一番は時機が来ないこと、それから誠、智慧が足らないことなどいろいろあります。

これは自分で悟ることです。私は人にあまり言わずほおっておく。それでその人は本当に悟るんです。・・・

邪神の邪魔は始終あります。それは隙があるから邪神が打ち込んでくるんです。

その他あるいはなにか原因・・・罪があるからです。

人に騙されたとよく言うがそれはその人に騙されるだけの資格があるからです。

だから人を怨まず自分のことをよく考え反省することです。

いま世の中には強盗や不良が多いが、それは人民全部が腐っているからです。

物が腐ればウジが湧くのと同様です。

みんなが正しい心になれば悪い気分が起らなくなる。

いっさいは相応の理であって、すべて相応するのです。

いままではいっぽうばかり見て批判していた。

共産主義者は自分が怠けていて食えないくせに社会が悪いから食えないなどという。

一生懸命やって、食えないとか困ることなんかはないんです。

いつの世でも中には他人が成功するとその頭を抑えることばかりする人もあります。」




明主様御垂示 「配偶者の反対で信仰が進む」 (昭和23年7月8日)

信者の質問
「主人が教導師で御浄めさせていただいている場合、夫婦ともに浄化させていただくには妻はいかがいたしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これは人為的にはどうすることもできない。

自然にしておくより他にない。・・・

夫婦が別に反対もせず揃っていい場合と、反対していい場合とある。

反対があるのはいいことで、それによって信仰が進むのです。

というのはね、教導師になってもたいてい罪がある。

で、神様はできるだけ早くこれを除いてやろうとなさる。

罪を取るには人間が苦しむかまた善行を積めばよいのだが、人間は苦しむほど汚いものが出てくる。

ところが信仰によって汚れをとるのは楽なのです。

妻が反対なんかすれば、主人もいろいろ苦しみ、それにより汚れがとれる。

そうすると妻も判ってくるんです。

主人のほうが高まるにつれて妻もそれについてくるか、あるいはあんまり離れすぎてしまうと霊界へ行って出直すことになる。

神様にお任せしておくのが一番いいのです。」




明主様御垂示 「家族の信仰反対によって苦しむ原因は罪穢」 (昭和25年10月15日発行)

信者の質問
「三年ほど前に入信いたしました信者で、一家入信し御神体もお祀りいたしております家でございますが、

入信当時それまでお祀りしておりましたお稲荷さんの祠(ほこら)を調べましたところ、お札がいつの間にか紛失しておりました。

近所の子供が取り出して捨てたものらしく、その後へ玩具様のものが入っていたそうでございます。

そのままにして現在祀ってないのでございますが、その後、家の中がなかなかまるく治まらず、

特に現在は入信いたしました父がひどくこのお道の反対を申し、娘さんが人の御浄霊をいたしますことさえ許しません。

他にもいろいろと曇りの多い家でございますが、この父の反対は捨てられたお稲荷さんと関係がございましょうか。

お稲荷さんの名前が分からなくなっているそうで、ございますが、改めて祭るといたしますと、どのようにしてお祀りいたしますればよろしゅうございましょうか。御教えを賜わりたくお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「たぶん稲荷の霊だと思うが、名前も判らず、お祭りをするほどのこともないから、そのままでよろしい。

父親が反対し、家族の者が苦しむとしたら、家族の人たちも罪穢があるのだから、人助けをするのがよいが、

それも反対されるとしたら、できるだけ御神書を読むようにすることである。

それによって身魂が磨けるから、父親の反対もだんだん薄らぎ、ふたたび信仰を取り戻すことになる。焦らず時節を待つべきだ。」




明主様御教え 「霊線に就て」より (昭和23年9月5日発行)

不正の富が蕩尽されるとその家は栄える

「(一部のみ引用) またこういう例もよくある。

親が不正の富を積んで、資産家になった場合、祖霊はその不正の富を蕩尽(とうじん)しなければ一家の繁栄は覚束ないから、

その手段として子の一人を道楽者にして、金銭を湯水のごとく使わせ、ついに無財産にまでするのである。

この場合道楽息子に選ばれた者は、実は一家を救うべく立派な役をしている訳で、

それを知らない人間は、親の財産を潰したけしからぬ奴とみなすが、むしろ気の毒な訳である。」




明主様御垂示 「ギャンブル狂が財産を潰すとその家系は栄える」 (昭和29年3月1日)

「競輪などで当たりますが、これはまた意味が違います。

これは祖先が、どうしても一度家の財産を潰さなければならない。

そのために子孫の、ある者は賭事が好きだからあれにやらせようというわけで競輪に行かせるのです。

すると最初はうまく当たりますから、その人は夢中になってやっている内に身上をみんな潰します。

それで“やっとオレの所の財産を潰して罪穢れをとったから、ではこれから子孫は栄えるだろう”ということになるのです。」




明主様御垂示 「布教師の子供が賭け事、覚せい剤に走った事例」 (昭和27年10月1日)

信者の質問
「教師の長男二十一歳、昨年二月入信。四月に光明如来様を御奉斎。

五月頃よりマージャンに凝り、放蕩し、九月に大光明如来様を御奉斎しますます放蕩が激しくなり、

母は教師でありますので罪の払拭をさせていただいておりますが、母の信仰が進めば進むほど激しくなります」

明主様御垂示
「結構ではありませんか。喜んで神様に感謝しなさい。

一家に非常に罪があるので、それを信仰させるために、早く罪を取ってくれる。

それには子供に金を使わせて、祖先がその子供を一人犠牲にしているのです。」


信者の質問
「ヒロポンを射つようになり、買って来て射ちますので、座敷牢に入れることはいけませんでしょうか」

明主様御垂示
「入れても構いません。座敷牢にいれるとか、病院に入れるとか、しかるべくしたほうが良いです。

そうしてその子供を一人犠牲にするという肚になることです。」




明主様御垂示 「夫の博打好き」 (昭和24年5月13日)

信者の質問
「会員の家庭ですが、主人はまだ入信しておりませんが、非常によく働く反面 博打が好きで儲けた金を全部損してしまいます。いかがいたすべきでしょうか。」

明主様の御垂示
「この家ではだれが教修を受けてますか。」


信者の質問
「その奥さんがいただいております。」

明主様の御垂示
「では、その奥さんが一生懸命人助けをして徳を積めばいいんです。

奥さんの霊が浄まれば夫婦ってものは霊線で繋がってますからね、

自然と御主人のほうも浄まってきて博打なんか打てなくなりますよ。

苦しむってのはその奥さんのほうにも罪穢れがあるんだから、

徳を積んで行くよりほかに方法はないですよ。」




明主様御垂示 「父の賭博好きは放置するほうがいい」 (昭和24年9月25日発行)

信者の質問
「父が三年前より賭博を始め未だ止まず、家庭不和に悩み、まったくどうする術もなく、

借金はますます増し、親戚は手を引き、公金も米などもかまわず浪費いたします。

これでは私も百姓がいやになり途方にくれております。

父のこのような行いはいかなるわけでしょうか。

また私は今後いかに観音様におすがりしたらよろしいでしょうか。


明主様御垂示
「お父さんの勝手にさしたほうがよい。

いずれ行き当たる時が来る、それまで待つほうがよい。

これはその家に祖先の罪があるので、それを早くとらなくてはならぬので、祖先が子孫のだれかを選んで金を使わすのである。

使うだけ使うと罪穢れが除れるので、それからいいことが出てきてだんだんよくなる。

それを待つのである。」




明主様御垂示 「家族の道楽は浄化作用」 (昭和24年10月16日)

信者の質問
「私は一昨年八月入信し、御光を受けまして、光明如来様を昨年末御迎えして御祭りしております。

息子は十一月から親の意見も聞かず、時々外泊するようになりました。

浄霊も嫌い神様にも御参りしません。今後どう致しましたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「息子とか夫とか親が道楽したりなどして苦しめるのは浄化作用である。

母なら母に罪穢があり、息子の不行跡で心配するそれが浄化作用である。

すべて病気でも災難でも、苦しむ事は苦しむべき罪穢があるからで、毒素があると浄化するのと同じ事である。

故にその人がその人がと怨んだりするのは違う。

その人でなければ他の人がやる。

であるから、軽く叱る程度にして放任し、自分は一生懸命徳を施す。

すると苦しみが来ない状態になり、自然に息子も不行跡は出来なくなる。

ひどい目にあっても実は感謝すべきかもしれぬ。

こっちでその気持になれば、自ら先方も苛めたり苦しめたり出来難くなる。

こういう事もある。

その家の財産など不正の財が積んであると霊界で良い所へ行けぬ。

欲ばって人を苛め、貯えたものなどは早くなくさなくてはならぬ。

その人が霊界へ行ってそれを知り、子孫の中の道楽の素質のある者を選び、自分が憑るか、霊界の身内の誰かに憑らせて道楽をする。

そうして財産をなくして祖霊が向上する事となる。

そしてまた周囲の家族も戸主も助かる。

それを知らず腹を立てるが大いに間違っている。

そして、そうすると今度は正しい金が入って反って幸福になる。

これは信仰に入る人によくある。

汚れた金を維持していると浄い金が入るのが遅れる。

借金を返してから浄い金が入る。

空っケツになってから神様からの金が入る。」




明主様御垂示 「道楽息子は一家断絶を救う役目」 (昭和24年10月25日発行)

信者の質問
「私は自動車のタイヤ修理工場を経営している者であります。

去る五月二十七日午前十時ごろちょうど私が浄霊に出かけた後でしたが、階下より突然発火し、ガソリンタンクに引火して手のつけようもなく、五分間ばかりの間に建坪四十二坪を全焼し、

畏れ多いことでございますが階上の光明如来様も御写真もその他御額も焼失いたしました。

心よりお詫び申し上げます。

火災の二、三日前、長女K子が家の内外が、「キナ臭い」と申しておりましたが、かくのごとき結果になるとは思いませんでした。

しかし不意のことで、かつ私の不在中にもかかわらず一人の怪我人もなく、家内一同無事でありましたことは御守護の賜と厚く御礼申し上げます。

右のうち長女が、「キナ臭い」と申したのはいかなる理由でしょうか。」


明主様御垂示
「「キナ臭い」と言うのは霊界で二、三日前にすでに火事になってしまった。

それで臭った。理由としてこういうことがある。

この人の財産に汚れがあるため浄化された。

こういう浄化はよくある。

例えば祖先が道に外れたことによって、すなわち払うべきものを払わなかったり、出すべきものを出さなかったり、人を苦しめたりして金を貯めたのがよくあるが、

その人が信仰に入って大きな御神徳を与えてくださるのに、過去の不純な財産が邪魔になる。

すなわち嚢の中が汚れていてはよいものが入れられぬので、その嚢をきれいにするのである。


またこういうこともある。

火事などで焼けるのは汚れを非常に早くとられるわけである。

ふつう相場に手を出したり息子が道楽したりしてなくすこともあるが、その浄化がすむときっとあといいことになる。

よく道楽息子が金を湯水のごとく使うのは祖霊がするので、それをしないと一家断絶するので、それを救うためで、これは割合長くかかる。

しかし霊的のことを人間は知らないから怒ったり悲観したりするのであるが、後はきっとよくなる。

既に入信した人はある程度不純なものがとれてからはウンと神様から結構な御神徳をくださるもので、この人もそれである。

勿論うんと財物をくださる。

ふつうは御神徳で火事を免れるものだが、この人は不純物がたくさんあったわけだ。


また浄化にも時期があって、私など二十年くらい借金で苦しみぬいた。

いまにうんと金が入ると人に話してから十年くらいたって、昭和十六年に借金を全部すませた。

それから予想外に金が入るようになった。

金が欲しい金が欲しいと思うときにはなかなか入らなかったが、

諦めて神様任せにしたらそれからどんどん入ることになった。

おもしろいものである。」




明主様御垂示 「道楽者は浄化作用の担当」 (昭和24年3月4日)

信者の質問
「私の異父兄でありますが、かねがね素行がおさまらず、しばしば金の無心等に参りましては私共を困らせておりますので、

どうかして当人をしてその本心に甦らせ、真面目な人間にいたしたいものと機会ある毎に本教団の御話をしてきかせるのですが、一向に耳を傾けようといたしません。

どうすれば一日も早く当人を真の人間に立ちかえらせ得ましょうか。」


明主様御垂示
「簡単にはいかぬ。その人の財が真の浄財なればいいが、昔から貯めたものは大抵良い意味のものはない。

これは早く無くさなくてはいけない。財産を無くさなくてはならぬ。

それで誰か道楽者を作って使わす。

そしてその家の浄化作用をする。こういう事は非常に多い。

それでも駄目なら火事で焼いたりなどする。

入信してお願いすると反対に反ってドシドシ使う。

御神徳があると早く使う事になる。ここに解釈出来ぬ点がある。

少しも不純な物がないとなれば止ってしまう。

やはり出来るだけ人を救えばよい。神様へ手柄する。その功により罪穢が減る。

汚れた金も浄まるからピタリと止るのである。」




明主様御垂示 「相続人の道楽は浄化作用」 (昭和24年1月25日)

信者の質問
「相続人が道楽で困っております。

私は夫婦の間に子供が無く、現在、兄の二男を貰い相続人と定めております。

義男と申し、本年十七歳になりますが、昨年八月頃より少しづつ素質が変り、段々御金を使うようになりました。

しかも十一月頃より一段と激しくなりました。

十二月中旬と存じますが、大先生へ先祖の供養を御願い致しましたところ、当座は直りましたのでほっと致しましたが、最近またまた始めました。

色々と苦労を致しておりますが、この分でゆくと前の子供(やはり貰い子)と同様青年期になりますと道楽者となるおそれがはっきりして参ります。

この上は大先生へ御すがり致すより方法なしと存じまして、今日御すがり申し上ぐる次第です。

右子供の実兄が私の家で弟子になり働いております。この兄弟は二人きり有りません。

両親は既に他界しております。父親は七年前と思います。母親は十七年前です。

何か霊的関係が御座いましょうか。なお現在、私の家の方位は信仰雑話を拝見して調べますと、湯殿が裏鬼門になります。良き方法を御教え下さい。」


明主様御垂示
「湯殿の裏鬼門は構わぬ。

子供が心配をかけるのは、心配する人に罪穢がある。やはり浄化作用である。病気と同じ意味である。

そういう事でなければ外の病気等で苦しむ事になる。

財産に少しでも罪があると、罪であっただけのものは吐き出さなくてはならぬ。

であるから、反って信仰に入るとそれが早くなくなる事になる。

故に余り心配せず時期を待つ外はない。

小乗からいうと道楽者があると御守護がないかと思うが、実は御守護が多い程そういう苦しみが続くかもしれない。

道楽者は汚いものを出来るだけ除ってくれる訳で、ある程度で光明如来様にお任せする気持になれば、金はだんだんなくなると、いいお金を神様はウンと下さる。

これは信じられぬが間違いない。」




明主様御垂示 「道楽者の功」 (昭和29年3月1日)

信者の質問
「御論文に「親が作った財産を道楽者の子供が消費する、また真面目な子供もあるが、それは神様からご覧になれば、その善悪は決められない」という御垂示をいただいておりますが、

結局、真面目な子供と道楽者の子供との運命は・・・良くなるか悪くなるかということは、どうなるのでございましょうか」

明主様御垂示
「それは簡単には言えませんが、しかし道楽者はそういう祖先の罪をとるという、あんまり人から感心させられない役をするのですから、

その功によって、やっぱり良いことがあります。」


信者の質問
「道楽していてもでございますか」

明主様御垂示
「そうです。運命が変わってきます。若い時分にばかに真面目で、年輩になってから道楽者になる者と、

若いときには道楽で、年をとってから真面目になるという者もあります。

そうすると道楽したほうがよいかも分からないです。

たいていな金持ちというのはそうとうに罪を作ってますから、その財産を消費するのですから・・・。」


信者の質問
「そういたしますと、親の前歴を調べてから道楽を・・・」

明主様御垂示
「それは調べなくても、霊界のほうではチャンと理屈に合うようなことになってゆくのです。」