怒るなかれ


明主様御教え 「怒る勿れ」 (昭和23年9月5日発行)

「昔からある、有名な格言に「成る堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」といい、

また「堪忍の袋を常に首にかけ、破れたら縫え破れたら縫え」という事があるが、全くその通りである。

私はよく人にきかれる事がある。

「先生が今日あるはいかなる修行をされたのであるか、山へ入って滝を浴びたか、断食をされたか、種々の難行苦行をされたのではないか」と。

ところが「私はそんな修行はした事がない。

私の修行は『借金の苦しみと怒りを我慢する』というこの二つが主なるものであった」と答えるので、聞いた人は唖然とするのである。

しかし、事実そうであるから致し方がない。

私は私を磨くべく神様がそうされたのだと信じている。

特にこれでもかこれでもかと言うように怒る材料が次々にぶつかってくる。

元来私の性格としては怒るのは嫌いなほうであるが、不思議なほど怒らせられる。

一度などは非常な誤解を受け、大多数の人に顔向けの出来ないような恥辱を与えられた。

私は憤懣(ふんまん)やる方なく、どうしても我慢が出来ない。

するとその時、よんどころない所から招ばれ、断われない事情があったので、その家に赴いた。

頭がボンヤリして精神が集中しない。

どうにも致し方ないから、紛らすため酒を一杯所望し、酒を飲んだのである。

その頃私は一滴の酒も嗜まないから、よくよくの事である。

そんな訳で、二、三日たって漸く平静を取り戻したというような事もあった。

ところが後になってその事のために、ある大きな災難を免れ得たのであった。

もしその時の怒りがなかったら致命的打撃を受けるところだったので、全く怒りによって助かったわけで、

神様の深い恩恵に感激を禁じ得なかったのである。

右のように、神様は重要なる使命のある者に対しては種々の身魂磨きをされ給うので、

その方法の中でも怒りを制える事が最も大きい試練と思うのである。

従って怒る事の多い人程、重大使命を与えられている事を思うべきで、

この意味においていかなる怒りにも心を動ずる事なく、平然たり得るようになれば、

まず修行の一課程を経た訳でこれについて面白い話がある。


それは明治時代の話で、その当時商業会議所の会頭、中野武営という人があったが、

武営氏がいかなる事があっても怒らないので、ある人がその訳をきいた。

ところが中野氏いわく「私は生まれつき非常に怒りっぽいたちであった。

ある日やはり当時有名な実業家渋沢栄一氏を訪問した際、次の間で渋沢氏が妻女と何か口争いをしていたが、

中野氏の来訪を知って唐紙を開け着座したが、その時の顔は争いの後とは少しも思えない程の、

平常通りの温和(おとな)しさなので、不思議に思うと共にある事を感じた。

それは怒りを制える力である。

『渋沢氏が実業界の大御所といわるるまでに成功したのはこのためであろう。

よし、自分も怒りを容易に制えるようにならなければいけない』と思い、

その心がけをするようになってから、すべてが順調となり、今日の地位を得た」という話である。

まず諸子が怒ろうとする場合、神様が自分を磨いて下さると思うべきで、それが信仰者としての心構えである。


私は借金の事を書くのを忘れたが、私の経験によれば、借金の原因は焦るためであって、焦るから無理をする事になる。

何事も無理は一番いけない。無理をしてやった事は、一時は成功しても、いつかは必ず無理が祟って思わぬ障害にあうものである。

それがため物が早く運んだようでも、結局は後戻り、やり直しという事になる。

日本の敗戦の原因なども、よく検討すると一切が無理だらけであった。

第一焦ったり無理をしたりすると心に余裕がなくなるから、よい考えが浮かばない。

又よい考えの浮かばない時に、無理に何かをしようとする事が更にいけない。

よい考え、すなわちこれなら間違いないという計画が浮かんでから着手すべきで、いわゆる文字通り熟慮断行である。

故に研究に研究をつくし、これなら絶対間違いないという時は借金する事もやむを得ないが、

借金をしたら一日も早く返還すべきで、決して長引いてはいけない。

元来 借金なるものは、なかなか返せないもので、長くなると利子が溜り、精神的苦痛はなかなか大きいものであるから

心に余裕がなくなり、よい考えも智慧も出なくなるので、仕事もうまく行く筈がない。

借金にも積極的と消極的とがある。

事業発展のためにするのは積極的であり、損をした穴埋めにするのは消極的である。

積極的借金はやむを得ないとするも、消極的借金は決してなすべきではない。

損をした場合虚勢をはる事をやめ、いったん縮小して時機到来を待つべきである。


今一つ注意したい事がある。それは欲張らない事である。

昔から大欲は無欲という諺がある通り、損の原因は十中八、九まで欲張りすぎるためである。

よく人が牡丹餅で頬辺を叩くようなうまい話をもって来るが、世の中には決してうまい事はあるものではない。

故にうまい話は警戒すべきで、パッとしない話のほうに返って将来性があるものである。

これらについて私の経験を話してみるが、借金を早く返したいと思い、

又 積極的に宗教上の経営をやらなくてはならないと思い、金が欲しい欲しいと思っているときには、さっぱり金が入ってこない。

しまいには諦めて神様にお任せし、金銭の事を忘れるようになってから、予想外に金が入るようになったので、

実に世の中の事は理屈では分からないと思った事がある。」




明主様御垂示 「怒りを抑えるのが修行」 (昭和25年)

「神様の修行は山籠りや断食などではない。

怒るのを制える事・・・これが修行である。

怒りたい時は修行と思うと楽になる。

怒らないのは本当のものじゃない。

怒るのも神の与えた感情であるから無くてはならぬ。

それを制える事に値打がある。」




明主様御垂示 「怒るのを我慢するのが一番の修行」

使命の大きい程怒る事も大きい

信者の質問
「私は生来短気なので、それに修行も出来ていず、人一倍怒りっぽい性なのかも知れませんが、

何かかにか絶えず怒らなければおられない事が出来てきます。

私のやり方が間違っているからと反省しても、中々反省して自分を慰めきれぬ時もあります。

これは私のやり方にまだまだ誠が足りないと神様が御訓(さと)し下されているものでしょうか。

それとも邪神が仕事を妨害しようとでもするのでしょうか。

爆発をして心を晴らすのと、堪忍するのといずれが勝利者になれましょうか。」


明主様御垂示
「神様が修行をさせるので、怒るのを我慢するのが一番の修行である。

神様は一日のうちでも次々怒らす。

が、決して爆発さしてはいけない。

でないといつまでも続くであろう。

怒らないような人間も駄目だし、怒る人間でも駄目である。

使命の大きい程怒る事も大きい。

怒っても我慢出来る人でなくてはいけない。

怒る事があっても一方に大きい倖せを戴ける。

神様が邪神に邪魔をさせる。邪神を働かさせるが、邪神のためにお蔭をもらう事はよくある。

段々よくなる。気永に時節を待つのがよい。焦るのはすでに地獄へ落つる。

人間の智慧などは駄目で、人間は常識で考えてやればよい。

焦っては苦しくなる。苦しみの元は執着である。」




明主様御垂示 「威張るな、怒るな、早まるな」 (昭和23年5月18日)

「(一部のみ引用) 私は以前、治療士三訓を作り治療所へ貼らせた。

「いばるな、怒るな、早まるな」です。

三つのうちいずれか一つにでも該当したら治療士の資格がない。

結局こういうことにより自分が磨かれるんです。

神様の修行の中で一番大切なのはこっちを怒らせることです。

昔は私も神様からよく言われました。


以前は私も神様のことはよく判らず、はらわたが煮えくり返るように思ったこともあり、あまり癪(しゃく)に触って頭がボーとしてきたこともある。

私は二十年間借金で苦しみ、差し押さえも七、八回、破産したこともあります。

差し押さえられると箪笥(たんす)の引き出しに封印しますが、その紙をそっとはいで引き出しを開けたこともあります。

あいつをはがすと刑事問題になるんですから怖いですよ。

上野毛の家には木札にこの家は仮処分の家だと書いてある。

あまり人目につかぬ所に立ててますが、実際借金には苦しみました。

またGKもひどいことをしました。

離れを作ろうとして土台を作りすっかり準備したら建築停止をくわせた。

そのときも腹が立ちました。


ところがおもしろいのはね、箱根の観山亭を作るとき、その離れの材料をそっくりそのまま持って来たんで、観山亭はできたんです。

いまから考えればむしろお礼を言っていいくらいです。

計画を立ててやろうとしてもうまくできないときは、神様になにか思し召しがあるんだと考えることです。」




明主様御垂示 「怒りを我慢するのが修行 明主様の御体験」 (昭和23年8月4日)

「悪を憎む・・・憎むのは感情だからよいが、行為に表わしてはいけない。

憎むのはいけないが、その気持は起る。

ある程度で制えるとかなくするという事である。

我がなくてはいけない。「我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とある。我を出すと失敗する。故に出さぬのがよい。

怨み憎みは出来るだけ早く忘れた方がよい、自分に返ってくる。

私など若い時はあったが、段々その感情がなくなった。

その時非常に憎く思い、太い奴と思っても、後になると非常に善い事したと感謝するような事もよくある。

観山亭の資材もそうである。富士見亭の隣へ建てるのをGが止めた。

それで十五坪位の大きさの資材が間に合った。Gは不必要な嫌がらせをしたが、彼は大した仕事をした。

今はこちらで詫びたい気持さえする。

大本教の時、非常にヤッカミ、私を目の仇と迫害した。それで脱退した。

それを“真如の光”にデカデカと出した。

そのため十年十二月八日の弾圧にも巻き添えを食はなかった。

でなかったら、私は木村、田口と比肩した位だから大変だった。全く離反した事が・・・。

怒る事を我慢出来なくては修行が出来たと言えぬ。

そのためにも怒らせる人がなくてはならない。それは有難い事だ。

私は悪口を言われるのがおかしい。

人間にはおかしな人があり、人を怒らしたり興奮などするのを非常に面白がる人がある。それ故なおさら興奮しない。」




明主様御垂示 「個人的な怒りはいけない」 (昭和24年6月13日)

信者の質問
(一)「こちらの発する言葉が相手を益すると思われる場合には、嘘、怒り、泣き言の相槌(あいづち)などの言葉を発してもよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「嘘はしかたないですね。「私の病気はどうでしょうか」と訊かれて、

「あんたのは絶対治りっこありません」って言ったんではガッカリしますからね。(笑声)

「治るから安心しなさい」って言うのは、嘘であってもいい嘘ですよ。


怒りは、天下国家のための怒りならいいが、個人的のはいけませんね。

また、怒りを行動に表わすのは勿論いけない。

第一、そんなことは益がありませんよ。

よく子供をぶつ人がありますが、そうするとその子供はまた他の子をぶったりすることになるんです。

けれども、どうしても怒らずにはいられないときもありますよ。

それを我慢してると精神病になる。(笑声)

女の人なんかにもおやじに叱られたり、誤解されたりしてボーとなることもありますね。

だから、そこは臨機応変にしたらいいんですよ。


嘘や怒りも原則としていい働きのものならいいんですが・・・

しかし、この道を宣伝して人を信仰に入れようとする場合に、目的のためには手段を選ばぬ人がありますが、こんなのはいけませんよ。

やはり神様のことはどこまでも正しくやらなくちゃあ。

本当のことであり、ありがたいことだから信仰する、っていうのが正しいんです。

まあ、嘘が言えないようになるのが本当ですね。

泣き言の相槌、これは打つべきですよ、その人の慰めになりますからね。

しかし、これも程々ですね。あんまり相槌ばかり打ってたんではこっちもつらいですからね。

そういうときにはね、こっちが先に急所をポンと言ってやるんですよ、そうすると相手も泣き言をやめますよ。

つまりね、誠をもって神様にお任せしてやれば、そのときにちょうどいい適切な言葉が出ますよ。だから、心配する必要はありませんね。」




明主様御垂示 「大乗的な怒りは必要」 (昭和23年8月4日)

「夜の世界においては神としての救いは出来ない。

神様は仏となって救われた。

神の中には仏にならぬ方もあったのは、神格によるのもあり、その神の御意志によるものもある。

八大龍王のごとく、自分は仏になるのも嫌だから龍神になろうという神もあった。

そんな風でなく、救いのためにはどうしても仏になろうという神もあり、種々で、神様によって各々任意に処されたのである。

神様といっても人間の心持と同じ事であって、感情もあり理性もある。

神の御性質も種々違っており、怒りっぽい神や穏やかな神もある。

怒りっぽいといっても、神の場合は多くの人を救う意味で怒られるので、人間の怒るのとは違う。

四魂の中でも荒魂(あらみたま)があり、怒りを多分に含んでいる。


怒りも大乗的に怒るのは差支えないどころか必要である。

とかく家庭内や個人の事で怒るからいけないのである。

善い事であっても、世界的にいって善い事でなくては本当でない。

忠君愛国といっても世界的のそれならいいが、日本的にのみ善い思想はいけない。」




明主様御垂示 「大きい怒りは罪にならない」

信者の質問
「霊界人は修行のみで罪を犯す事は無いでしょうか。」


明主様御垂示
「霊界にいて、地獄の霊などは罪を犯す。

よく祟ったのなどはそうである。祟った霊は段々地獄の下の方へ落ちてゆく。

すべての罪の元は執着である。執着を除るのが霊界である。

我と執着を除ると非常に楽になる。苦しみが減る。

人間は怒るという性能を神から与えられているから、怒るのもいいが、短かければいい。長いのはいけない。

神の怒りは大きい。人間の怒りは小さい。

こんな世界ではいけない、悪魔の横行する世界である・・・これは神の怒りである。怒りも大きければ罪にならぬ。

地上天国建設のごときも一種の怒りである。

世の中が地獄みたいに悪魔、邪神がやっている、怪しからぬ、この怒りで人間は救われる。

我と素直は上の人の言った事のみでなく下の者の言った事にも素直になる。

部下の者に対する素直も必要である。

これは民主主義で、大勢の者の意に従うのである。

素直なら争いがない。両方で意地を通そうとするから争う。

負けたために発展する。

先方を怨ますのでなく、出来るだけ感謝されるようにする。感謝されると光になる。怨みは一種の悪霊になる。

霊界へ行くと罪を犯すのは現界より少なくなる。

霊界へ行くと善悪や罪などはっきりするからである。」




明主様御垂示 「憤慨するのは副守護神」

信者の質問
「(一)人間は青年期において壮年期にある者の言動を見聞きして青年特有の潔癖に照らして憤慨する事がありますが、この場合の本守護神の状態を御伺い申し上げます。

(二)右の反対に壮年期にある者が青年特有の道徳上の潔癖を冷笑する場面をよく身受けますが、この場合の壮年者の本霊及び副霊の状態を御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「(一)憤慨するのは副守護神で、世界の事、人類の事等を憤慨するのは本守護神である。

個人的な小さい事を憤慨するのは悪の方で、小乗の善であるから間違っている。

人間は個人的に憤慨するなら、自分の言動を憤慨すべきである。

人間はそんな憤慨するのは間違っている。

神様はそんな事はお嫌いで、神には全人類に対する事で、個人的怒りはない。

(故に人間のそんな憤慨は結果において碌な事はない)

人間は他人に対し怒る事も咎める事も出来ぬ。

自分をみれば人を怒ったり悪く思ったりは出来ない。


(二)これも副守護神で、副守の巧妙なのは善の仮面を被る。

共産主義などそうで、邪霊がそれを善と思わせるのである。

そういう人は愛が足りない。愛を通して物をみれば、憎むものも咎むるものもない。

善は利他的観念、他人をよくする。人良かれという事。

これは大乗も小乗もない。他人良かれの人が集まればよい。

自分を善く見、他人を悪く見る観念から争いが起る。

神は愛なり、力なりで、愛をもってみれば人を咎める事はない。

人を善とか悪とか決めるのは僣越である。人間が人間を見て分るものではない。

常識でみれば大体判るが、本当の事は判らぬ。これは神の領分である。

要は人間が人間を裁く事は出来ぬ。


キリストは姦淫の罪を決めたが、これは自分自身がその気持があるからである。

これは作り話かもしれぬが、ある若い女が名僧の弟子になり、ある時イキナリ齧りついて試そうとした。

「私が齧りついたらあなたはどんな気持か」と質ねると「何ともない」(枯木寒厳之冬暖気なし)と答えた。

何の感じもしないというのは嘘で、実際は変な気持がした筈である。

姦淫は許すべからざるものであるから制えた・・・と言うのなら本当である。」




明主様御教え 「怒りを克服する」 (昭和26年5月30日発行)

「私は最近、怒りを和(やわら)げる方法を神様から教えられたので、今その福音を伝えようと思う、

およそ人間この世に生きている間、何が一番苦しいかといって憤怒に越したものはあるまい、稀には怒らない人もあるにはあるが、これは倖せのようでも、実は一種の変質者である。

まず一般人としては、怒らない者はほとんどないと云ってよかろう。

昔から淘宮術(とうきゅうじゅつ)やその他の修養法によって、怒りを克服する方法もあるにはあるが、真に効果のあるものはほとんど見当らない、

しかしながら怒りをただ抑えるだけとしたら、怒りの苦しみは免れるとしても、新たに抑える苦しみが生まれるから、何にもならない、

怒りの苦しみが大きければ大きい程、抑える苦しみもそれにつれるからで、差引二一天作の五(にいちてんさくのご)である。

ところが、今度私が神から教えられた方法は、怒りの感情を楽に消す事が出来る、何と素晴しいではなかろうか、今それをかいてみよう。


そもそも、人体の中央にある鳩尾(みぞおち)は、昔から中腑(ちゅうふ)と言われる程重要な部分である、よく臍(へそ)が中心というが、これは腹部の中心であって、勇気とか胆力とか、決断力というような意志の中心である、

よく肚が出来ているとか、太っ肚だとか、肚が据(すわ)っているとかいうのは、その意味である、

しかし私が常に言う、前頭部は智慧、記憶等の理性を掌(つかさど)り、後頭部は喜怒哀楽等の感情を掌り、肚は右のごとくであるとしたら、

この三位一体的総合された結晶が、前述のごとく人体の中腑である以上、怒りの場合もやはりこの部へ想念が集中するのである。

何よりも怒った時、鳩尾部に何か結ばれた塊のようなものが感じられる、これは誰しも経験するところで、また腹が立つという言葉も腹にある棒が立って棒の頭が鳩尾に当る訳である、

それはとにかく、腹の立った際 鳩尾(みぞおち)部を浄霊すると、間もなく塊が溶け、結んだ紐(ひも)がほどけるような、胸がひらけて何とも言えないいい気持となり、段々心が軽くなって、怒った事が恥しいようになるものである、よく怒りが解けるというが、その通りである。

しかも浄霊なるものは、自分でも人でもどちらも治せるから、これほど結構な事はあるまい、言うまでもなく個人は元より一家の平和、人との和合、大にしては社会や国際間の平和が破られるのも、怒りが原因であるから、実に大きな救というべきであろう。」




明主様御講話 「鳩尾浄霊で立腹が治まる」 (昭和28年4月6日)

「それからもう一つは、精神病ではないが、腹とかを押さえた時に、後気持ちが悪いことがあるでしょう。

その時は、鳩尾を浄霊するときっとなおります。

それで前頭部と鳩尾で天地になってます。

私もやっぱり腹も立つし気持ちの悪いことがよくありますが、そういう時は鳩尾(みぞおち)を浄霊すると必ずなおります。


やはりこれが頭に関係あるのです。

これが始終モヤモヤしていると、頭もやっぱりおもしろくなくなるのです。

そうすると精神病やヒステリー的のことが起りやすいのです。」