誠について


明主様御教え 「誠」 (昭和23年9月5日発行)

「世界も、国家も、個人も、あらゆる問題を解決する鍵は「誠」の一字である。

政治の貧困は、誠が貧困だからである。物資の不足は、誠が不足しているからである。

道義の頽廃も誠のない為である。秩序の紊乱も、誠のないところに発生する。

あらゆる忌わしき問題は、誠の不足が原因である。

宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければ、それは形骸でしかない。

嗚呼、誠なるかな、誠なるかな。人類よ、問題解決の鍵は、ただ誠あるのみである。」




明主様御教え 「誠の有る無し」 (昭和25年1月28日発行)

「誠のあるなしを最も簡単に知る方法を書いてみよう、

誠のある人は何よりも約束を重んじよく守る事である。

単に約束を守る守らないだけでは世人は大した事とは思わないが、実を言うとなかなかそうではない、

すなわち約束を守らないという事は人を偽った事になるから一種の罪悪を犯した事になる、

約束の中でも一番軽視し勝ちなのは時間である、

時間の約束をしておきながら守らない事をよく考えてみるがいい、

すなわち先方は当にして待っているのでその退屈や焦心はなかなか苦痛である、

諺にいう「待たるる身になるとも待つ身になるな」という事でも判るごとく、

待っている人の心持を察すべきで、その心が湧かないのは誠がないからである、

とすれば外の事はいかに良くても何にもならない事になる、

従って神の信者たる者は約束の厳守、時間の励行を疎かにしてならない、

もしその実行が出来ないとすれば、まず信仰の落第生である、

信者たるものよろしく肝に銘じて忘れてはならないのである。」




明主様御垂示 「信仰の要諦」 (昭和24年2月15日)

信者の質問
「この信仰で進むについて心掛くべき最も重要な心構えは、一言で表わせばいかなる事でしょうか、御教え下さい。」


明主様御垂示
「一言でいえば誠である。次は智慧である。

誠から出る智慧でなくてはいけない。

即ち叡智であり、神智である。」




明主様御垂示 「指導者の心構え (誠と智慧)」

信者の質問
「指導者としての心構え、行動について・・・」


明主様御垂示
「心構えは誠である。一番肝腎な事は誠と智慧という。

いくら誠でも、智慧が働かぬと無駄をする。

であるから、智慧を働かす・・・急所である。」




明主様御垂示 「真を行う」 (昭和24年5月25日発行)

信者の質問
「真を行なうにはいかがいたしたらよいでしょう。 」


明主様の御垂示
自分のことを第二にし他人を良くするのが誠である。

すなわち人良かれの精神、利他的精神である。

世の中とか社会のためになることを行なうことである。

真とは嘘の反対で本当のことである。

しかしながらただ正直のみでも困る。

智恵が働かなくてはいけない。

常識的判断がよい。

自分の国家とか階級だけ良くするのは善いように見えて真ではない。

それは小さい真であるから突きつめれば真でなくなってしまう。

どうしても人類愛を本として判断しなくてはならない。 」




明主様御垂示 「統率力について」

信者の質問
「いかにして進めば人はついて来るでしょうか。」


明主様御垂示
「ついて来なくちゃおれないような行ないをする。

その人を敬まう・・・この人について行けば将来間違いない。

中心は誠で、その人を幸せにしたいという・・・

一番の幸福は人を幸福にする幸福で、懇切に指導して、親切にしてやる。

言ってしまえば訳ないが、なかなか行なうのは大変である。

一番簡単になれるのは、人がついて来るようにしたいという心持である。

すると自然に行ないに出る。

すると神様に気に入られ、可愛がられ、特別御守護があり、思った事を実現してくれる。

それはとても可愛がられる。

弥勒様は大変な御力で、どんな御力でも出る。」




明主様御垂示 「誠の心を持てば浄化が速く済む」 (昭和24年6月25日発行)

物事順調にゆかない原因 浄化・時節未到来・罪穢・邪霊

信者の質問
「物事が順調に行かぬ場合は浄化でしょうか。なにかのわけがあるのでしょうか。」


明主様御垂示
「物事が順調に行かぬ場合は浄化のための場合もあり、時節が来ぬのに焦るからでもある。

果物がまだ熟さぬうちに取って食うようなものである。

その他罪穢があるとそれに相当した邪霊が憑こうとするがこれとても一種の浄化の現われである。

しかし誠の心を持てば速く浄化がすみ、善い心掛けと良い行いをすれば運勢が開けるようにこの世はできている。」




明主様御教え 「之も慢心」より (昭和26年9月12日発行)

「(一部のみ引用) そうして本教信者となるくらいの人には、まず悪い心の人などありよう訳がない、みんな誠の人ばかりである事はよく判っている。

ただ単に誠といっても大きい小さいがあるから、気をつけなくてはいけない、

私が常にいう小乗の善は、大乗の悪であるという意味である、

いかに善でも誠でも、小乗の考え方では、結果は悪になるのである、

本教は世界全人類を救うというこの世創(はじま)って以来の大きな仕事であるから、本教内部の事などは神様に御委せしておけばよい、

何よりも社会否世界を相手として、考えるべきである、早くいえば眼を内へ向けないで、外へ向ける事である。


今一ついいたい事は、神様の御経綸は、実に深いもので、到底人間の眼や頭脳で、判りようはずがないのである、

大本教の御筆先にこういう文字がある。「神の奥には奥がある、そのまた奥の奥の仕組であるから、人民には分りようはずがないぞよ、神界の事は分らんと思う人民は、判ったのであるぞよ」とか、

「そんな人民に判るようなチョロコイ仕組で、三千世界の立替が出来ると思うかと申すのであるぞよ」。

この御言葉は実に簡単にして、よく言い表わしていると思う。」