憎まれるなかれ 1
明主様御教え 「憎まれる勿れ」 (昭和26年7月18日発行)
「私は、人を憎むなという事を、かいた事があるが、それと共に憎まれる事もいけないのである、
というのは憎まれると、どうしても相手の怨み、嫉妬、報復等の悪念が霊線を通じて来る、
それが邪魔をして、常に不快感がまつわり、晴々としないから、仕事も巧くゆかないようになり、幸運を妨げられるという訳だから大いに注意すべきである、
ところが世の中には、随分人を酷(ひど)い目に遭わせ、不幸にさせる事を何とも思わない人間が沢山あるが、
それでいて成功して褒められるような事になるのを見る人々の中では目先だけしか見えないから、やはりそういうやり方が成功すると思って、真似をしたがる、
こういう人が増えるから、世の中はよくならないのである、
ところが少し長い目でみると、悪因悪果で、悪い奴の没落は一つの例外もなく必ず来るのである。
この理によって、年中気持よく、仕事は順調にゆき、災いも軽く済むようになるには、右と反対に人を喜ばせ、人を幸福にする事で、
この実行者こそ、賢明な人と言うべきである、そうしてこの理を知らせる事が宗教の根本でもある。
だから、私がいつもいう通り、愚かなる者よ、汝の名は悪人なりとは、永久不滅の真理である。」
明主様御教え 「霊波と霊衣 付録霊科学」より (昭和22年2月5日発行)
「(一部のみ引用) 人間のあらゆる思想行為を分析する時、善悪いずれかに属する事は今更いうまでもないが、霊衣の厚薄も善悪の量に比例するのである。
すなわち善を思い善を行なう場合、内面的には良心の満足感が起こるので、その想念は光となり、これが霊体に加わって光を増す事になり、その反対である場合、悪は曇りとなって霊体に曇りが増す。
また外面的には、人に善を行なう時は相手の人の感謝の想念が光となって、善行者に対し霊線を通じて伝達するから光が増す事になる。
その反対である場合、怨み、憎み、嫉み等の想念は曇りとなって伝達して来るから、曇りが増すのである。
これによってみても、人は善を行ない他人を喜ばすべきで、決して他人から憎み、怨み、嫉み等の想念を受けてはならないのである。
世間よく急激に出世したものや成金輩が、いつしか失敗没落するような事があるのは、右の理によるのである。
すなわち、成功の原因は自己の力量手腕、努力によるとなし、増長慢に陥り、利己的、独善的となり、贅沢三昧にふける結果、多数者から憎み、怨み、嫉み等の曇りの想念が蝟集(いしゅう)する結果、霊衣は光を失い、薄くなり、ついに没落するのである。
また何代も続いた名家や富豪などが没落するのは、元来社会的上位にある者はそれだけ国家社会から恩恵を受けている以上、それに酬いなければならない。
すなわち、大いに社会に向かって善事を行ないこれによって絶えず曇りを消すべきである。
しかるに多くは己の利欲のみを考え、利他的行為に乏しい結果曇りの方が増量し、形態は立派であっても霊の方は下賤者同様になっている。
そのため、霊主体従の法則によってついに没落する事になるのである。
私は東京の大震災の少し前、ある霊眼の利く人の話を聞いたが、それによれば大廈高楼(たいかこうろう)の町も、霊的には小さな陋屋(ろうおく)が立ち並んでいるとの事であったが、果たしてその通りになり驚いたのであった。」
明主様御論文 「毒素の解剖」より (昭和27年12月1日発行)
「(一部のみ引用) 話は戻るが、悪の結果として自責の念が起こるが、この心の苦痛こそ軽い浄化であって、
この時悔い改めればいいが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。
もちろん曇りといっても罪の大小により、その量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。
それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、
その想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。
これに反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。
しかしこれとても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、これこそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。
以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間はこれを信じ、これに従うより外はない。
右の通り曇りの浄化作用が病気その他の災いの因としたら、人間幸福を得たければ悪をやめ、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。」 (「結核信仰療法」より)
明主様御教え 「病気の原因と罪穢」より (昭和11年御執筆)
怨まれると罪になる
「(一部のみ引用) 又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、
とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。
これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。」
明主様御寸評 「羨望は恐ろしい」 (昭和25年5月13日発行)
「本教の妨害者にも種々あるが、その一つに羨望が原因である場合も相当ある、
もちろん、卑怯者に違いないが、この種の人間は日本人に特に多いとの話だ、
全く島国根性的小人物に違いないが、
若干の影響はある以上無関心も出来ない。
これはひとり宗教に関した事のみではない。
人事百般羨望による妨害も案外少なくないから、この点大いに注意すべきだ。」
明主様御講話 「祖先の罪」 (年代不詳)
「(祖先の罪とは) 一口にそういうけれど、非常に複雑で、祖先の罪にはいろいろあり、
人を殺した人、人を苦しめたり、ひどい目にあわして怨んでるのもあり、
怨みのため蛇になるものあり、そういうのは動物に生まれ代わり、動物が死んで・・・。
霊界で、その霊が苦しめたりするものあり、調べたらどのくらいあるか判らぬ。」
明主様御講話 「怨みの想念により病気災難にあう」 (昭和10年8月11日)
「人間の曇りなどにより、人間のあらゆる事件などは根本はそれによって起る。
非常に曇ったときには戦争などがある。
その点がはっきり判れば、もう自分はきれいになるよりしようがない。
始終悪いことをしゃべったり、嫌いなことをしゃべると、言葉が一種の曇りになる。
以前、見た人の話によると悪口言ったりなどするときは、煤みたいの鼠色の雲となって出る。
神様の話したり、神様を讃美するようなことを言ってると白い光になって出る。
ですから、多くの人が神様を讃えるような言葉をたくさん言えば、曇りがとれて光のほうが多くなるわけであります。
そして天災地変がなくなる。これが判ったら恐ろしいくらいであります。
人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く、一人くらいならいいが、
百人千人となってその人を取り巻くと、その人は病気になる。
曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難など受ける。
反対に人を助けるとありがたいと思う想念が光となって行く。
この間 救世主の身体からは光が出るということを言いましたが、この理を考えれば判る。
救世主は何万何千万の人を助けると、ありがたいという想念が無数の光となって寄って来ると、光で取り巻くから肉眼でも見えるようになる。
無論内部からも出るんで、内外両方の光が同時になる。
それで、観音様を書くのに二重に輪を書くことがあるが、外の光と内の光と両方になるんであります。
そういうわけですから、人間は曇りに取り巻かれたらうまくゆかない。悪魔は曇りのある所へ寄るから、悪いことばかりで善いことはない。
それゆえ人間は怨みを受けることが一番悪い。悪いことが絶えぬ。
勝負の場合人を負かしたり、ぶっつけたりするのはよくない。
負かすときでも一分の逃げ道を造ってやるのが本当の英雄で、戦人で偉いのは敵を全滅させぬ。
全滅さしてはいかぬ。いっぽうの血路を開いて逃げさせるのでなければならぬとは、なにかの軍学家の言った言葉であります。
そういうわけで、人から怨みを受けず、感謝を受けなければ、どうしても霊が取り巻くから、すべて気持ちよく順調に行くわけはないのであります。」
明主様御垂示 「怨みの想念が邪魔をする」 (昭和23年8月21日)
「邪神は理屈をつけるのが実に巧い。
あまり反対のある時は、当分遠退いた方がよい。
いくら先方が間違っていても、怨みが来て邪魔するから、一旦気を抜いて時期を待って行った方がよい。」
明主様御垂示 「人を騙すと怨みが恐い」 (昭和26年12月8日)
信者の質問
「(一部省略)・・・天刑病・・・そういうのを知っていて、結婚問題とか世話するのは、悪いことですが・・・」
明主様御垂示
「承知でもらえば構わない・・・本人同志がね。
それを隠してやるというのは悪いですね。
あとで知れたら怨みますよ。
人をだまして、その怨みが恐いですよ。」
明主様御垂示 「怨みを買うのは霊的損」 (昭和23年11月28日)
悪口を言われると罪が消える
信者の質問
「個人的または団体的悪宣伝に対し、私どもは宗教人としてよい宣伝をもってこれに報ゆるべきでしょうか。」
明主様御垂示
「間違いに対して説明するのはかまわないが、
うっちゃっておいたほうがいいです。
それに災いされて萎縮するようではまだ駄目ですよ。
悪口を言われるのは結構なんです。
悪口は浄化で、それでこっちの罪が消えるんです。」
信者の質問
「悪宣伝の結果、悪い支障が次々と起ってくる心配がありますが・・・」
明主様御垂示
「起って結構です。
これはいままで世間で言われていたこととは反対です。・・・
大森時代、私は人から悪口を言われると笑ったものです。
大本のお筆先に「悪く言われてよくなる仕組み」とありますがうまく言ってますね。・・・
いろいろな宗教がありますが初めからよく言われた宗教はありません。
いまは世界的なキリスト教だって初めは十一人しか弟子がなかったし、
しかもキリストが死んで十年くらい経ってから心覚えを書いた、それがいまの『聖書』なんです。
それからだんだんに広まってきたんです。
釈迦だけは違うがあれはインドの皇太子だったからです。
天理教の中山みきだって二十何回留置場に入れられ、四回検事局送りになったのです。
ともかく最初は悪く言われるものです。
もっともいまでも天理教を悪く言う人はありますが・・・」
信者の質問
「悪宣伝に対して言い訳をすることはいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「いけない、いけない、言い訳を言うようでは野暮ですよ。
悪口を笑って通せれば人間が一段できた証拠です。
なにか勝負事のようなことでも負けたほうがよい。
勝った場合には「あいつは負けたんで俺を怨んでやしないか」などと思うが負ければこんなことはない。
だから結局人間は、怨みの霊の来ないように、感謝の霊の来るようにすることが肝腎です。
決して人の怨みを買ってはいけない。
これくらい霊的に損をすることはないんですよ。」
明主様御垂示 「くやしさの想念が田畑に来る」 (昭和24年7月13日)
信者の質問
「土の力を生かすのが観音栽培と伺っておりますが、植物に御浄霊するのは現在土に肥毒のある間だけでしょうか。
将来肥毒がなくなったときには御浄霊は必要ないでしょうか。」
明主様御垂示
「これは無論肥毒のある間は必要ですが、しかし将来もやったほうがいいですよ、霊の曇りってものはなんにでも憑くもんですからね。
例えば田圃を売った場合、後になって売り手がその田圃に執着して「ああ惜しかった。あの田は売るんじゃなかった、残念だった」というふうにくやしがると、その想念が田にきますからね。
田圃を抵当にしてたために取り上げられた・・・というような場合はよけいですよ。」
信者の質問
「将来、国がきれいになれば豊作になると考えてよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「無論そうですね。
いつも言うように、いま全国的に騒いでる松や杉の虫も日本人の想念が曇ってるからで、その曇りが虫を作ってるんです。これと同じことですよ。」
明主様御垂示 「怨みの執着と土地の浄霊」 (昭和23年7月13日)
信者の質問
「観音栽培について・・・。
土の力を生かすのが、観音栽培と伺っておりますが、植物に対して御浄霊するのは現在土に肥料の毒のある間だけでしょうか。
将来肥料の毒がなくなった時には御浄霊の必要はないものでしょうか。」
明主様御垂示
「手数をかけただけではつまらぬ。
怨みの執着など土地に残ってると、浄霊の要がある。」
明主様御垂示 「酒乱の前夫の怨霊が妻の殺害を目論んだ事例」 (昭和24年9月5日)
信者の質問
「私は二十二歳の折、弘前市KTの下に嫁ぎました。
夫は毎日二升程の大酒を呑み、揚句の果は大酒乱となり、女狂いを始め、女中等の髪をむしり取ったり、二階より吊したり、また私をもなぐり殺し同様にされる事は毎夜のごとくでありました。
主人はこうする事により一種の満足感を得るようでありました。
私は余りの恐ろしさより、結婚生活三年で一子(女)を残し夫の下を逃げ去り、東京医科大学の薬剤師として、爾後二十三年間独りで生活して参りました。
夫が死亡した事を知りましてより現在のK家に後妻として六年前嫁ぎましたところ、不運な事のみ起ります。
二十一年六月御守様を頂きましてよりも強盗が六回も侵入し、一度などは心臓を凶器で刺され、医者は助からないと言うところを御守護を頂きまして一命を取り止めました。
余りに続く災いに、ある時霊の見える人に見て頂きましたところ、先夫の霊が身近につきまとって、必ず怨み殺してやると言いつつ息を引取ったとの事ですが、
御守様があるため身近に寄る事もならず、少しく離れて窺っているとの事、生死霊の祟りと申されました。
一時は位牌を造り、毎朝善言讃詞を御奏げしておりましたが、却って気持がイライラしてとても続けられませんので、今ではよしております。
どのように致しましたらこの恨みの霊を払う事が出来ましょうか。
何卒御教示下さいますよう御願い致します。
なお、仏壇に屏風観音様を御迎え申しております。」
明主様御垂示
「光明如来様をお祭りすれば、それで霊が働かなくなる。だんだん弱ってくる。
その人が入信しなくてはいけない。
祝詞を出来るだけ聞かす。」
明主様御垂示 「処刑の祟りは三百年」 (昭和26年9月5日)
信者の質問
「以前霊憑かりで、関ケ原の戦いで、逃げ込んで匿まわれていたのに、親父が訴えたため、処刑にされ、霊が出て跡取りができたら取り殺すといっております」
明主様御垂示
「そういう執着は何百年も祟ってますからね。
まあ三百年くらいは祟ってますからね。」
参考 明主様御講話 「神様が駄目信者をまとめて追放する方法」 (昭和27年4月1日)
「信者も多いし、今にだんだん増えて来ますがね。
中には間違った人もあるし、とんでもない人も来ますよ。
多い中にはね。
けれでも神様はそれを大勢寄せて・・・それは因縁のある人ですがね。
因縁についても話しますがね。それから選り分けるんですよ。
選り分けた結果、どうしても役に立たない・・・こういう人間はいないほうが良い。
住む資格がない者だというのが幾人かありますね。
そうすると、その人間を教団からつまみ出さなければならない。
教団のほうで出すと、先方が怨む・・・怨むと、その想念が邪魔するから、
怨まないように神様は一つの間違ったことを造るんです。
これが因縁なんです。
そうすると、そのつまみ出されようとする人が皆信ずるんです。
だから、神様がちょうど良いようにする。
あの人は教団から離れる、惜しい。
と気を揉むが、神様はそういう必要があって・・・教団からつまみ出す指導者を作るんです。」