努力について


明主様御垂示 「大局において神様にお任せし方針はどこまでも努力」 (昭和28年6月1日)

(布教師が患者を医者にかけないまま浄霊し、死亡させた事件が新聞沙汰になったことについて、明主様が厳しいご注意をされた後の御垂示)

「今の問題を動機としてこういう話がでましたが、私はこういう話をしようと思ったのではないので、自然に出て来たのです。

しかしこういうことによって大いに教えられるわけです。

そこでこの失敗がよい働きをしたことになり、そこでその失敗を神様のほうでよいことにしてくれるわけです。

そうすればその働きによって、その罪が消されるということになります。

だから、信仰も、とにかく大乗的に考えて行けばすべてにうまく行きます。

うまく行くから発展もするというわけです。

それに神様のほうはなかなか深いのです。

それは神様のほうばかりでなく、世の中のこと一切が実に何とも言えない面白いものがあります。

人間はそこまで分からないから迷ったり苦しんだり怒ったり、

見当違いなことをよいと思ってやることになります。

大本教のお筆先に「あんな者がこんな者になり、こんな者があんな者になる仕組であるぞよ」というのがありますが、

実に簡単で何とも言えない味わいがある言葉です。

ですからいつも言うことですが、医者のために苦しんでいる人を見ると、医者に対しての憤激もずいぶん起こります。

しかし医者がそういうように病気をなおすことが下手であればあるだけ、こっちの値打ちがあるのです。

だからもし医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それで済んでしまうから宗教になどくる者はありません。

そうしたらこっちの人の活躍する所はありません。

だからお医者の下手なのに対して大いに感謝してよいです。

ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類から病気をなくすることだと言ってますが、

人類から病気がなくなったら、お医者さんはメシが食えないことになります。


そこで考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。

何でも神様にお任せすればよいということも真理なのですが、

やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。

神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。

だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるということも必要なのです。

とにかくそこの使い分けです。

そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。

大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗のほうが主になってはいけないので、

大乗のほうが主になって、小乗のほうが従にならなけばなりません。

その使い分けに難しい所があり、言うに言われない面白味があります。

いつも言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、

一日のうちに二、三度着替えることがありますが、

私はそれが一番よい陽気だと言うのです。

どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。」




明主様御講話 「神様にお任せしすぎるきらいがある」 (昭和29年1月25日)

大いに努力し神様にできるだけお手数をおかけしないようするのが本当

「そこにもっていくと、いまの若い人というのはかわいそうなくらいなものです。

山などに若い人と一緒に行くときには、私が加減しているのです。その歩き方が遅いのです。

ですから私の方でなるだけ加減してやっているのです。

「明主様はお早いですね」と言うから「年が違うよ」と言うのです。

それからまた頭の悪いこと夥(おびただ)しいのです。実に悪いです。

私がこのごろ若い人に言っていることは「巾着切のまねをしろ」と言うのです。

「とにかく巾着切というのは偉い、君たちよりずっと偉い。強盗や窃盗はいけないが・・・」

これは不可抗力的にやってきますが、巾着切はこっちが用心すれば盗られることはないので、こっちが間抜けだから盗られるのです。

だから「ある点において大いに見習うべきだ」と言うのです。

ですから巾着切のように頭の敏捷さです。

人込みの中で人の懐を狙って盗るという、その鋭い感覚というのは大いに学ぶところがあります。

ですから巾着切と詐欺師はふつうの人よりか、ある程度傑出したところがあります。

詐欺師というのは、ぜんぜんの拵え事を本当のように思わせるのですが、それにある程度知識階級とか金のあるような者を瞞してやるのです。

ですから、手段としては・・・目的が悪いのです。それを良い目的にすれば大変な役になるのです。

ですから巾着切の頭で病人を見たら「この人はどこがいけない」「どういう所が悪い」ということが分かるわけです。

そういうようなわけで、人間の信仰としても、今までのような信仰の考え方とは、ほとんど反対なことがあるくらいです。

だから私は若い人に言うのは「君たちはまだ徳川時代から、中にはまだ平安朝時代の・・・」実にのろいのと間が抜けています。

若い人が次々と随分手伝いに来たりしてますが、みんなそうです。

実に悠長な、少なくとも二十世紀の人間とは思えないです。

特に信者になるとよけいそういう点があるようです。

神様にお任せしているからよいというような点があります。

これは神様にお任せするというよりか、むしろ神様に責任を負わせるという、つまりあんまりダッコしすぎるというきらいがあるのです。

大いに努力して神様にできるだけお手数をかけないようにするのが本当だが、そういうことなく、赤ん坊が親に養育されるような生温い考えが、信者というのは起きやすいのです。

そこに難しい点があるのと、また言うに言われないおもしろさがあるのです。

そこで人力・・・自力と他力の線をうまくやってゆくという、それが一つの覚りであり、修行です。」




明主様御垂示 「人事を尽して天命を待つ」 (昭和23年12月28日)

お任せするにも程度がある

信者の質問
「利己主義者が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやっては、その人に対し無慈悲でもあり、

また他面、社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、

その場合、慈悲または正義はいかに行使すべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これは信仰のない人が考えることです。

神様が人を使って悪宣伝をするのかもしれないのです。

今度の税金の問題も私は邪神かと思って神様に訊いてみたら、

そうではなくて神様がやっておられることが判りました。

だからあれによりかえっていい影響があっちこっちで来てるんです。

いままで迷っていた人もどんどん入ってきている。

だから信仰のある人なら、これ(お伺い事項)と反対になっていいはずです。

悪を助長すると言っても人間が抑えたりすることはできないんです。

それよりも自分の悪、自分の間違いを訂正することです。

人の悪なんか訂正することはできない。

人をどうしたいという希望はいいが、行為によってどうするということはできないのです。・・・

物事にはその物と事と大小などによって、やるべきこととやってはいけないこととあるのです。

やれと言うとやりすぎるし、やってはいけないと言うとぜんぜんやらない。

味でもそうで、砂糖が少ないと言えば甘すぎてしまい、甘すぎると言えば今度は辛すぎてしまう。

ちょうどよいというのは難しいのです。

だからその程度をよく考えることです。

それが智慧です。

神様にお任せすると言っても、お任せすることにも程度があるのです。

人事を尽して天命を待つということがあるが、これはいいことです。

人間としてすべきこと、できることをやって、その先は神様にお任せすべきです。

だからそれは時所位に応じて変わってくるものです。

やはり実篤の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」という言葉がありますが、いい言葉ですね。

神様も強い場合もあり弱い場合もある。

観音様でも馬頭観世音は火焔を吹いて目はランランと輝いてます、が、

これは畜生道を救うお働きを表わしているのです。

いろいろなことをうまく使うところに智慧があるんです。

一番効果のある方法がいいのであって、これをみつけるのが智慧です。」




明主様御垂示 「人間の力も最高度に発揮しそれ以上は神様に渡す」

「こういう事は誰しもある。どっちか決めてはいけない。

人間の力を頼り、神様を忘れがちでもいけない。

人間の力も最高度に発揮し、それ以上は神様に渡す。

少しずつでも出来るよう心掛けるのが修行である。

自分の所は発展しない。いろいろ欲求がある。

一番効果のある事は思う事である。

大きくなろうとか思う事で、思っても行ないが伴わなかったり、思い方が足りなかったりすると出来ない。

カーネギー曰く「成功とは成功せんと思う心そのものなり」と言った。

信仰も強く思う、それが一番いい。」




明主様御垂示 「自力だけでは信仰地獄に堕ちる」 (昭和23年9月28日)

信者の質問
「善悪不二と申しますが、善主悪従と考えてよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「ええ、いまはそう思っていればよい。」


信者の質問
「道を求めるについて低いものは高い者を経て初めて高くなれると存じますが・・・」

明主様御垂示
「ええ、まあそうです。」


信者の質問
「道を悟るため自分でいろいろやってみても頼りないのですが・・・」

明主様御垂示
「それは主観だから判らない。この場合は神が客観する。

そこで自分は最善を尽くして時を待つのがいい。

向上を期するのはいいが、短時日にしようとすると焦りになり、焦っては高まるよりむしろ地獄、修羅道へ近くなる。


信者の質問
「自分を指導する者がなければ自分が救われないと考えますが。」

明主様御垂示
「指導は他力であり、自分で向上を励むのは自力であり、この両方で行くべきです。

他力だけでも救われるが自力も必要、日蓮宗は自力のみだが、これは一種の信仰地獄へおちることになる。

だから最善を尽くして時を待つのが一番いい。




明主様御垂示 「最善の努力とは」 (昭和23年8月28日)

信者の質問
「「果報は寝て待て」とのありがたいお言葉をいただいておりますが、難関にぶつかったときいかに考えたらよいでしょうか。

(イ)最善の努力が払われなかったか。(ロ)神様が止め給うたのか。(ハ)邪神が邪魔しているのか。(ニ)時期でないのか。」


明主様御垂示
「「果報は寝て待て」とは寝て待つほどにゆったりすることです。

果報を追いかけてはいけない、来るのを待つということです。

この(イ)から(ニ)まではみんな合ってますが、最善の努力とはどの程度か分からない。

これは智慧です。だから智慧の足らなかったことが多いのです。」




明主様御垂示 「三尺流るれば水は清し」 (昭和24年2月14日)

信者の質問
「「三尺流るれば水は清し」という諺はどんな事を諷しているものでしょうか。」


明主様御垂示
「淀むと濁るという意味で、水に限らぬ。

人間でも、怠ければ濁るという意味である。」




親族の寄稿 「成功者の苦心を見習え」

「明主様は、私が岡田家へ伺うようになったちょっと前(明治33,4年)は、結核でひどかったそうです。

それが菜食にされてからメキメキよくなって、それからは健康でした。

そのころから明主様は、なんとか立派な人間になりたいと願われて、「実業之日本」という本など夢中になって読まれました。

“もうだめ”と医者にいわれた身体であっても、一生懸命読書していた、と母から聞いたことがあります。

この本には、いろいろな実業家の出世されるまでの苦心談が出ておりましたので、そういう人たちがどんな手順、どんな態度で成功されたのか、明主様は、一生懸命読んで研究しておられました。

浅野総一郎(アサノセメント社長)とか、茂木さん(横浜の生糸屋)といった成功者の手記に興味を持ち、『人間というものは、なんでも成功するまでには苦心があるものだ。自分も見習わなければいけない』と夢中でした。

外国の本もよく読まれました。

だから、年格好からいったら、遊びに呆ける年だのに、明主様はそういう遊びは全然されませんでした。

またそのころは、家で「万朝報」を購読しておられましたが、この新聞は赤い色の新聞でした。

これも配達されるのを待ち焦がれているようにして、読んでおられました。

ですから、ちょっと不浄へ行くにもメモを持っていかれたり、ご飯を食べながらも、新聞から目を話さなかったくらいでした。

それぐらいでしたから、普段の行いでも、普通の人とはちょっと変わっておられました。」




側近者の寄稿 「御奉仕に関する一回省」  (昭和30年5月15日発行)

「これはおよそ二十六、七年前の事であるが、私が明主様の御側近で御用さして戴く身となって大いに意外だった事の一つは、

御仕事に関する限りどんな些細な事でも決してゆるがせに遊ばされぬ驚くべき周到緻密さであった。

明主様は偉大な神人に在します事とて、「大行は細謹を顧みず」式に、一切小事に拘泥せられず、大まかに事をお進めになるものとのみ予想していた私には、

御神務における寸分の隙ない綿密さと、どんな信仰形態にも見た事のない高い常識的御日常に拝接して、案に相違する事甚だしかった。

当時、我々には大きい自由をお与えになり、どんなに朝寝をしようが、酒を飲もうが、遊んでいようが、決してお咎めにはならず、むしろ全く無関心でおいでになるよう拝されたが、

一度御命じになった御用に関しては必ずお目通しになられ、いささかの曖昧もお許しにならぬというふうであらせられた。

又我々には決して無理な事はおさせにならず、楽々と楽しんで出来る事のみをお命じになられ、

常に天国的気分にあらしむるよう御心にかけさせられていたように拝され、むしろ勿体なさに苦しむ程であったにかかわらず、

大抵の事は我々の手をお借りにならず、細かい事まで御自ら御手を触れて遊ばされたのであって、実に一切をお一人で御創めになり、御一人の御力と御努力で御仕事を成し遂げ給うたという感が切であった。

それについては、今日では信じられぬ程の勿体ない思い出も数多い。

例えば、お守様をお造りになる時でも、墨すりや紙を切り、包む事まで御自ら遊ばしたし、御絵を御描きになる時も、鉛筆や木炭を削ったり、絵筆を洗い片づける事までも我我におさせになろうとは遊ばさなかった。

又毎日訪れる来客や患者の名は我々が記録し御報告したが、それは必ず丁寧に日記にお書き入れになった。

又どこの支部でも係員がするような月並祭や講話会の通知まで、その文面を御口述になり、私が清記したものにはお筆をお入れになり、

それを、騰写してからは必ず御目通し戴かねば投函を許されぬ、その御周到さにはつくづく驚歎し、散漫鈍感な私の神経も締まる思いだったのを今でも覚えている。

私は御側近で御仕えしつついつも、あれほど御面倒臭い事まで御手数をおかけになるのが、

勿体なくて拝見しておれぬ気持で、せめてお筆洗いや、後片付けの御用でもさして戴きたいものだと、およそ三年間思い暮したものだが、御命をいただける御様子もあられなかった。

そのうち昭和九年麹町へ御進出になったのを大転機として、御仕事も俄然一変せられ、我々も漸く御奉仕に慣れるに及んで、初めてそれらの御手数を我々に分担させ給う事となった。

即ち御絵を御描きになる時も我々が一切の準備をし、必ず一人お側に侍って御筆を進ませらるる方向に電燈を移動したり、本紙の位置をお言葉のまま動かしたり、木炭を削り、墨をすり、御絵筆を洗い、

御終了と共に取片づけたりさして戴く事となったし、祭典の通知も任意に出さして戴けるようにもなった。

こうして少しでも御手数をお省き戴ける喜びに躍って、これらの御用に御奉仕出来る事となったのである。


かように明主様はどんな事でも最初はお一人で遊ばされて御仕事の形式をお造りになり、時来るまでは決して我々におさせにならなかった。

そして我々にその一端を継承せしめらるる頃には、常に新しいより大きい御仕事の段階をお啓きになっていた。

その推移は大自然の動きそのままで、一切が時節の転換に完全に適合して誤まりがなく、一から二、三と育つごとく進んで、今月のごとき確乎不動の基礎は成ったのである。

明主様は何事でも一旦お決めになり、お始めになった事は容易にお変えにならず、応変自在の御活動のうちに、常に厳然たる規律をもってお続けになられ、どんな御多忙の時でも決して御面倒がらせ給う御様子は拝されなかった。

それなのに我々は御命により御決め給わった事をとかく忘れ勝ちで、それが習慣のようになるまでにはよくお叱りを戴いた。

それは我我の軽薄によるのは勿論だが、お決め給わる事は極めて無理なく行える事柄の故に軽視し、反っていかなる事情にも犯されず、厳守すべき肝腎なお言葉の重要性を心に失う故であり、常に変らぬ誠心に欠くるからであった。


結局、神様の御用は何よりも法に外れぬ事が肝要であるが、邪神はこの法をみださんとして隙なく狙いつめている。

今日の混沌たる世の紊れは実に天地の法を無視したところに始まった。救世の御業も刈菰の世を正すにあり、その神業に仕う身としてはいささかも法に外れをところなきよう心掛くべきである。

曇り多き身の長い御奉仕の生活は、いつも法に外れてお叱りを戴く事、幾度あったか知れない。

こうして明主様は、小やかな事でも疎かにせぬ油断ない心を、育成せしめられ、極めて行い易い事によって、法に外れぬ修業をさして下さったもののようであった。

前記の如く、私が三年間に御命を御待ちした御用の数々は、誰にも出来る極めて安易な業であるが、

これを法に外れぬよう完璧に行う事は、無法の行り方に生きた身には容易の業ではない。

明主様がおさせにならなかった御真意は知る由もないが、当時の己を省みる時、お任せいただいて間違いない程、私の身魂磨きは出来ていなかったが、御多忙を拝するに堪えなかった気持を抑えた事は誠心の芽生を育成した。

又こういう事もある。元来明主様は一人の人に一種の御用以外の多種の兼務をお命じになる事は決して在さぬ。

それ故その御命さえ実行すれば順調に行き、悠々人生を楽しんで進める訳で、それが御神意に叶うのである。

ところが我々はそれではあまり楽すぎて勿体ない、少しでも多く御用をしたいという欲から、知らず識らず本道を逸し、二兎を追うて一兎をも得ぬ結果を作る事がある。

天は二物を与えずとか、神が人間に与え給う能力は大抵一種であり、それを磨いて高い境地に到達して、初めて万道に通じ得るのである。


私が側近に御用して、最も心痛に堪えなかったのは、何事も細大漏らさず御指図を戴き、あるいは御目通しいただき、御多忙の上になお御手数をかけ奉らねば何一つ出来ぬ事であった。

お仕事の何か一部門でもお任せ戴け、御手数をかけぬようにしたいものだと思い続け、今日迄三十年にも垂んとしてついに果し得なかった。

明主様は、どんなに御多忙の時でも悠々楽々と御仕事を御処理遊ばされ、いかにもお楽しげにさえ遊ばされるのを拝していると、我々にだって訳なく出来得るように錯覚してしまうが、

いざ実際に当ってみると、爪の垢ほども真似の出来ぬのには、全く、己の身の程知らずに呆れると共に、

今更ながら測り知れね神智の偉大さに長大息するのである。

ある時私は人智の無能を歎いた時、

明主様御垂示
明主様は、「才能のある者は、とかく才能に溺れ、努力をしない者が多いし、優れた才能なくして努力する者もあるが、いずれも大きい成功はしない。

人間ば少しずつでもよい、努力をしなくてはいけない。

誰でも何かの才能を持っていて一寸はやるが、たゆまぬ努力をし通すものは稀である。

私などは、才能があって努力するから何でも大成するのである」という意味の事を御教え賜わった事がある。

明主様は御神業をお創めになってから約二十八年間、御自ら寸刻の御暇もない御活動をお続けになられたが、

我々は大いなる神恵に慣れて、何一つ御奉仕らしい事も出来ず晏如たる日を送るの自責の念に苦しんで来たが、

ここに全人類御救いの神的御活動にお入りになる者となり、今こそ我々も明主様がお造りになった救業の形態に則って、時所位に応ずる個性的活動を存分にさしていただく事になったのであるが、

我々は今後こそ一そう緩みなき努力を続ける意力々強めねばならぬと思うのである。」




木原理事長による「奉仕隊へのお導き」より(三) (昭和29年9月29日)

「お任せ」と「努力」の限界について

「このことは、難かしいと言えば、これほど難かしいことはない・・・とも言えるし、易しいと言えば、又こんなに易しいことはない・・・とも言えるでしょう。

つまり、どこまでが「努力」で、どこまてゆけば「お任せ」だと、ハッキリ区別のできないところが難かしいという事になるでしょう。 

この、「お任せ」と「努力」というものは、切り離しては考えられないことなのです。

つまり二つ合わせて十になるというようなものであって、努力が八の場合、お任せは二でよいし、片方が六の場合、他の一方は四となる。

というように、物事によって千差万別であり、その限度は自ずと違って来るものです。

ところで、お任せすると言っても、何んでも彼んでも神様がやって下さるからと言って、自分で歩こうともしないで、今に足を動かして下さるだろう、という極端では、お話にならないし、

又、努力すべきだと言っても、度を越すとこれまたいけないに決まっています。

何事も時所位によって決まるので、その限度というものが分って、本当に実行できて行くとすれば、その人こそ信仰の真髄を掴んでいる人と言えるわけです。

更に言えば、歩く時には頭は真直ぐにして行くべきだと言われたからといっても、低い所を通る時には頭を下げれはよいのに「いや真直ぐでなければいけない」と言って行けば、頭をぶっつけるに決まっているし、

又、溝があれば、よく見て渡らなければ落ちてしまうわけです。夜の真暗闇なら、懐中電燈を持って行くーという努力は、勿論必要でしょう。

これらのことは、体的のことで、肉眼でみえる世界のことだし、又頭をぷっつければ痛いことですから、狂人か余程の馬鹿でない限り、頭を下げ、溝をまたぎ、明かりを持って行くでしょう。

そうして、低い所を通り過ぎたら頭を上げればよいし、昼間になったら、懐中電燈は忘れてもよいわけです。

それを、いつまでも頭を下げて歩いたり、懐中電燈は有難いと言って昼間も大事に持ち歩くというのでは、ナットランというわけです。

こういうことを言えば「そんなことを聞かなくっても、誰だって分っている」と言うでしょう。

ところが、日常の我々の行いはどうかということです。

えてして、それに似た馬鹿な事をやり勝ちなのです。


そこで、物事に当面した場合、これを簡単に言えば、非常に無理をしなければならない事、苦労せねばならない事は、放っておくことです。

「石に矢の立つ例しあり」とか言って、是が非でもと、一生懸命苦労してやるというのは嘘です。

ちょうど浄霊の場合、力を抜くアノこつを思い出すとよいです。

大体この世のいかなる事でも神様の御許しのない事は絶対できないのです。

御許しのある事はうまく行くが、御許しのない事は、いかに努力しても無駄になるに決まっているのです。


ところが、このことで明主様に御伺いしたことがあります。それは、

「何事も、気持良くやれることであればやって行って宜しいのでございましょうか」と申し上げたところ、

明主様御垂示
「いや、そうもゆかない、邪神が憑ってもスースー行くことがあるからね。何事も智慧証覚ですよ」と仰せられたのです。

つまり極端に言えば、戸が開いていてスースーと入れたから盗んでもよいのだ、というのではいけないことは勿論です。

そこで、やって善い事と悪い事との判断が必要になるわけです。

すべて物事には善悪がありますから、善は直ちに行うが、悪い事は断乎として撥ねつけるという力強さを持つべきです。

そうして、この善悪を知るには智慧証覚をいただかねばならないわけです。

一体人間は、あらゆる階級、あらゆる職業、老若男女を問わず、為すべき事と為すべからざる事とは、チャンと決まっているものです。

これは、御教えにある通り、目にはみえないが、絶対犯すことのできない神の律法があって、これを犯せば、神律に照らされ、絶対に罰せられるのです。

よく言われる最後の審判とは、つまり為すべき事と為すべからざる事をやった、その総決算期なのです。

そこで、それではいかにすれば神の律法を守り得るかということになるが、それは、御神書をいただき、実行させていただくより外にないわけです。御歌に、

訝しむ 勿れ世人よ 思うこと ならぬは心に 曇りあるなり

天地の 誠の道を 守るより 外に術なし 人のこの世は

とあるように、御神書をいただくことによって、心の曇りはだんだん取れてゆくし、取れただけは心は明かるくなり、

明かるくなっただけは誠の道が分って来て神様の御心に叶う人として必ず栄光をいただけるわけです。

そうして又、御歌に

珍らしき 地上天国 打樹つる 神の御業の 大浄化かな

ともあるように、この六月十五日以後は、殊に御光は強くいただけるようになって、浄化は益々はげしくなって来たことを、身近に感ぜられるのです。

まさか、さような不心得な人はないとは思うが、もしも「私は御許しいただけて奉仕隊に参加できたから大丈夫だ」と、ただそれだけなら、それは当が外れるというものです。

勿論教師であろうが、役員であろうが、誰であろうと、ただそれだけでは、必ず申訳ない結果が生まれて来ることを断言します。

再び繰返しますが、信者にも教師にも役員にも、それぞれ各自の使命があって、為すべき事と為すべからざる事は、厳として決まっているのです。

そのケジメをつけられる時それが最後の審判であることを肝に銘じて、各自その使命達成に精進すべきで、

それを外にして大峠を乗り越さしていただくことはでき得ないということを忘れてはならないのです。」