批判行為の是非について


明主様御垂示 「批判はいいが善悪は決めるな」 (昭和23年11月8日)

信者の質問
「前々回「救いと裁き」についてありがたいお言葉をいただきましたが重ねてお伺い申し上げます。

私どもは日常しばしば他人を批評いたしますが、これも人間には僭越なことでしょうか。

他人の批判により向上を期し得られるとも考えますが、この点いかがでございましょうか。」


明主様御垂示
「批判したってかまわない、そんなに固苦しく考えなくてもいいのです。

けれどもね、あの人はいいとか悪いとか決めることはいけないのです。

いいとか悪いとかいうことは人間には判らないことだから。

殊にこっちが明るい気持ちで言うのならいいが、

悪意をもってあの人はいいとか悪いとか言うのはいけないのです。

憎悪の心をもって言うのは罪になります。

それから自分が悪口を言われてそれを気にかけるようではまだ駄目です。

自分は天地に俯仰(ふぎょう)して愧(は)じざる行動をとっていればそれでよい。・・・

他の人からよく思われたいとか感謝されたいとか思うのは間違いです。

人の気に入ったり愛されたりするよりも、

神様の気に入り神様から愛されたいとの気持ちでするのが本当です。

そうする場合、他の人々には悪くとられるかもしれません、

しかしそれは気にする必要はないのです。・・・


私も以前はさんざん人から悪口を言われたものです。

大本時代にも、人々を信者にして大本の本部の亀岡へ送るとそれっきりなんとも言ってこない。

でよく調べたら、亀岡へ行くと「岡田は邪神だから近寄ってはいけない」と言われるのでみんな離れてしまったのです。

こんな理屈に合わぬことはないですよ。

向こうはこっちが邪神だと思ったかもしれないが、

こっちは向こうが邪神だと判ったので大本を離れたのです。・・・

人から悪口を言われるのは、霊的にはこっちの罪をその人がとってくれるのです。

だからむしろありがたいのです。

その代わり悪口を言うほうは罪を着るのです。」




明主様御講話 「善悪の批判もいいが、決めるのがいけない」 (昭和28年4月25日)

「今までの信仰では本当の大乗というのはなかったのです。

だから信仰は大乗信仰でなければならないのです。

小乗の人は経が長いので、緯が短いのです。

このために広がらないから発展しないのです。

やはりバッジにあるように十の字で、両方同じでなければならないのです。

経もあり緯もありでなければならないのです。

だから善悪の批判もよいですが、決めるのがいけないのです。

決めるから間違ってしまうのです。

それは信仰には限らないので、神様が世界を経綸されるのは実に深いのです。

だからあれが悪いとか、このやり方が良いとか悪いとか、そういう批評は本当はできるものではないのです。

ところがそれをぜんぜん批評したり、なにもしないというのは、それもいけないのです。

それは世の中の政治などはそれでよいのです。

しかし神様のこと、私がやっている仕事だけはぜんぜん分からないのです。

だから信仰のことだけは決めないで、あるがままにするのです。」




明主様御講話 「神様は想念の自由は許されている」 (昭和27年4月15日)

「神様に見てもらおうということはあるが、人間を対象とはしないですね。

神様に見ていただく・・・それを対象にしますから、それが本当というわけになる。

だから考え方が、神様中心・・・神様だけに見ていただく、お気に入っていただく・・・これで良いんです。

そういうふうに思っていると、きっと御守護が厚いんですよ。

だからそれが・・・ちょっと今までのいろいろな習慣やなにかもあるので、難しいんですね。

その点ですね。

そうすると、あいつは悪いとか、あの教会は間違っているとかいうことは、口に出さなくなる。

思うことはかまわないですよ。神様は想念の自由は許されている。

しかし、行動に出してはいけない。

大体その時の気持ちで、大いに興奮して言うが、それを我慢して言わないと、きっとああ言わなくて良かったということがありますよ。

あいつは悪いと言うが、あとになると、たいてい後悔するものです。

これは信仰の急所ですね。」




明主様御講話 「批判する場合、結果から考えるべき」 (昭和28年8月1日)

「何か問題があったりしたときに、人を批判する場合には、両方を批判してゆくとよいです。

悪いと決めないで、悪い点は悪い点で認識する必要はありますが、

しかし悪い結果をよいほうの頭で考えたら、結果からいうとどうだろう、ということを考えてみるのです。

そうすると案外よいことを発見するものです。

一番大きな例としては、日本が戦争に負けないで、天皇制が続いていって軍部がいばっているとすれば、

メシヤ教というものは今もって小さくなってビクビクして、いつなんどきやっつけられるか分からないというようでいなければならないのです。

ところが負けたために国家の組織が違ってしまって、信仰の自由ということになって、

いろいろと思ったとおりのことをやれるようになったために、わずかの間にこれだけになったのですから、

敗戦ということは、一時的には非常にガッカリもし、嘆きもするが、少し時がたてばとんでもない結果になります、

そうしてメシヤ教がだんだん日本を救うとすれば、日本人だってどれだけ幸福になるか分からないのですから、そうすれば敗戦というものは敗戦様々です。(中略)

敗戦のときの日本人の悔しがり方というのはたいへんなもので、神も仏もあるものかというようでしたが、

私はそれが分かっているから、敗戦の明くる日にごく親しい人にだけは、大いに祝うべきことだと言ったのです。

これは大きなことですが、小さなことでも同じです。」




明主様御垂示 「文書による悪口の罪が一番軽い」 (昭和26年8月25日発行)

信者の質問
「同じような行為により相手方に悪と思われる場合に、無智のためと、意識しているときと、偏見による正義感のため、などありますが、

霊的に言ってその罪はいかなる差異がありましょうか、例えば腕力で打つ場合とか、口頭とか文書による場合などありますが。」

明主様の御垂示
「無智のためは少ないが、偏見のためはその次で、意識しているためが一番大きい罪である。

その行動については、腕力が一番悪い、言葉がその次で、文書が一番軽いのである。

これらは常識で考えれば判るはずである。」


信者の質問
「明主様の御論文に「之も慢心」を拝聞いたしましたが、

長上、同輩、目下の人に対し非難したり、中傷したりした言葉、行いの罪は霊的に、また体的にいかなることになりましょうか。」

明主様の御垂示
「それに相応する罪で、これもよく考えれば判るはずである。」