謙譲の徳について
謙譲の精神について
明主様御教え 「下座の行」 (昭和23年9月5日発行)
「下座の行という詞(ことば)は昔からあるが、これは人間処世上案外重要事である。しかも信仰者において殊にしかりである。
信仰団体などに、教義を宣伝する先生に、どうも下座の行が足りないように見える事がしばしばある。
昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔る程、頭を下げる稲穂かな」などという句があるが、いずれも下座の行をいうたものである。
威張りたがる、偉くみせたがる、物識りぶりたがる、自慢したがるというように、たがる事は返って逆効果を来すものである。
少しばかり人から何とか言われるようになると、ぶりたがるのは人間の弱点であって、
今まで世間一般の業務に従事し、一般人と同様な生活をしていた者や、社会の下積みになっていた者が、急に先生と言われるようになると「俺はそんなに偉く見えるのか」というように、
最初は嬉しく有難く思っていたのが、段々日を経るに従い、より偉く見られたいという欲望が、大抵の人は起こるものである。
それまでは良かったが、それからがどうもおもしろくない。
人に不快を与えるようになるが、御本人はなかなか気が付かないものである。
神様は慢心を非常に嫌うようである。
謙譲の徳といい、下座の行という事は実に貴いもので、文化生活において殊にそうである。
多人数集合の場所や、汽車電車等に乗る場合、人を押しのけたり、良い座席に傲然と座したがる行動は、一種の独占心理であっておもしろくない。
円滑に気持よい社会を作る事こそ、民主的思想の表われであって、この事は昔も今もいささかも変りはないのである。」
明主様御教え 「優しさと奥床しさ」 (昭和25年10月25日発行)
「およそ現代の人間を観る時、最も欠除しているものは、優しさと奥床しさであろう。
まずここでは本教を主としてかいてみるが、例えば自分の信仰がどれ程進み、身魂がどのくらい磨けたかを知るには一の標準があって、これは左程難しい事ではない、
何よりも人と争う事を好まなくなり、優しさが湧き奥床しさが現れる、
こういう心と態度になるこそ磨けたとみてよく、この点最も信仰の価値を見出すのである、
そのようになった人にして一般から好愛され、尊敬され無言の宣伝となるのである。
ところが、今日の世の中を見ると、右のような優しさと奥床しさが余りに欠けている、
どこを見ても人に対しアラ探し、憎悪、咎(とが)めだて等まことに醜い事が目につく、
特に現代人の奥床しさなど無さすぎるといっていい、何事も利己一点張りで露呈的で理屈がましく、人から嫌われる事など余り気にかけないのは、
自由主義が行過ぎ我儘(わがまま)主義になったと見る外はない、
最も見苦しいのは、他人の事となると暴露的で、排斥主義で、人情の薄い事はなはだしい、
このような人間が殖えるから社会は暗く、冷たく人生の悲観者が益々殖えるという訳で、
近来自殺者の多いのもこんなところに原因があるのではなかろうか、
ゆえに真の文化社会とは、英国の紳士道や米国の博愛主義のごときを奉ずる人々が殖え、
社会道義がよく行われる事によって気持のよい住みよい社会が生まれるのである、
そうなった社会こそこの世の天国としたら、天国はまことに手近いところにあるのである。
また別の面からみる時、今日観光事業が国策上最も緊要事と叫ばれているが、
なるほど物的施設も大いに必要ではあるが、外客に好感を与える事は、より以上の必要事であろう、
というのは外客に接する場合、優しさ、奥床しさと清潔のこの三つが揃う事で、
これこそ一文の金も要らない外客誘致の最も有力なものとなろう、
そうしてこういう人間を造るその根本条件は何といっても信仰であって、本教はその方針のもとに邁進しつつあるのである。」
明主様御垂示 「謙遜は相手を好い気持にする」
信者の質問
「謙遜した言葉の言霊の働きは・・・」
明主様御垂示
「言霊の働きは相手を好い気持にさせる、それだけである。
高慢な態度は不快にする。
謙遜は相手を好い気持にするからよい訳だ。」
衒(てら)うなかれ
明主様御教え 「生神様」 (昭和25年5月13日発行)
「よく私に初めて面会した人が異口同音に言う事は、実は御目にかかるまではとても近づき難いお方で、お付きが傍についており最敬礼でもしなければならないと恐るおそる伺ったのであるが、
意外にもすべてが余りに簡略率直で唖然としてしまったというのである、
なるほど世間一宗の教祖とか管長とかいう人は、右のような大袈裟な雰囲気の中にいる事は、一般の通念になっている、
このような訳で、以前よくそういうやり方を希望した部下もあったが、
私としてはどうもそういう気にはなれないので今もって相変らずの普通人的のやり方である。
しからば、私のこの生神様的でないのはどういう訳かと知りたい人も沢山あるであろうから、ありのままの心境をかいてみよう、
元来私の生まれが江戸ッ子であるためもあろうが、私は若い頃からどうも気取る事を好まない、
というのは、いつも言う通り私は偽りを非常に嫌う結果、装ったり、道具立てをしたりする事は一種の偽りであり、衒(てら)いでもあると思うと共に他からみても一種の嫌味である、
結局有るがままが一番好いという事になる。
まず今日の私の境遇からいえば、生神然と神殿の奥深く納まっており、人に面会を許す場合いとも勿体らしくする方が値打があって良いかもしれないが、どうも私は嫌である、
そんな訳で私が常に思っている主義としては私の態度やり方が気に入らない人はおよしなさい、
気に入った人はお出でなさいと言うだけである、しかし日に月に発展して行く実情をみては気に入る人の方が多いに違いないと満足している次第である。
ここで今一つ言いたい事は私の天性は大いに変っていると思う、
というのは私は人の真似をする事が非常に嫌いだ、前述のごとき生神様らしくしないのもそんな訳である、
どこまでも外面は普通凡人的でありたいと思っている、
これも型破りであろう、ところがその性格が大いに役立って浄霊という画期的治病法発見となったのである、
また信者は知らるるごとく、文字を書いた紙片をお守りにすれば治病力を発揮したり、神仏を同一に取扱ったり、地上天国の模型を造ったり、芸術に力を入れたり、宗教臭さを避けたりする事など、数え上げれば型破り的種類は実に多いと思う、
これについて先日婦人公論の記者が来訪した時、実に驚いたというから聞いてみると、仮本部の玄関から入ると、宗教味がさらにないのは不思議と思ったとの事であった、
もちろん今後万般にわたり宗教的事業を行う計画であるが、およそ型破り的ならざるものはない積りであるから、大いに期待されたいのである。」
明主様御教え 「逆効果の説」 (昭和26年10月3日発行)
「どうも世の中の人をみると、骨折ってやったり、いいとしてやった事が、思うような結果が得られないのは、
全く逆効果という事を知らないからで、言い換えれば理外の理を弁(わきま)えないからでもある、
今これを説明してみるが、これを読んでこの理屈が分るとしたら、案外に得をする場合があろう、
まずそれについての例を挙げてみるが、信者中の先生格になっている人達などによくある事だが、
自分の値打をより高く見せようとし、偉く思われようとする考えがあると、
人から見て肚の中が見え透き、反って偉く見えなくなるものである、
だからどこまでも控え目な態度で、下座に満足するような人は、反って偉く見えるものである、
また自分の手柄話をしたがる人もあるが、これも聞きいいものではなく、
聴く人は苦々しく思うもので、また衒(てら)う事もいけない、
ただ事実ありのままを言うのが、一番好感を持たれるし、
何事も内輪に話をする方が、奥床しく見られるものである、
また人を世話する場合なども、恩に着せるような言い方は慎むべきで、反って有難味が薄くなるものである。
右はホンの一部分の話であるが、何事にも逆効果があるから、
よくその点を考えてやると案外結果がよいものである、
いつかも私は会いたくない人が、度々人を介して言って来るので、仕方なし会ってやったところ、
その人はいわく「メシヤ教とはどういう神様ですか」と訊(き)くから、私は一向分らないというと、
今度は「明主様は世の中の先の事は、何でもお判りになるでしょう」というから、
私は神様でないから、サッパリ判らないと言ったところ、
失望したとみえ、それっきり来なくなった、
またこちらは買いたいし、先方は売りたい土地などあった場合、
訊いてみるとつけ込んで高い事をいうので、しばらく放っとくと、
先方が気を揉(も)んで訊きに来る、すると私の方は、もう要らなくなったというと、
先方は本当にして、非常に安くするのである、
以前私を騙して金を出させようとする人が随分来たものだが、
そういう時先方が言わない先に私の方から金に苦しんでいるので、
どこか金を貸すところはないかと訊いてやると、
先方は黙って帰ってしまったものだ、
またこの人は将来役に立つと思うと、私はワザと冷淡にする事がある、
するとその人は反って一生懸命に、いい仕事をするので、
こういう人こそ立派な人として、重く用いるようにする、
まだまだ色々あるが、この逆効果という事を心得ておくと、大いに役立つものである。」
明主様御教え 「観音信仰」より (昭和24年4月20日発行)
「(一部のみ引用) また小乗信仰の人は不知不識(しらずしらず)虚偽に陥るから衒(てら)いたがる、偉くみせたがる、これが臭気芬々(ふんぷん)たる味噌になってはなはだ醜いのである。
そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。
小人というのはこういう型の人である。
またこういう事がある。
私は普請をする時にはいつも職方と意見が異う。
どういう訳がというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。
人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。
ゆえに観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。」 (全文は「自由無碍」のページ)
明主様御講話 「人間は全て平凡に見える人が偉い」 (昭和26年10月11日)
(御論文「経と緯」のあとの御教)
「これは今まで書いたり言った通りした事ばかりですが、これは「文明の創造」の宗教編に入れるものですから、それで読んだ訳なんです。
ただ、急所というべきは、人間は全て平凡に見える人が偉いんです。
普通偉いというと、変わった風ですが、それにごまかされるんですよ。
ですから、宗教家で、何かと言うと、いやに普通の人とは変わった格好をしますがね、頭の毛を長くしたり、ひげをうんと生やしたりしますが、あれは本当に偉くはないんです。
ですから、それを頭に置いておくと間違いないですね。
ですから、私に初めて会った人は、よく皆んな驚くんです。
教主とか何んとか・・・教祖様なんて、生神様然としているが、私は全然そんな事はないからね。
びっくりして・・・分からない人も、好感を持つんです。
そんなような具合で、要するに、どっちか・・・経とか、緯とか。
右とか、左とかに偏らないとすると、どうしても平凡になっちゃうんですね。
だから、仕事の出来る人とか・・・結果の良い人は、どこが悪いか分からないようで、あたりが極く良いんです。
ところが世の中は知らないから、変わった人が偉いように思われる心理状態のために、偉く見せようという人は、変わった事を工夫してやりますが、一つの間違いですが、それを言いたいためにこれを書いたんです。」
明主様御講話 「赤裸々さ」 (昭和27年5月25日)
「今度「結核信仰療法」ができあがったのでこれから印刷にかかります。
さらにおもしろい本を書こうと思って書き始めたんですが、それは「私物語」という本です。
これは、私というものはふつうの人間と違いますから、いろんな神秘なことが多いんですよ。
そういうことをただ想像したりするよりか、明からさまに書いた方が良いと思って、将来私というものを知りたいという人がたくさんできるに違いないですから、
それに考えてみると釈迦、キリスト、マホメットという人は、教えだけは書いたり説いたりしましたが、どうも個人的の日常生活とか、自分の内面ですね。
そういうことをほとんど言わなかったですね。
あるいはあんまりなかったかもしれないですが、それでただ生き神様然としちゃって、はなはだもの足りないわけですね。
私はそれとは反対に、思いきってそういった面を書いて残しておこうと思うんですよ。
それが、今の「私物語」という本なんですがね。
今書き始めたので、まだまとまっていませんし、まだ直す点もありますが、ちょっと読ませます。
(御論文「私物語」)」
明主様御垂示 「威厳を示す必要はない」 (昭和24年3月8日)
信者の質問
「御浄霊の際、患者に対してはどの程度親切にすべきでしょうか。」
明主様御垂示
「これは程度がないですよ。すればするほどいいです。」
信者の質問
「よく、先生によっては威厳を示す方が見られますが・・・」
明主様御垂示
「そんなことはありません。威厳なんか示す必要はない。
私自身だって別に生神様に見せたいとは思ってません。」
神様に対する謙虚な信仰姿勢について
明主様御垂示 「神様の道具に使われることが有難い」 (昭和23年10月18日)
信者の質問
「救いと裁きとはいかなる関係でございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「救いと裁きとは密接な関係がある。
善悪の裁き・・・審判があるから、救われるのと、救われぬのとが決る。
普段の審判(さばき)と、最後の審判とは違う。
(普段の裁きは神が常に裁き大審判は人類全部が裁かれる)
大審判は最後の裁きで、善悪が決められる。
ふだんの裁きでも裁かれぬうちに悔い改める・・・救いを受ける事・・・
一番困るのは人間が人間を裁く事で、これは神の領分を犯す事で、善いとか悪いとか軽々しくいえぬ。
(裁く人自身が罪になる)
人を裁く前に自分自身を裁くべきである。反省なく人を裁くのは大間違いである。
(よく救うというが)人間が人間を救う事は出来ぬ。
人間はただ道具に使われる。(神様が救う道具)
道具に使われる事が有難い事と思わなくてはならぬ。
もっと謙譲でなくてはならぬ。」
明主様御垂示 「神様の道具にならせて頂いたという謙遜」 (昭和28年7月1日)
「それから一つ注意しておくことは、慢心すると霊力はずっと少なくなります。
だから信仰にはいりたてで「自分なんかに、そんな、できやしない」とビクビクしているときには割に治るのです。
「もうオレはできて来た」と思うようになると治りません。
それはなぜかというと慢心だからです。
だからオッカナビックリの気持でやると治るのです。
そうかと言ってビクビクしてやるのがよいわけではないので、つまり大いに神様の道具にならせていただいたという謙遜です。
気持は、相手の病人は虫ケラほどでもないが、ごくつまらない人だというように思わなくてはならないのです。
これは偉い人だと思うと、こっちの霊力が負けてしまいます。
メシヤ教は他の宗教から見るとまるで桁が違っているのです。
その力をいただいているとしたら、世の中の人間は虫ケラのようなものです。
しかしそれを出してはいけません。
こっちは大いに謙遜しているのです。
そこが難しいと言えば難しいです。」
明主様御垂示 「神様の道具という観念」
信者の質問
「観音様の有難い事を知らせる最も良い方法・・・」
明主様御垂示
「皆やっている事でいい。
早く知らせようと焦るのはいけない。
浄霊、宣伝は観音様が道具に使っているのであるから、道具という観念を持っていなくてはならぬ。
智慧も磨き・・・。
自分がやるような気持に偏るのはいけない。
ただ「最善を尽す」べきで、結果を顧慮する要はない。
資格がない時、時期の来ない時は観音様は捨てておく。
だから、「出来るだけ努力してお任せする」のがいい。
結果はすぐに表われない。
経路を経て表われる事がある。
随分無駄したようで、無駄でない。
必ず芽の出る事がある。種播いて早い遅いはある。あまり気をもまぬ方がよい。」
明主様御垂示 「神様の道具という気持ちになるべき」 (昭和24年8月27日)
信者の質問
「私は教導所の責任者として御用をしておりますが、私の村は八百余戸、入信者現在百余名、光明如来拝受者十五名、大光明如来四体を奉斎させて戴いており、五、六人の方が熱心に協力しております。
しかし私も時々困難に突当り、一生懸命御用したくも思うに委せぬ苦しみをしております。
主人も現在教導師の御資格を戴き、大工仕事の裡にも懸命の努力をしております。
夫は養子ではありませんが、私と母と同居しており、母も余りに熱心のため、非常識な位にまでなり、時々御浄化を頂きます。
この母の行為についてとかく周囲の人より妨害され、日夜頭を悩まし、自分の未熟な行為のため寝つかれぬ事も御座います。
いかにしたら周囲の人々を分らせ、出来るだけの御用が出来ましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「分らせるという事が間違っている。
分らせるというのは人間の力を過信する事になる。
神様が分らして下さるのである。
この人の信仰が狂うのは小乗的であるからで、(熱心のために非常識というのは嘘である)飽く迄、常識的でなくてはいけない。
人間は何の力もない。人間の心で決めてはいけない。
どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持にならなくてはいけない。
(浄霊でも心静かにしてやらないと神様の霊気が通らない。力を入れ一生懸命にどうかして救おうとすると人間的だからいけない)
大乗的になるべきである。
(無理に分らすのはいけない。神様にお任せし、自分はやらしてもらってるという気持である)
発展するか否かは神様の思召しである。
人間の力が強くなると反って成績が挙がらぬ。
(浄霊も静かな気持でやらなくてはいけない。一生懸命やると治らぬ。力を入れずにした方がよい)
宣伝も一生懸命扱うという気持はいけない。
(時期が来ぬうちはいくらやってもいけない)といって、お任せしっきりでもいけない。その区別を調子よくやる。
神様は霊、人間は体であるから、霊と体と調和すべきである。
小乗的信仰は最もいけない。
咎めや憎しみは極くいけない。」
明主様御講話 「観音様のお試し」 (昭和10年8月11日)
「私としては、霊写真は「光明世界」へも出してお話しましたから、
いまさらお話するところはないと思うも、一言改めてお話しますが、
実際のところ、観音力だけで、その他にはなにものもないので、観音様が東さんを使ったんであります。
ですから観音様の御都合により、そのときの仕事の上においてだれを使うか判らぬ。
今後といえども観音様は必要があればだれでも使う。
もし使われた人が、俺がこうであるから使われたとか、俺がどうだからと思うと間違いがある。
観音様からこういうお見出しに与かるということは、一生涯の光栄で、それに対してはただ感謝よりほかなにもない。
感謝してありがたいと思えば後また使われる。
少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使いにならぬ。
この点はたいへん重大なことで、観音会がだんだん発展する上においても、
観音様は非常にやわらかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、
すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただパッと拡げない。
世間ではよく形だけ見せるようにするが、こういうやり方は非常に観音様は嫌われる。
場当たりのいい、ある一時的の仕事などはなさらない。
要するに真実で飾り気のないこと、人間のように衒(てら)いもなにもない。
本当のお試しとは、自己というものをぜんぜん見ない。
本当に世界人類を救わなければならぬというやむにやまれぬ情、
またこの世の中の状態を見て、実に哀れだ、かわいそうだ、見てはおれぬ、しかし人間の力ではどうすることもできぬ、
しかし観音様が観音力を揮われるにつき、その一部にも加えてもらって、
そして力限りやらしてもらうというそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。
こういうように、ちょっと考えが違うと、大きい違いができることになる。
どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様のためと思うと、その人の存在は大きい存在となる。
これは生長の家の物質は心の影というのと似ている。
自分を見せようとすると空虚になる。
世の人のためと思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在する。
ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きができる。
神の道がある。自分の都合よくなりたい、よくしたいという念が、少しでもあるとすれば、物が思うように行かぬ。
自分を空虚にする、自分を無視すればするほど、自分の実在はたしかになる。
この点だけが肝腎な悟りで、この前お話したが、お釈迦様の時代に目蓮尊者という人がいて、
母が地獄で苦しんでいるのが見えるので、どうか助けようと思っても助からぬ。
他の人はいくらでも助かる。
で、お釈迦様に、お母さんを出そうと思うが、どうしたら地獄から出せるかと聞くと、
お前のお母さんはお前が忘れればいいと言われた。
そこで考えた結果、はっと思った。
俺は天下万民を救う使命によって働いているのに、自分の近親の者、親のことばかり思ったため救えなかった。
たいへんな間違いをした。第一に天下万民を救わなければならぬと、
それからは母のことも忘れ、一切衆生を救いのため活動して、
一年経って地獄を覗いてみると、もう地獄には母はいなかったというのであります。
自分を良くしたいと自分だけよくしようとすると、まずそうなさなければならぬ。
人をよくしよう、人を助けようとするときに自分はよくなる。
信仰の妙諦はここだけなんであります。」