結果を考えるな


明主様御垂示 「結果を考えるな」 (昭和25年4月13日)

信者の質問
「火素の増量により治り方がたいへん顕著になりましたが、また一面毒素を多く保有している人が溶解を始めた場合死亡することも多いと存じますがいかがでしょうか。

この場合相手がお道を理解してるときはよろしいですが、理解していないときは手をつけないほうがよろしいかと存じますがいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「これはいけませんね、こういう考え方は。第一、理解してる人は救う必要がありませんよ。

理解できない人ほど救う必要があるんですよ。

それが救いなんです。そうでしょ。

だから、理解してない人ほどしてあげなけりゃいけませんよ。


それからね、やった結果がどうなるかってことを心配するのはごく悪いんですよ。

人間のほうで結果をどうこうって決めるのは神様以上ですよ。

こういうことはよくあるんですがね。

結果が悪いとお道のためにならないって考えて心配する人がありますが、これは大間違いですよ。

ただ、気の毒だ救ってあげたい・・・という気持ち、それが慈悲であり、惻隠(そくいん)の情なんです。

やむにやまれず救うっていうのが本当で、またそのほうが御利益もあるんです。

人間のほうでなんだかんだって考えると御利益もないんですよ。


剣道の試合なんかでも、負けたらたいへんだなんて思ってると負けてしまうんで、もうこうなったらどうにもしようがないって気持ちを持ち、それ一途になるとかえって勝つんですよ。

勿論、ほかのことなら結果を打算したって結構ですよ。

けど、こういうことは打算しちゃいけませんね。

こんな具合に物事によっていろいろと考え方が違ってくるんです。

だから時と場合によって千変万化しなくちゃいけない、それが融通無礙なんです。」




明主様御講話 「ぶつかって来た人は治せという思し召し」 (昭和28年6月1日)

「いつも言うとおりあせりと無理がいけないのです。

この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。

それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。

よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。

ところがそういうことで開けるということはまずありません。

かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。

そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。

神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。

ですからつまりぶつかって来たということは、神様は「助けよ」という思し召しだと考えるのです。

こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというようなことがありますが、それが将来案外な働きをするものです。

「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするが案外駄目です。

そういうことが多いです。

これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。

むしろそういう人のほうが多いです。


だからぶつかって来た人は、なおせという思し召しで、フラフラになるのは放ったからしておけという思し召しです。」




明主様御講話 「ぶっつけられた仕事をすれば良い」 (昭和28年6月7日)

「ミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇(はじま)まって以来の大革命です。

これほど大きな革命はないとともに、これほど楽にできる革命はありません。

無血革命ということを言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。

無血革命でなくて、もっとも楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。

それが十五日を契機として、だんだんそうなってくるのです。

それが霊主体従の法則によって霊界の方がそういうようになってきます。

ですから物質界、現界の方にそのとおりに映って行くというわけです。

だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。

ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。

ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。

だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。

たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういうことは考えない方がよいです。

ぶつかってきた人は救えということなんだから、それはやればよいです。

それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて、追いかけたりしない方がよいです。

その方が楽に行きます。

それを人間的考え方で、「この人を救えばたいへん発展する、信者がたくさんできる」ということをよく考えますが、それがいけないのです。

人間には分かるわけがないのです。

ですから「こんなつまらない人が」というのがあんがい役に立ったり、

「この人は」と思う人が駄目だったりします。

それは人間と神様の考えの違うところです。」