正直主義について 1 (御論文)


明主様御教え 「正直者が馬鹿をみるとは嘘だ」 (昭和24年4月20日発行)

「この標題のごとき言葉は大分前から聞くのであるが、この言葉を深く考える時、はなはだ面白くない響きを社会人心に与えやしないかと思う。

しかし事実その通りであるなら致し方ないとしても、私の経験上この言葉のような事実は絶対にない事を保証する。

これに関し以下論じてみよう。


世の中をつくづくみる時、人事百般にわたって二種類の見方がある。

すなわち一は一時的見方であり、一は永遠的見方である。

ところが一般人は一時的の結果によって善悪の判断を下したがる。

たとえば一時的巧く人を騙したり、物を誤魔化したりする不正直者の成功をみて眩惑され「正直者は馬鹿をみる」と決めるのであるが、

これらを今少し長い眼で見なくてはならない。

そうすると必ずボロを出し、恥を掻き、破たん者となる事は決定的と言ってもいいくらい確実である。

これに引換え正直者はたとえ一時は誤解を受け損をしたり不利な立場に置かれても、時たち日を経るに従い、必ずその真相が明らかになるもので、これまた決定的といってもいいくらいである。

これについて私の体験を述べてみよう。

まず私の体験から書いてみるが、私というものは、若い頃から、自分で言ってはおかしいが実に正直である。

どうしても嘘がつけない。若い頃「君のような正直者は成功は覚束(おぼつか)ないから、心を入れ替え出来るだけ巧く嘘をつかなければ世渡りも成功も難しい」と、よく言われたものである。

私もなる程と思って一時は一生懸命嘘をついてみるがどうもいけない。

苦しくてたまらない。人生が暗くなり不愉快な日ばかり送るのである。

そんな訳だからもちろん結果のいいはずがない。

その頃私は商人であったから、なおさら駆引や嘘がいいはずであるが、

どうも良くないので、遂に意を決して私本来の性格である正直主義で通してみる事に決意した。

ところが面白い事にはそれから予想外に結果が良く、第一業界の信用を増し、トントン拍子に成功し、一時は相当の資産を作ったのである。

そのため調子づいてあんまり手を伸ばし過ぎたところへ経済界のパニックに遇い、再び起つ能(あた)わざるまでに転落した結果、宗教生活に入ったのである。


けれども一旦決意した正直主義は飽くまで通して今も変らない。

もちろん結果は良い。もっとも長い間には誤解を受けたり非難を浴びたり、迫害をこうむったり、

波瀾重畳茨の道を越えては来たが信用はいささかも落ちなかった事は、正直の御蔭であると今も痛切に思っている。

このような訳で現代人はどうも物の観方が一時的で一時的結果に幻惑されがちである。

ゆえに人間は何事を観察する場合でも、永遠的の眼で観なければならないのである。


この事はあらゆる事に当はまる。

たとえば政治家にしても、一時的に政権を獲得しようとして無理をする。

ちょうど熟柿(じゅくし)の落ちるのを待ち切れないで、青い中にモギ取り渋くて失敗するようなものである。

こういう諺もある。大政治家は百年後を思い、中政治家は十年後を思い、下政治家は一年後を思うというのであるが、全くその通りである。

ところが今日はこの下政治家が一番多いように思われるのは困ったものである。

また私の唱える無肥料栽培にしても、今までの農業は金肥や人肥を施すと一時は成績が良いが、土を殺すから土は段々痩せてくる。

それが気がつかないで、肥料の一時的効果に幻惑され、遂に肥料中毒に人も土も罹ってしまうのである。

この理は現代医学にて当はまる。薬剤や機械的療法は一時は効果を奏するが、

時が経つと逆作用が起こり悪化するが、最初の一時的効果に眩惑されて飽くまで同一方法をとるその結果益々増悪するという事になるのである。

最初に述べた一時的と永遠的との物の観方について注意を促したのである。」




明主様御教え 「嘘と幸福」

「私は約三十年前信仰生活に入ったのであるが、それまでの私は、その考え方がまことに不徹底であった。

というのは、悪いことはすべきものではない、善いことをしなければならない、ということはつねに思ってはいるが、さてそれを実行に移そうとなるとどうも勇気がでない。

というわけで、善悪ともにはなはだ微温的であった。恐らく世間にはこのときの私のような考え方の人が多いであろう。

ところが信仰がだんだん深まるにつれて霊界と現界との関係はもちろん、神様のご意志というものがはっきり判り、考え方が断然変ってしまったのである。

それはどういうことかというと、悪いことは想像以上大きな罪になり、善い行いはこれまた想像以上善果を得るということで、

ここに心境の一大変化とともに、悪を絶対排斥し、善を極力実行に移すというように方針が変ったのである。

ところが驚くべしそれからというもの、運勢が不思議にひらけはじめた。これなるかなとますます自信が強まり、実行すればするほど、それと交換するかのように良いことがブツかってくる。

もちろん多数からの信頼も日に深まるというわけで今日におよんだのである。

これはまったく幸福の哲学でもあろう。


以上私自身の体験のみではない。世間多くの人を見るにつけ一生懸命努力するにかかわらずどうも思うようにいかない。

時には躓(つまず)いたり、損をしたり、骨折る割に人から好く思われない、信用もされないというわけで悲観する人がよくあるが、そういう人を仔細(しさい)に観察してみると、かならずどこかに間違いのあることを発見する。

とくに嘘を平気でつくということが一番悪いのである。

かような人は、なによりもまず自分自身の心をよく省みることであって、かならず心のそこにその原因を発見するはずである。

なるほどいままでいかに努力しても思うような結果を得られないのは、確かに自分の罪であることを悟るであろう。

とくに信仰者は神様から選ばれたのであり、世人の模範たるべく約束されており、なおさら道にはずれることはできない。

どこまでも俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じないという心境であらねばならないので、

そういう人こそ神様から愛されるからご守護も厚く、心はつねに明朗で、悠々として生活を楽しみ、敵を作らず、怨みを買わず、

多くの人から尊敬を受けるようになるから幸福者となるのである。

特に注意すべきは嘘をつくという一事である。殊(こと)に日本人の嘘つきということは世界的に知られているが、まったくそのとおりで、つねに嘘をつく人は、それが習性にまでなってしまって、自分はあまり嘘つきとは思っていないようになるものである。

こういう人は自分の心の標準を高く揚げて、鋭い批判をしてみるといい。

かならず嘘発見ができるわけである。

それについてあまり人の気がつかない嘘を書いてみよう。


それは約束時間を守らないことである。おそらく日本人中約束時間を厳守する人は幾人あるであろうか。

この点外国人の時間厳守の話を聞くたびに私はうらやましく思っている。

時間を約束して守らないということは人を騙したことになり、立派に嘘を吐(つ)いたことになる。

嘘ばかりではない。相手を怒らせるからこれも罪になる。罪の二重奏である。

ところが日本の社会では時間を守らないことが当然のようになってしまって、これに関心をはらう人はまことに少ないようである。

昔から嘘つきは泥坊のはじまりという諺(ことわざ)があるが、あるいはそうかもしれない。

泥坊でないまでもいささかの誤魔化しくらいはやるかもしれないと想われるのである。


これについて私のことを書いてみるが、私は朝起きるとあらかじめその日のプランをたてる。

何時から何時まで、何分から何十分まで何の仕事をするというようにきめておく。

したがって、約束をした人がその時間より後(おく)れるとプランが崩れる。

時によると滅茶滅茶にさえなってしまう。

それがため三十分の予定の仕事が十分か十五分に切りつめなければならないことになるから、予期の成果が得られない。

もちろん不快も手伝うからでもある。このとき痛切に思うことは、日本人の時間の観念があまりにとぼしいことである。

したがって、ほんとうに改心するとしたら、一番身近なところすなわち約束時間の厳守で、これが嘘を追放する手始めとなろう。

私がつねに思うことは、新日本建設の第一歩としては、まず日本人全体が約束時間の厳守からということを言いたいのである。


こういう話がある。昔天下の富豪岩崎弥太郎氏に見込まれその入聟(いりむこ)となり、ついには総理大臣にまでなった有名な加藤高明氏は、

若い頃三菱北海道支店に在職中、部下の一員がたまたま私信をだすのに三菱の社名入り封筒を使ったのを高明氏がみて戒告を与えた。

それは私事に社用の封筒を使うのは、たとえ封筒一枚といえども盗みになるといって、それから社員全部に社用の封筒を使うことを禁じた。

なるほどそれに違いないが、この社用封筒を私事に使うことは今でも世間普通のように思われている。

これによってみても高明氏の識見が高邁でいささかの間違った行為も許さないことが窺われるのである。」




明主様御教え 「正直と嘘」 (昭和24年8月30日発行)

「正直にする方がいいか嘘をつく方がいいかといえば、正直にする方がいいという事は余りにも明らかである。

しかしながら世の中の事はそう単純ではないから正直でなければならない場合もあり、嘘をつかねばならない場合もある。

この区別の判り得る人が偉いとか利巧とかいう訳になるのである。

しからば、その判断はどうすればよいかというと、私はこう思うのである。

まず原則としては出来るだけ正直にするという事であるが、しかしどうしても正直に出来得ない場合、

例えていえば病人に接した時、「あなたは影が簿いから、そう永くはあるまい」などと思っても、

それは反対に嘘をつく方がよいので、否嘘をつかない訳とはゆかないであろう。

ところが世間には苦労人などと言われる人で、案外嘘をつきたがる人がある。

そうしてつくづく世の中の事を見ると嘘で失敗する場合は非常に多いが、正直で失敗するという事は滅多にないものである。」




明主様御教え 「嘘吐き迷信」 (昭和26年9月5日発行)

「迷信にも色々あるが、ちょっと人の気の付かない迷信に、この嘘吐き迷信がある。

つまり嘘を吐いても、巧くゆく事と思う迷信で、現代の人間は実によく嘘を吐く、大抵の人は最早馴れっこになってしまって、知らず識らず嘘を吐いても平気である。

つまり嘘が身に付いてしまって全然気が付かないのであろう。

部下などがそういう時、私はいつも注意を与えるが、御当人は仲々分らないで、嘘と本当との区別さえつかない者が多い。

そこでよく説明してやると、どうやら嘘である事が判って、謝るという訳である。

このように嘘と本当との限界が分り難い程、今の人間は嘘が当り前になっている。

しかしこれらは小さい嘘で論ずるに足りないが、それどころではなく、意識的、計画的に見逃せない嘘を吐く者が多いので、今それをかいてみよう。


まず大にしては政治家の嘘である。

余り自信がないのに、こういう政策を行うとか、こういう計画を立てるとかいって、堂々宣言して置きながら、空手形に終り、責任を問われる事がよくある。

そうかと思うと議員が選挙人に対する約束の不実行もよくあるが、これなども当然のように心得ている。

また教育家なども口では立派な事を言いながら、その行為が全然反対の人も多いし、また新聞記事に嘘の多い事も常識のようになっている。

もちろん誇大広告などもそうである。ところが一番厄介な問題は今日の税金であるが、これなども取る方と取られる方とは、嘘の吐き比べで、ややっこしい不快な事おびただしい。

これもよく知られている事だが昔から花柳界の女等は、子供の時から嘘を勉強して、卒業すればそれで一人前になるという事である。

その他お医者さんはお医者さんで、治らないと知りながら、治るといったりするが、これらも嘘を吐かないと飯が食えないからであろう。

ところが嘘も方便と言って、坊さんが嘘を吐く事もよくあるが、これらもどうかと思うのである。

また昔から商売の掛引などと言って、商人の嘘も大変なものだが、これは天下御免の嘘となっている。


マアーザットかいてもこのくらいであるから、全く世の中は嘘で固まっているといってもいいくらいである。

特に日本人の嘘の多い事は世界的とされているのだが、余り名誉ではあるまい。

しかし単に嘘と言っても大した害のないものと、悪質な嘘とがある。

悪質な嘘の中でも、こういうのは困りものだ。

それは罪を裁く役人の嘘である。

最近新聞を賑わした三鷹事件のごとき、多数の死刑囚が一人を残してことごとく無罪となった事や、

二人で殺人罪になった無期徒刑囚が、三年経った今日、別に自分から名乗り出た真犯人が現われたり、

大阪の大造事件で、懲役五年の検事の求刑を受けた二人の者が、無罪になったりする事など近頃よくある話だが、これなどは全く検事の嘘による被害者である。

こういう事を聞くと、検事ともいわれる人が、そんなに嘘を吐くはずがないと思うであろうが、私の経験によっても決してない事はない、

というのは昨年の事件当時から、現在の公判に到るまで、嘘によって罪を作ろうとするその熱心は大変なものである。

その度毎に私はつくづく思う事はこうまでして罪なき人民に、罪を被せるべく努力するのは、何のためであるかという疑問である。

実に不可解千万で、理屈のつけようがないのである。

また検察官という職責からいっても、悪人を罪にするのは至当であるが、善人を罪にするなどは到底信じられない話であるが、事実は事実であるからどうしようもないので、ただ世間に余り知られていないだけの話である。

なるほど最初から有罪か無罪の判別は仲々難かしいであろうが、少し調べてみれば兇悪犯罪でない限り白か黒かは大体判るはずである。

何となれば一生懸命罪を作ろうとする行為そのものが、既に罪のない事をよく証明しているからである。


話は横道へ外(そ)れたが、つまり嘘を吐きたがるというその本心は、全く嘘をついても知れずに済むと思うからで、実は甘いものである。

なるほど世の中に神様がないとしたら、それに違いないから、巧く嘘を吐く程悧口(りこう)という事になるが、事実は大違いだ。

何となれば神様は厳然と御座るのだから、どんなに巧く瞞(だま)しても、それは一時的で必ず暴露するに決っている。

だから暴(ば)れたが最後恥を掻き、信用を失い、制裁を受け、およそ始めの目的とは逆になるから、差引大損する事となるに違いない。

ただ神様が目に見えないから無いと思うだけで、ちょうど野蛮人が空気は見えないから、無いと思うと同様で、この点野蛮人のレベルと等しい訳である。

何と情ない文化人ではなかろうか、従ってこの理を知ったら、何程立派な働きをもっていても駄目であるのは当り前で、

特に人の善悪を裁くなどという神聖な職責にある人達としたら、大いにその点に留意しなければならないのである。

だからそういう人こそ、人を裁きながら、ついには御自分が神様に裁かれる事になるのである。

このような判り切った事が信じられないとしたら、全く嘘吐きの迷信に嵌まり込んでいるからで、

従って吾らの大いに望むところは、人を裁く司法官ことごとくは正しい宗教の信者になり、神の実在を知る事であって、

何よりもアメリカの裁判官が人情味があり、比較的裁判が公平であるという事は、全く同国人に基督(キリスト)者が多いためであるのは、一点の疑い得ない事実である。」




明主様御教え 「馬鹿正直」 (昭和24年8月30日発行)

「こういう事があった。私は二十五歳の時に世帯を持ったが、その時親戚の中に苦労人がいた。

その人のいわく。「お前のような馬鹿正直の人間は世の中へ出たところで成功しっこない。

なぜなら、今の世の中で成功する奴は嘘をうまく吐き、三角流でなくては駄目だ」と散々言われたので、

私もなる程と思い、独立してから一生懸命嘘を巧くつくように努めてみたがどうもうまくゆかない。

そればかりではない。常に心の中は苦しくてならない。


その結果「俺という人間は嘘は駄目だ。成功しなくてもいいから本来の正直流でやろう」と決心し正直流で押し通した。

ところがこれは意外実にうまくゆく、気持がいい、人が信用する、という三拍子揃ってトントン拍子に発展し、

ついに一文なし同様の小商人から十年位経た頃、当時としては異数の成功者と言われた程で、

十数万円の資産家になったのである。

それから今日まで正直流で押し通して来た。

これも若い人の参考になると思うからかいたのである。」




明主様御教え 「日本人は欲がない」 (昭和25年11月1日発行)

「日本人くらい、無欲な民族はないと言ったら、読者は定めし驚くであろう。ところが立派な事実であるから仕方がない。

ただ多くの人は気がつかないだけである。それを今かいてみよう。


実例を挙げてみれば、今日の日本人は、信用という事に余り関心をおかない。

たとえばいつかは必ずバレるような事や、判り切った嘘を平気で吐く。

ひどいのになると直に尻からバレるような嘘を吐く。

何よりも時間を約束しておきながら、実行しない人が多い。

これなども立派な嘘を吐いたのであるが、これしきの事は日常の茶飯事として、誰も当り前のように思っている。

またちょっと物を貰うにしても売手も買手も嘘の吐き合いだ。

もっとも売手の方が余り正直では、儲らない事になるからある程度は止むを得ないとするも、余り嘘がヒド過ぎる。

結局信用を落すばかりか、第一取引上時間の浪費と繁雑な手数が掛ってやりきれない。

売る方が掛値をするから、買う方は値切る事になる。買う方が値切るから、売る方が掛値をするという鼬鼠(いたち)ゴッコだ。

少し大きな取引となると、半日も一日も、押問答をしなければならない。

中には数日、数十日、数ケ月も掛る事さえある。

このような訳で、双方の無駄と浪費は大変なものであろう。


私の例を挙げるのは、少しうしろめたいが、私は買物する場合、ほとんど値切らない方針である。

ただ目に余る程高いとか、付込まれるとか言う場合は、止むを得ず値切る事もあるが、そういう事は滅多にない。

私はどうしてそうするかというと、値切るとその次から先方は、掛値をするに決まっている。

そこでまた値切るという訳で、これも鼬鼠ゴッコになるから、手数が掛ったり不快な思いをするだけである。


以上は売買の例であるが、官吏や会社員などの場合もそれと同じようだ。

この種の人達は早く出世をしたいため、自分の手柄を見せたがったり、吹聴したり、恩に被せたりする。

こうするのが利口なつもりでいるが、実は上役は目が高いからそれを見透かしてしまう。

あいつは上面ばかりよく見せようとする、どうせそういう奴は、心から忠実ではあるまいと思われ、信用されない事になるという訳である。


また企業家などは、金がない癖にありそうに見せたがったり、大きな背景があるように思わせようとしたり、非常に有利な事業のように吹聴したりするが、

こういう策略も一時はうまく行っても、決して成功するものではない。

また世間よく、仲人口と言って、結婚の相手を世話する場合実質以上に賞めそやす事が当然のようになっているが、

これらも巧く成立しても、早いのはその以前、遅いのは以後、結局破綻になって、当事者同士が迷惑するばかりか、橋渡しや仲人も信用を失う事になる。

また売薬化粧品などジャンジャン広告を出して、一時は大いに売れるが、効能は広告程でないからやがて売れなくなる、という事がよくある。


右のような例を挙げればキリがないが、要するに何事でも信用第一だ。信用がなくてはお終いだ。

外の事はいくらうまくやっても何にもならない。ザルに水汲むようなものだ。

ところがそこへ気のつく人は案外少ないようである。

このような訳で結局大いに欲張って、巧くやったつもりでも、事実は信用がなくなり、骨折り損の草疲(くたびれ)儲けという事になる。

こういう人はつまり欲のない訳である。

従って嘘を吐かず真面目にやれば、あの人の言う事なら間違いない。あの人なら絶対信用が出来る、という人になる。

そうなれば金も儲かるし出世もし、人から敬愛されるのは当り前だ。

従ってこういう人こそ本当の欲の深い人である。

だから私はいつも言うが、人間は大いに欲張れ、但し一時的ではなく、永久的欲張りになれというのである。」




明主様御教え 「今日の世相」 (昭和25年1月28日発行)

「今日の世相くらい悪化している事はいまだかつてなかったであろう、何よりの証拠は犯罪の激増、監獄の超満員、未解決裁判の多数、迷宮入り事件の少なくない事等によってみても明らかである。

右の事実は表面に現れただけのもので、いわば氷山の頂点でもあろう、ここで私の経験をかいてみるが、

私は多数の信者に面会するはもちろん社会各層の人に接するが、

未信者には出来るだけ遇わないようにしているが、遇わない訳にゆかない場合もある、

それで自然その人達の談話や行為に触れる事になるが、本当に信用の出来る人は滅多にない、

たまには人格者と思える人もあるにはあるが、そのほとんどは実に面白くない人ばかりだ、何よりも直に尻から剥げるような嘘を平気でつく、

否面談している時でも嘘をつく、それが私にはよく判るので、それを聞く辛さは堪らない程だ、

そうして肚の底は私を騙して金や物資を得ようとするだけなので、近頃は絶対に近い程遇わないようにしている。


彼らは私を大金持の坊ちゃんと心得ているらしい、最初からなめ切っている、ところが私はうまく逃げるので彼らは吃驚するので、実に滑稽である、

彼らはこんなはずではなかったと余りの意外に後悔する事がよくある、全く愚かなものである、

私はいつも言う通り、そんな狸や狢(むじな)共に騙されるような事で、世界人類が救えるかと言いたくなる、

考えても見るがいい、そんな甘い人間としたら数十万の人間から尊敬され、短期間に大発展するはずがないではないか、

この現実が、彼らには見えないので、全く明盲というの外はない。


以上のような訳で、今日右のごとき人間の多い事は驚くべき程である、しかしながらその手口たるや、実に巧妙を極め感歎に堪えないものがある、

私はいつもこれらの智慧を善い事に使ったらどんなに成功するかと惜しいと思うが、

しかし一歩退いて考えれば悪い事であるから智慧が出るので、善事では駄目という事を知っているから悪へ走る事になるのであろう、

彼らを一言にしていえば上面(うわっつら)利巧の真(しん)馬鹿である、

面白い事は信者と未信者との異(ちが)いさの余りにはなはだしい事である、

彼らに接する事は危険この上もないと反対に、信者に接する場合は実に気持が快く吾子に遇うようである、

全く悪魔と神ほどの違いである、これについてつくづく思う事は信仰の有無しがこうも違うかで、

帰するところ信仰者でなければ人間の部へは入らないとさえいつも思うのである。

以上によってみても、一人でも多く信者を作らなければならない、そうでないとしたら日本の前途は実に寒心に堪えないのである。」




明主様御教え 「欲張ったヨクのない人」 (昭和25年2月11日発行)

「今ここにかく、ヨクナイ人間というのは善くない人間の事ではない、欲ない人間の事である

というとちょっと変に思うであろうが、以下の説明によって誰しもなるほどと思うであろう。

つくづく今日の社会をみると、欲張りの人間は山程あるが、実をいうとそれらはことごとく欲のない人間ばかりである、

欲張りでヨクのない人間とは変だが実は一時的に儲けようとするだけで、その先は損をする事に気が付かないのである、

というのは最初嘘で固めたうまい事をいうが、嘘は必ずバレるから、そこで信用は零となる、

但し嘘も巧妙につくほどバレるのがおそくなるからその時は俺はうまい事をしたと思うのであるが、嘘はいつかバレずに済むはずはない

ところが彼らは永久にバレないように錯覚してしまうので性懲もなく一生懸命人を騙そうとする、

もちろん世の中には神様などあるものかと、彼らは信じない、すなわち唯物思想で固まっているからで始末が悪い、

ところがバレるが最後信用は一ぺんに吹飛んでしまうから、それでお仕舞になってしまう、

という訳で大変な損になる、それがため最早こっちでは相手にしない事になる、

そういう時つくづく想う事は、彼らが最初から真正直で誠実にやったら、今頃は信用がついて実に大きな利益となるのは必定で、

僅かの間うまい事をしただけで、それでお終いとは、何と欲のない奴かと惜しむのである、

したがって、この手合こそ、実に欲のない人間という事になるのである。


今日、事業の不振や金詰りに困っている人の大方は、右のようなヨクない人が多いのである、

とにかく人間は信用第一である、信用ほど大きな財産はない、

信用財産からは何程でも利子が生まれるので金詰りの世の中でもこういう財産家は、決して困るような事はないのである、

という訳でどうしても見えざる神の存在を信ずる人間にならなくては何をやっても駄目である、

それには信仰者になるより外ないのである、

ゆえに信仰者は無限の宝の持主で、これが真の幸福者であると共に最も欲の深い人である。」




明主様御教え 「信仰は信用なり」 (昭和24年6月18日発行)

「そもそも宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者は洵に寥々たるものである、しからば私は真の信仰者とはいかなるものであるかを書いてみよう。

いか程立派な信仰者のつもりで自分は思っていても主観だけでは何らの意味もない、どうしても客観的にみてのそれでなくては本物ではないのである、

そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事をまず第一に知らねばならない、

そうなるには理屈は簡単である、それは人から信用される事である、

例えばあの人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してない、あの人は立派な人であるーというように信用される事である。


それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかというとこれも訳はない、

何よりも嘘を言わない事と自分の利益を後にして人の利益を先にする事である、

いわばあの人のお蔭で助かった、あの人につき合っていれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇うといつも気持がよい・・・というようであれば、

何人といえども愛好し尊敬する事は請合いである、

何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る、右のような人と識り合うとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照らし合う仲になるのは当然である、

今一つ言いたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない、ちょうど米の飯と同じようでちょっとは味がないようだが長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる、

人間は米の飯とは一日も離れる事は出来ないと同じように私は常にいうのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけないと・・・。

ところが世間を見ると、右とは反対な人が余りに多い事である、それはわざわざ信用を落すような事を平気でする、

何よりもジキに尻からばれるような嘘をつく、一度嘘をついたら最後外の事はどんなに良くても一遍に信用は剥げてしまう、全く愚の骨頂である、

いか程一生懸命に働き苦心努力をしても一向運がよくならない人があるが、その原因を探れば必ず嘘をついて信用をなくすためで、これは例外がないのである、

全く信用は財産である、信用さえあれば金銭の不自由などは絶対にない、誰でも快く貸してくれるからである。

以上は、人間に対しての話であるが今一歩進んで神様に信用されるという事、これが最も尊いのである、

神様から信用されれば何事もうまくゆき歓喜に浸る生活となり得るからである。」