進取の精神について


明主様御教え 「墳墓の奴隷?」 (昭和28年5月20日発行)

「この題を見た人は、随分変った題と思うだろうが、よく読んでみれば、なるほどと合点がゆくはずである。

というのは旧い思想や、黴の生えた文化を後生大事に有難がっていて、捨て切れない人の事をいったのである。

御承知のごとく人間というものはどうも先祖代々守って来た伝統や習慣から、中々抜け切れないものである事は誰も知る通りであるが、

こういう人こそ墳墓の奴隷といいたいのである。

日進月歩の今日そういう思想の持主こそ、時世後れで敗残者になるのは事実がよく示している。


この例を大きくしたものが、彼の米国と英国の現在であろう。

言うまでもなく今日世界をリードしている米国の、アノ繁栄と国力の充実振りは、実に世紀の偉観といっていい。

そうしてこの原因こそ、同国民の卓越せる進取的思想のためであって、

新しい今までのものより優れているものでさえあれば、何物でも容赦なく採入れるという気概である。

これに反し英国の方はアノ根強い保守的思想が災いしていて、それを誇りとしているくらいである。

倫敦(ロンドン)をみても古典的美しさはまことに結構だが、

そうかといって新時代の都市美は大いに欠けているにみても、現代英国の実体がよく表われている。

従って同国国運にしても、つい半世紀前頃のアノ隆々たる姿を思えば、全く隔世の感がある。

世界七つの海を我ものとし多くの植民地を領有し、働かずして莫大な収入が入って来るのであるから大したものであった。

実に今昔の感に堪えないのは同国民ばかりではあるまい。

以上二つの例を挙げてみても分るごとく、墳墓に支配されている国とされていない国との違いさは、余りにもハッキリしている。

その他の国としては、西洋では埃及(エジプト)、希臘(ギリシャ)、波斯(ペルシャ)、西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)、東洋では印度(インド)、中国、朝鮮等も同様の運命を辿(たど)って来た。


この原因こそ華やかであった時代の夢醒めやらず、それが進取的観念の邪魔になって、ついに今日のごとき弱国化したのであるから、

この墳墓の奴隷観念がいかに災するものであるかは、右のごとく歴史が物語っている。

なおかつ宗教といえども例外ではない。

その最も著しいのが仏教であろう。

仏教生誕地の印度が現在の信徒三十数万人というのであるから、ちょうど千人に一人の割合で事実は滅びたも同然であろう。

また中国などはほとんど仏教の蔭だにないとの事であって、ただ僅かに日本において命脈を保っているに過ぎない有様である。

次にキリスト教であるが、これが最も さかんであったのは中世紀頃で、何しろ裁判権まで握ったくらいであるから、他は推して知るべきである。

それが科学文化の影響もあって、今日は形式的存在でしかないのも衆知の通りである。


以上の事実によってみても、あらゆる文化は時の流れに従って変転しつつあるのは言うまでもない。

彼のベルグソンの万物流転の説もこれであろう。

右のごとく進化の法則は、古き物の没落と新しい物の勃興との歴史の過程をみても明らかに判るのである。

この意味において新しい時代を指導すべき価値ある思想が生まれてこそ、文明は進歩するのであって、それには歴史的偉大なる宗教である。

としたら我救世教こそ最もそれに当はまる事を断言するのである。

もちろん事実の立証はもとより、何よりも現在本教が経営しつつある多方面にわたる救いの業である。

これを一々挙げる事は略すが、実際を見れば直に判るのである。

何となればそのことごとくは今まで誰も手を染めなかったものばかりであるからで、

この事について私は常に人に言う事は、今日まで誰かが行ったものは、その専門家にまかせておけばいい。

私は誰も夢としてやらなかった文化的新天地を拓こうとするのであって、それが私の天の使命と信じている。

もちろんその根本としては、標題のごとく墳墓に支配されない主義の下に邁進しているのである。」




明主様御講話 「墳墓の奴隷について」 (昭和28年3月25日)

「それから私は今「墳墓の奴隷」という論文を書いてます。

墓所の奴隷というのですが、それはお墓にはいった人が作った宗教とか学問とか、文化的ないろいろなものがありますが、

その中で役に立つものは採用して続けて結構ですが、役に立たないものがたくさんあるのです。

そうすると役に立たないものを今ありがたがっているとすると、墓の奴隷になっているわけです。

ところで宗教方面でもその墳墓の奴隷が多いのです。

何百年何千年前に死んで墓の中にはいった人の教えとか、説いたことを、今ありがたがっているのです。

それは役には立たないのです。

それにお辞儀をしたところで病気はなおらないのです。

それでも、なおると思って一生懸命にかついでいるのですが、それが結局墳墓の奴隷です。

ですから古い役に立たない宗教を信じている人は墳墓の奴隷になっているのです。

言い方は少し酷いですが、この方が一番はっきり分かります。


そういうようですから、新しい宗教と言えばメシヤ教だけです。

私がいつも言うとおり、今まであるものは私はやらない、

なぜと言えば、もうやってしまったのだから必要がないのです。

ただいくぶん改良することがなければならないから、それは結構だが、

しかし今までやったことがないことをやってこそ意味があるのです。

そういうわけで、私のやることはなんでも新しいのです。

ただ新しいといっても、前のものより良くならなければならない。

前のものと同じか、それ以下のものだったら、やらない方が良いのです。

前のものより良くて新しいというものを大いに作らなければならないのです。


ところが口で言えばわけはないが、なかなか難しいのです。

人間というものは古いものに癖になっているのです。

汚れた着物を着ているから、それは気持ちが悪いから新しいのをと言っても、まあまあと言ってほうっておきますが、

それと同じようなもので、良いとは知っておりつつも古い着物はぬぎ難いものです。

だから救世教は確かに良いという事は分っていても、それに直ぐ飛びつくことができないのです。

しかし古い古いと言っても、宗教ばかりではないので、医学がそうです。

メシヤ教は確かに良い、しかし今までのみつけた薬を止めるのは決心がつかないということは、

今まで汚れて穴のあいた着物を着て満足しているようなものでしょう。

だから新宗教でも、かえってほかの宗教の古いのにかじりついて満足している人もたくさんあるのです。

だから新しいものを、前のより良いのだから、早くこれを拝んだらいいだろうということも、なかなか簡単にゆかないものなのです。


今言ったように、本当に新しい宗教はメシヤ教以外にはないのです。

ほかの新宗教は形だけが新しくできたというので、内容は古いのです。

ちょうど、メシヤ教は新規に揃えた着物ですが、ほかの宗教は色抜きをして、染め返しです。

これはここだから言えるのですが、新宗教の方に分かるところではあんまり言えません。

そのつもりで、ただ心の中にしまっておけば良いのです。

「君はたいへん良い物を着ているが、それは古いのだよ、染め返したようなものだよ」と言えば怒ります。」




明主様御教え 「進歩的宗教」 (昭和24年11月5日発行)

「つくづく現在社会を見る時、日進月歩の今日いかなるものといえども、進歩から外れているものは一つもない、

ところが不思議な事には、人類に最も関連の深い宗教分野のみは、いささかの進歩もみられないで旧態依然たるどころか、むしろその逆でさえある、

何よりの証拠は既成宗教がよくいう言葉に、本道に帰れ、すなわち開祖の出発点へまで戻れというのである、

とすれば横道へ外れたから元の道へ戻すという訳で、仮にこれを繰返すとしたら何らの進歩もない、実に文化の進歩と矛盾する訳である、

既成宗教に何ら人を惹きつける力がなくなり現状維持に汲々たる有様は、それをよく物語っている。

なるほど、今日現存するいずれの宗教といえどもキリスト教は別とし、その開教当時は、新宗教としての宿命ともいうべき迫害や圧迫に逢いつつも、ともかく新しい息吹によって溌剌たる発展があり、華やかな時代も通っては来たが、

年を経るに従って漸次沈滞の気運に陥りつつあるのはそのほとんどであろう、とすれば、これは何によるかを検討する必要がある。


それはいうまでもなく、時代の進歩に沿わないからで、教祖の教えを金科玉条として堅持する中いつか時代と掛離れてしまう、

その結果、漸次溝が大きくなり、ついに今日のごとき無力の非難を浴びせられるようになったのであろう、

一切は原因があって結果があるとすれば、既成宗教たるもの大いに反省の必要があろう。

いつまでも超然たり得るはずがないからである。


これに鑑(かんが)み、本教の根本義とするところはすべてが進歩的である、時代に即している事である、

本教が既成宗教的形式を度外視し、形式のために要する時間や費用を避けるという事も右の点にあるからである、

実際上形式のための負担は何らの利益とはならないからで、神仏といえども喜ばれるはずはあるまい。


以上の意味において現代人の生活をよりよく改善し、指導的役割を遂行する事こそ真の宗教の使命であるべきで、

一言にしていえば、進歩的宗教こそ現代人を救い得る価値あるものというべきであろう。」




明主様御教え 「新時代の宗教」 (昭和24年7月16日発行)

「宗教にも他の文化と等しく、新旧のあるのはやむを得ないのである、

新時代には宗教もそれに適合するものが発展するのは当然である、

キリスト教は別だが今日古い宗教がともすれば時代の波にさらわれようとするのをそうされまいと足掻いている事実を吾らは少なからずみせられるのである。」




明主様御教え 「世界救世教早わかり はしがき」 (昭和25年11月20日発行)

「この小著は、まだ本教を知らない人のために、手引としてかいたものであるからこれを読んだだけでも、本教の片鱗に触れ、概念だけは得られると思う。

何しろ本教は今までの宗教とは余程異なっており、既成宗教観念ではちょっと判り難いと共にその点に本教の大いなる意味を見出すのである。

早く言えば、今までと余り異いがない宗教とすれば、発生の必要はないからである。

そうして、いかなるものでもそうであるように、宗教といえどもその時代はもとより未来にわたってまでの、何らかの使命がなくてはならない。

なるほど、真理そのものは未来永劫不変であるが、宗教自体の在り方としては、時代即応でなければならないのみか、むしろ時代の指導的役割をするのが本当であろう。

この意味において、既成文化も既成宗教も、時の推移に従って存在の意義が変転するのは元より、そこに進歩向上があるのである。

何よりも今日のごとき智的文化人に対(むか)って、たとえ原始人を済度し得た宗教をもってしても、その目的を達成する事は到底出来得ないであろう。

本教は、元来神道に非ず仏教にも非ず、もちろんキリスト教でもないと共に、本教には神仏基のいずれもが包含されているばかりか、科学も本教の中に在って、しかも現代科学よりも数段進んでいる。

このようにあらゆる文化はことごとく内在しているのが特異性である。

そうして本教は一切の誤謬を是正し、よりよき文化たらしめ病貧争絶無の世界たる、地上天国を造らんとするのである。

このような空前の大目標を掲げて、その可能を確信するというのであるから、まず世紀の驚異といってもよかろう。

しかしながらこのような救世の大事業は、到底人間力では出来るものではない。

としたらここに偉大なる神霊が本教を加護されている事を、信じない訳にはいかないであろう。」




明主様御教え 「再びベルグソンに就て」 (昭和26年7月18日発行)

「(一部のみ引用) それからまた彼の哲学には、万物流転という言葉がある。

これも仲々面白いと思う。

それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いていると言う意味で、例えば去年と今年とは一切がどこか異っている。

世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。

否昨日の自分とも、五分前の自分とも必ず異っているところがある。

としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。このように何でもかんでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。


従って、この理を人間に当はめてみる時、こういう事になろう。

何かの事にブツかった時、去年の観方も考え方も、今のそれと異っていなければならない。

大きく見れば終戦前と終戦後とは丸きり異っているではないか、僅かの間に驚異的である。

ところが多くの人は、何百年前のやり方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、適確に現在を把握する事が出来ない。

これを称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。

つまり一切が流転しているのに、御自分だけは泥水のように停滞しているからで、

こういう人こそ世の中から置き去りを喰ったり、不幸な運命となるのである。


既成宗教が振わないというのも、右の理を考えてみればよく判る。

この理によって万物流転と少しもズレル事なく、千変万化する事が観世音のお働きでもある。

観世音の別の御名である応身弥勒とはその意味で、

応身とは身をもって応ずる、すなわち外界の事物に対し、自由無碍に応ずる事である。

無碍光如来の御名もその意味に外ならない。

判り易く言えば老人に対しては、老人に合うような話をし、婦女子には物柔らかく、智識人には科学的に、一般人には常識的平凡にするというように、

いかなる人にも話す場合、先方が理解し、興味が湧き、快く聞くというようにすればいいのである。

この方針で信仰を勧めるとしたら、案外巧く行くものである。」




明主様御垂示 「時代の空気と掛け離れるな」

「信者は世の中の俗界と掛離れる傾向がある。

新時代に合ってゆかなくてはならぬ。

出来るだけ新聞雑誌を読む、ラジオを聞く、映画をみる。

時代の空気と掛離れぬようにしなくてはならぬ。

今迄の宗教は世の中と掛離れる事をいいとした。あれでは現代人を救う事は出来ぬ。宗教臭くない事である。」




明主様御垂示 「映画、ラジオ、新聞を出来るだけ見よ」

「信仰者はどうも俗界、世間から掛離れてゆく。これはいけない。

映画、ラジオ、新聞を出来るだけみる。

そうして時代の空気に離れぬようにする。

大本教、日蓮宗、天理教、皆仙人臭くなってくる。

本教は宗教臭くない。」




明主様御垂示 「宗教人は新人たれ」 (昭和25年3月20日発行)

信者の質問
「教導所にラジオを置いても差し支えないでしょうか。」


明主様の御垂示
「結構である。

教師は特に新知識を怠ってはいけない。

これからの宗教人は新人でなくてはいけない。」




明主様御垂示 「一般紙を教会へ置くことは問題なし」

信者の質問
「救世新聞と共に他の新聞も教導所へ置いて宜しいでしょうか。」


明主様御垂示
「無論結構である。」




明主様御講話 「インテリに判らなければ現代を指導できない」 (昭和23年8月18日)

「来月、信仰雑話を出版するが信仰のない人でも判るように書いてある。

在来の宗教は宗教一点張りでほかのことは説かなかったが、

私のは千手観音式でいろんなものに手を出すのです。

今度の本も学問、政治、文化、科学などを宗教を通して批判するのです。

これでも判らぬ人は救われない人と思うのです。

これはまあ小学読本です。

次は「霊界叢談」で、現界と霊界との関係や神仏の存在などについてで中学読本に当たり、

次の「神秘の扉」は大学程度です。


この教団に若い人が多いのは、観音教が現代に合い現代を指導する宗教だからです。

既成宗教は何千年か前の方法で現代に追いつこうとしているからインテリには判らない。

インテリに判らなければ現代を指導するわけには行きません。

まあ自動車で行く者に「牛車は風流だ」とか、籠(かご)も乙だとか言ったってだれも笑うだけです。

私のほうは自動車より早い方法・・・まあ落ちない飛行機ですね。」