幸福論について


明主様御教え 「幸 福」 (昭和23年12月1年発行)

「古往今来、いかなる人間といえども幸福を冀(こいねが)わぬ者はあるまい。

幸福こそ実に人間最初にして最後の目標であるからである。幸福を獲んがための学問であり、修養であり努力であるにかかわらず、満足に掴み得る者は果たして幾人あるであろうか。

大部分は幸福を獲得せんと思い続けつつ、かえって不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げらるる事なくして不帰の客となるというのが一般人の現実である。

しからば幸福を得るという事は、そんなに難しいものであろうか。私は否と言いたいのである。


そもそも幸福とは、病気貧乏闘争、この三大問題の解決が基本である事は誰も知るところであるが、

言うはやすく実現は難く大抵は諦めるの余儀なきに至るのである。

一切は原因があって結果がある。もちろん幸福とても同様であるとすれば、その原因をまず知る事こそ問題解決の出発点であらねばならない。

従ってその原因に不明である以上、何程努力しても実現の可能性はないに決まっている。

しからばその原因とは何か、それを私は述べてみよう。


昔から言うところの善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理である。

この理を知って他人を幸福にするために努力する事こそ、自分自身を幸福にする絶対的条件であらねばならない。

ところが、世の中には他人の不幸を顧みずして、自分だけが幸福になろうとする人間があまりにも多い事である。

一方不幸の種を蒔きつつ幸福の実を得ようとするのであるから、全く愚かな話である。

ちょうど水を押すと手前の方へ流れ、引くと先へ流れるのと同様である。


宗教が人間にとっていかに必要であるかは、この点にあるのである。

すなわちキリスト教の愛といい、仏教の慈悲というのも他人を幸福にする利他的観念を植え付けるのが本義である。

このような簡単な道理も人間はなかなか認識し難いものである。

そこで神様や仏様は種々の教義を作り、心言行の規準を示し、見えざるものの存在を教え、取次者をして誠心誠意信仰に導くのであるが、

一人の人間を救うにも容易なものではないのである。

それも無理はない。一般人は見えないものは信じないという教育のもとに、唯物思想に固まっているから、なかなか耳を傾けようとはしないのであって、

迷夢に鎖され暗黒の中を彷(さまよ)い苦しみながら、結局帰らぬ旅路へ赴くのであるから、洵(まこと)に儚い人生というべきである。


しかるに、生あるうちに歓喜に浸り、法悦の境地に住し長寿を得、真の幸福者たり得る方法がありとすれば、正にこの世は天国であり、生甲斐があるというべきである。しかしながら言うであろう。

このような苦の娑婆にいて、そんな幸福者たり得る筈がないと諦めているのが一般人の考えであろう。

しかし吾等は断言する。右のごとき幸福者たり得る秘訣のある事で、それを御伝授する手引として、まずこの雑誌「地上天国」を提供するのである。」




明主様御教え 「幸福の秘訣」 (昭和24年10月1日発行)

「幸福の秘訣などというと、何か特別の魔法でも使うように想うかも知れないが、決してそうではない、至極当り前の話である、

ただその当りまえの事を世人はあまりに気がつかないのである。

今社会全般を見渡した時、真の幸福者は一体幾人あるであろうか、恐らく一人もないといってよかろう、

事程、さように苦悩の世界である、実にいかなる人といえども失敗、失業、病苦、貧困、不和、懐疑、悲観等、実に首伽、足伽をはめられ、牢獄に呻吟(しんぎん)しているというのが有りのままの姿であろう。

まず、誰しも平静になって考える時、こういう疑問が起るであろう、全体造物主である神様は、人間を造っておきながら、これ程苦しませるという事はどういう訳であろうか、

なぜもっと不幸よりも幸福の多い世界にしてくれないのであろうかと思わない訳にはゆくまい、

と考えると何かそこに割り切れないものがあるに違いない、従ってその割り切れない点を誰しも知りたいであろうから、それを説明してみよう。


人間の発生した原始時代から今日ただ今まで厳然として存在を続けているものとしてはまず善と悪とであろう、これは真理である、

そうしてこの善悪という相反する性質のものは、常に摩擦し争闘しつつ、今もって勝負がつかないでいる、

ところが、よく考えると、この善悪の摩擦によって今日のごとき文化の発展を見たのであるという事もまた真理である、

この事について私はよくたずねられた事がある、それは神様は愛であり、慈悲であるとしたら、最後の審判などといって人間に悪い行いをさせ、罪を作らせておきながら、それを罰するというのはどうも訳が分らない、

最初から悪人を作らなければ罰も、審判の必要もないではないかと言うのであるが、

これはもっとも千万な話で、実をいうと私もそう思っている、

しかしながら私が人間を造ったとすればその説明は容易だが、

私といえども造られた存在である以上徹底した説明は出来ようはずがない、

強いて説明をすれば神の御心はこうであろうと想像する以外、説明のしようはないであろう、

とすれば、そんな穿鑿(せんさく)は有閑人に委せて、吾々としては現実を主とし、生ある間幸福者たり得ればそれでいいのである。

ゆえに何よりも右の根源を発見し実行する事である、ではその方法はといえば常に吾々のいう、他人を幸福にする事で、ただこの一事だけである、

ところがそれには最もいい方法がある、その方法を私は長い間実行していて、素晴しい好結果を挙げているので、それを教えたいためにこの文をかいたのである。


右をまず簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである、始終間さえあれば何か善い事をしようと心掛けるのである、

例えば人を喜ばせよう、世の中のためになら妻は夫を気持よく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする、

親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的でなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする、

その他日常すべての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても愛と親切とを旨とし出来る限り誠を尽すのである、

政治家は自分の事を棚上げにして国民の幸福を第一としすべて模範を示すようにする、

もちろん、一般人も一生懸命善事を行う事につとめ智慧を揮い、努力するのである、かように善事を多くした人程 幸福者になる事は受合である。


以上のようにみんなが気を揃えて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかを想像してみるがいい、

まず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬を受けるのはもちろんである、

その結果あらゆる忌わしい問題は解消し吾らが唱える病貧争絶無の地上天国は出現し人民の幸福は計り知れないものがあろう事は、

大地を打つ槌は外れてもこれは決して外れっこはない。


ところがだ、現在としての現実はどうであろうか、およそ右と反対で、悪事を一生懸命しようとする人間が滔々(とうとう)たる有様で、

嘘をつき人を誤魔化し、己のみうまい事をしようとして日もこれ足らずの有様である、実に悪人の社会といっても過言ではない、

これでは幸福などは千里の先へ行きっきりで帰るはずはない。

その上困った事には、こういう地獄世界を当然な社会状態と決めてしまって、改革などは夢にも思わないのである、

しかも吾々がこういう地獄世界を天国化すべく活動するのを妨害する奴さえある、

これこそ自分から好んで不幸者となり、最低地獄へ落ちるようなものである、

こういう人間を吾らからみる時、最も憐むべき愚人以外の何物でもないと共に吾らはこれらの人間の救われん事を常に神に祈願しているのである。

あまり長くなるからここで筆を擱(お)くが、以上の意味をよく玩味すれば、幸福者たる事は、あえて難事ではない事を知るであろう。」




明主様御教え 「幸運の秘訣」 (昭和29年2月3日発行)

「この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。

言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。

というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。

ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったのである。

そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。

それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠(ぼうばく)たる掴まえどころないものはあるまい。

しかも自分ではどうにもならないので、あなた委せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。

誰かが言った「人生は大賭博なり」とは宣(むべ)なるかなである。

従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。

そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。

それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。

そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてしまう。

西洋の諺に「幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終いだ」というが全くその通りである。


私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。

訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。

追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。

ところが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。

だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。

というのは物を見る場合上面(うわつら)だけを見て中身を見ない事で、否(いな)見えないのである。

ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。

という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。

その訳を詳しくかいてみよう。


まず右の理を押し広げるとこういう事になる。

すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。

これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。

故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。

しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。

では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。

それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。

もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界(ちゅううかい)といい現界に相応している。

こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、

その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫の誤りはないのである。

何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。

それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。

そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。

しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。

言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。

これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和(けんぷわ)の理想境であり、中段は中位である。


以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。

何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨(うらや)まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈(あに)計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥となる例もよくある。

というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。

そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。

昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。

故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。

これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。

といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。

ところが容易に出来る方法がある。

これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。」




明主様御教え 「運命は自由に作れる」 (昭和27年2月27日発行)

「人間は昔から好いにつけ悪いにつけ、どうも運命だから仕方がないと、諦めたがる癖があり、

運命というものは不可抗力なものと決めているのは、誰も知る通りである。

ところが私は運命は誰でも、自由自在に変えられるという事を教えようと思う。

というのは元来運命は人間が作るように出来ているもので、

この真相が分ったなら、この世の中は悲観どころか大いに楽観していいのである。

言うまでもなく精神病者でない限り、どんな人でも不幸な運命にはなりたくない、

何とかして幸運を掴みたいと思うのは当り前な話で、

そのため血の汗を絞り、命を的にしてまでも一生懸命になっているのは、人間通有の欲望であるにもかかわらず、

本当に幸運を掴み得る人は、果して幾人あるであろうか、まず百人に一人も難しいといってよかろう。

とすれば幸福者たるにはどうすればいいかという事になり、

迷いに迷った揚句の果があの世行となるのだから、何と心細い人生ではなかろうか。

お釈迦さんの言われた通り、全く諸行無常の娑婆である。

とはいうものの偶(たま)には本当に幸運を掴む人も、万人に一人くらいはないではないから、

そういう人を見る世人はつい諦め切れず、夢を追う事になるので、それで世の中はいいのだと悟りを開く人もない事はない。

もし本当に幸運を掴み得る方法があるとしたら、これ程結構な事はあるまい。

誰もそれが分らないので不幸な運命を作ってしまうのである。

つまり自分で牢獄を作り、その中へ入って苦しむ訳で、事実このような愚劣憐れむべき人で世の中は一杯である。

では幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、

善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、

悪の種とは人を苦しめ、損害を与え自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、

善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。


としたらはなはだ簡単のようだが、それが仲々難しいので、人世は厄介なものである。

ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである。

それにはもちろん信仰より外ないが、ここで注意すべきは単に信仰といっても色々あるから、充分選択しなくてはならないのは言うまでもない。

ところで自画自讃ではないが、我メシヤ教こそその条件に最も合致している信仰であるから、

不幸に苦しんでいる人は、一日も早く入信される事を御勧めする次第である。」




明主様御教え 「霊波と霊衣 付録霊科学」より (昭和22年2月5日発行)

「(一部のみ引用) 人間の霊体は肉体と同様の形態を有しているが、ただ異なる所は霊体には霊衣なるものがある。

洋語ではアウルという。それは霊体から不断に一種の光波を放射している。

あたかも霊体の衣ともいうべきものでその名がある。

色は大体白色で、人によりやや黄色または紫色を帯びたものもある。

そうして厚薄の差別はなはだしく、普通は一寸位の厚さであるが、病人は薄く、重症となるに従い漸次薄くなり、死の直前には全然なくなるのである。

世間よく影が薄いなどというのは、この霊衣の薄いための感じであろう。

また右と反対に健康者は厚く、有徳者は一層厚く、光波も強いのである。英雄などは普通人より厚く、偉人となればなお厚く、聖者に至っては非常に厚いのである。

しかしながら、霊衣の厚薄は一定のものではなく、その人の想念や行為によって常に変化する。

すなわち正義に立脚し、善徳を行なう場合は厚く、反対の場合は薄いのである。

普通人の眼では霊衣は見得ないのが原則であるが、まれには見得る人もある。

ただ普通人でも心を潜めて凝視する時、ある程度感知し得ない事はない。


そうして、霊衣の厚薄は人間の運命に大関係がある。

すなわち霊衣の厚い人程幸福であり、薄い人程不幸である。

また霊衣の厚い人は温か味があり、接する人に快感を与え多くの人を引きつけるが、それは霊衣に包むからである。

これに反し、薄い人に接すると冷たく感じ、不快、寂寞(せきばく)、長くいるを欲せざる事になる。

このような意味によって、人は霊衣を厚くするよう努めることこそ、幸運の基である。 


しからば、霊衣を厚くするにはいかにすべきやという事であるが、その説明に当たってまず霊衣なるものの本質を説明しよう。

人間のあらゆる思想行為を分析する時、善悪いずれかに属する事は今更いうまでもないが、霊衣の厚薄も善悪の量に比例するのである。

すなわち善を思い善を行なう場合、内面的には良心の満足感が起こるので、その想念は光となり、これが霊体に加わって光を増す事になり、その反対である場合、悪は曇りとなって霊体に曇りが増す。

また外面的には、人に善を行なう時は相手の人の感謝の想念が光となって、善行者に対し霊線を通じて伝達するから光が増す事になる。

その反対である場合、怨み、憎み、嫉み等の想念は曇りとなって伝達して来るから、曇りが増すのである。

これによってみても、人は善を行ない他人を喜ばすべきで、決して他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならないのである。

世間よく急激に出世したものや成金輩が、いつしか失敗没落するような事があるのは、右の理によるのである。

すなわち、成功の原因は自己の力量手腕、努力によるとなし、増長慢に陥り、利己的、独善的となり、贅沢三昧にふける結果、多数者から憎み、怨み、嫉み等の曇りの想念が蝟集(いしゅう)する結果、霊衣は光を失い、薄くなり、ついに没落するのである。

また何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来社会的上位にある者はそれだけ国家社会から恩恵を受けている以上、それに酬いなければならない。

すなわち、大いに社会に向かって善事を行ないこれによって絶えず曇りを消すべきである。

しかるに多くは己の利欲のみを考え、利他的行為に乏しい結果曇りの方が増量し、形態は立派であっても霊の方は下賤者同様になっている。

そのため、霊主体従の法則によってついに没落する事になるのである。

私は東京の大震災の少し前、ある霊眼の利く人の話を聞いたが、それによれば大廈高楼(たいかこうろう)の町も、霊的には小さな陋屋(ろうおく)が立ち並んでいるとの事であったが、果たしてその通りになり驚いたのであった。 (中略)


また霊衣の薄い程、不幸や災害を受けやすいものである。

それはどういう訳かというと、曇りのために頭脳が鈍り、判断が正鵠(せいこく)を欠き、決断力が乏しく、物事の見通しが付かない。

従って一時的成功を夢み焦るのである。こういう人は小成功はしても長い間には必ず失敗する。

この意味において一国の政治が悪いという事は、霊衣の薄い人が政治を行なうからであると共に、その悪政治によって苦しむ国民もまた霊衣が薄いからで、洵(まこと)にやむを得ない訳である。


また曇りの多い人は、浄化作用が発生しやすいから病に罹りやすく、災害も受けやすい。交通事故などで災害を受けるのは霊衣が薄いからで、厚い人はいかなる場合といえども難を免れる。

たとえば電車、自動車等に衝突しようとする際、電車、自動車の霊は、霊衣の薄い人には当たるが、厚い人には当たらない、撥ね飛ばされて疵(きず)一つ受けないものであるが、これは霊衣の弾力によるのである。

右の理を考うる時、人間は善徳を積み霊衣を厚くする事こそ、幸運者たり得る唯一の方法である。

世間よく、自分は生まれながら不運であると諦める人があるが、これらも右の理を知らないからで気の毒なものである。

また本医術の治療士も霊衣の厚い者程治病成績が良い。

また多くの患者を救う程、その治療士は多数者から感謝を受ける結果、霊衣はいよいよ厚く、多々益々成績優秀となる訳でこういう人は私の弟子中に多数あるのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「毒素の解剖」より (昭和27年12月1日発行)

「(一部のみ引用) 話は戻るが、悪の結果として自責の念が起こるが、この心の苦痛こそ軽い浄化であって、

この時悔い改めればいいが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。

もちろん曇りといっても罪の大小により、その量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。

それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、

その想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。

これに反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。

しかしこれとても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、これこそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。

以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間はこれを信じ、これに従うより外はない。

右の通り曇りの浄化作用が病気その他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪をやめ、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。」 (「結核信仰療法」より)




明主様御講話 「不幸になるのは頭が悪いから」 (昭和27年6月26日)

「昨夜の映画で、博物館のがあったんですが、これは理研の文化映画なんです。博物館のはほとんど仏像です。

それから、あとは奈良が主で京都あたりのお寺、桂の離宮とか・・・古美術的なものです。

そういう映画で、これは珍しいです。今までそういった映画はないですからね。

それだけ世の中が美術ということに関心を持ってきたわけなんです。

フランスあたりと油絵の交換とか、そういうことが新聞に出てますが、そんなような具合で、なんとなく美術というものが人の注目を引くようになってきました。

で、理研の映画をやっている人の話では、博物館を写して・・・フランスにあるカンヌという所で、毎年文化コンクールがあるんだそうですが・・・

写しかけたがあとたいしたものがないので、それでしかたなしに、奈良やあっちの方のものを写してまとめたわけだと言うんです。

ところがここの美術館は・・・ここの庭もいろいろ取り込めてでしょうが、大丈夫、コンクールに出す映画が撮れるというので・・・二十日くらいかかるそうですが、この九月に撮って文化コンクールに出す話になっているんです。

そぅいうわけであってみると、まあ博物館以上ということは、確かなんです。

そうすると日本では、博物館がそういった美術に対しては一番としてあるんですが、それ以上とすれば、日本一はもう間違いない話です。


そういう美術館を造ったというのは、計画をそう思いついたのは二、三年前からなんです。

そうすると驚くほど早いんです。

早いというのは、これは私から言っては、はなはだ変ですが、つまり頭の良い悪いなんです。

私は、自分ではそう頭が良いとは思わないです。

忘れることもあるし、いろいろまごつくこともあるしね。

しかし一般の人から較べるとすばらしく良いんです。

そうするとふつうの人がすばらしく頭が悪いというわけです。

そういうことが言える。

いろいろ考えてくると結局頭の問題です。

大体人間の幸不幸はこれは頭です。

不仕合せになるのは頭が悪いんです。

一番頭が悪いのは悪人ですよ。

これは、悪いことで成功すると思う・・・悪いことで幸福になると思う、その錯覚ですね。

悪いことをすると駄目になる、ということに気がつかない頭の悪さです。

ですから私は、悪いことをする人間は非常に頭が悪いと思う。

それで人間が偉い偉くないとか、あるいは名前がある人とか、名前が出ている人とか出ていない人とかいうことは、あまり関係ないです。

つまり幸福ですね。

なにも、名前を得たら幸福というわけじゃないです。

そこで同じ頭が悪くても、悪さにもいろいろ差別があります。

非常に悪いのと、それほどでもない・・・今、出世している人とか著名な人は悪いなりにも、少ないです。良いとは言えないが。」