行き詰まりについて


明主様御教え 「行詰り」 (昭和27年10月29日発行)

「世の中の人ばかりじゃない、信者でもそうだが、よく行詰りという言葉を発するが、

これは物の真相を弁えないからで、何事も行詰りがあるから発展するので、つまり行詰りじゃない訳で、

ちょうど駈出しすぎては息が続かないから一休みするのと同じ訳でいわば節である。

これは竹を見ても分る通り、伸びては節が出来、伸びては節が出来るから丈夫に育つので、

伸びるばかりで節がなければ、アノ強靱な竹とはならないのである。

従って節の少ない竹程弱く、節の多い程強いのはそういう訳である。

このようにすべては自然が教えているから、何事も大自然をよく見つめれば物事は大抵判るはずである。


右は自然の行詰りについてかいたのだが、困る事には人為的に、行詰らせる人も少なくないので、

これこそ叡智が足りないためで、こうすればこうなるという先の見通しがつかないからである。

こういう人こそ壁に突当って二進も三進もゆかなくなるのであるから、

これを読んだらよく心の奥に蔵(しま)っておき、行詰った際、振向いてよく考えてみれば分るはずである。

それによってどこかしら間違っている点に気がつけばいいので、

人間は普段から精々智慧を磨いておくべきでそれには出来るだけ御神書を拝読すべきである。」




明主様御垂示 「行き詰まりについて」 (昭和23年10月28日)

信者の質問
「御浄霊により肉体的に救われても、精神的に更生される方が少ないのはなぜでございましょうか。」

明主様御垂示
「精神的に更生できないというのはどういうわけですか?」


信者の質問
「例えばいつまでも夫婦喧嘩を続け、いっこう更生したように見えない方がよくございますが・・・」

明主様御垂示
「ところがなかなかそうは変わりませんよ。

夫婦喧嘩をしなくなるまで二、三十年はかかりますよ。

急激にぼんぼん変わればたいしたものです。・・・


それよりも他人ではない自分です。

自分がそう簡単に治るかどうかを考えたらよい。

五年かそこらで自分の心が治せたらたいしたものですよ。


それから時期ということもありますしね。

順序や段階もある。

以前私が大本教に入っていたころ、いい宗教だと思っていたがちょっとおもしろくないこともあり、五年くらい止めて離れていたことがありました。

ところがある人からもう一度研究してみるようにと言われたので、またやり直したらやや判り、それから熱心になった。

結局私は大本教から別れたがその間はずいぶん熱心にやりました。

そのときに得たところは非常に多く、いまでも感謝しています。


こういうふうだからただ表面から見ていいとか悪いとかは言えないんですよ。

この道に入っても、初め熱心でそれから不熱心になる人もあり、またその逆の人もある。

働きのありそうな人でも結果の出ない人もあり千差万別です。

また時機によってその人の本当の働きになったりするのです。


だから私はたいていのことはなにも言わずにやらせる。

そうするとうまく行くのです。

間違ったことをすればいずれ行き詰まり、自分でビックリして改心することもあります。

人間は執着をとることも必要なんだから、ほおっておいたほうがよい。

行き詰まるところまで行かせたほうがよい。

坂を転がり落ちる石を途中で止めようとしても無理で、落ちるところまで落ちてしまってから止めたらよい。

それと同じで行き詰まったときに話をしてやることが効果があるのですよ。」




明主様御垂示 「行き詰まったか否かの判断について」 (昭和23年11月8日)

信者の質問
「お弟子方につき「ああなればよい」とか、「こうなればよいのだが・・・」というふうにいろいろ考えがちですが、これも執着でございましょうか?」

明主様御垂示
「それは信仰がないからだ。神様を信用してないからです。すべて神様がやっておられるんですからね。・・・

神様にお任せするという気持ちになるにはよほど修行がいるんですね。

どうも世間の人々は人間的に考えては苦しんでいるんですよ。

私は問題に直面して適当な案がないときは神様にお任せするのです。・・・

また他の人がしたいということは間違っていてもやらせてしまうのです。

それはやりたいと思っているとき注意してもなかなか悟れない。

行き詰まって初めて気がつくのです・・・」


信者の質問
「行き詰まったか否かはどうして判断すべきでしょうか?」

明主様御垂示
「それはすぐ判りますよ、行き詰まったときは気がついて自分で苦しみますから。・・・

神様のほうだって「俺にそんなに任せるんならちゃんとしてやろう」ということになるのです。

だからすべてお任せしたらいいのです。」