結果を重視せよ


明主様御教え 「方法論と結果論」 (昭和24年7月23日発行)

「今日、本教によって行われている病気浄霊療法は、とかく世間から誤解されやすい憾みがあるから、ここにその点を詳説してみよう。

本教浄霊法が治病効果の素晴しい事は近来大分世間に知れ渡って来たが、いまだ大部分の人、特に専門家の一群には相当誤解があるように聞いているから、その蒙を啓くべく、この文を書くのである。


今日まで非難する者の言を聞くと、医療よりも効果が少ないという点は一つもない、

しからば非難の点はどこかというと、方法が間違っているというのである。

その方法が間違っているという事は非科学的、迷信的であるからだとしている、

私はそれについて反駁してみるが、彼らが非科学的迷信的であるというのはどういう訳かというと、

機械や薬剤のごとき物質を使わないからというのである、

ところがそれも無理はない、何となれば療法の対象物である人体を彼らは動物となし、物質と見なすに反し、

吾らは人体は物質のみではない、眼には見えないが精霊があり、霊体両様の原素から成立っているのが人間であり、

しかも霊が主であって、霊の動きすなわち意志次第で体は動かされるというのであるから、

いうまでもなく唯物的解釈と唯心的解釈の相違であって、一口に言えば体主霊従と霊主体従の差別である。


これによって、彼らは物質を治すには物質をもってするに反し、吾らは霊を治すには霊をもってするのである、

しからば右の二様の観方はいずれが是であり非であるかを決定するとしたら、

それは何によって正確な断案を下し得るかというーその事こそ問題解決の鍵であらねばならない、

とすればその条件として絶対誤りのない方法としては、実際的効果による外はあるまい。


その点について、唯物的解釈は眼に見える物質を対象とする以上、

何人にも認識されやすいに反し、唯心的のそれは眼に見えない空に等しきものである以上、簡単に認識させ難い不便がある、

この点を利用し彼らがいつも非難を浴びせる場合、毫も結果には触れないで、

方法のみによって批判するのであるが、これは眼に見ゆる以上耳裡(うち)に入りやすいのである。

ところが事実は治病方法が、機械と薬剤をいかに応用するも治癒せざる病患に対し、

吾らが機械も薬剤の力も借りないでただ人間手掌の操作によって驚くべき治病効果を発揮するのであるから、

一言にしていえば一方は理屈に合って治らない、一方は理屈に合わないで治る、

一方は方法を主とするに反し、一方は結果を主とするという、その異いさの点に注目すべきである、

しかしこの方法論と結果論はいずれが是か非かはあまりにも判り切った話である。


以上の論理を更に徹底してみる時こういう事になろう、

結果の非である方法がたとえ科学的であっても、実際に役立たないとしたら少なくとも正しい科学ではないという結論になり、

右に反し結果が是であるとすれば、それは実際に役立つべき正しい科学という事になろう、

ただ可視と不可視の相違だけであって前者は可視的非科学となり、後者は不可視的科学という事になろう。

以上の理によって、私のこの論旨がもし誤謬でありとすればそれを反駁すべきであると共に、

万一反駁出来ず納得がゆくとすれば、今後は方法論を撤回し、

結果論のみによって唯物医学と唯心医学との論戦を戦わすべきが本当ではあるまいか。

かくして真に人類に役立つべき新文化の発展を期待し得られよう。」




明主様御垂示 「結果が一番正直」 (昭和24年4月13日)

信者の質問
「相手を信じすぎたためいくどか失敗した場合、次の相手を警戒するのは本当でないと存じますがいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「警戒していいですよ。次の相手を大いに警戒していいですよ。

ただ、警戒しすぎてはいけない。必要な程度、程々に警戒するんです。

私なんかも大いに警戒しますよ。いろんな人がやって来ますからね。

実にそれは巧妙な手段でやって来ますからね。

新聞なんかに出たために、観音教には金があるっていうんで、あの金をなんとかしてたんまり出させようって目的でね、実に巧妙な手段をやりますよ。

しかしまあ、そんなのはじきに判るからこっちがかえってからかい半分にあしらうんですがね、

このごろはそんなこともつまらないからしませんけど、警戒はいいことですよ。

騙されるとこっちは被害をこうむるし、さきは罪をきますしね、いいことはないんですからね。」


信者の質問
「相手が人格的であるのにこちらが疑っても、別に罪にはならないでしょうか。」

明主様御垂示
「いや、罪っていうのはそんなもんじゃないんです。

先方を苦しめるとか、先方に迷惑をかけて困らせるとかいうのが罪になるんです。

だから「この野郎、早くくたばっちまえ!」と思ったってかまいませんよ。(笑声)

行動にさえ出さなければね。


しかし、その心持ちが本当のものでなければ、行動も本当じゃないんですがね。

大本のお筆先に、「われよしわれよし」っていうのがありますが、やはり自分ばかりよくなればいいっていう気持ちはいけないんです。

「今の人民むごい心になりたれば神は苦しむのであるぞよ。

人よかれの精神にならねば神の御旨に適はぬぞよ」と言うんですがね、

この通りでみんな健康になる、みんな幸福になるっていう気持ちを持ってれば間違った行動にはなりっこないんです。


だからいつも自分を批判することですよ。

自分にとらわれて、自分はいいことをしてるんだ、と思っていても、間違ったことをしている場合がよくあるんです。

だから絶えず自分を批判することが肝腎ですね。

それから、すべて物事は結果ですからね、結果が一番正直なんです。

だれが見ても立派な人でもね、世の人や社会のためになることをさっぱりしない人がある。

功績を表わさないんですね。忠義無類なんて言ってながら戦争に敗けてしまったんじゃしようがないでしょう。

たとえ他から見て感心できないような人でも、どんどん成績を挙げる人が神様の思し召しにかなうんです。」




明主様御講話 「批判する場合、結果から考えるべき」 (昭和28年8月1日)

「何か問題があったりしたときに、人を批判する場合には、両方を批判してゆくとよいです。

悪いと決めないで、悪い点は悪い点で認識する必要はありますが、

しかし悪い結果をよいほうの頭で考えたら、結果からいうとどうだろう、ということを考えてみるのです。

そうすると案外よいことを発見するものです。

一番大きな例としては、日本が戦争に負けないで、天皇制が続いていって軍部がいばっているとすれば、

メシヤ教というものは今もって小さくなってビクビクして、いつなんどきやっつけられるか分からないというようでいなければならないのです。

ところが負けたために国家の組織が違ってしまって、信仰の自由ということになって、

いろいろと思ったとおりのことをやれるようになったために、わずかの間にこれだけになったのですから、

敗戦ということは、一時的には非常にガッカリもし、嘆きもするが、少し時がたてばとんでもない結果になります、

そうしてメシヤ教がだんだん日本を救うとすれば、日本人だってどれだけ幸福になるか分からないのですから、そうすれば敗戦というものは敗戦様々です。(中略)

敗戦のときの日本人の悔しがり方というのはたいへんなもので、神も仏もあるものかというようでしたが、

私はそれが分かっているから、敗戦の明くる日にごく親しい人にだけは、大いに祝うべきことだと言ったのです。

これは大きなことですが、小さなことでも同じです。」




明主様御垂示 「理屈より結果」 (昭和28年10月1日)

信者の質問
「ASでございます。婦人生活の記事の中に私も登場させていただいておりますが、

私の言ったことと少し違いまして、「私は理屈が解ったから医者に行ってはいかん」と話しましたが、

「何だか解らないが、やったら治った」と、書かれました。

もっともこのほうがおもしろいからかとも思われますが」


明主様御垂示
「そのほうが効果的でよいです。

理屈が分かって浄霊しても、理屈が分からなくて浄霊しても、結果において同じです。

だから理屈が分からなくても治ったとすると、

これから信仰に入ろうという人が見て、理屈が分からないからと思っていた者が、理屈が分からなくてもよいなら、一つやってみようというわけで、宣伝力があることになります。

かえって逆のほうが効果があってよかったです。」




明主様御垂示 「とにかく結果で判断する」 (昭和28年9月1日)

守護神と本能について

信者の質問
「本能はどういう働きでございましょうか」

明主様御垂示
「本能というのはその人の欲望ですから、正守護神の本能もあり副守護神の本能もあります。

どっちも本能ですが、一方は善にあたり、一方は悪にあたります。

だから信者になって人類を助けたい、苦しみ困っている人を助けてやりたいというのは、やはり本能ですが、正しい本能ですから正守護神から出ているものです。

それから酒を飲みたい、女も妻君ならよいですが、間違った女を欲しいとか、バクチを打つとか、そういうのは副守護神の本能です。

ですから本能にもいろいろあります。」


信者の質問
「生存本能、食欲本能、性欲本能というのはどちらにはいりますでしょうか」

明主様御垂示
「それは正しいほうです。食わなければ生きてはゆけませんから。

これは正しいというよりか、絶対のものです。

それから性欲がなければ種族が絶えてしまいます。

そこで結果を見なければなりません。

同じ正守護神から出たと言っても、結果が良くなければ本当のものではありません。

だから医学が進歩すればだんだん病人が減ってきて健康な者が増えてくるというなら、結果から言っても本当のものです。

ところが病人は減らないばかりか、ますます増えるというのは、結果から言えば悪になります。

私は今度、医学というものは間違っているということを書いたのです。

だから信仰でも、あの人の信仰は立派だと言ったところで、信者ができなければ駄目です。

しかしあの人の信仰はなってない、面白くないと言っても、その人は信者をつくってドンドン増やしてゆけば、それでよいのです。

とにかく結果です。あの人は情深い人で立派な人だというだけの人よりも、あいつは少し変だがオレにご馳走したり小遣いをくれるというなら、そのほうがよいではないですか。」