憎まれるなかれ 2
怨みの想念が妖怪になる
明主様御論文 「霊界の不思議」より (昭和24年10月25日発行)
「(一部のみ引用) 世の中に最も多い事、自己欲望のため、人に迷惑を掛け、人を苦しめ、不幸に陥れる悪徳者の余りに多い事である。
無論これらは、吾々が常にいうところの見えざるものを信じないという、唯物思想の産物ではあるが、
これを霊的にみれば奇々怪々実に恐ろしいのである。
人を苦しめる以上、その被害者は必ず怨んだり憎んだり、仇を打とうとする、その想念は、霊線を通じて相手にブツかってくる。
それを霊的にみると、忿怒(ふんぬ)や怨みの形相物凄く、仮に眼に見えるとしたら、
いかなる悪人といえども一たまりもなく往生するのである。
ところが被害者が一人や二人どころではなく、何千何万の人数となると、多数の想念が集合し、
いよいよ恐ろしい怪奇極まる妖怪が出来、種々の形となってその悪人を取巻き、滅ぼそうとするから堪らない。
いかに英雄豪傑といえども、ついには悲惨なる運命の下に滅亡するより外ないのである。
これは古今を通じて、歴史上の大人物をみれば例外なく右のごとき運命を辿(たど)っている。
その他悪徳政治家の悲劇、成金の没落はもちろん、多数の婦女を迷わせ飜弄(ほんろう)した輩や、悪質の高利貸等の末路をみればよく判るのである。
右に引換え多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞(いじょう)するから、
いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。
よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。
以上によってみても人間の想念は、いかに重要視すべきものであるかが知らるるのである。」
明主様御垂示 「怨みの想念が悪魔を作る」 (昭和24年2月18日)
「それからもう一つおもしろいのは「鰯の頭も信心から」と言いますが、
くだらない石ころでもなんでも一生懸命拝むとそこへ神仏ができるものです。
拝む人間の想念でできるのです。
そして人々が拝んでいる間は神仏の姿は出てますが、拝まなくなると間もなく消えてしまうのです。
そういうのでもある程度の御利益があるので信仰する人もあるんです。
その反対に想念によって悪魔もできるんです。
例えば人を苦しめたりするとその人の怨みの想念が集まって悪魔を作ることがあり、
その悪魔のために始終恐怖に襲われたりするんです。
浜口内閣のときの大蔵大臣だった井上準之助という人は暗殺されたんですが、
これは当時緊縮政策をやったので人々から怨まれたためやられたんです。
人の怨みが集って悪霊となり、それが人間に憑き、その人間を操って復讐することもあります。
そういうときはたいへんな病気になったりしますよ。
いまは税務署長なんていうのはまったく危いですね。・・・
もう一つの例があります。三越の専務は不思議なくらい幾人も死んでいるのです。
というのはあれはデパートの元祖ですが、デパートができたために小売商人がそうとう没落しました。
その人々の怨みのためにヘンテコになるんですよ。
三越の専務で日比大助という人があり、なかなか立派な人だったのですが、
最後は精神病になって死んでしまいました。
だから人から怨まれるのはいけないことで、これくらい損なことはないのです。
英雄の末路が哀れなのもそのためです。
明治天皇がおかくれになったのもそうで、中国やロシアと戦ったのでその人々の怨みがくるが、それが日本の中心の天皇に集まるのです。」
明主様御講義 「真の健康法」より (昭和11年7月)
「元来、真の健康法というものは、霊体を曇らせない様にする事である。
霊体を曇らせない様にするには、その根元である魂を曇らせない様にする事であります。
ここに、一個の人間があるとする。
この人が間違った事をする。
秘密的な人に知られて悪いような事をすると良心が咎める。
それだけでも魂は曇るのであります。
又 人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、
苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。
その適切な例があります。
某大デパートの専務ですが、代々不思議に病気になったり早死したりする。
これはどういう訳かというと、デパートの繁栄によって打撃を与えられている多数の小売商人が始終怨んでいる。
多数のその怨みの想念が始終来る為であります。
成金の没落なども同一の理であって、多数の嫉みの想念の為であります。
又 若くして名人になったり出世をしたりする芸術家などもよく早死しますが、そういう訳なんであります。
右は全部という訳でもないが、名人でも徳のある人は例外の場合もあります。
今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は光となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、
その人は常に健康でいつも朗かでおられるのであります。
これに依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。
その人の行が俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。
ですから、病気はある程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。
祖先の罪穢といえども自分のやり方によって消えるのであります。」 (「岡田先生療病術講義録 上巻 3」より)
明主様御垂示 「大勢の怨みが集まると悪魔が霊界に出来る」
信者の質問
「私の家の勝手や井戸端付近、なめくじや油虫がこの頃夜になると非常に沢山出て来ます。
いかなる訳でしょう。霊的の原因御垂示戴きとうございます。」
明主様御垂示
「その辺の霊界が曇っているから、虫などが湧き易い。
霊界が綺麗ならこんなものは湧かぬ。外へ湧く。霊界が汚い。
どうすればよいか・・・というと、そこの家から光が強く出ると霊界が浄まる。
余計出るようにするには、光明如来様をお祭りして徳を施す。
お祭りして光が強くなったり弱かったりするのは・・・熱心に人間が拝むほど神様の光は強くなる。
仮に下にお祭りすると、神様の光は出ぬ。また、他の神と同列にすると光が薄くなる。
徳を施すと共に熱心に拝む事である。また、大勢が拝むと違う。
霊界は人間の想念でいろいろ違う。
あるものへ大勢が拝むと想念によりそこへ神様が出来る。想念により形が作られる。(邪魔者もある程度まで?)
悪い想念・・・大勢の怨みが集まると、悪魔のような恐ろしいもののような形が霊界に出来、周りを取巻く。
その人の霊は萎縮してどうにもならぬ。
少し位信仰しても御守護がゆかぬ。
そういう時、大勢の殺したい想念が代表して、選ばれて殺す。今の強盗等はそうである。
日本の国は、ゴミ捨て場のごとくで、そこへ蛆が沸く。即ち殺人強盗のごときはそれである。
これは大乗の見方であるから、あまり言えない、説けない。故に小乗に説く。ただ知ってる事は必要である。
悪口を言われた方はそれだけ罪が除れ、言った方は罪が殖える。
故に何かやっても勝ってはいけない。負けた方が罪がとれ、勝った方は殖える。
であるから、勝って天下を取ったのは駄目である。
大乗的にみれば腹は立たぬ。
仏を祀るだけではいけない。」
明主様御垂示 「悔しいという想念は悪霊となる」 (昭和24年3月4日)
壁に怨霊の手の痕跡
信者の質問
「私の村の某古寺(曹洞宗)の事で御座いますが、明治初年の頃の事と聞いております話に、
当時その寺の住職の世話をしておった老婆が、永の病床についたのに誰も面倒を見てくれないので、
到頭自殺しようと決心、その時「ああくやしい」と右掌をその寝室の戸板にピタリとつけたとか。
ところがその痕跡が歴然とつき、どうしても消えないで、現在ではその寺の名物になっております。
それは私も何回も見ました。これは霊的にいかなる訳があるもので御座いましょうか。」
明主様御垂示
「執念である。手なら掌から出て印象される。
全く怨みの想念は恐ろしい。そのために霊も行く所へ行けない。
京都の血天井のごときもそれである。普通の血液と違う。
口惜しいなどいう想念は悪に属し、悪霊となるので、霊の毒素のようになっている。
だから人から怨まれる事はいけない。
感謝を受けるようでなくてはいけない。
負けるは勝つというのはそれで、くやしいくやしいの想念は塊ってくる。
負けた方はそういう障りがないから反って運がよい。恐怖もない。
徳川家康などは負けて逃げたから天下をとり、長く続いた。
秀吉などは勝ったから、怨みの想念があるから、没落が早かった。」
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)
明主様御発言
「成金というものは没落しますね。
どういうわけかというと、あんな奴が出世しやがったというんでみんなうらやむ。
それが悪霊になってその人を取り巻くからなんです。
感謝の想念は光になってその人へいく。
恨みの想念は曇りになっていく。
光ってくるとだんだんしあわせになるし、曇ってくると病気だとか災難があるわけです。
わたしの信者は実によく災難を逃がれる。
それは科学的に説明できるんです。
御守りを入れてると、御守りから光りが放たれるから、どうしたって災難を受けないわけです。
不思議でもなんでもないんですよ。」
明主様御垂示 「怨みの想念が妖怪になる」 (昭和24年6月7日発行)
霊界には一つ目小僧も三つ目小僧もいる
信者の質問
「昭和二二年七月八日の夜、一一時ごろ寝につきましたがなかなか眠れず、蚊帳の中で扇を使っておりました。
そのときなにものかが忍び込み蚊帳の天井から私を押えつけ、蚊帳の天井は正に私の顔につかんばかり、ぐっと腹に力を入れて良く見ましたら、
四尺くらいの丸い真っ黒の顔、その真ん中に大きな目が光っております。
逃げようとして四苦八苦、しかしふと横を見ますと同じような高さ一尺五寸くらいの一つ目小僧が二、三十人並んでいます。
「コイツ」とばかり大目玉をねらって霊放射をいたしましたらヒュッと音を立てて戸外へ逃げてゆきました。
実際に一つ目小僧というものはあるものでございましょうか。」
明主様御垂示
「霊界には一つ目小僧も、三つ目小僧もあります。
人の目をくらましたりいたしますと、一つ目小僧になり、人によく見せようとすると、三つ目小僧になります。
一人が多勢の人に恨まれたりいたしますと、恨みの想念で妖怪となります。
大きいのは親分で小さいのは子分でしょう。
邪霊は黒くなってあらわれるのであります。」
明主様御垂示 「大勢の怨みの想念は妖怪となる」 (昭和24年2月21日)
霊界には一つ目小僧も三つ目小僧もいる
信者の質問
「昭和二十二年七月八日の夜十一時頃寝につきましたが、中々眠れず蚊帳の中で扇を使っておりました。
その時何物かが忍び込み蚊帳の天井から私を押えつけ、蚊帳の天井は正に私の顔につかんばかり、ぐっと腹に力を入れてよく見直しましたら四尺位の丸い真黒の顔、その真中に大きな目が光っております。
逃げようとして四苦八苦致し、ふと横を見ますと、同じような、高さ一尺五寸位の一つ目小僧が二、三十人並んでいます。
「こいつ」とばかり大目玉をねらって霊放射を致しましたらヒュッと音を立てて戸外へ逃げて行きました。
実際に一つ目小僧と言うものは有るもので御座いましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「霊界には一つ目も三つ目もいろいろある。魑魅魍魎、百鬼夜行などとよく言う。
八衢以下にはそういう所がある。
人間の想念によって、こういう妖怪のような形が出来る。
二枚舌など、本当に二枚になる。
人の目を晦(くら)ましたりなどすると、一つ目小僧になる。
多くの人から見られるような間違った事をすると三つ目になる。
想念(と罪)により形が違う。
一人の人を大勢が怨むとその想念は妖怪のようになる。
悪い想念が凝って形となる。英雄など皆そうである。
(その妖怪にやられる。ヒットラーなど、多くの国民に取巻かれる)
改心しなければドン底に墜つる。
(反対に尊敬され感謝されれば光に取巻かれ、多くの人から信頼を受ける)
(大きいのは親分、小さいのは子分で、悪霊は黒い)」
怨みの想念が蛇になる
明主様御教え 「地獄界の続き」より (昭和24年8月25日発行)
「(一部のみ引用) 蛇地獄は無数の蛇が集って来るので、その苦痛たるや名状すべからざるものがある。
この罪は自己の利欲のため、多くの人間に被害を与える。
例えば大会社の社長、銀行の頭取等が自己利欲のため不正を行い、多数者に損害を与えたり、
政治家が悪政によって人民を塗炭の苦しみに陥したりする怨みや、
戦争を起こした張本人に対する犠牲者の怨み等々が蛇となり復讐をするのである。」
明主様御教え 「霊界の構成」より (昭和18年10月23日発行)
「(一部のみ引用) 次に、この話は現在開業している私の弟子が実見した事実である。
それは今より十数年以前、横浜の某所に、中年の婦人が不思議な責苦に遇っている事を聞いたので、好奇心に駆られ早速行ってみたのだそうである。
本人に面会すると、その本人は首に白布を巻いていたが、それを取除くと、驚くべし一匹の蛇が首に巻きついている。
そうしてその蛇はよく人語を解し、特に食事をする時には一杯とか二杯とか量を限って許しを乞うのであって、
そうする事によって、蛇は巻きついていた力を弛めるから、その間に食事をする、
それが約束した以上を少しでも超過すると、喉を締めて決して食わせないそうである。
その原因について本人が言うには、「自分がその家へ嫁入後暫くして、姑である夫の母親が病気に罹ったので、その時自分は早く死ねよがしに、食物を与えない為、餓死同様になって死んだのだそうである。
その怨霊が蛇になって仇を討つべく、この様な責苦に遇わせるのである。」との事で
「世人に罪の恐ろしさを知らせ、幾分なりとも世の為に功徳をしたいという念願から、出来るだけ多くの人に見てもらいたいのである」という事であった。」
明主様御垂示 「仇を討ちたいという執着が蛇になる」 (昭和27年11月1日)
信者の質問
「五年前入信、御神体も御奉斎の一人者の老婆ですが、非常な吝嗇(けち)でありまして常に懐に数十万の現金を持っております。
その老婆が、「御神体を売ってくれ」と言いましてより床につき一月で亡くなりました。
そのとき額のまわりを一尺ばかりの小蛇が何匹も這っていたそうですが、これはどういうわけでございましょうか」
明主様御垂示
「それは前の世で人間を大勢苦しめたのです。虐待するとかしたのです。
そうするとそれを悔しがって、その執着によって蛇になってその婆さんを苦しめる。
つまり仇(かたき)をとるのです。それです。
執着は蛇になるのです。
そういう、悔しい、仇を討ちたいとう執着が蛇になるのです。」
明主様御教え 「怨霊及び地縛の霊」 (昭和18年10月23日発行)
「世間よく怨霊といって、昔から稗史(はいし)や伝説等にいろいろあり、恐ろしきものとなっている。
そうして怨霊とは怨みの霊がその復讐として、当事者又はその子孫に対し、危害を加えようとするものである。
これらも決して想像や仮想的なものではなく、実際にある事は争えない事実である。
彼の有名な四谷怪談や、累(かさね)物語等も実際あった事と想うのである。
それについて二、三の例をかいてみよう。
彼の故 西園寺公望(さいおんじきんもち)公は正妻はなかったそうである。
聞く所によると同家は代々そうであるとの事で、何の為であるかというと正妻と定まると必ず不吉又は不幸な事があるのだそうで、やむなく右のごとくなったとの事である。
かかる種類の怨霊は執着の権化である蛇霊である事は勿論である。
以前私が扱った患者で、二十才位の若い婦人で、左乳の少し上部に相当大きな赤痣があった。
それを治してくれというのであるが、その赤痣を熟視すると、ちょうど短剣のごときもので突刺され、
血がほとばしり出た状態で全く前世における怨霊の結果としか思われないのである。
ただ加害者の怨霊か又は右の女性が被害者でその再生がどちらかであろう。
又、彼の有名な菅原道真の怨霊が雷火となって、種々の変事を起した事は有名な史実であるが、これらも全然無稽(むけい)ではないであろう。
又 平の将門の霊が大蔵省の邸内に祀ってありそれが種々の祟りをしたので、先年懇ろに祭典を執行したところ、それからあまり祟りがなくなったという事実があるが、
この世の中には、唯物的では解決のつかない事が随分あるのである。
そうして怨霊はすべて執着の為、龍神となって活動するものである。
次に、地縛の霊というのがある。
これは変死者の霊であって、溺死、縊死(いし)、轢死(れきし)、墜死、毒死、自殺、他殺等であるが、
これらの死霊はいかに懇ろに葬るといえども、その死所を放れる事が出来得ないもので、
ちょうど、地に縛られたごとくであるから地縛の霊というのである。
これらの霊は、居所が墓場と異なり孤独であるから相手を求めたがるのである。
それが為、その霊の付近を通行するものを誘って自殺又は変死させんとするのである。
世間よく轢死者があったレールの付近や、溺死者のあった水辺等に、次々変死者が出るという事は、誰も知る所であるが、右の理によって肯れるであろう。
そうして地縛の霊は三十年以内には離脱出来得るものであって、死者の近親者等の供養のいかんによって、離脱に遅速のある事は勿論である。」 (明日の医術 第3編より)