裁くなかれ


明主様御教え 「人を裁く勿れ」 (昭和27年5月21日発行)

「この事については、信者の中にも知らず識らず間違える人がよくあるからかいてみるが、

これも以前私はかいたように思うが、今でも時々耳にするので再びかくのである。

よくアノ人は善いとか悪いとかの批判をしたり、酷いのになると、アノ人には邪神が憑いているから、気をつけろなどと言う人があるが、これこそ大変な間違いであって、

人を邪神という人こそ、実は御自分に邪神が憑いているのである。

なぜなれば人間が人間に対して、善悪正邪など分かるものではない。

というのはこれこそ神様の領分に属するからである。

だからそういう人は人間の分際で神様の地位を侵しているようなものだから、とんでもない慢心脱線である。


従ってこういう人こそ、邪神と見て間違いはないので、大いに注意すべきである。

もちろんそういう人は本当に神様を信じていないからで、よくあの人の信仰は間違っているとか、アノ教会のやり方は悪いから改革せねばならぬなどと、真面目臭って言うが、

もし信者の中で本当に悪い人があるとすれば、神様はチャンと裁いて下さるから神様におまかせしていればいいので、少しも人間の心配など要らないのである。

それが信じられないとしたら、その人こそ神様よりも人間の力の方を信ずるのだから、これほどの慢心取違いはあるまい。

というように我メシヤ教は最高の神様が、一切統轄なされているので、

間違った人に対しては、神様は最初その人を覚らせるべくお気づけをされるが、

それで覚らない時は命まで召上げられる事がよくある。

今までにもそういう例のあった事は、古い信者はよく知っているであろう。

従って人を裁くなかれという格言をよく守ると共に、むしろ絶えず自分自身を裁いていればいいので、そういう人こそ本当に神様が分かっている人である。」




明主様御教え 「裁く勿れ」 (昭和28年5月13日発行)

「私はいつも信者にいっている事だが、アノ人は善だとか悪だとか、御邪魔になるとかならないとかいっている人もあるようだが、

そういう人がまだ少しでもあるのは充分教えが徹底していない訳である。

そうして度々言う通り、人の善悪を云々(うんぬん)するのは、徹頭徹尾神様の地位を冒す訳で、大いに間違っているから充分慎んで貰いたいのである。

それはもちろん人間の分際として人の善悪などいささかも分るはずもないからで分るように思うのは全く知らず識らずの内に慢心峠に上っているからである。

従ってこういう人こそ、実は信仰の門口(かどぐち)にも入っていない証拠である。

また御経綸にしても人間の頭で分るような、そんな浅いものではないので、この点も大いに心得ねばならないのである。

何しろ三千世界を救うというような、昔からまだないドエライ仕組なんだから、余程大きな肚(はら)にならなければ、見当など付くはずはない。

つまり小乗信仰の眼では、節穴(ふしあな)から天井を覗(のぞ)くようなものである。

私は耳にタコの出来る程、小乗信仰では不可(いけ)ない。

大乗信仰でなければ、神様の御心は分るはずはないといっているが、どうも難しいとみえて、間違った人がまだあるのは困ったものである。

ところが世間一般を見ても分る通り、あらゆる面が小乗的であり、特に日本はそれがはなはだしいようである。

信仰団体なども内部的に派閥を立て、勢力争いなどの醜態は時々新聞を賑わしているし、

その他、政党政派、官庁、会社等の内部にしても、御多分に洩(も)れない有様で、

これらも能率や事業の発展に、悪影響を及ぼすのはもちろんである。

もっともそういう間違った世の中であればこそ、神様は立直しをなさるのである。

そうしてこれらの根本を検討してみると、ことごとく小乗なるがためであるから、どうしても大乗主義でなくては、到底明朗おおらかな社会は、実現するはずはないのである。

それだのに何ぞや、本教信者でありながら、世間並の小乗的考え方がまだ幾分でも残っているとしたら早く気がつき、頭を切替えて、本当の救世教信者になって貰いたいのである。

そうでないと段々浄化が強くなるにつれて、神様の審判も厳しくなるから、いよいよとなって臍(ほぞ)を噛んでも追っつかないから、改心するなら今の内と言いたいのである。

大本教の御筆先に「慢心と取違いは大怪我の因であるぞよ」という言葉が、繰返し繰返し出ているが、全くその通りである。

またキリストの「汝人を裁くなかれ」の一句も同様である。

要するに人の善悪よりも自分の善悪を裁く事で、他人の事などは無関心でいる方が本当である。


ところがまだ驚く事は、アノ人は余り感心しない事をしているのに、明主様はお気が付かれないのか、

イヤ御気が付かれても、御慈悲で御見逃しになられているのか、

あるいは仰言(おっしゃ)り難いのでそのままにしておかれるのではないか、

もしそうだとすれば、吾々が明主様に成り代って、警告を与えなければならないと思うのだろうが、これが大変な誤りで、私としては反って不快である。

というのは私はそんな甘ちゃんに見られているのかと思うからである。

考えてもみるがいい、仮にそうだとしたら世界人類を救い、悪魔の巨頭と闘って勝つというような、すばらしい事など出来る訳がないではないか、

ゆえにこういう御親切な人達こそ、私からみれば大甘ちゃんどころか、赤ん坊としか見えないのである。

以前私がかいた「甘くない者を甘く見る甘さ」である。


そうして信者は知らるる通り、現在どんな人間でも、毒素のない者は一人もない。

これは体的だが霊的にみても同様、欠点のない者は一人もないので、それだからこそ神様は浄化によって救われるのである。

また「馬鹿野郎よく考えりゃ俺の事」の名句の通り「甘い奴よく考えりゃ俺の事」でもある。

ついでだから今一つの事をかいてみるが、私は誰の心の中でも必要だけはチャンと分っている。

ただそれを口へ出さないだけで、そのため明主様は御存知ないのだろうと心配するが、私としては百も承知で、ただ黙して神様にお委せしているのである。

というのはどうしても見込のない人は、神様は撮(つま)み出すか、悪質な人は命まで召上げて解決されるのであって、今までもそういう人も何人かあったので、古い人はよく知っているはずである。

右のように万事神様にお委せしている私は、いつも気楽なもので心中春風のごとしである。

そうして私からみれば、世の中の人のほとんどは甘ちゃんばかりといっていい。

世界的英雄にしても、日本の偉方にしても、はなはだお気の毒だが、お人好しの坊っちゃんと思っている。

その中でも最も甘ちゃんは悪人である。面白いのは彼の踊る宗教の北村教祖は、人の顔さえ見りゃ蛆虫というが、言い方は野卑だが、本当だと私は思っている。

話は大分横道へ外れたから、この辺で筆を擱(お)く事とする。」




明主様御教え 「之も慢心」より (昭和26年9月12日発行)

「(一部のみ引用) よく信仰に熱心の余り自分の属している教会の会長始め、役員等のやり方が面白くないとか何とか非難して、それを改革しようと忠告したりしても、

それが容れられない場合、非常に気を揉む人も時々あるようだから、これについてかいてみよう。

右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはいわないが、大いに考慮を要する点がある、

というのはその考え方は小乗信仰であるからである、本教はいつもいう通り大乗信仰であるから、世間並の考えとは大変違っている。

その点が認識出来ないと、神様の思召に適わない事になる、何よりもあの人は善人だとか、悪だとかいうのは、すでに慢心である、

何となれば人間の善悪は神様でなくては判らないはずで、以前もかいた事があったが、大いに慎まなくてはならない。

もし間違ったり、悪人であれば、神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである、

だから人間が心配や取越苦労などするのは、神様の御力を信じていないからという事になるではないか、

その証拠には今まで間違った信仰のために、神様から裁かれ、人によっては命まで失った事実は沢山あり、

古い信者は幾度も経験しているであろう、だから人の善悪を批判する前に、まず自分の腹の中の善悪を見る事である。」




明主様御教え 「人は人を咎むる勿れ」 (昭和25年3月25日発行)

「時々人を咎める事の可否について質かれるから、ここにかいてみるが、

実をいえば人を咎める権能は神のみが有せられるものであって、

人が人を咎めるという事は実は人が神の地位を犯す事となるのである、

また別の面からみるも、人を咎めた結果は良い事はまずない、大抵は逆効果となるものである。


私の事をいうが、私は人が間違った事をしてる場合、

見て見ぬ振りをして放っておく、

すると間違った事はいつか頭をブッつける時が来る、

そこで自ら眼が覚め心から悔改めるものである、

これをたとえていえば、坂から大石が転っている際、それを止めようとするようなもので、決して止まるものではない、

もし無理に止めようとすると怪我をするのがオチである、

ゆえに落ちるのを待って落ちてから徐(おもむ)ろに上げればいいのである、

といってもその場合そういう事をすると結局失敗するという事は話してやった方がいい、

それによって頭をブッつけた時、ハハアー以前言われた事はこれだなと早く悟るからである、


以上のごとく人間が人間を咎め権力や何かで無理に制えつけたり脅かしたり、また戒律などで縛るのは一時的で、いつかは必ず反動があり、結局は面白くない、

どうしても当人自身が非を悟って心から悔改めるのでなくては本物ではないのである。

この事は医学にも当はまる、現代医療は病気に対し種々な唯物的責道具で、病気を止めようとするが

なるほど一時は止め得ても必ず反動が起って再発する、それが初めの病気より悪質である、

ゆえに吾らの神療法のごとく全然責道具など用いないで、病人自身有する良能の力で自然に治させるゆえに、その良能力を増させる方法こそ真の医術である。」




明主様御垂示 「裁く勿れ」 (昭和24年7月)

信者の質問
「入信しても邪神の虜となり、また熱心な信者でも邪神に引かれる傾向があるように存じますが、

このようなところでの教導師の心得について御教示をお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「これはね、邪神に負けるとか、引かれるとかいうこの人の心が間違っているんです。

邪神かどうかってことは人間には判らないんですよ。

神様でないと判るもんじゃないんです。

だから、こんなことを言う人は神様の地位を冒してるんです。

つまり「裁いている」んですね。キリスト教の「聖書」にも「裁く勿れ」ってあるでしょ、それですよ。

邪神が憑いてるかどうかってことは決して人には判らないんで、かえってそういうその人があるいは邪神かもしれない。

だからこんなことは絶対に言っちゃいけないし、また言えないんです。

こんな人は、自分の気に入らない人はみんな邪神にしてしまうもんですよ。

ところが邪神だなんて言われる人で、馬鹿にいい働きをする人もあるものです。

まただれが見てもいい人であっても、実は反対のこともありますしね。

だから神様でなければこういうことは判らないんですよ。

神様はいろんな人を使われますからね、芝居と同じようなもんで、善人ばかりでは芝居にならないんです。

そして、しんからの邪神と、邪神に憑かれている人とは違うし、それから邪神の眷族というのも何十万、何百万となくいるんです。

つまり、主神の下に陰陽の神がこういうふうにあるんです(お煙草三本での形をお示しになられる)。

こっちが善で、こっちが悪ですね。

そうしておいて地上の経綸をなさるんです。

だから「主神に善悪なし」で善悪無差別、正邪一如って言いますがね、ほんとに正邪が判らないんです。


ところが、これいっぽうだけじゃまたいけないんで、はっきりと厳しく、善をすすめ、悪をしりぞける面もなくてはいけない。

そこで観世音菩薩っていうお方は悪を咎めず、善悪無差別に救われるんですが、

観音様の御本体の国常立尊は絶対に悪は許さないんで、

閻魔大王ともなられて審判をされるという厳正至直な神様なんです。

つまり経(たて)ですね。観音様の善悪無差別のほうは緯(よこ)ですよ。

そのいっぽうだけに片寄るとしようがないんです。

この二つの面がなくてはならないんで、時と場合、そして相手によって千変万化して行くんです。」




明主様御講話 「邪神について」 (昭和27年8月1日)

「(一部のみ引用) 最初に一言話したい事があります。

これは分りきった話なのですが、どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。

小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは、あの人は邪神だとか、あそこの家には邪神がいるとか言う事ですが、これが一番悪いのです。

ですから私は人を邪神と言う人は、その人が邪神だと言ってありますが、

邪神である、邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。

神様以外には分るものではありません。

それを分ると思うのは、神様の地位を冒している事になります。

ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。」




明主様御垂示 「人間が人間をとがめるのは神様の地位を犯す」 (昭和25年3月3日)

信者の質問
「人を尤(とが)めることと注意することとの相違(限界)はいかような心得をもって当たれば、御神意を汚さないでしょうか。」

明主様御垂示
「これは限界もなにもありませんよ。

人を尤めるってことはぜんぜんいけませんよ。

それも警察官や裁判官ならいいですがね(笑声)。

まず自分を尤めることですよ。

どんなことでも人を尤めてはいけないんです。どんなことでもね。

だから私は人を尤めませんよ。たとえその人が間違ってることをやっててもうっちゃらかしておくんです。

勿論アッサリと教えることはありますよ。

「そんなことをすると、こうこうこういう結果になる」って言ってやることはあります。

けど、私の言ったことを用いるか否かはその人の自由であって、たとえ聞き入れなくたって、それ以上もうどうにもしかたがありませんよ。

何某だってそうですよ、私は以前注意したことがあるんです。

けど、あの人は私の言葉を守らなかったんですよ。

やはり、その人が腹からそう思うんじゃなくちゃいけない。

そうでなけりゃ駄目ですよ。

よく言うんですが、石の落っこちるのを坂の途中で抑えるのは駄目なんです。

下へ落っこちてから目が覚めて気がつく、それが本当なんです。


こう言うと、愛がないように聞こえるかもしれませんけどね、しかしこっちのほうが本当の愛なんですよ。

日本では子供が転ぶと、親がすぐ走って行って起してやるけど、西洋では子供が自分で起き上がるように言うってことですが、この西洋のやり方のほうが愛が大きいんです。

かわいがって親切にするってのは愛が小さいんです。

だから、その人の将来を本当によくしてやるのが本当の愛なんですよ。

例えば、金のない人に金をやったってそんなのは一時的で駄目なんです。

自分で苦しんで、たとえ破産したっていいから、そうやったあげく自分で覚るのが一番いいんです。

そしてそうするのが大乗なんですよ。


そこで、人を尤めるのは一番いけない。

人間が人間を尤めるのは神様の地位を犯すことになるんです。

人間なんてみんなポチポチなんだから(笑声)。

人を尤めるなんて慢心ですよ。

だから中には尤める人より尤められる人のほうが霊的に上位のことだってよくあるんですよ。(笑声)」


信者の質問
「なにか間違ったことをした人に「なぜそんなことをしたのか」と言うことは尤めることになりましょうか。」

明主様御垂示
「なぜしたか」って言うのは尤めるんじゃありませんね、聞くんだから。(笑声)」


信者の質問
「「それは悪いことだからこうしなさい」と注意することはよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「アッサリ話をして注意するんならいいですよ。

それからね、「こうしてはいけない」って言うのよりも、「こうしたほうがよい」とか「こうすべきと思う」って言ったほうがいいですよ。

「相成らぬ」って言うのはよくないですね。

そして尤めると人が怖がるようになるんです。

怖がらしておいて人を屈服せしめる・・・なんてのは最も愚かなことなんですよ。」


信者の質問
「とかく他人に迷惑をかけ、なかなか言いつけを守らぬ人を、つい感情に走り「きゃつは馬鹿だ」とか「悪魔だ」とか言うことは人を裁くことになり罪を構成しましょうか。」

明主様御垂示
「構成しますね(笑声)。

こんなことを言うのは神の権限を冒すんですから。

こんな場合、本当に馬鹿なのは御自分様なんですよ。つまり主観ですね。」




明主様御垂示 「神様を相手とする」 (昭和27年4月1日)

「(一部のみ引用) 一番いけないのは、あの人はああやっちゃいけない。

あの人は間違っている。と言うことがいけないんですよ。

人の良いとか、悪いとかいうことは、人間には解らないんだからね。

神様以外には解らないんだからね。

あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言うことは、神様の為さるべきことを冒しているので、たいへんなことです。

だから、 人を見ないで自分を見るんです。

自分は間違っているか、いないかと見るんです。

それが本当の誠です。

人の悪いことを諌(いさ)める・・・注意するのが良いことと思っているが、それがたいへんな間違いです。

一般社会ならそれで良いですが、この教団の信者になった以上はいけないんです。

もしその人が間違っていれば、神様が捻(ひね)っちゃいますよ。

なんでもないです。

もしそうでないなら、人間が神様の力より上になっちゃうことになりますよ。

それで、今度書きましたから、新聞に出します。

そういう点において、世の中とよほど違いますからね。それが信仰の妙諦なんですよ。


結局、なんでも決めるのがいけない。

決めると間違う。決められないこともあるんだからね。

だから、だいたい決めてはいけないということにして、それから決めなければならないことは決める。

それは事と次第によって、いろいろあるんだから・・・決めないと決めるようにするのもいけない。

そこが千変万化、幽玄微妙の境地なんです。

だから、それに少しでも近寄って行けば、その人は本当に身魂が磨けているんです。

これはいままでの信仰にはないんです。

これは高い信仰なんです。

そういう人の信仰は間違いないんです。

それが真理なんだからね。

そういう頭で、ものを考えると、とにかくおもしろいですよ。」




明主様御垂示 「善悪を決めるのは僭越」

信者の質問
「壮年期にある者が青年特有の道徳上の潔癖を冷笑する場面をよく身受けますが、

この場合の壮年者の本霊及び副霊の状態を御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「これも副守護神で、副守の巧妙なのは善の仮面を被る。

共産主義などそうで、邪霊がそれを善と思わせるのである。

そういう人は愛が足りない。愛を通して物をみれば、憎むものも咎むるものもない。

善は利他的観念、他人をよくする。人良かれという事。

これは大乗も小乗もない。他人良かれの人が集まればよい。

自分を善く見、他人を悪く見る観念から争いが起る。

神は愛なり、力なりで、愛をもってみれば人を咎める事はない。

人を善とか悪とか決めるのは僣越である。人間が人間を見て分るものではない。

常識でみれば大体判るが、本当の事は判らぬ。これは神の領分である。

要は人間が人間を裁く事は出来ぬ。


キリストは姦淫の罪を決めたが、これは自分自身がその気持があるからである。

これは作り話かもしれぬが、ある若い女が名僧の弟子になり、ある時イキナリ齧りついて試そうとした。

「私が齧りついたらあなたはどんな気持か」と質ねると「何ともない」(枯木寒厳之冬暖気なし)と答えた。

何の感じもしないというのは嘘で、実際は変な気持がした筈である。

姦淫は許すべからざるものであるから制えた・・・と言うのなら本当である。」




明主様御垂示 「自分のほうがいいって言うのは悪い」 (昭和25年3月3日)

教会間で起ったいざこざについて)

明主様御垂示
「これは心得とくことですね。

自分のほうがいいって言うのは悪いんですよ。

なぜなら、自分を善いとし他人を悪いとする心が悪いから悪ですよ。

よく、先方の教会を悪く言う人がありますが、そんなのはアベコベに解釈することですよ、そのほうがたしかですね。」


信者の質問
「その場合、弁解いたしますことはいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「いや、いま話したのは他人同士だから弁解じゃありませんね。・・・

もし自分が悪く言われたときには、一通りは事情を話したらいい。

そしてそれを信じる信じないは先方の勝手に任せたらいい。

だから、一応は弁明する。

そしてその先は神様にお任せしたらいいんです。

そのときだって一々弁明しなくたってかまやしませんがね。

正しいものは勝つに決まってるんだから。

けど、気持ちが悪いですからね、あんまり変なこと言われるとね(笑声)。・・・


白隠禅師の有名な話がありますね。

不仕末して子供のできてしまった女が禅師の所へ逃げ込んできたので、

禅師はその女をかくまってやったうえ、その子を自分の子だと言ったんですね。

それを聞いてその女の親は怒って、生き仏のごとき白隠禅師がそんなことをするとは怪しからんってわけで、

村人たちと一緒にみんなで禅師を村から追い出してしまったんです。

そのとき白隠禅師はなんとも言わなかったけど、何年かして本当のことが知れ、今度はたいした坊さんになったんですね。

だから言い訳なんかしなくたっていいんですよ。」




明主様御垂示 「救いと裁きの関係」 (昭和23年10月18日)

信者の質問
「救いと裁きの関係につき御教示をお願い申し上げます。」


明主様の御垂示
「これは密接な関係があります。

裁きがあり善悪があるから、救われるのと救われないのが決まるのです。

ふだんだって神様は裁いておられるが、ふだんの裁きと最後の審判とは意味が違うのです。

最後の審判においては人類全体が裁かれるのです。

しかしだれでも裁かれないうちに悔い改めることが救われることなのです。・・・

そこで一番困るのは、人間が人間を裁くことです。

これが一番間違っている。

あの人はいい人だとかなんとか言って人を裁くのは、その裁く人自身が裁かれているのです。

人を裁く前にまず自分を裁くことです、反省することです。

他の人をいい人だとか悪い人だとか言うことはたいへんな間違いです。

また救いということにしても、人間が人間を救うことはできない。

救いをなさるのは神様であり、人間はただその道具にすぎないのです。

しかしその道具に使われることがありがたいのです。」




明主様御垂示 「人を裁く人間はご自分が馬鹿」 (昭和25年3月3日)

信者の質問
「とかく他人に迷惑をかけ、中々言い付けを守らない人を、つい感情に走り「彼奴は馬鹿だ」とか「悪魔だ」とか言うのは裁くと言う事になり、罪を構成しましょうか。」


明主様御垂示
「自分が馬鹿である。神の権限を犯すのは罪になる。」




明主様御垂示 「自分の悪、自分の間違いを訂正すべき」 (昭和23年12月28日)

信者の質問
「利己主義者が悪宣伝、悪行為をなした場合、それを見逃してやっては、その人に対し無慈悲でもあり、

また他面、社会的には悪の風習を助長することにもなると存じますが、

その場合、慈悲または正義はいかに行使すべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これは信仰のない人が考えることです。

神様が人を使って悪宣伝をするのかもしれないのです。

今度の税金の問題も私は邪神かと思って神様に訊いてみたら、

そうではなくて神様がやっておられることが判りました。

だからあれによりかえっていい影響があっちこっちで来てるんです。

いままで迷っていた人もどんどん入ってきている。

だから信仰のある人なら、これ(お伺い事項)と反対になっていいはずです。

悪を助長すると言っても人間が抑えたりすることはできないんです。

それよりも自分の悪、自分の間違いを訂正することです。

人の悪なんか訂正することはできない。

人をどうしたいという希望はいいが、行為によってどうするということはできないのです。・・・

物事にはその物と事と大小などによって、やるべきこととやってはいけないこととあるのです。

やれと言うとやりすぎるし、やってはいけないと言うとぜんぜんやらない。

味でもそうで、砂糖が少ないと言えば甘すぎてしまい、甘すぎると言えば今度は辛すぎてしまう。

ちょうどよいというのは難しいのです。

だからその程度をよく考えることです。

それが智慧です。

神様にお任せすると言っても、お任せすることにも程度があるのです。

人事を尽して天命を待つということがあるが、これはいいことです。

人間としてすべきこと、できることをやって、その先は神様にお任せすべきです。

だからそれは時所位に応じて変わってくるものです。

やはり実篤の言葉に「神の如く強く神の如く弱し」という言葉がありますが、いい言葉ですね。

神様も強い場合もあり弱い場合もある。

観音様でも馬頭観世音は火焔を吹いて目はランランと輝いてます、が、

これは畜生道を救うお働きを表わしているのです。

いろいろなことをうまく使うところに智慧があるんです。

一番効果のある方法がいいのであって、これをみつけるのが智慧です。」




明主様御垂示 「献金の内部留保」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「お道の資格者の中には、自分の周囲を充実することだけを考えて、

会費や献金などの上納を故意に怠っているかに思われる人があります。

そのうえさらに、自分の行動を糊塗しようとして他の人をも誘い同様の空気を作ろうと企てているような人もございます。

このままでは団体の徳義が破れ秩序が乱れてくると存じますが、

このような行動に対しましてはどのような処置をとるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これはだれが処置をとるんですか・・・この処置は神様がとられるんです。

こんなの、私はなにも処置はとりません。

うっちゃらかしておけばいいようになるんです。

もし、間違ったことをしてれば、その人が神様の裁きを受けるんだから、ほかの人はなにも心配する必要はない。

こんなことを心配するのはまだ信仰が薄いからです。

だから、神様のほうでは「俺を信じてないからだ」と思われて、御機嫌が悪くなりますよ。」