常識を重んぜよ


奇矯な行動の禁止


明主様御教え 「常 識」 (昭和23年9月5日発行)

「そもそも、真の信仰とは言語行動が常識にはずれない事を主眼としなければならない。

世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を標榜する信仰はまず警戒を要すべきである。

ところが多くの人はそういう信仰をかえって有難く思う傾向があるが、

これらは霊的知識の無い為で無理もないが、心すべきである。

又自己の団体以外の人々と親しめないというような独善的信仰も不可である。

真の信仰とは、世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団のみにこだわらず、

排他的行動をとらないようにするのが本当である。

丁度一国の利益のみを考え、他国の利益を無視する結果、

惨澹(さんたん)たる敗戦の苦杯をなめる事になった終戦前の日本を鑑みれば判るであろう。


私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。

もちろん世の中に完全という事は望み得べくもないが、

少なくとも完全に一歩一歩近づかんとする修養・・・これが正しい信仰的態度である。

故に信仰に徹すれば徹する程、平々凡々たる普通人のごとくに見えなくてはならない。

そうなるのは信仰を咀嚼(そしゃく)し、消化してしまったからである。

その人の言動がいかにも常識的であり、万人に好感を与え、

何を信仰しているか分からないくらいにならなければ本当ではない。

人に接するや柔らかき春風に吹かれるごとくで、謙譲に富み親切であり、

他人の幸福と社会福祉の増進を冀(こいねが)うようでなくてはならない。

私は常に言う事であるが、まず自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、

それによって与えらるる神の賜(たまもの)が真の幸福である。

しかるに自己のみの幸福を欲し、他人を犠牲にするというがごときは、

全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。」




明主様御教え 「神懸り宗教」 (昭和24年5月30日発行)

「今日新宗教とさえいえば、一般はすぐ神憑的のように思うが、これも無理はない、

何しろ璽光尊や踊る宗教など、常軌を逸したようなものが目立つからで、

また言論機関は興味中心から真先に取上げるという訳で、

教線は微々たるものであっても、大きくクローズアップされるのである、

それに引換え真面目な常識的な宗教は割合教線が大きいにかかわらず、

一般に知れ渡らないのが実情であったという訳で、

小なる神憑宗教が、大なる真似目な宗教を蔽い隠すという訳である。


この意味において、本教なども発展の割合には知られていなかったのである、

もちろん宣伝や売らんかな主義は一切用いなかったからでもある、

それがたまたま税金問題によって一躍舞台の上にノシ上げられた形となったので、

新聞ラジオ雑誌等にジャンジャン騒がれるようになった事は、今や日本中誰知らぬ者もない程である、

ところが吾々はすべては神の意図によるものと信じている以上、

これも時節到来、積極的に転換すべしという神意と解釈し、神のまにまに宗教活動しつつあるのが現在である。


ところが、自観先生は今日まで吾らが聞知(ぶんち)したところの各宗の開祖と異なり、

神憑り式や、奇妙なる言動を非常に嫌われる、

常に論されるところは常識を神様とせよとの御言葉によっても充分窺知されるのである、


またこういう事も言われる・・・

神とは、言い換えれば完全なる人間という事である、

ゆえに人間は努力次第で神にもなり得るのである、

そうして本当の宗教のやり方は一歩一歩完全人間すなわち世にいう人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない、

しからば完全人間とはいかなる意味であろうかというと真理すなわち神意を骨とし、人間生活を肉とみるのである、

すなわちいかなる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、

常に天空海闊的心境に在って、日常の言動は融通無碍時所位に応じ何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである、

また規律を尊び、怠楕を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適のごとく、何事も極端に走らず、

人に好感を与える事をこれ努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、

人事を尽くして神意に任せる態の信念をもって進むべきである。

人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、

かくのごとき人間こそ生甲斐ある真の幸福者というべきである、

もちろん信仰の妙諦もこれに在るので、このような人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。

以上が大先生の常に言われる箴言である。」




明主様御教え 「太陽の救い」 (昭和27年11月19日発行)

「現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば、最初から色眼鏡で見る癖がある。

どうせ近頃の出来星宗教であるから、時世に便乗して巧い教理をデッチ上げ、愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いないと決めているので、

たとえ病気に罹っても医者にも掛からせずおまけに血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、困った世の中だくらいに思っているらしい。

なるほどそれが事実としたらその通りで、吾々宗教人といえども共鳴にはばからないのはもちろんである。


しかしそれも満更間違ってはいないとも思うというのは新宗教中二、三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。

その例として世間よくある大きな声で経文を読み鐘や太鼓、拍子木等を叩き、

近所迷惑などお構いなしでいい気持になっているのを見ると、一種の騒音罪悪であろう。

また衆人環視の中で、多勢の信徒が変な歌を唄いながら、

妙な手付で何の会釈もなく舞踊(おど)っており、さながら夢心地の陶酔境である。

これを見せつけられて余りいい気持のしないのは吾々のみではあるまい。

としたらこれらも社会的に見てどうかと思うのである。

そうかと思うと信仰に熱心な余り一人よがりになってしまい、

他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、

極端になると神憑りを喜び、気狂い染みた人間を作る信仰さえあるので、

これらもプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。

また罪のないのもある。

髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、

これらは全く嫌味タップリで、よくこんな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。

また昔からある種の信仰には付物の難行苦行であって、寒中の水垢離(ごり)、深山へ籠っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、

なるほど御当人は大満足であろうが、吾々普通人にはサッパリその了見が分らないので、むしろ可哀想に思うくらいである。


以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのしたやり方を宗教本来のものと思っているこの迷信も困りものである。

これらを見るにつけ、私は宗教人でありながら苦行をいいとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にもいっている。

以上のごとく今日低級信仰が巾(はば)っているので、最初かいたごとく有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。


ところが手前味噌ではないが、我メシヤ教は右のような信仰とは全然異っている。

まず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人と少しも変らない事、

いかなる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、

この真相が分ったならいかなる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。

ところが右の真相を知らないため、漫然と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。

従って本教の発展を妨害するものは無神論者でも科学迷信者でもない。

むしろ右のごとき好ましからざる新宗教といってもよかろう。

しかも意識的妨害ではないから、反って始末が悪いくらいである。

この事は考えるまでもなく日本特有の宗教界のあり方であろう。

というのは欧米においてはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、

宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるからまことにいいが、

日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、しかもそれらが幾派にも分れているので、

実に正邪混淆(こんこう)雑然としているから、その点実にやり難いのである。


だがいつもいうごとく、我メシヤ教は宗教ではなく超宗教であって、

歴史肇(はじま)って以来いまだかつてない救いの業であるから、何も彼も異っている。

何人も本教の型破り的やり方にみても分るごとく、在来の宗教の頭では容易に呑み込めないのも無理はないが、

しかし一旦分りかけたが最後、今まで求めていたものはこれだなと知り、心の底から歓喜が湧いて来るのは例外はないのである。

何よりも本教の発展振りをみれば分るごとく、僅か数年にしてこれ程発展した事実である。

それについて注意したいのは、最近数年間に素晴しく発展した二、三の新宗教もあるが、それは本教とは根本的に異っている。

というのはそれらの宗教は既成宗教を土台とし、その団体の多数の信者を糾合して出来たのである。

それに引き換え本教は一から十まで独創的である以上、この点充分認識されたいのである。

そうして前記のごとき非常識極まる宗教は、云うまでもなくその根本が小乗信仰であるから窮屈で自由がない。

しかし自由といえば宗教とは縁遠いように一般は思っているが、この点ヤハリ現界と同様、

民主的自由主義でなければ、今後における一般大衆を指導する事は出来ないであろう。

これを分り易くいえばこうである。

今日までの宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国それぞれの色が異うがごとく、宗教もそうなっている。

従ってその説くところも自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。

しかも小乗信仰は厳しい戒律があるので、それに縛られて苦しむのを行としている。

これらは神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。

これを私は信仰地獄といっている。

ところが本教は反対で、ほとんど戒律がないから極めて自由であり、

人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、これこそ天国的信仰といえよう。

以上のごとく大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものはことごとく包含されており、

ちょうど太陽があらゆる色をコントロールして白一色であるごとく、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。」




明主様御教え 「霊憑りに就て」より (昭和26年12月5日発行)

「(一部のみ引用) ところがここに注意すべき重要事がある。それは本教信者は自分は御守護が厚いから大丈夫だ、

邪神など容易には憑れるものではないと安心しているその油断である。

この考え方が隙を与える事になり、邪神は得たり畏(かしこ)しと憑依してしまう。

しかも小乗信仰者で熱心であればある程憑り易いから始末が悪い。

いつも私は小乗信仰を戒めているのはそういう訳だからである。

何しろ邪神が憑るや小乗善にもっともらしい理屈をつけて押し拡げ、

巧く瞞すので大抵な人はそれを善と信じ切って一生懸命になるのだが、

何しろ根本が間違っている以上、やればやる程結果がよくないから焦りが出る。

そうなると人の忠告など耳へも入らず、ますます深味に嵌(はま)ってしまい、

二進も三進もゆかなくなって失敗する人がよくあるが、

こういう人も早いうち目が醒めればいいが、そうでないと何が何だか分らなくなってしまい、

御蔭を落す事になるから小乗善のいかに恐ろしいかが分るであろう。

小乗善は大乗の悪なりと私が常にいうのは左の事である。


またこの点一番よく分るのは小乗善の人は必ず常軌を逸する事で、これが奴らの狙いどころであるから、

何事も常識眼に照らして判断すれば間違いないので、

全く邪神の苦手は常識であるから、私は常に常識を重んぜよというのである。

この例は世間に有りすぎる程有る。

よく奇矯な言動を可いとする信仰や、同様の主義思想、神憑り宗教などもその類であって、

いずれも問題を起し、世間を騒がす事などよく見聞するところである。」




明主様御教え 「宗教の合理性」 (昭和24年7月23日発行)

宗教を批判するに当って、正しいか正しくないかを判別する基準として一番簡単な見方は、

合理性か非合理性かによるのが間違いない、

この点神憑り宗教は危険性がある、

といって、神憑りはみんないけないというのではない、

今日ある大宗教の開祖などに神憑りの多いのも事実である、

しかし同じ神憑りであってもそこに自ら正邪があるから、

それを見分ける場合まず常識をもってみるのが最もいいのである。」




明主様御垂示 「非常識な小乗信仰は最もいけない」 (昭和24年8月27日)

信者の質問
「私は教導所の責任者として御用をしておりますが、私の村は八百余戸、入信者現在百余名、光明如来拝受者十五名、大光明如来四体を奉斎させて戴いており、五、六人の方が熱心に協力しております。

しかし私も時々困難に突当り、一生懸命御用したくも思うに委せぬ苦しみをしております。

主人も現在教導師の御資格を戴き、大工仕事の裡にも懸命の努力をしております。

夫は養子ではありませんが、私と母と同居しており、母も余りに熱心のため、非常識な位にまでなり、時々御浄化を頂きます。

この母の行為についてとかく周囲の人より妨害され、日夜頭を悩まし、自分の未熟な行為のため寝つかれぬ事も御座います。

いかにしたら周囲の人々を分らせ、出来るだけの御用が出来ましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「分らせるという事が間違っている。

分らせるというのは人間の力を過信する事になる。

神様が分らして下さるのである。

この人の信仰が狂うのは小乗的であるからで、(熱心のために非常識というのは嘘である)飽く迄、常識的でなくてはいけない。

人間は何の力もない。人間の心で決めてはいけない。

どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持にならなくてはいけない。

(浄霊でも心静かにしてやらないと神様の霊気が通らない。力を入れ一生懸命にどうかして救おうとすると人間的だからいけない)

大乗的になるべきである。

(無理に分らすのはいけない。神様にお任せし、自分はやらしてもらってるという気持である)

発展するか否かは神様の思召しである。

人間の力が強くなると反って成績が挙がらぬ。

(浄霊も静かな気持でやらなくてはいけない。一生懸命やると治らぬ。力を入れずにした方がよい)

宣伝も一生懸命扱うという気持はいけない。

(時期が来ぬうちはいくらやってもいけない)といって、お任せしっきりでもいけない。その区別を調子よくやる。

神様は霊、人間は体であるから、霊と体と調和すべきである。

小乗的信仰は最もいけない。

咎めや憎しみは極くいけない。」






常識的判断の尊重


明主様御講話 「常識で判断せよ」 (昭和27年8月26日)

「病気について注意したいことがあるのです。私が今までいろいろ言ったことをそのまま用いれば良いが、これはどうも人間の一つの癖ですが、人によっていろいろ・・・誇張したり縮めたりするのです。たいてい誇張するのです。それでとんだ間違いがあるのです。

特に日本人はそうらしいのですが、物事をありのまま考えたりしない一つの癖があります。

というのは、私はいろんな報告を聞きますが、その報告が人によってみんな違うのです。

非常に掛け値を言う人と、割引をする人と両方ある。

これは一つの例ですが、私の山をやっている者が二人あるのです。

すると一人は非常に内輪に悲観的に言うのです。一人の方は、拡げて楽観的に言う癖がある。

それで私は両方のちょうど間をとっているのです。

こういう癖は非常にあるのです。人によっては馬鹿におおげさに言ったり、加減したりする。

以前ある人で、今は信者の幹部になっている人ですが、なにかの報告の時に、あの人がああ言うのだからたいてい三割くらい割引をして思えばちょうど良いと、よく言ったものです。そういうような具合で、病気についてもよくあるのです。


最近聞いた話ですが、私が「大いに無理をしなければならない、無理をした方が健康になる」ということを言っているのですが、これは健康の場合には・・・ちょうどスポーツマンがレコードを作るような具合で、無理をしただけずつは健康になるのですから結構ですが、病人は違うのです。

肺病なんかの場合に「安静にしてはいけない、大いに運動しなければいけない」と言うそうです。

病人の場合はとても大儀で苦しいのです。そういう具合でかえって浄化が強過ぎて衰弱しますから悪いのです。要するに根本は自然が良いのです。

大儀で起きているのがつらい、寝たいと思う時は寝たら良いし、それからもう非常に具合が良くて寝ていてはつらい、起きて歩きたいというようなのは、起きて歩けば良い。

要するに自然です。自然というのは、自然農法ばかりではないのです。病気に関しても自然です。だから食べたい物は食べたいだけ食べれば良い。

ところがよく今までの習慣で、食べたい物を、よく毒だからいけないとか、食べたくないのに、それは病気に薬になるから食べろというのは間違いです。

食べたいのは身体が要求しているのですから・・・咽喉が乾いて水を呑むようなものですから、そこで要求している通りにやれば良いのです。

そこで今の、寝るとか起きるとかも身体の命ずるままにやれば一番良いのです。

それを、どうも人間は自然がいけないようにいろいろ教育されてますから、かえって自然に逆らって苦しんだり、我慢したりすることが良いと・・・医学なんかは非常にそういうやり方になってますが、

今言った通りどこまでも自然に、心のおもむくままにやることを心得ておくと良い。


また滑稽なのは、昔私はリンゴを食べなかったが「明主様はリンゴは召し上がりませんが、リンゴは身体に悪いのですか」と言うから

「そうではない、私はつゆ気の果物が好きで、リンゴはつゆ気がないから食べない」と話したことがある。

それをどう間違えたか「明主様はリンゴを召し上がらないのは、リンゴは悪いのだ」というような宣伝ができたのです。

ですからメシヤ教信者はリンゴを食べないということになった。実に滑稽なのです。

リンゴでも柿でもなんでも、みんな神様が人間の食べる物に作ってあるのですから、リンゴがうまいという好きな人は大いに食べて良い。

ところがもっと滑稽なのは、最近聞いた話で「リンゴは医学の方では薬になる」と言ってますが「医学では薬になるというところをみると、つまり薬になるのだ。するとリンゴを食べると薬毒が残る」と、こう言うのです。

だからリンゴを食べてはいけないと言って、もらったりしても、リンゴを腐らせるのです。

これはそうとう古い信者なのですが、そこまでいくと、実になんと言って良いか分からないです。


そういうような具合でいつも言う通り常識です。

すべてうまいという味は人間に必要だから神様は作られたのです。

だからまずい物を我慢して食べてはいけない代わりに、おいしい物は大いに食べて良い。

それから、よく偏食がいけないということを言いますが、偏食がいけないということはないのです。

あれは偏食がその人に大いに必要だからするので、それで良いのです。

で、その必要がなくなればふつうになるのです。

よく子供なんかで、線香を食べたり壁土を食べたりするのがありますが、これはその人に虫の霊が憑いているとか、あるいは虫に生まれたことがあるとか、そういうようなためなのです。

だからだんだん浄化していくにつれて、そういう霊はやはり人間に溶け込んでしまいます。

つまり人間と同じ清さの霊になりますから、そういうことはなくなる。

だからもしそういうことを矯正するとすれば、その本人を刺激しないように柔らかにやるくらいで良いのです。

で、人によっていろいろあります。

そういったものでなくふつうの食物でも、魚が嫌いだとか臭い葱とか、そういった物が嫌いだとか、いろいろな癖の人がありますが、みんなそういった霊的関係と、必要によってそういう癖があるのだから、そういうのはやっぱり信仰を長くしていれば、だんだんふつうになるわけです。」




明主様御垂示 「常識で判断せよ」 (昭和27年8月27日)

「私は以前リンゴを食べなかったから、信者のある人が・・・その時分は大先生と言ったが・・・

「大先生はどうしてリンゴはおあがりになりませんか」と言うから、

私は「リンゴはつゆ気がないから、あんまり好かないから食べない。だから食べたい人は食べても良いが、私は食べない」と、よくリンゴを持ってきますから、ちょっと言っておいた。

それからこういうことを言った。「よく医学の方ではリンゴは薬になると言うが、別にどの果物が薬になるということはないので、神様は必要があってこしらえたのだから、それの好きな人は食べて良いので、リンゴが薬になるということはないから」と言ったことがあるのです。

そうするとどう間違えたものか「明主様はリンゴはいけないと言った」ということになって、それはかなり拡まったものです。

私はその都度取り消しましたが、かなり伝播力が強かったとみえて、取り消しの方が効果がないのです。


そのあげく最近おもしろいことを聞いたのです。

これは地方でですが、リンゴは医学では薬になるというのだから、リンゴを食べるとやっぱり薬毒が害をするから、そこの家では、リンゴをもらっても食べないで腐らせるというのです。なんだというと薬毒が怖いというのです。そういう滑稽なことがあるのです。

だから私が言ったことや書いてあることを、そのまま受け取ると良いのですが、それにおまけをつけてだんだん誇張して、口から口へ伝わるために、だんだん育っていって、とんでもないことになってしまうのです。

だからそういう馬鹿馬鹿しいようなことで、あんがい間違ったことがありますから、すべてなんでもいつも言う常識です。

神様は人間においしい味のある物は、これは食べろ、味というものが栄養になるのだから、味のない苦い物とかまずい物は食べてはいけない。

そういうためにあるのだから、それを我慢して食べるのは間違っている。

ということは本にも書いてありますから、それをそのままとるようにすれば、間違いないのです。

だからつまり自然ということを忘れないことと、常識で判断することを守っていれば、まず間違いないということです。それだけの注意です。」




明主様御垂示 「常識で判断すべき」 (昭和23年3月28日)

信者の質問
「私はいずれ国常立尊の主宰される時が来て大浄化が起ることと思っておりますが、それを考えると悩んでしまいます。」

明主様御垂示
「あんまり考えすぎてはいけない。あんた自身がやっているんではない。神様がやっておられるんだから神様にお任せしたらよろしい。」


信者の質問
「自分のしていることが神に反していやしないかと思います。」

明主様御垂示
「反しないようにすればよい。神の御心に反しているか否かちょっと人間には判らないことです。」


信者の質問
「私がいま持っている物は全部神の物だとすると自分で使うのが怖ろしくなります。」

明主様御垂示
「それは小乗ですよ。」


信者の質問
「ではその限界というものはどうしたらよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「それは常識だ。程よくやればよい。一人でもよけい人を助けることが大切です。」




明主様御垂示 「物事の解決は臨機応変かつ常識的に」 (昭和26年7月8日)

信者の質問
「物事の解決。」


明主様御垂示
「臨機応変。しかも常識的で、食い違いのないようにする。」




明主様御垂示 「智慧証覚を基本に常識で考えるべき」

信者の質問
「「総て神様がやられておられるのであるから自分の悪行もいけなければ神様が御止めになるはずである。やれる間は許されている」という考え方は、

神性を戴く本守護神の働きではないように思われますが、いかがで御座いましょうか。」


明主様御垂示
「これはデリケートである。

常識で考えて、やるべきかやるべからざるかについて、智慧証覚を基本にしなくてはならぬ。

智慧は叡智でなくてはいけない。これが基本になり、また、これを磨かなくてはならぬ。

人間には毒結があるから除らなくてはならぬ。

毒血が無くなれば、黴菌の必要はなくなる。それを運ぶ蝿もなくなる。掃除の必要があれば止むを得ぬ。

伝染病がなくなれば国民は弱る。英国がそうである。

人口が今四千五百万で殖えぬ。英国の衰亡は人口の少いためで、人口の多い国は威勢がいい。

原因は種痘である。英国には伝染病はなく、繁殖もしない。支那などは旺盛である。

英国がインドを放棄したのも人口が少いためで、統治するだけの人口が足りない。植民地まで手が届かぬ。それが原因である。

ソ連とアメリカは種痘が後れてるから強い。

アメリカも今のままゆくと弱ってくる。

要するに智慧で判断する。先から、智慧と誠と言っている。智慧があると無駄がない。」




明主様御垂示 「大芸術家は大常識家」 (昭和25年1月20日発行)

信者の質問
「シューマンとか、ヴァン・ゴッホのごとき天才的芸術家と言われる人々に、精神病の多いのはいかなる理由でしょうか。」


明主様御垂示
「天才的芸術家に、必ずしも精神病者が多いわけではない。

よく天才と精神病は紙一重と言うが、天才はふつうでも変わっているから、精神病的に見えるのである。

本当に精神病的であるのはまれで、シューマンとかゴッホのごとき人は本当の精神病である。

最近の文士にも精神病者的のものがあるが、これはヒロポンやアドルム飲用者で、人間の造った精神病である。


元来、芸術家はわがままなもので、なにかインスピレーションが湧くと、すぐに飛び出したり、一つ事をじっと見つめていたり、

そういう行動が普通人から見ると精神病者的に思えるのである。

しかし大芸術家は、実に大常識家である。

光琳などの物の観方は、実に常識的で彼の画は奔放大胆のように見えるが

実に一分の破綻なく行き届いているには頭が下がるのである。」