負けるが勝ちについて 2


明主様御講話 「議論で負けるのも一つの修行」 (昭和28年6月1日)

「(布教師が患者を医者にかけないまま浄霊し、死亡させた事件が新聞沙汰になったことについて、明主様が厳しいご注意をされた後の御垂示)

「投書か何かあったのですか。何かなければ新聞社はわかるわけがないでしょう。

それなら新聞社にどうしてこういう記事を出したかということを調べるのです。

これからますます浄化が強くなりますから、衰弱なども非常に早いのです。

そうしてまだと思うような者がポカッと死んでしまうことがだんだん増えます。

その代わり、一方なおるのも早いです。

だから大いに警戒しなければいけません。

三つも問題を起こすということはたいへんなものです。

これが一番悪いです。これが御神業に対して非常なお邪魔になります。

つまりみんな邪神に負けるのです。負けるということは、それだけタガがゆるんでいるのです。

こっちがチャンと知っていれば、邪神のつけ込むスキがないのです。

やっぱりこっちにスキがあるから先が打ち込むのですから、抜き身の中にいるつもりでいなければ、いつ抜き身でやられるか解りません。

しかしこれは薬になります。

少しタガを締めてもらわなければいけません。


それでなにしろ御神業というものは千変万化ですから、これからはできるだけ医者にかけさせる方針にするのです。

それより他にしようがありません。

医者にかかることと問題を起こすことはどっちが悪いかというと、問題を起こすほうがずっと悪いので、医者にかからせたほうがずっとよいのです。

問題を起こさないということが第一です。

ちょっと危ないと思ったり思うように行かなかったら、医者にかけるか、さもなければ手を引いてしまうのです。

病気がスラスラとなおってしまうのはよいですが、どうもうまく行かないとか、スラスラといかないのは、手を放すか医者にかけるかどっちかです。

ですから和戦両様の準備をしなければいけません。

死んでも問題は起こらない、助かれば結構だ、というどっちに行っても問題は起こらないというやり方にするのです。


これはあらゆることがそうです。

アメリカの立場にしても、平和になっても戦争になってもどっちでもよい、というやり方をアイゼンハウアーはやっているのです。

ところがイギリスのチャーチルのようなのは和平になるという考え方が非常に濃いですが、

これは国が弱っているからしかたがないことではあります。

どっちに転んでも間違いないというやりかたが一番よいのです。

そういうずるいやり方が一番よいのです。

正直なやり方が馬鹿なのです。

これからはそういうずるいやり方でやることです。

ちょっと変だと思ったら、まず医者に見せるのです。

注射の一本や二本うっても別に大したことはないので、差し支えありません。

注射が悪いと言っても一時的ですから、そうしておいて後は適当に考えればそれでよいのです。

本人がまたかかりたいというのならしかたがないので、そうなったら手を放すとよいです。

いつも言うとおりあせりと無理がいけないのです。


この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。

それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。

よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。

ところがそういうことで開けるということはまずありません。

かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。

そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。

神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。

ですからつまりぶつかって来たということは、神様は「助けよ」 という思し召しだと考えるのです。

こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというようなことがありますが、それが将来案外な働きをするものです。

「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするが案外駄目です。

そういうことが多いです。

これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。

むしろそういう人のほうが多いです。

だからぶつかって来た人は、なおせという思し召しで、

フラフラになるのは放ったからしておけという思し召しです。

だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。


それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。

そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。

神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。

今の場合に、皆が医者にかかれかかれというのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。

「あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ」と頑張るのはとんでもないことです。

そしてこういうわからず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。

そこが大乗と小乗との違いです。

だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。

それを「あいつはああいうことを言う」と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。

ですから私は女中などが「こうしたほうがよい」とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。

決して人によって区別したりしません。

神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。

それからまた邪神が偉い人にかかって迷わせるということもありますからそこに言うに言われないところがあります。


よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、

そうすると狐に瞞されてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。

狐に瞞されたほうがよいのです。

いろんなことを言いますから、「そうかなるほど」と言っているのです。

それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はペラペラと返事をします。

そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出してきます。

それで狐は謝るのです。

私はそういうことがずいぶんありました。

瞞されるものかと思っているときは、かえって瞞されたり怒ったりするのです。

狐がぜんぜん嘘のことを言っていても、「そうですか」と感心して聞いているのです。

そうすると狐のほうで間違ってしまうのです。

これは実に味わうべきことです。

そうしていたらなんでもありません。

すべてに結果がよくて円満に行きます。

そこが大乗でなければならないのです。

ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。

なるほど、そうですか、と感心しているのです。

しかし肚の中では分かっていなければなりません。

そこまで人間は横着というか、そうならなければならないのです。


道具屋が来て私を甘く見て、「これはこういう物だ、これは贋物だ」と言うから、

「そう言えば全くですね」と言うが、肚の中では何を言ってやがるのだと思ってます。

これは馬鹿野郎だな、オレがそんなことを知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。

そうしているうちに、「うまいことを言う、なるほどそうだな」と教えられることがあります。

中国の何とか言う人は 「人によって話を区別するな」ということを言ってます。

つまらない人足か、それこそ百姓などが言うことで非常に教えられることがあるのです。

ですから人によって区別をしないようにすることです。

何でも自分に耳にはいったことは一応気に止める必要はあるのです。

また子供に教えられることがあります。

これは経験があるでしょうが、子供がとてもうまいことを言います。

ちょうどベルグソンの直観の哲学と同じようで、

子供は本当の直観ですから、素晴らしいことを言います。

母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の言うことが本当の場合がよくあります。

ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起こらないのです。


病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、「それは結構だ、全くそのとおりだ」と言って、

感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。

「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。

それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。

それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。

それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ」というように言うのです。

それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。

しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。

それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。


要するに人間、心の底に誠があればよいのです。

あとはできるだけ横着でよいのです。

心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持ちがあったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。

それが千変万化です。

ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。

つまり円転滑脱というか、それです。

だから人間は、難しいことですが、アクが抜けなければいけないです。

いつも言うとおり、たいていなことは負けるのです。

議論とか、そういういろんなことは負けるということです。

これが一つの修行です。

先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢できるようになる修行です。

これが本当の生きた修行です。

それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。

いずれは必ず先方が悔悟なり分かるなりして謝るとか、

あるいはそれがもしか分かることになると、今度はこっちを非常に尊敬します。

あの人は偉い、オレが前にあんな下らないことを言ったが、

それを真面目に聞いてくれた、よほど腹ができているに違いないと、それからは信用することになります。」




明主様御講話 「戦で勝つには逃げるに限る」 (昭和28年1月17日)

「私が今度の判決で控訴しなかったので、この間そうとうの偉い人が「どういうわけか、した方がいいではありませんか」と言うのです。

それで私は「控訴したところで駄目だし、万一勝ったところで小さな問題であって、それよりかほうっておいた方が、仇討ちにしろかえって大きい。

それはどういうわけかと言うと、私が今に世界的の偉い人になったとすれば、あの時にあんな酷い目に遭わせて、とんでもない間違ったことをした。

実に相すまなかったと言って、どのくらい後悔して、くやむか分からないから、その方が大きいではないか。

それならやり方がきれいで、かえって効果が大きいから」と言ったところが、「なるほど宗教家らしい考え方ですね」というようなことを言ってました。それでまた話してやったのです。


有名な話ですが、松島に瑞巌寺というお寺がありますが、あのお寺を開いたのは、これはそうとうに知っている人があるでしょうが、昔伊達様に足軽で奉公していた若者で、草履取をしていたのです。

ところがある雪の降る寒い日に、殿様の草履を温めてあげたいと思って、懐に入れておいたのです。

それで外出される時に草履をはくと温かいので、「貴様がはいたに違いない」 と、けとばされたというのです。

そうして追い払われたので、悔しいので、なんとかしようと思ってもどうにもならないので、死んで証をたてようと思って自殺しようとしたところが、

そこを偉い坊さんが通りかかって、お前はなんのために死ぬのだと言うので、自分はこうこういうわけで悔しくてしようがないから、死んで仇を討つと言ったところが、

「それはつまらない、それよりかお前がうんと出世をしなさい。そうして見返してやれば、それが一番大きな仇討ちだ」と懇々と言われて、

自分もなるほどと思ってその坊さんの弟子になって修行して偉い坊さんになって、それから中国に渡ってまた修行して帰ってきたのです。

そうして有名な坊さんの第一人者になったわけです。

そうするとたまたま伊達の殿様がそれを聞いて、そういう名僧ならぜひ御招待したい、しかもやはり仙台の方の人間だそうだし、自分の領地からそういう偉い人が出たということは、なおさらたいへんな名誉だからぜひお招きしたいと、会われるのです。

それで殿様はたいへんに優遇していろいろ話を聞いて、帰りがけに坊さんは自分は土産を持ってきたが、これをぜひ殿様に上げたいと言って、立派な包みから恭しく出して殿様の前に置いたのです。

見ると草履なので、どうしてこういうものをくれるのかと言うと、これには謂れがある、実は私が若い時にあなたの草履取をしていた、それである一日こういうことがあったのです。

と、すっかり話をして、それだからしてこの草履のために自分はこれだけの出世をすることになったのだから自分としてはたいへんな宝物だ。

それもこれも殿様のお蔭だから、その記念としてこれをお土産に持ってきたのだ、ということを話したので殿様は恐縮したのです。

そうかといって悪い気持ちはしないのです。

そこで大いに面目をほどこしたとともに一つの仇討ちをしたのです。

それでは一つ寺を寄進しようと言って造ったのが瑞巌寺というお寺です。そういう話があります。

ですから私はそういうような気持ちで控訴はしなかった、と言ったのです。

なるほど、そう伺ってみるとその方がいいかもしれない、と言ってました。


これは一つの例ですが、すべて人に酷い目に遭わされたり、人からいじめられたりした時は、

それをすぐに仇を討とうという気持ちを起さないで時日を待つのです。

それは自分が悪くてはいけませんが、自分が正しかったら必ず良い結果になるのです。

昨日も偉い人たちの集まりがあって話をした時に、戦の話になって、日本が戦に負けたということの話から私は言ったのです。

とにかく人間は勝とうとしたり、勝ったりすると負けるのだから、戦で勝つには逃げるに限るのだ、逃げるくらいな人ならきっと勝つのです。

ところが日本兵は逃げないのです。

どこまでも進みますから戦に勝てないのです。

私は、マッカーサーがフィリピンで戦った時に命カラガラ逃げましたが、あの時私はみんなに言ったのです。

「マッカーサーはたいしたものだ、とにかく逃げた、だから今に立派な人になる、すばらしい軍人だ」と言って褒めましたが、聞いた人はここにも幾人かいるでしょう。

ところがはたして偉かったのです。


そういうようで人間は勝っては駄目です。

負けて逃げるくらいならまず勝つのです。

ですから裁判なども、控訴して勝ったらやっぱり駄目なのです。

だからこっちが正しくて負けるというのは、非常に割の悪い、業腹なことですが、

それを我慢して負けると、それ以上大きく自然に楽に勝てるというわけです。


これは大きな話ですが、小さなことでもそうです。

家庭的のことでも、負けておくのです。

そうするとその人はきっと勝ちます。

勝った人が必ず謝ることになります。

だから昔から言う「負けるが勝ち」ということは真理です。

その話はこのくらいにしておきます。」




明主様御講話 「一方が勝てば負けた方は悔しがりまた勝つことを考える」 (昭和28年9月5日)

「(一部のみ引用) またその時共産主義の話も出ましたが、その人は右翼団体を作るというのです。

その人はなかなか覇気はあるのです。

そうとうに腕もあるようです。

けれどもやることがみんな見当違いや無駄があるので成功しないわけです。

それで右翼団体を作って共産主義と戦うというのです。


それについては次のように言ってやったのです。

すなわち「共産主義と戦うのもよいが、そうすると結局争いになるではないか。

争いでもよいから成功すればよいが、成功しない。

一方が勝ち、一方が負ければ、負けた方は悔しがってまた勝つことを考える。

つまり仇討ちと同じで、一度殺すと、その伜(せがれ)が悔しがって仇を討つ。

そうすると負けた方はまた悔しがって、そのまた伜がやるということになり、それではしようがない」と言うと、

「なるほど」と言ってました。


第一共産主義というものは失敗するに決まっているから、

私はよく共産主義のことを聞かれるが、気にしないでいる。

つまり共産主義というものはスターリン一代限りのもので、今にだんだんおとろえてゆくから、

問題にするにあたらないと言ったら、感心してました。」




明主様御垂示 「負けるが勝ちという逆理も真」 (昭和23年12月9日)

信者の質問
「御讃歌に御座居ます『如何ならむ罪も赦(ゆる)させ如何ならむ 罪も尤(とが)むる天地の神』の中の、天地の神とは何神様に在らせられますでしょうか。」


明主様御垂示
「神仏によって役目が違う。審判の神と救いの神と違う。

国常立尊は審判の神、善悪無差別に救わるるのが観音様である。

親鸞の有名な言葉があるが、真宗では南無阿弥陀仏の名号によって救われると説いている。

物事は反対に考えるとよい。人間は一時的の事ばかり考える。

だから私は、勝ってはいけないという。

負けなくてはいけないと教える。負けるが勝ちという逆理も真である。

ある物が欲しい時は、要らないというと先方はくれる。

これを現在の政治家に教えてやりたい。

芦田氏小菅行きの原因は、以前吉田の出るべき幕を芦田が出たのがまずかった。

その無理には金が要る。それが原因であった。

民主党には金が要った。今その酬いが表われている。

人間は先の事を考えなくてはいけない。今度の首班指名も変である。

今度の雑誌の寸鉄にもかいた。理外の理でなくてはいけない。今は理屈ばかり教える。

お浄めでも理外の理で、理屈では説明出来ない。」




明主様御垂示 「負けると怨まれないので運が良い」 (昭和24年3月4日)

壁に怨霊の手の痕跡

信者の質問
「私の村の某古寺(曹洞宗)の事で御座いますが、明治初年の頃の事と聞いております話に、

当時その寺の住職の世話をしておった老婆が、永の病床についたのに誰も面倒を見てくれないので、

到頭自殺しようと決心、その時「ああくやしい」と右掌をその寝室の戸板にピタリとつけたとか。

ところがその痕跡が歴然とつき、どうしても消えないで、現在ではその寺の名物になっております。

それは私も何回も見ました。これは霊的にいかなる訳があるもので御座いましょうか。」


明主様御垂示
「執念である。手なら掌から出て印象される。

全く怨みの想念は恐ろしい。そのために霊も行く所へ行けない。

京都の血天井のごときもそれである。普通の血液と違う。

口惜しいなどいう想念は悪に属し、悪霊となるので、霊の毒素のようになっている。

だから人から怨まれる事はいけない。

感謝を受けるようでなくてはいけない。

負けるは勝つというのはそれで、くやしいくやしいの想念は塊ってくる。

負けた方はそういう障りがないから反って運がよい。恐怖もない。

徳川家康などは負けて逃げたから天下をとり、長く続いた。

秀吉などは勝ったから、怨みの想念があるから、没落が早かった。」




明主様御垂示 「負けた方が罪がとれ、勝った方は殖える」

「悪口を言われた方はそれだけ罪が除れ、言った方は罪が殖える。

故に何かやっても勝ってはいけない。

負けた方が罪がとれ、勝った方は殖える。

であるから、勝って天下を取ったのは駄目である。」




明主様御垂示 「悪と戦うことの是非」 (昭和25年3月3日)

信者の質問
「悪と戦うという事と悪に負けないという事はいかなる心得を堅持しておれば間違いはないでしょうか。」


明主様御垂示
「悪と闘うというが、戦わぬ方がよい。

一時は負けても最後に勝てばよい。時を待つ。」




明主様御講話 「負かすときでも一分の逃げ道を造ってやるのが本当の英雄」 (昭和10年8月11日)

「人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く、

一人くらいならいいが、百人千人となってその人を取り巻くと、その人は病気になる。

曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難など受ける。


反対に人を助けるとありがたいと思う想念が光となって行く。

この間 救世主の身体からは光が出るということを言いましたが、この理を考えれば判る。

救世主は何万何千万の人を助けると、ありがたいという想念が無数の光となって寄って来ると、光で取り巻くから肉眼でも見えるようになる。

無論内部からも出るんで、内外両方の光が同時になる。


それで、観音様を書くのに二重に輪を書くことがあるが、外の光と内の光と両方になるんであります。

そういうわけですから、人間は曇りに取り巻かれたらうまくゆかない。

悪魔は曇りのある所へ寄るから、悪いことばかりで善いことはない。

それゆえ人間は怨みを受けることが一番悪い。悪いことが絶えぬ。


勝負の場合人を負かしたり、ぶっつけたりするのはよくない。

負かすときでも一分の逃げ道を造ってやるのが本当の英雄で、戦人で偉いのは敵を全滅させぬ。

全滅さしてはいかぬ。

いっぽうの血路を開いて逃げさせるのでなければならぬとは、なにかの軍学家の言った言葉であります。

そういうわけで、人から怨みを受けず、感謝を受けなければ、どうしても霊が取り巻くから、すべて気持ちよく順調に行くわけはないのであります。」




明主様御垂示 「悪人を成敗すると仕返しをされる虞あり」

不倫無情の夫訴訟すべきや

信者の質問
「私は昭和二十一年に両親の反対を押切って結婚、夫は妊娠中他に女が出来、生まれた子供を虐待し正式の届出もしてくれません。

昨年暮に別れることに致しましたが、子供の認知をしてもらいたいと思いますが、本人にその意志がありません。

子供の認知と養育費のことにつき家事裁判所へ願い出るよう親戚ですすめますが、どうしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはどっちとも言えぬ。臨機応変である。

この人が苦しむ事となるが、これはすべて自分に罪穢があるのでその浄化作用である。

行者など汚をとるため人為的浄化をする。それが難行苦業である。

人事相談所へ願っても構わぬが、根本は自分の罪の浄化であるから、出来るだけ善徳を積んで浄めるようすべきである。

しかし先方が極悪人なら裁判してもよいが、悪人を何でもかんでも征服すると仇することもあるから考えなくてはならぬ。

いずれはそれが形に表われて来るかもしれない。

悪人は神のさばきで自然に滅ぶ。」




明主様御垂示 「信仰に反対する家族に対しても議論は負けるべき」 (昭和27年3月1日)

信者の質問
「教会を作らせていただきましてより六年になりますが、いろいろと邪魔をされます。

先妻の子がおり孫もおりますが、一家入信いたしております。

息子が大光明如来様をやぶいたりいたします。

しかし、いろいろと御浄化をいただく度に良くなってはおります。

教会に一緒にいることを嫌い、他に行けと言います」

明主様御垂示
「霊が憑るんですよ。

そうすると、あなたがお嫁に行ったときは、先妻が亡くなってからでしょう。

亡くなってから、どのくらい経ってからですか。」


信者の発言
「その間に三人妻がありまして」

明主様御垂示
「みんな生き別れじゃないんでしょう。」


信者の発言
「生き別れでございます」

明主様御垂示
「今の、反対する子供の母親か何かが祟っているんじゃないかな。

それがまだ執着が取れないんだね。

その母親は祀ってあるか、解らないのかね。」


信者の発言
「私の家の墓に一緒にし、お祀りもいたしております」

明主様御垂示
「あなたのところの仏さんに祀ってあるんですね。

それは、だんだん良くなりますよ。

だから、息子に対してあなたが、止めようとか注意とか、できるだけやらないようにするんだね。

放ったらかしておくんです。」


信者の質問
「主人が、別居したほうが邪魔が入らなくて良いんじゃないかと申しますが、どういう処置をいたしましたらよろしいでしょうか」

明主様御垂示
「だから、あなたはできるだけ干渉しないように、勝手にやらせるようにするのです。

それから、今の主人の言ったことは・・・別居するということは、ごく良いですね。」


信者の発言
「私は、負けてなるものかと、一生懸命・・・」

明主様御垂示
「それは違う。そのあなたの考え方がいけない。できるだけ負けるんです。」


信者の発言
「親族会議を開いたりいたしまして、いろいろと申します」

明主様御垂示
「そう言われたら『あなたの言うことはごもっともです。私もぜひそうしたいが、どうもそういうわけにはいかないので、どうにもしかたがないんですよ』と言うんです。」


信者の質問
「私もそういうように言っております」

明主様御垂示
「そうして、なるだけ柳に風みたいにして、時節を待っているんです。」


信者の質問
「二十三回忌が来ましても、浮ばれないのでございましょうか」

明主様御垂示
「それはそうですよ。浮ばれないですよ。」


信者の発言
「因縁か曇りかと思いまして・・・」

明主様御垂示
「因縁と曇と両方です。だから、今言ったようにしなさい。」




明主様御垂示 「他宗教に熱心な家族には無抵抗主義で応じろ」 (昭和24年8月)

姉の嫁ぎ先の舅が霊友会の事例

信者の質問
「私の姉(教修をいただいております)が嫁に行った先の舅は霊友会に熱心で、

家の不和は仏を集めて祀りお題目を唱えれば消えると申してさかんにすすめますが、

私宅では、光明如来様におすがりしてればそんなお題目は唱えなくてもよいと申し、姉は板挟みとなって困っておりますが、いかがいたしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「舅さんじゃ目上だから、舅さんのやる通りやればいいですよ。

素直に言うことに従ってね、決して抵抗しちゃいけませんよ。

無抵抗主義で気持ちよくさせとくんです。

そうしといて時期を待つんですね。

霊はやむを得ないことなら承知してますから、決して障るなんてことはありませんよ。

もし障るとすればその舅さんに障りますよ。

いいものはいい、悪いものは悪いんですからね。

時期が来ればちゃんと思うようになりますよ。

だから「時節を待つ」っていう寛容の精神が必要ですね。」




明主様御垂示 「他宗教に熱心な家族には無抵抗主義で応じろ (昭和24年8月27日)

父が御岳教の事例

信者の質問
「私宅は教導所として御手伝いさせて頂いておりますが、私が入信(昭和二十三年一月)と同時に父も御岳教に信仰、親子熱心に互いに信仰の道へ進んでおります。

私も父に負けずに御手伝いさせて頂いておりますが、一生懸命になればなる程父は私に挑戦しうまく行きません。

右の状態で御座いますが、今後いかなる方法をおとりしたら宜敷しいか、御教示下さい。」


明主様御垂示
「競争的はいけない。無抵抗的にせよ。

こっちが勝つと父はよけいに興奮するから、なるべく負けるようにする。

信仰はすべて争いがあってはいけない。

争いがあってはこちらが負ける。」




明主様御垂示 「他宗教に熱心な親戚に対しては無抵抗主義で応じろ」 (昭和24年12月20日発行)

信者の質問
「二十七歳の男、心臓弁膜症および肥大症で一年あまり医療をうけておりましたがはかばかしくなく、

本年二月より御浄霊をいただき軽快いたしました。

本人は親戚の関係から○○教を祀り、先祖も仏からその教えに祀りかえていますが、

今度こそ観音教に代わり、教修をいただくと言っておりましたところ、ひどく親戚の感情を害し絶交にまで行きそうになりました。いかがいたしたらよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「ま、これはなんですね、争っちゃいけない。時を待つことですよ。

こっちは病貧争絶無にするのに、こっちから争っちゃいけませんよ。

無抵抗にしてるといいようになりますよ。・・・

○○教は馬鹿にいいところもあるけど、また馬鹿に怖ろしいところもあるんです。

○○の霊は私に反感を持ってますからこの信仰にも反対するんですよ。

○○は月で、私は日ですからね、昼になって日が出れば月は光がなくなってしまうから、それで先方が反感をもつんですよ。霊的に反対するわけですね。」


信者の質問
「教修だけ受けていればよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「そうそう、それでいいんです。

形のほうはのばして心だけで信じてればいいんです・・・」




参考 明主様御垂示 「不義理な男への慰謝料請求の是非」 (昭和24年7月発行)

無抵抗主義は愚であり小善

信者の質問
「子供が生まれてもその男親はその責任を取らず離れるばかりで困っています。

これを裁判にして慰謝料を請求してよいもので御座いましょうか。

家事調停に申し込んでよいもので御座いましょうか、御伺い申上げます。」


明主様御垂示
「相手の出方とその人柄とその原因によってその方法は決まるもので、いずれがよいと断定は出来ない。

ただ相手が悪質の場合は裁判して強引に取ることも必要である。

そうでない場合は静観していれば自から道が開けるものである。

邪神には善人が一番恐ろしく、また邪魔になる悪に対してはこれを制止しまたは滅すだけの勇気が必要である。

この勇気のないものは真の善人ではない。

無抵抗主義は愚であり、小善である。

印度を見よ、為すべき抵抗は為すべし。」