放任主義について


明主様御教え 「人は人を咎むる勿れ」 (昭和25年3月25日発行)

「時々人を咎める事の可否について質かれるから、ここにかいてみるが、

実をいえば人を咎める権能は神のみが有せられるものであって、

人が人を咎めるという事は実は人が神の地位を犯す事となるのである、

また別の面からみるも、人を咎めた結果は良い事はまずない、大抵は逆効果となるものである。


私の事をいうが、私は人が間違った事をしてる場合、

見て見ぬ振りをして放っておく、

すると間違った事はいつか頭をブッつける時が来る、

そこで自ら眼が覚め心から悔改めるものである、

これをたとえていえば、坂から大石が転っている際、それを止めようとするようなもので、決して止まるものではない、

もし無理に止めようとすると怪我をするのがオチである、

ゆえに落ちるのを待って落ちてから徐(おもむ)ろに上げればいいのである、

といってもその場合そういう事をすると結局失敗するという事は話してやった方がいい、

それによって頭をブッつけた時、ハハアー以前言われた事はこれだなと早く悟るからである、


以上のごとく人間が人間を咎め権力や何かで無理に制えつけたり脅かしたり、また戒律などで縛るのは一時的で、いつかは必ず反動があり、結局は面白くない、

どうしても当人自身が非を悟って心から悔改めるのでなくては本物ではないのである。

この事は医学にも当はまる、現代医療は病気に対し種々な唯物的責道具で、病気を止めようとするが

なるほど一時は止め得ても必ず反動が起って再発する、それが初めの病気より悪質である、

ゆえに吾らの神療法のごとく全然責道具など用いないで、病人自身有する良能の力で自然に治させるゆえに、その良能力を増させる方法こそ真の医術である。」




明主様御講話 「間違って覚ることもある」 (昭和27年4月1日)

「教団の中にも、間違った人や、いろいろな人がいますが、本当にいけなければ、私が注意を与えますがね。

注意も、なすべからずとか、それを止めろとか・・・そういうことは言いませんがね。

もし人が間違っても、この人は間違ったことをして、そのために覚るということもあるんだから、やはり頭をぶつけさせます。

すると、ああ俺は間違っていたと覚ることもある。

御神書を読んでも分らない人は自分で苦しむんですよ。

それで覚りを開くということもある。

間違ったことをさせておけば良いんですよ。

「あの人はこういうことをしているが、あれは注意しなければいけない」と言うが、

私は、「あの人は今に頭をぶつけるから、それから言ったほうが良い」と、その通り頭をぶっつけさせます。

また人によっては、そういう苦しみをしなくても覚り得る人もある。

そこで、人間はその人の行為によって善悪は決められない。

それが大乗ですからね。そこまで心得て、そこまで信仰が深くなると、私はいろいろ言います。」




明主様御垂示 「信者の無理解は放っておいて時を待つ」 (昭和23年5月28日)

信者の質問
「講習生が判らないときは・・・」


明主様御垂示
「時を待つのがよい。

人間が判らせるのではない。

人が人を悟らせるとか、あるいは裁くとかいうことは僭上の沙汰です。

判るように言うべきことだけ言って、あとはその人の自由に任せたらいいのだ。

判らない人はほおっておいて時を待つ。

そして神様にどうか早くあの人が判るようになりますようにと祈ったらいいんです。

第一、人に判らせようなどとしていてもその人自身判っちゃいないんだから。

私の弟子はいまたくさんいるが本当に判っている人は一人もありはしません。

私だって判らせたいと思うことはいろいろあるが、まだ時期でないから黙っているのです。」




明主様御垂示 「放っておくことにより本当の悔悟ができる」 (昭和23年8月28日)

信者の質問
「例えば弟子の教導所が不振であるというふうなことは・・・」


明主様御垂示
「私だって昔はそうだったんです。いくら待ってもお客さんが来ない。

いろいろ考えたが一番は時機が来ないこと、それから誠、智慧が足らないことなどいろいろあります。

これは自分で悟ることです。私は人にあまり言わずほおっておく。それでその人は本当に悟るんです。・・・

邪神の邪魔は始終あります。それは隙があるから邪神が打ち込んでくるんです。

その他あるいはなにか原因・・・罪があるからです。

人に騙されたとよく言うがそれはその人に騙されるだけの資格があるからです。

だから人を怨まず自分のことをよく考え反省することです。

いま世の中には強盗や不良が多いが、それは人民全部が腐っているからです。

物が腐ればウジが湧くのと同様です。

みんなが正しい心になれば悪い気分が起らなくなる。

いっさいは相応の理であって、すべて相応するのです。

いままではいっぽうばかり見て批判していた。

共産主義者は自分が怠けていて食えないくせに社会が悪いから食えないなどという。

一生懸命やって、食えないとか困ることなんかはないんです。

いつの世でも中には他人が成功するとその頭を抑えることばかりする人もあります。」




明主様御垂示 「失敗して初めて人は悟る」 (昭和23年8月28日)

信者の質問
「お道に関し我の強いのは龍神系でしょうか。」

明主様御垂示
「ええ、龍神、天狗は我が強いです。

今度本にも書いたのですが苦しみというのは我と執着があるからであって、これは本当ではない。

我とは主観のことで、自分の思っていることが正しいと思うことです。

だからつまり主観をすてて客観的に、自分を離れて自分を見ることが大切です。

理屈をつけるのは我です。・・・自分で自分の間違いが判らないのは、それは智慧がないからです。

だから智慧を磨かねばいけない。・・・

信仰の標準は智慧と誠です。

自分のしていることがいいか悪いかも判らなくては駄目です。

仏教でも智慧証覚と言い、キリスト教でも智慧の木の実という。

智慧のない人は無駄をやっては失敗するんです。」


信者の質問
「智慧は神様から教えていただけるものと考えてよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「そうです。ところが自分の我があるとそれをふさいでしまっていただけないのです。

ですから素直になることです。

世間には自分より偉い人の言葉はよく聞くが、下の人の言うことは聞かないという人が多いがそれが我なんです。

下の人の言うことを聞くことが雅量です。

私でも部下の人の言う通りにしてやる。

傍で見ると「大先生はなぜあんなことを聞いてやるのだろう」と思われるほどですが、それだから人々は喜んで働くのです。

きっと失敗するようなことを「どうでしょうか?」と言ってくると、私は「よい」と答える。

そうするとその人は失敗する。

ところが失敗して初めてその人は悟るんです。

智慧と誠とあとは常識です。

で、本当のことは常識に合っており合理的です。」




明主様御垂示 「失敗して初めて目が覚める」 (昭和25年3月3日)

信者の質問
「人を尤(とが)めることと注意することとの相違(限界)はいかような心得をもって当たれば、御神意を汚さないでしょうか。」


明主様御垂示
「これは限界もなにもありませんよ。

人を尤めるってことはぜんぜんいけませんよ。

それも警察官や裁判官ならいいですがね(笑声)。

まず自分を尤めることですよ。

どんなことでも人を尤めてはいけないんです。どんなことでもね。

だから私は人を尤めませんよ。たとえその人が間違ってることをやっててもうっちゃらかしておくんです。

勿論アッサリと教えることはありますよ。

「そんなことをすると、こうこうこういう結果になる」って言ってやることはあります。

けど、私の言ったことを用いるか否かはその人の自由であって、たとえ聞き入れなくたって、それ以上もうどうにもしかたがありませんよ。

何某だってそうですよ、私は以前注意したことがあるんです。

けど、あの人は私の言葉を守らなかったんですよ。

やはり、その人が腹からそう思うんじゃなくちゃいけない。

そうでなけりゃ駄目ですよ。

よく言うんですが、石の落っこちるのを坂の途中で抑えるのは駄目なんです。

下へ落っこちてから目が覚めて気がつく、それが本当なんです。


こう言うと、愛がないように聞こえるかもしれませんけどね、しかしこっちのほうが本当の愛なんですよ。

日本では子供が転ぶと、親がすぐ走って行って起してやるけど、西洋では子供が自分で起き上がるように言うってことですが、この西洋のやり方のほうが愛が大きいんです。

かわいがって親切にするってのは愛が小さいんです。

だから、その人の将来を本当によくしてやるのが本当の愛なんですよ。

例えば、金のない人に金をやったってそんなのは一時的で駄目なんです。

自分で苦しんで、たとえ破産したっていいから、そうやったあげく自分で覚るのが一番いいんです。

そしてそうするのが大乗なんですよ。


そこで、人を尤めるのは一番いけない。

人間が人間を尤めるのは神様の地位を犯すことになるんです。

人間なんてみんなポチポチなんだから(笑声)。

人を尤めるなんて慢心ですよ。

だから中には尤める人より尤められる人のほうが霊的に上位のことだってよくあるんですよ。(笑声)」




明主様御垂示 「人間は行き詰まって初めて悔悟できる」 (昭和23年11月8日)

信者の質問
「お弟子方につき「ああなればよい」とか、「こうなればよいのだが・・・」というふうにいろいろ考えがちですが、これも執着でございましょうか?」

明主様御垂示
「それは信仰がないからだ。神様を信用してないからです。すべて神様がやっておられるんですからね。・・・

神様にお任せするという気持ちになるにはよほど修行がいるんですね。

どうも世間の人々は人間的に考えては苦しんでいるんですよ。

私は問題に直面して適当な案がないときは神様にお任せするのです。・・・

また他の人がしたいということは間違っていてもやらせてしまうのです。

それはやりたいと思っているとき注意してもなかなか悟れない。

行き詰まって初めて気がつくのです・・・」


信者の質問
「行き詰まったか否かはどうして判断すべきでしょうか?」

明主様御垂示
「それはすぐ判りますよ、行き詰まったときは気がついて自分で苦しみますから。・・・

神様のほうだって「俺にそんなに任せるんならちゃんとしてやろう」ということになるのです。

だからすべてお任せしたらいいのです。」




明主様御垂示 「亭主の浮気も放任せよ」

やりたい事をやらせ、失敗してから、目がさめる方がいい

信者の質問
「一婦人(ダンス教師)と恋愛により結ばれ、両親の了解の上結婚致しました。

両親の結婚許可の条件として結婚後は「ダンス」を止めると言う約束でありましたが、

ある機会に両親との約束を破った事が両親の耳に入り、

両親は約束を守らなかったとの理由に結婚解消を迫って、頑として聞入れてくれません。

私達は飽く迄も離婚致したくありません。

私は長男でありまして両親の家業(茶・椎茸製造販売業)を継続する義務がありますが、どう致したら良いので御座居ましょうか。右御尋ね致します。」


明主様御垂示
「自分を立てれば親に背く訳だが、ダンスも悪いものではない。悪い事に利用するから悪い。

金銭でも悪い事に使うから悪になる。不純な考えでやれば悪い、厄介である。本当に正しい気持ならいい。

大乗的に本当の事をいうと、これは反対する親が間違っている。

家業を継いでダンスを止める、これは間違っている。

本人のやるままにしておく。

妻が他の男の人を作ろうとしてもそのままにしておく。

行く所まで行って解決するのがいい。

やりたい事をやらせ、徹底させる。その時に目がさめる方がいい。

ただ信仰に入れば解決は早い。行詰って苦しんで初めて救いを求めるものである。」





明主様御垂示 「執着を取るためにも放任する必要がある」 (昭和23年10月28日)

信者の質問
「御浄霊により肉体的に救われても、精神的に更生される方が少ないのはなぜでございましょうか。」

明主様御垂示
「精神的に更生できないというのはどういうわけですか?」


信者の質問
「例えばいつまでも夫婦喧嘩を続け、いっこう更生したように見えない方がよくございますが・・・」

明主様御垂示
「ところがなかなかそうは変わりませんよ。

夫婦喧嘩をしなくなるまで二、三十年はかかりますよ。

急激にぼんぼん変わればたいしたものです。・・・


それよりも他人ではない自分です。

自分がそう簡単に治るかどうかを考えたらよい。

五年かそこらで自分の心が治せたらたいしたものですよ。


それから時期ということもありますしね。

順序や段階もある。

以前私が大本教に入っていたころ、いい宗教だと思っていたがちょっとおもしろくないこともあり、五年くらい止めて離れていたことがありました。

ところがある人からもう一度研究してみるようにと言われたので、またやり直したらやや判り、それから熱心になった。

結局私は大本教から別れたがその間はずいぶん熱心にやりました。

そのときに得たところは非常に多く、いまでも感謝しています。


こういうふうだからただ表面から見ていいとか悪いとかは言えないんですよ。

この道に入っても、初め熱心でそれから不熱心になる人もあり、またその逆の人もある。

働きのありそうな人でも結果の出ない人もあり千差万別です。

また時機によってその人の本当の働きになったりするのです。


だから私はたいていのことはなにも言わずにやらせる。

そうするとうまく行くのです。

間違ったことをすればいずれ行き詰まり、自分でビックリして改心することもあります。

人間は執着をとることも必要なんだから、ほおっておいたほうがよい。

行き詰まるところまで行かせたほうがよい。

坂を転がり落ちる石を途中で止めようとしても無理で、落ちるところまで落ちてしまってから止めたらよい。

それと同じで行き詰まったときに話をしてやることが効果があるのですよ。」




明主様御垂示 「執着を取るためにも放任する必要がある」 (昭和24年4月13日)

信者の質問
「ある人、ある家のため一心に奉仕したことが結局、結果において悪いことになる場合がよくありますが・・・」


明主様御垂示
「やる人に智慧がないんですよ。一人の人を救う場合にもね、救う時期と機会があるんですよ。

いくら救おうと思って一生懸命になってもね、時期と機会と先の気持ちがぴったりと合わなければいけないんです。

ある人が間違っている場合、これを諌めて止めさせればいいんですよ、理屈ではね。

ところが人間てものは執着があるんで、口で言ったり注意したりしてもなかなかやめるもんじゃないんですよ。

だから私は、ほおっといてその人が失敗するのを待つんですよ。

この人はここが間違ってて惜しいなあ、と思ってもそれを止めないでほおっとくんですよ。

ずいぶん薄情のようですがね。

しかしその人を本当に救うにはそれでなくちゃいけないんです。

で、にっちもさっちも行かなくなり困りきってくれば救いを求めて来るでしょう。

そこでね、あんたはこことここが間違ってるんだと言ってやれば、その人はもう懲りてますからね、腹の底から判って本当に改めるんです。

中途半端で意見なんかするとね、かえって結果が逆になることが多いもんです。

執着が強いですからね。


特に男女関係においてこれがひどいんです。

止めるとかえってのぼせちまってね。(笑声)

だから男女関係の相談を持ちかけられるとね、私は「神様にお任せしときなさい」って言うんですよ。

まあ、神様に責任を転嫁してしまうんですね。(笑声)


実際またそのほうが成績がいいですよ。

ちょうどね、坂から石が転がり落ちるときにね、中途で止めようとしてもなかなか止まりませんしね、自分が怪我をするくらいのものですよ。

さっきの「一生懸命やって結果が悪い」ってのはこれですね。

だから、石が下まで落ちてしまうのを待つんですよ。

そうしたらほおっといたって止まっちまいますよ。

それでね、どの辺が坂の中途か下かを見抜くのが智慧証覚ですね。智慧を磨けってのはそれですよ。」




専従者の寄稿 「御教えに存在しない浄霊法を放任された事例」

「ある時、横須賀のある教師(この人は多少霊がかりの傾向がありました)が、

明主様に、「神様がお出ましになって言われるには、ご浄霊の前にお祓いをしたら、一層効果があるとのことですが・・・」と伺いを立てた時、

「それは、そうした方がいい」と明主様は言われました。

しかし、あとでそのことについて、私が個人的にお伺いしましたところ、

明主様は、「あの人は、当分あれをやらせねばだめだ。そのうちに、やらなくなる」とおっしゃいました。

人を見て法を説くとでも言うのでしょうか。」





明主様御講話 「間違いを犯せば追放されるか死亡する」 (昭和26年10月5日)

「私などは、部下が間違っていても、間違っていると言ったことはないですよ。

神様に任せているから、もし間違っていたら出されるか、ひねりつぶされる。

人間の目には間違ったようでも、神様のほうからは、なにか必要があるんです。

○○という人が、そのようなことがあり、まあまあ神様がやっているからと言っていたが、とうとう体が悪くなって病院に入って死んじゃいました。

そのくらいのことを、神様に力がなかったら信じないほうが良いです。

いま○○○にいる・・・あれを出さなければならないと言うが、神様がやっているので、必要があれば神様がひょっとつまんでしまう。

まだ必要があるから、あのままなんです。


死んだというその人はたいへんな手柄をした。

良いことをしました。私は今でも感謝してます。

良いことをしたが、これからは悪いことをするから止められた。

一時必要があった。

神様は深いんだから、人間の目で良いとか悪いとか分かるようでは・・・そんな神様ではね。

どんな悪い奴でも、どんな馬鹿な奴でもそのときは必要があって使われるんです。

たいてい、時が経つと分かります。

三千世界の大芝居で、悪役もあるし良い役もあるし、いろいろお役がある。

ですから、いろんな悪役もありますが、悪役もなければ芝居にならない。

善人ばかりじゃね。

だから、なんだかんだいいながら発展していけば良いんです。

どうせ悪の世ですからね。

それからまた、邪神ですね。

邪神だって教団の中に入り込む。信者全部を邪神が狙っています。

油断も隙もできないです。

それで、邪神のためにひどいことになる人がありますが、それは浄化作用です。

邪神にやられなければ浄くはならないですね。」




参考 側近奉仕者の寄稿 「知らん顔をしていても見通し」

「私が御用をさしていただくようになってから、半年ぐらい経ってからでしょうか、側近の主任をしていたM君がお膝元を去ったので、私がかれの御用を引継がしていただくことになりました。

M君は内事庶務会計の仕事をしており、信徒たちの信用もありました。

かれが失踪した後、明主様は「あれは大分使い込んでいるいるから調べてみよ」と仰せられ、調べてみると、帳簿は乱雑をきわめ、相当の金をごまかし、大穴をあけていたのです。

かれは全くトンダ白鼠だったわけで、それらの金はほとんど酒色に費やしていました。

そんなことには、だれひとり気づく者はなかったのでしたが、一切部下に任せきりで、何もご存じないと思われた明主様だけは、お見通しでした。

そして、当時あまり裕かでない財政であられたのに、それほど使い込んでいたかれを、いままでお咎めもなく、知らん顔して、他の人と変わらず扱っておいでになったとは、全く測り知れないお方と思ったことでありました。」