プラグマティズムについて


明主様御教え 「プラグマチズム」 (昭和23年9月5日発行)

「私は若い頃哲学が好きであった。

そうして、諸々の学説のうち、最も心を引かれたのは彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。

まず日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。

それはジェームズによれば、ただ哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。

よろしく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。

全く現実的で米国の哲学者らしいところがおもしろいと思う。

私はこれに共鳴して、その当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織り込むべく努めたものであった。

そのためプラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。

私はその後宗教を信ずるに至って、この哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった。

すなわち宗教行為主義である。

宗教をすべてに採り入れる事によっていかに大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、こういう事が考えられる。

まず政治家であれば第一不正を行なわない、利己のない真に民衆のための政治を行なうから、

民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く。

実業家にあっては、誠意をもって事業経営に当たるから信用が厚く、

愛をもって部下に接するから部下は忠実に仕事をするため堅実な発展を遂げる。

教育家は確固たる信念をもって教育に当たるから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい。

官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績があがり、地位は向上する。

芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発揮し、世人によき感化を与える。

芸能家は信仰が中心にあるから品位あり、観客は高い情操を養い、良き感化を受ける、

といっても固苦しい教科書的ではない。

私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快にし、興味満点でなくてはならない。

その他いかなる職業や境遇にある人といえども、

宗教を行為に表わす事によってその人の運命を良くし、

社会に貢献するところ大であるかは想像に難からない。


ここで私は注意したい事がある。

それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に、

宗教信者の宗教臭きは顰蹙(ひんしゅく)に価する。

特に熱心な信者にしてしかりである。

世間よく信仰を鼻の先へブラ下げているような人がある。

これを第三者から見る時、一種の不快を感ずるものであるから、

理想的にいえば、いささかの宗教臭さもなく普通人と少しも変わらない。

ただその言行が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。

一口に言えば、アク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰ではいけない。

世間ある種の信者などは、熱心のあまり精神病者かと疑わるる程の者さえあるが、

この種の信者に限って極端に主観的で家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、

世人からその宗教を疑わるる結果となるが、

これらは指導者に責任があり、大いに注意すべきであると思う。」




明主様御教え 「宗教プラグマチズム」 (昭和26年5月30日発行)

「アメリカの有名な哲学者バースが、最初唱え出したプラグマチズムは、ウィリアム・ジェームスに至って世界的哲学思想となったので、

今日はジェームスが本家のようになってしまったという事である。

このプラグマチズムの言葉を訳すと、実利主義とか、実行主義とかいうのだそうだが、私は「行為主義」と言った方が、どうもピッタリするように思う。

これは哲学に関心を持つ程の人は、誰もが知っているから多くをいう必要はないが、

今私が言いたいのは、宗教プラグマチズムである、これは以前も一度かいた事があるが、今一度徹底したいと思うので、再びかくのである。

単に、宗教行為主義というと、既成宗教のいずれもは実行しているように見えるが、なるほど文書による宣伝や、言葉の説教、祷(いの)り、宗教的行事、禁欲、難行苦行といったような事は、誰も知っているが肝腎な実生活にまで及んでいないのが遺憾である。

だから忌憚なく言えば、実生活と離れた一種の精神的修養でしかないと言えよう。

ところが哲学プラグマチズムは、実生活に哲学を採り入れ、役立つものにしようとするものでこの点実にアメリカ式である。

それと同様私は宗教を実生活に取入れるというよりも、宗教と実生活と密接不離な関係にまで、溶け込ませようとするのである、

だから今までの既成信仰者のように、独善的、孤立的、観念的ではなく、超世間的な点を最も嫌い、飽くまで一般人と同様であるのはもちろん、

極力信仰の臭味を無くするようにし、万事常識的で、信仰があるのかないのか人の目には映らないくらいにするところまで、信仰が身に着いてしまわなければならないと思う、つまり応身の働きである。

宗教行為主義とは、以上によってほぼ納得されたであろう。」




明主様御教え 「生きてる宗教」 (昭和28年11月4日発行)

「宗教にも生きてる宗教と死んでる宗教とがあるといったら変に思うであろうが、それをこれからかいてみよう。

生きてる宗教とはすなわち実際生活に即したものを言うのであって、死んでる宗教とはその反対である。

ところが世間数ある宗教の中で実際生活にピッタリしているものは絶無とは言わないまでもまことに寥々たる有様である。

なるほど教えはどれもこれも実に立派に出来てはいるが、教化力の点に至っては気の毒ながら期待をかけられまい。

しかし何百何千年前教祖開教当時は、その時の社会情勢に合い教化の力も大いにあったには違いないが、

その後星遷(うつ)り年変り、時の流れにつれて教勢は漸次衰え、現在のごとき状態となったのは周知の通りである。

これも自然の成行であって致し方はないが、この事は独り宗教のみではない。

あらゆるものがそうであって、ただ宗教だけは遅れて最後になった訳である。


しかしその間といえども時代に即した色々な新しい宗教が生まれたのはどこの国でも同じであるが、

さらばといってそれまでの宗教を圧倒する程の力あるものは滅多に出ないので、いつか姿を消してしまうのが常である。

その中でともかく近代に生まれ、今なお相当勢力を保っているものとしては、彼の日蓮宗と天理教くらいであろう。

以上は大体の宗教の推移であるが、それはそれとして今言わんとするところのものは現代としての宗教のあり方である。

知らるるごとく十八世紀以降科学文化の発展は、宗教にとっての一大脅威となり、

それがため今日のごとき衰退状態となったのは争えない事実である。

そのようなわけで、科学は恣(ほし)いままに人心を掌握してしまい、

今日科学の文字が入らなければ、人は承知しないようになってしまったのである。

それだけならまだいいが、これが原因となって無神思想を生み道義の頽廃止まるところを知らざる有様で、

国家社会は混迷状態となり、現在のごときさながら生地獄そのままの世界となったのである。

しかも旧い宗教にあっては、今なお何百何千年前の教祖の教えを建前として、長い間に練り上げた教えをもって教化に努めているが、

何しろ時代から余りに離れすぎたため教化の力とてなく、正直にいって現実性を失った骨董的存在でしかないことになってしまった。

なるほどその当時は香り高い美術品として大いに用いられたには違いないが、

今日となっては重要文化財としての価値だけであろう。

ところが新宗教の中には右の重要文化財を恭しく飾り立て人寄せに利用はしているが、これとてもある時期までの生命でしかあるまい。

何といっても素晴しい文化の進歩に追越され、宗教は遥か遠くへ置去りにされた形である。

これをたとえれば飛行機や自動車、無線科学時代の今日、マサカ牛車や駕籠(かご)を持ち出したところで何の役にも立たないのと同様であろう。


ここでいつもながらの自画自讃を言わざるを得ないが、本教は知らるるごとく歴史は歴史として尊重はするが、

それにこだわる事なく、神命のまま独自の方針をもって進んでいる。

しかも新生宗教としての若々しさは青年の血が通っており、

今行っている事業にしても、医学や農業の革命は固より、

あらゆる文化の欠陥を指摘し、新文化の理念を指導精神としている。

その具体化の一つが地上天国の模型や美術館の建設であって、これこそ第一線的のものであり、

もちろんこの狙いは汚され疲れた魂の憩(いこ)いの聖地であると共に、

俗悪極まる今日の娯楽に対する一塊の明礬(みょうばん)として、人間の品性を高める事でもある。


以上のごとき本教の経綸は、個人的には健康、救貧、思想の健全化等に資するはもちろん、

大にしては明朗不安なき社会を作らんとするのである。

この事は近来識者間にもようやく認められ、注目の的になりつつあるのは喜ばしい限りである。

しかし今は小規模であるが、いずれは世界的に拡充された暁、日本から平和幸福な理想世界の構想が生まれるわけで、これは敢(あ)えて夢ではない事を明言する。

これらによってみても本教こそ真に生きた宗教のあり方でなくて何であろう。

ただしかし遺憾に思う事は、現在新宗教を目する社会の眼は、残念ながらはなはだ冷淡軽侮的なものがあり、

特にインテリ層程そうであって、本教に触るる場合といえども世間を憚(はばか)るごとき心使いをする傾向のあるのは遺憾に堪えないのである。


しかしこれも無理はない。何しろ旧い宗教にしても、信者の数だけはおびただしいが、教養が低くいわゆる愚夫愚婦級の人が大部分であり、

新宗教にしても顔をそむけるような奇矯極まる言動のものや、迷信的分子が多分に含まれ、

常識眼で見てさえ苦々しく思うようなものも相当あるからで、

これらもある時期までとは思うが、当事者には考慮を促したいのである。

また右とは反対に古い聖者、賢人、教祖等の説を焼直し、新しい衣を着せて時代に迎合するような宗教学者もあって、

外面からは進歩的に見え、インテリ層には受けそうには思われるが、果して実際生活にどれだけ役立つかは疑問であろう。

これについて思い出されるのは、彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェイムズのプラグマチズムである。

訳して哲学行為主義であるが、これを私は宗教行為主義に替えたいと思うのである。」




明主様御教え 「理論宗教と行動宗教」 (昭和24年4月20日発行)

「そもそも宗教の目的は何であるかーなどと今更 鹿爪(しかつめ)らしい事をいうのは野暮(やぼ)であるが、さらばといって軽々に取扱うべき問題ではない。

近頃のような物騒な世相は黙ってみている訳にはゆかない、何とかしなければならないとは誰しも思わない訳にはゆかないであろう。

事実安心して生活が出来ないというのが現在の世相である。

しかも年少犯罪者の殖えるという事も実に寒心に堪えないところで、日本の前途が想いやられるのである。

当局も厄気となって犯罪防止に大童(おおわらわ)であるが仲々予期の成果は挙げ得られない。

そこで心あるものはどうしても精神的方面から改善してかからねばならない事に気がつくのであるが、

いかんせん現在あるところの日本の宗教はどうにも手の出しようがないようである。

なぜなれば今日宗教界のエラ方などは、仏教哲学や古典研究にふけったり、学校の教授になったり、

中には殿堂の奥深く隠れて著述や経文の筆写等に余念がない。

教主様はといえば錦繍(きんしゅう)に纏(まと)われ、生神様や生仏として雲の上に安居し、俗界との交渉は伝統に背くかのように思われている。

たまたま民衆に伍して宣伝する専門的布教師もあるが、

その言う事が民衆の生活にアッピールする力がなく、実生活に喰入り得ない恨みがある。

彼らは声を枯らして仏教理論を説くといえども空理空論が多く、世を救う力ははなはだ微弱と言わねばならない。

これら現実に理しない宗教を私は理論宗教というのである。


以上のごとくであるから、本当に社会同胞を救おうとするには、理論だけでは間に合わない、

どうしても直接民衆生活に突入し、信仰即生活というまでに溶け込まなければ駄目である。

私はこれを称して行動宗教というのである。

しからばそのやり方はどうするのかというと、たとえば今最も日本の悩みとしているところのインフレによる生活苦や、その原因である食糧政策、

またそれに関連する労働問題、その他犯罪の防止、政界の浄化、結核問題等々、

実に早急に解決しなければならない問題が山積している。

吾らはこれらに対して宗教的批判の鋭いメスを揮い、生きた行動によって解決しようとするのである。


この意味によってわが教団の今現に行いつつある事業も、これから大いに行わんとする計画も、この線に沿うて進んでゆくつもりである。

まずその具体化として最近手を染め始めたものに、熱海より十国峠へ向かって約一里の地点に、気候温和にして風光明媚なるなだらかな起伏に富んだ、高燥(こうそう)なる約十万坪の土地である。

水も豊富で電力設備も完全である。

これは某篤志家から無償で借受け開発に着手したのであるがもちろん信徒のみの労力奉仕によるものであって、

大体この事業の目的は二つある。

一は無肥料栽培による食糧増産で、理論よりも実際成績を天下に示す事であり、

これによって食糧問題解決の一助たらしめんとするのである。

そうして当農園は現在三町歩にわたって水田畑作等の耕作をしており、乳牛も数頭あり、高い山は遠く離れているから日当りがよく、熱海の海浜は一眸(ぼう)の下にあり、

しかも檜三十万本、杉七万本あって、いずれも二、三十年を経ているから、

将来いかほどの建造物に対しても事欠かぬという特点がある。

また将来は果樹園、花卉栽培、養鶏、牧畜、酪農、綿羊等、出来るだけ多角農業の計画を樹てている。


次に今一つの目的がある。それは虚弱者、病後の要静養者、特に軽度の結核患者に対する神霊放射能による、信仰療法である。

これによって今最も重大視せられている結核問題解決の一助に資せんとするものである。

もちろん右療法の結核に対する治癒率の素晴しい事、療養費を一銭も要せざる事、結核は絶対に感染せざる事等の吾々の理論を如実に示し、

従来の誤れる結核療法の蒙を啓かんとするのである。

決して大言壮語するのではないが、漸次日本から結核を追放してしまう自信をもって実行に取掛らんとするのである。」




明主様御教え 「自観大先生との対談」 (昭和24年5月30日発行)

記者の発言
「宗教の社会的な行動は是か非か。」


明主様御発言
「宗教は大いに社会的行動をとらねばならない。

哲学者や、宗教学者はおのずから学んでいて、あるいは自分のみ救われているかもしれないが、

それでは世の中を救い、衆生を救済することにはならない。

一部知識のあるものや、特定の階級のもののみが喜んでいるような宗教こそ邪道である。

万民が喜び、万民が救われねば本当の神の恵みとは言えない。

観音力のお蔭はこれら人間社会ばかりではなく、鳥類や獣類の社会にまで及んでおる。」