一切の苦しみは浄化作用 1


明主様御教え 「御神意を覚れ」 (昭和28年12月2日発行)

「これは以前もかいた事があるが、本来人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、

その御目的にかなうようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。

ところが何しろ祖先以来の薬毒があり、また生まれてからも本当の事を知らないがため薬毒を入れるので、

それがため病気に罹る事もあるが、これも止むを得ないのである。

しかし神様はお役に立つ人が病気のため働けないとすれば、神様の方では損になるから、

速かに治して下さるのは当然で、何ら心配はないのである。

ところがそれを知らない人達は、薬と称する毒を用いて、病気を抑えるのであるから

全く真理に外れており順調に治る訳はないのである。


この事は独り病気ばかりではない。

それ以外あらゆる災も同様であって、すべては浄化作用である。

しかし同じ浄化作用でも原因によっては浄化の形も自ら異うのはもちろんである。

例えば金銭や物質の罪である盗み、使い込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢はヤハリ金銭や物質で償われる。

世間よく金持の息子などが道楽者で、親の遺した財産を湯水のように使う事なども、親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。

それというのは祖霊が自分の血統を絶やさぬよう、益々一家繁栄を望むため、

子孫の中の一人を選んで浄化に当らせるのであるから、

この場合何程意見しても糠に釘である。


例えばここに二人の兄弟があり、兄はドラ息子で手が付けられないが、

弟は律儀真道(まっとう)であるとする。

ちょっと考えると兄の方が悪く、祖先の名を傷つけるように思えるが、

大乗的にみるとその反対である。

なぜなれば祖先の罪穢を消す点からいえば、兄の方が上だからである。

というように人間の考えで善悪は決められるものではない。


また火事で焼け、泥棒に盗られ、詐欺に遭い、

相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、

すべて物質の罪は物質で浄化されるのであるから、

たとえ人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。

従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、

人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛み
というように、

すべて相応の理によって浄化が行われるのである。


またこういう事もある。

それは信仰へ入ってからの苦しみである。

しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。

そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。

この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、早く御利益を下されようとするが、

まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。

その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構な御蔭を頂けるものである。


これについて私の経験をかいてみるが、私は二十年間借金に苦しめられ、

いくら返したいと焦っても駄目なので、到頭諦めてしまった。

それが昭和十六年になってようやく全部返す事が出来たので、ヤレヤレと思った事である。

すると翌十七年になるや思いもかけない程の金が入り始めたので、今更ながら御神意の深さに驚いたのである。


また世間よく焼太りなどというが、これも浄化が済んだから運がよくなった訳である。

彼の熱海の火事にしてもそうで、焼ける前と今日とを比べたら、雲泥の相違である。


以上によってみても善い事は無論結構だが、

悪い事も浄化のためで、それが済めばよくなるに決っているから、

ドッチへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。

といってもこれは信仰者に限るので、無信仰者はむしろ反対であり、

苦しみが苦しみを生み焦れば焦る程悪くなるばかりで、ついには奈落の底へ沈むようになる。

この理によって人間幸福の秘訣はこの道理を弁る事である。」




明主様御教え 「一切の災は浄化作用なり」

「世の中のありとあらゆる災いは、浄化作用である事は常にいっているが、

これについて現在国民全体が直面している主なる悩みについて詳しくかいてみよう。


まず第一は病気であり、第二は食糧不足であり、第三は汚職問題であろう。

その中で第一の病気については、私は常に余すところなく説いているから省くが、第二第三を説明してみよう。

この第二も今までに相当かくにはかいたが、まだかき足りない点もあるのでここにかくのである。

これもいつもいう通り凶作の原因が肥料によって土を汚し、地力を弱らすためであるとしているが、

もちろん風水害並びに冷害もこれに起因している。

風水害としては言うまでもなく、昨年のごとき洪水と高潮による稲の冠水であるが、

この原因は以前もかいたごとく、ヤハリ浄化作用の現われであって、

つまり肥料によって土を汚し、地力が弱体となった結果、

自然はそれを洗い清めて健康土壌にするのであって、これが神の摂理である。

ちょうど病気の原因が薬毒であり、それが人体を弱らすから、

快復させるため自然浄化作用が発生するのと同様である。


では一体右の理由は何かというと、この大地はその中心の地熱から放射されている地霊すなわち窒素によって、あらゆる植物を健全に生育させるのであるから、

土が清浄でなければ地力が衰弱するからである。

この理によって土壌の不純物を掃滅する、それが自然浄化すなわち風水害である。

すなわち水害の方は大地の汚れを水で洗う作用で、風害の方は空間に溜った汚濁を吹き払うのであるが、この汚濁にも二つの原因がある。

一は右のごとく地霊が放射される場合、地表にある不純物が邪魔するからと、今一つは人間が発する言霊(ことたま)である。

すなわち悪口、不平不満、愚痴等々、つまり悪に属するものは霊界を汚濁させるための浄化である。

また冷害は肥毒の壁になっている地表が地熱を遮断するからと、害虫を死滅させるためであり、

今一つは農民の愛が欠除している反映でもある。

すなわち愛は熱であるからである。


次は今騒がれている汚職問題であるが、これももちろん不正行為によって国民の血税を浪費するからで、実に怪(け)しからん話である。

それが原因となって、その人の霊が曇るからこれを清浄にすべく浄化作用が発生する。

つまり因果応報である。

ところが面白い事には、その浄化の場合は享楽に相当するだけの苦しみであり、しかも利子が付くので、それだけ大きくなるので、これが神律であるから、

至公至平一厘の毫差もない。この点人間の法律との ちがいさは天と地であるから、絶対免れ得ないのである。

従って一日も早くこれに目醒めて心から悔い改め、その償いをするより方法はないのである。

償いとは世のため、人のため大いに善徳を施す事であって、そうすれば浄化も軽く済み、再び立ち上る事が出来るのである。

ところがほとんどの人はそれに気付かず、一生懸命誤魔化そうとするのであるから、

結果において益々罪は重なるばかりで、一生涯不遇な境遇とならざるを得ないのである。

何よりも喚び出し状が来てても、何だかんだと日を延ばそうとするが、

これは疾(やま)しい点があるのを表白しているようなものである。

たとえ罪状を否定しても駄目であるのは知れ切っている。

しかもこういう卑怯な態度は国民思想にいかに悪影響を及ぼすか判っているはずで、結局 罪の上塗りという事になる。

いつかも言った通り、「愚かなる者よ汝の名は悪人なり」の言葉もよく当てはまる。


以上のごとく現在社会の人間ことごとくといいたい程、不幸な運命に喘ぎ苦しみ、地獄社会の有様は、

全く間違った想念と行為によって、人間自らが作っているのであるから、

その愚及ぶべからずである。ところがこの理を諭(おし)える役目の宗教でさえはなはだ冷淡であるのは不可解といってよかろう。

以上のごとく何から何まで間違った世の中であればこそ、神は私をしてこれを諭(おし)え救い給うのである。」




明主様御講話 「一切の苦しみは浄化作用」 (昭和28年11月17日)

「今書いていますが、その前に、気のつきそうなことで、ちょっと気のつかないことがあるのです。

それは、つまり運が良いとか悪いとか言いますが、すべて順調に行く時にはなんでも順調だし、

これが、悪い時になると泣き面に蜂で、悪いことばかりが重なってくるものです。

それは健康とピッタリと関係しているものです。

これは私の経験でもそうです。

私は薬毒がウンとあります。

どこか体が悪い時には必ず悪いことが来るのです。

疥癬をだいぶ長くやりましたがー私の疥癬は今年で九年目になりますーまだすっかりとはゆきません。

耳が痒いので始終こうやって掻いてますが、これも疥癬が耳に来ているのです。

それから腰のまわりから足が痒いとか、いまでも蒲団に入って暖まったりすると幾分痒いです。

それで、一番最初に玉川警察署に十一日間留置されたことがありますが、その時には疥癬が一番酷かったのです。

それから静岡事件のときには足にまだ残っていました。

一昨昨年ー二十五年ですが、この時には疥癬がいやに悪かったのです。

それで警察に行って、そのことを知らした方がよいと思って、足を掻いたところ血が出たら、

「ああ君はまだ悪いね」それで朝になったら、「自分の足が痒いが、君のが染ったのではないか」と言ってました。

それから私は疥癬のほかに歯が始終痛んだり、頭が痛んだり、始終いろいろありますが、

そういう時にはなにかしら、つまり苦しむことがあるのです。

これは誰でもそうなので、その理屈なのです。


というのは、そういった悪いということは、毒素に対する浄化が起こっているのですが、浄化というものが人間の体ばかりではないのです。

浄化というものは、あらゆるものに相応してくるのです。

だから体のどこかが悪いということは、やはりその人の運命に苦しみがあるわけです。

毒素があるとその部が曇っている。

そうすると体全体が曇っていると、毒素は肉体的苦痛によって除ってゆき、

それから運命はいろいろな災いで除ってゆく、というわけですから、

たとえてみれば、人を苦しめずになにかやっていて発展するーわれわれの方でも宗教が発展して信者ができますが、それでこのメグリが来るのです。

それはなにかというと、他の宗教が影響を受けるのです。

仏教とか、そういうものの方で非常に信者が減るとか、おとろえるとか、また維持に苦しむとか金が足りなくなるという場合に、

どうもこのごろ新宗教がだいぶ勃興してきたので、その影響を受けるのだ、

特にメシヤ教というのが一番活動して、あんな立派な美術館を造ったりしている、

シャクに障る、羨ましい、といった想念が、やはり曇りになってこっちにぶつかってくるのです。

ですから善いことをしておれば、なにもないかと思うと、決してそうではないのです。

かえって善いことをすると悪の方で怨むのです。


またたとえてみれば、泥坊とか人殺しをして、警察に引っ張られて酷い目に遭って調べられたりすると、

自分がその因の種をまいていても、やっぱり警察官を怨むのです。

昔、首斬朝右衛門という、今の死刑係で首を切る役人ですが、

首を切ることは朝右衛門が役でやるのですからなんでもないことですが、やはり朝右衛門を怨むのです。

そのために朝右衛門はいろんな災いがあるので、

まったく自分が首斬りをしたためだということが分かって、止めてしまって、

子孫代々首斬りをしてはならないという遺言を残したそうですが、

そういうようで、良いことをしても怨みがあるのです。

しかし他でその良いことのために助かって喜んでゆく人がありますから、その人からは良い光を受けますから、さのみではないので、非常に少ないわけです。

自然栽培が非常に拡がれば、今度は肥料屋がたいへんです。

最初は、この肥料屋の怨みの方が農村の喜びよりも、多いかもしれません。

そういうようで、それが曇りになると、その部の血が濁りますから、やはり体が悪くて肉体的苦痛もあるし、運命的苦痛もあります。

それから人に瞞されるとか、泥坊に盗られるとか、相場や競輪で損をするとかーパチンコはしれたものですがーいろんな損をします。

それから火事で焼けるとか、この間のような水害とかありますが、そういうこともやはり浄化作用なのです。


それについてこういう考え方があるのです。

すなわち伜(せがれ)が二人あります。

一人は非常な道楽者で、親の金を使ってしようがない、一人は律儀正道(りちぎまっとう)で、親の心配をかけないというのです。

これはどっちが親孝行かは分からないのです。

その家は先祖代々のいろんな罪を背負ってますし、それからその親の財産というのは、人をいじめたり苦しめたりして作った財産とすると、祖先はその罪を早く除ってしまわなければその子孫は繁栄しないので、

そこで祖霊がついてそういう道楽者を作ってドンドン使わせるのです。

ですから早く使ってしまえば早く罪が除れるのです。ところが律儀正道な方の伜は、減らないようにし、かえって増やそうとするのです。

これは早く除った方がよいのですから、大乗的に見るとイコール道楽者の伜の方が親孝行ということになります。

そこで、そういう道楽者の伜を治そうとして、いろいろ苦心惨憺しますが治らないのです。

それはそういうことを知らないし、ぜんぜん思いもしないからです。

そこで学校を怨んだり、傭っている主人を怨んだりするようになるのです。

そういうわけで、一切のそういう苦しみは浄化作用ですから、その苦しみというものも、それが分かれば喜ぶというまでもゆかないが、そうクヨクヨする必要はないわけです。

それで除かれるだけ除かれてしまえば、あとはないので良くなるばかりです。


それと同じように、信仰に入ってから損をしたり、いろんなことがあります。

これはたいへん結構なのです。

それからまた熱心になればなるほど、そうなるのです。

信仰がボヤボヤしている間はそうでもないが、これは熱心にやらなければならない、

というようになってから損をしたりすることがありますが、これがたいへんにありがたいのです。

これは神様が、お前は熱心だから大いに褒美をやろうとする。

ところが入れ物が汚いから、これを掃除しようというわけで掃除をされるのです。

それを待っておれば、それがきれいになった後は一度に良くなります。


私が借金で苦しんだのが昭和十六年までの二十年ですが、最初のうちは金が欲しくてしようがない、なんとかしてと思っても、駄目で、この借金の催促が苦しいのです。

それに下手に動くと差し押さえになるのです。

それで金が欲しい欲しいと思っている時は駄目なのです。

そのわけが分かって、これは神様にお任せしておこう。

食ってさえいればよいと思って、気やすく思った。

そして昭和十六年にやっと返しきったのです。

そうすると十七年からは、予定していたのより多くの金がドンドン入ってくるのです。

ですから金なんかどっちでもよいと思うようになった時に入ってきたのですから、そう嬉しくもなかったのです。


だからかえって欲しい欲しいと思って、今いくら金が入れば助かる、という時には決して入るものではないのです。

これはなにごともそうです。

変な話ですが、女を思っていて、アノ女をどうにかならないかと思っている時には、決して女の方では振り向きもしないのです。

それでアンナ女なんか勝手にしやがれと思うようになると、かえって女の方で来るのです。

つまり逆になるわけです。

それが真理なのだから、そこを本当に知ると非常に気楽になります。


だから苦しいことが起こると、これは楽しいことの前提だ、これによって楽しいことになるのだと思うから、さのみ苦痛ではないということになります。

ちょうど病気が起こって、熱が出て痛んだり苦しいが、これによって良くなると思うから、心から苦しくはないのです。

それで病気のことはよく分かるが、ほかのことになると気がつかないのです。

それで火事によって丸焼けになるが、これは非常に良いのです。

これは祖先が、金銭的、物質的の罪穢れが溜まっているから、そうなるのです。

ですからよく「焼け太り」と言うが、焼けたために後が良くなるのです。


それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。

大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。

熱海などは随分良くなりました。

まるで東京の銀座に行ったような気がします。

他の都会でこんなに新しいピカピカしたような町は、今見られないくらいですが、熱海はたいしたものです。

これは焼ける前の熱海と比べたら、それこそ乞食と大名ほど違います。

というのは、焼けたためにそういった汚いものが霊的に消えたわけですから、そこで後は良いことが来たわけなのです。

これなどもよい見本です。

ですから一切の人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。

それで病気の浄化のときには他のことの浄化もちょうど同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、ということを知っていればよいのです。

ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるということは、どうしても運が良くなるということですから、これを心得ていればよいわけです。

それから神様は、人間というものは働かせるようにできているのですから、本当に神様の御意志通りの働きができれば、その人は神様の方では重要な人ですから、

なるべく病気で苦しまないように、長生きをするように、いつまでも働けるようにと、神様の方でやるのです。

ところがあんがい早く死んでしまったりするのは、神様の方に対して、世の中のために間違ったことをしたり、間違った考えを持っているからして、

どうしても神様の方では、その人を間引かなければならないのです。

そういうことは一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破することができないだけのことです。」




明主様御講話 「一切は浄化作用」 (昭和29年1月26日)

(御論文「幸運の秘訣」発表) 

「今読んだとおり、運が良くなる、思うようになるということは、理屈を知ってみれば非常に簡単な話なのです。

ここを自分が知るとともに話してやればよいのです。

ところがそういう肝腎なことをやらないで、ただ人為的にうまくゆくように一生懸命やるのだからして、結局なんにもならないので、無駄をやっているわけです。

それで、百八十段という層になっているのですから、その層の居所によって運が良い悪いになるのです。

この層の良い所は良いことばかりが流れているのです。

そこのところは神様は実にうまく作ってあります。

低い所は悪いことだらけなのです。悪いことが満ちているのです。

上層になるとそれがだんだん少なくなり、今度は良いことに変わってくるということになっているのです。


そういうようで、人間はどこかにいるのですから、良い方にいるようにすれば、

そこに行けば運が良くなるに決まっているのですから、なんでもないです。

よく方角が悪いとか良い家が見つからないとか、いろいろなことがありますが、

それは霊界の居所が下ならどんなに良い家に住まおうと思っても、そこの世界には良い家がないのだから見つかるわけがないです。

霊界の層が上に行っていれば、今度は、探さなくても見つかるようになります。

そこに住まわなければならないことになっているのです。

それが運命です。

ですから、よく支部を作っても発展しないとか、どうも信者ができそうでできないということは、自分の魂の居所、霊の居所が低いためです。


それからまた、どうも自分は一生懸命に信仰しているが、親父は反対ばかりしている、あるいは伜(せがれ)がぜんぜん分からないということは、

自分自身の霊的位置がまだ低いからです。

それで自分自身の霊的地位が高ければ、他の者もどうしてもそこの所に引き上げられるのです。

というのは、親父でも伜でも、みんな霊線が繋がってますから、親なら親の枝ですから、親がずっと上に上がると伜もそれについてゆくわけです。

そうすると話をしてもよく分かるわけです。

ところが自分自身の地位が低いからして、いくら口を酸っぱくしようと、気をももうと、あえて効果がないわけです。


ですからそれには自分の霊的位置が向上するということが必要です。

それには、一人でも多くの人を助けて、神様の御用をすることで、それによって自分の曇りが減って、そうすると霊が軽くなるから上に行く。

上に行くから、他の枝でも縁のある人でも、自然にそれについてくるわけです。

だからすべて思うように良くなるというわけですから、結局において自分にあるのです。

それからまた、こんなにしても自分は苦しいことや災難がいろいろあるということは、それはまだ霊に重い点があるからして、

神様が軽くしてくださるために、軽くするには人を救うか、もし救い方が足りなければ自分が苦しむかで、

このどっちかで曇りが取れるのですから、その点さえ分かれば、世の中は決して難しくもなんでもないものです。


結局、一切は浄化作用です。

それで浄化作用とは一つの掃除ですから、ゴミがあると、どうしても掃除されなければならないことになっているのです。

稲の虫害というものも浄化作用です。硫安をかけたり糞をかけたり、肥料を入れたりするから、

そういう物を浄化させなければならないので、その浄化させる役目というのが小さい虫です。

それで虫が生まれて毒を食うわけです。ズイ虫にしても、ズイを食うということは、ズイに肥毒があるからして、それを掃除しなければならない。

そうするとその毒を食うが、毒が葉や茎に深くくっついているから、

ついどうも葉や茎まで食わなければ追いつかないから食うのですが、それが虫害なのです。

だから分かりきった話です。


それで結核だとか、いろんな病気の黴菌というものも、そこに薬毒があるから薬毒を掃除しなければならない。

その掃除夫です。私の古い本に書いてありますが、その掃除夫が自然発生して、それが食ってゆくわけです。

結局あらゆるものが浄化作用だから、そういった汚れ、穢いものを溜めないように、入れないようにして、きれいにするというようにすれば、

必要がないから虫もわかないし、なにも悪いことはないわけです。

だから浄化作用というものは一切にあるのです。


これを大乗的に言うと、もっとおもしろい浄化作用があります。

仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引っ掛かって瞞されるとか、

それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人がたくさんありますが、これはやっぱり浄化作用です。

その人の持っている金の中に非常に汚い金があるのです。

そういう金はどうしてもその人が持つことができないので逃げてしまうわけです。

こっちにそういった汚い金があるからして、誰かがなにかの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。

だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。

そうすると、そういうものも必要ということになりますが、

これは必要不必要ということでなく、すべて汚いものはきれいにするというように、神様がこの世界を造られたのです。

だからそれを本当に分かるということは大乗的見方なのです。

ところがこれはあんまり私が話をしないというのは、その話をすると泥坊も必要だということになります。

間違えますから、こういうことは腹の中で覚ることです。」




明主様御講話 「信者と未信者の浄化作用は違う」 (昭和29年1月27日)

(御論文 「幸運の秘訣」)

「今読んだようで、霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というのが人間の魂の居所なのです。

ところがこの魂というやつが人間全体を支配しているのですから、魂の居所ということが資格です。

だから魂の資格さえ上になっていれば、ぜんぜん苦しみはないわけです。

しかしそうかと言って、人間今までにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。

そこで、信仰に入ると魂だけは先に上の方に行ってしまいます。

そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、

魂の地位だけにきれいにならなければならない。

浄まらなければならない。それが浄化作用です。

だから信仰に入ってからの浄化作用と、未信者の時の浄化作用とは意味が違うわけです。

その区別を知っておかなければならないのです。

未信者の時の浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。

その浄化作用が起こらなければ、その人は死ななければならないのです。

だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。

自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。

そこで、よく修行などをして、断食をしたり、山に籠もったり、いろいろな難行苦行をするということは、

その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。

ふつうの人は他動的に苦しみがぶつかってくるのですが、

難行苦行というやつは自分から進んで難行苦行の世界にぶつかってゆくわけで、自動的です。

その点が違うわけです。

ところが苦しみによって浄められることを知らないからして、苦しみを逃れるために、またいろんな嘘のことをやるのです。

ごまかしとか、金が足りなくて苦しめば人を瞞して金を得るとかして、

次の罪を作るから、苦しみを取りながら次の苦しみを作っている。

結局二進も三進もゆかなくなって地獄のドン底に落ちるというので、これは世間にたくさんあります。

ですから病気もやっぱりそうです。

病気を免れるために薬で一時的に固めようとして、第二、第三の病気を作るというのと、今言ったこととは同じ理屈です。

そういうことが今まで分からなかったのは、勿論信仰のないためですが、今までの信仰では徹底して説いてなかったです。

他の抽象的に苦しみは罪のためだというように単純に考えていたのです。

それで、今霊層界のことを書いたのは、つまり徹底して書いたわけです。

ですから罪というものや、そういうことの関係がはっきり分かっていなかったのです。


よくお蔭話にありますが「自分のような罪穢れの多い者には資格がない」とか、

「それにもかかわらずこういうお蔭をいただいた」ということがありますが、

なるほど自分の思いのある罪穢れもあるに違いないですが、

思いのない罪穢れもあるのですから、漫然と罪穢れと言っているのです。

ですから罪穢れと人間の幸不幸が今までははっきり説かれてなかったのです。

私はいつもお蔭話を見るときに、罪穢れ罪穢れとよくありますが、一番はっきりしているのは薬を使ったことです。

しかし薬を使うということが、実は自分で悪事をしようと思ったのではないので、

かえって早く丈夫になって働こうと思ったために薬を使ったので、

要するに薬というものは病気を良くするものだということに瞞されていた被害者です。

これは詐欺どころではないので、一番大きな欺瞞です。

そういうふうに考えてくると、薬を服むという、一つの瞞しを受けていたわけです。

そしてまた、お医者でもなんでも悪意ではないので、

結局において人を助けようという考えには違いないから、善意の罪、善意の一つの詐欺です。

妙な話ですが、そういうのがピッタリしているわけです。

というのは、世の中の組織がそうなっているのです。

それは夜の世界であったために、はっきりものが分からなかったからです。

ほとんどがそういう間違ったことが行なわれていたのです。

それが長い間そうなっていて、それを発見する人がなかったというためであったので、これは人間の一つの運命です。

それを発見ができないで苦しみながら、そういうものとして続けてきたのです。

それがいよいよ神様は私を使って発見したということは、教えたわけです。

これはみんなよく知っているでしょうが、そういうようなわけで、

運が良くなるということは、どうしても霊的地位が上に行くということなのです。

だからして「どうも思うようにゆかない、困ることが多い」ということは、結局自分の霊界の地位が低いからです。

たとえてみれば「自分は信仰に入ってありがたい、よく分かるが、どうも親父の奴は分からない」

また「娘も伜(せがれ)もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう」というように考えている人は随分あります。

それは自分の霊層界の地位が低いからです。

もし自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、

自分の霊が向上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引っ張り上げられるわけです。

私がいつも言う“分からなかったらウッチャラかしておけ、急って早く信仰に入れようという考えはいけない”ということはそういうことです。

ですからそういうことはぜんぜん考えないで神様にお任せして、

自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様のお役に立つというようにすれば、

自分の霊が上がって行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分かるというわけです。


結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。

ただし魂だけが上に行っても、自分の霊やあるいは肉体が伴わないということは、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。

しかしそういう場合には浄化が早くすむわけです。

そういうことが分かると、別に迷うことや苦しむことはないわけです。

しかしそこまで覚れるということが、なかなか大変なのです。

この覚りは本当の真理です。

今までいろいろな宗教などで説いたことよりずっと上ですから、

その点などがよく分かると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分かります。

この話はそのくらいにしておきます。」