素直が一等 2 (明主様御言葉は素直に実行すべき)


明主様御講話 「明主様のお言葉の通り忠実に実行すべき」 (昭和27年8月6日)

「ところで、私の話を間違える人が非常にある。私は随分はっきり言うのですが、昨日も一週間に一回と言ったら、今日は二回という人がある。一週間に一回と二回では倍違います。

頭について、信者さんの頭がー信者さんの頭ばかりでなく、世間の人は信者さん以下ですが、信者さんでも非常に頭が悪いのです。

というのは、私の言う通りに考えないのです。明主様はこうおっしゃったが、あれはこういう意味なんだ。

こういう意味というのを自分で作ってしまうのです。それで間違うことがよくある。

それでまた私の言った通りをやるということは、自分が値打ちがなかったり頭が悪かったりするように思うのです。

ですから私の言った通りにやる人が少ないのです。私はいつも言うのですが、私が思う通り言った通りにする人は英雄と言うのです。偉いです。

ところが一般は必ず違います。これは信仰ばかりでなく、庭の方でもそうです。

私の言う通りにやる職人というのは一人もないです。これをここにやれと言うと、必ずここにやる人はないです。

こっちにやるとか、あっちにやる。私がこっちにやれと言うとあっちにやる。だから職人には手を焼いているのです。

ところが私の言う通りやるのが一番易しいのです。その易しいことを嫌うのですから不思議です。

植木屋で一人こういうのがあったのです。この石を一尺こっちにやれと言うと、一尺やれない。二、三寸しかいかない。それで私が、どうして一尺やらない。こっちにやれと言うと、今度は五、六寸やった。

それから、駄目だもう一度やれと言った。すると今度は斜めにやった。斜めにしては駄目なのです。これで三度駄目なのだから、四度目に違ったらその職人は断るからと言った。言う通りにやれそうだが、その通りにやらない。

なぜかと言うと、自分は手を引いて親方に頼むと言うのです。親方にこうやってくれと言ってやったら二、三時間でできました。

ところが先にやった人は三、四日かかりました。そういうことがあるのです。

特に日本人はどうも言う通りにやらない、言う通りに考えない、という一種のくせみたいな、病気みたいなものだと思う。


だから私がいつも話しすることがよく違ってしまうのです。

だから明主様がこうおっしゃったのでこうやったが、どうもうまくいかない。

そういうはずはないと、良く聞いてみると違う。今の病気のこともその通りです。

私は決して駈引や嘘はないのです。

それは、よく昔からの偉い人でも、いろいろーなんと言いますか、ありのままでなく、いくらか形容したり、いろいろそういうきらいがありますが、

私はそれが嫌いで、なんでもありのまま率直に言いますから、その通りにやれば必ずうまくいきます。」




明主様御講話 「明主様の御言葉は素直に実行すべき」 (昭和29年1月17日)

「前にも言ったとおり、箱根は霊的で熱海は体的ですから、熱海の地上天国ができれば、要するに体的に発展するわけです。

だから本当に目立つわけです。

いよいよおもしろい張り合いのある時期に入ってきたわけです。

だからして神様の方はチャンと準備や、芝居ならプログラムができているわけです。

そのとおりに、少しも違わないでチャンとゆくのです。

ただ時期だけのものです。

大本教のお筆先に「時節ほど有難い、恐ろしいものはないぞよ」「この事が分り出したら、世界は唸るぞよ」というのがありますが、もうそこの直前に来たわけです。

それから「こんなものがあんなものになり、あんなものがこんなものになる仕組であるぞよ」というのがありますが、

お筆先というのは実に簡単な言葉で、すばらしい大きなことを言い尽くしてあります。

私などもその当時は本当には分からなかったのですが、神様というものは、なんだか変な言い方だと思ってましたが、

今になってみると、それがピッタリと当たっているのです。

「何事も神の言うとおりに致せば間違いはないぞよ」というのがあるのです。

自然農法にしても、私の言うとおりにした人は、チャンと予定どおりに進んでゆくのです。

効果もあるのです。ところが農民は長い間の習慣でなかなか言うことをきかないのです。

なにしろ今もって有肥をやっている人がそうとうあるのですから・・・。

ようやく今年あたりから気がついて、「では切り替えよう」ということになった人が随分あるようです。


それについてこういう話があります。

大本教の教祖様が神様から「直よ、お前はこれから外国に行くんだよ。直ぐ外国に行きなさい」と言うので、

教祖様は「私にはそんな金も何もないのに外国に行けないでしょう」と言うと、

「なにいいんだよ、五円持って行けばいいんだよ」というので、

教祖様は五円札を持ってノコノコ出掛けたのです。

そうすると途中まで行くと「直や、もう行かんでもよいぞよ」と言うので、

「神様はどうして御からかいになるのです」と聞くと、

「いや、お前がどのくらいワシの言うことをきくか試してみたのだ。

だから、もうこれで分かったからいいんだよ」というわけで、神様が試されたわけです。

そのくらいに素直に言うことを聞くということです。

お筆先に「何事も神の申す事に間違いはないから、素直が一等であるぞよ」とありますが、

そういうようで、いつも言うとおり、私がなんでもなく言ったことでも大変意味があることですから、

そのとおりにやれば決して間違いはないのです。


今度の無肥料栽培も、最初はテンデ耳に入らなかったです。

それこそ「明主様は病気を治すことはなるほど確かに大丈夫ですが、

農業のことはそれほどのことがあるわけがない」と思ったらしいのですが、

これは時節のことだから、いくら言っても分かるわけがないので、しようがないのですが、

そういうようで、ようやく思うとおりの実績が上がってきたわけで、非常に結構です。」




明主様御講話 「明主様御言葉に裏表はない」 (昭和27年6月6日)

「それからこういうことを時々聞くんですがね。

私の本やなにかで裏表があると言うんですね。

そういうことを聞くんですがね。

一時そういうことの、随分はなはだしいことがあったです。


裏表があるように見る人は邪神が憑っている。

なぜというのは、今までのお経にしろ、あらゆるものは夜のものだから、

どうしても確かに裏表があったんです。

夜の世界だったら、ここだけは月が照らすから見えるが、ここは見えない。


ところが昼の世界ではここも見えるが、ここも見えるんです。

だから裏表はないんですね。

だから私の説いたものは、そんなことはないんです。

そのまま信ずれば良いですね。

それから今までのことは根本が悪になっていたから、明からさまに言うことができないんです。

そこで秘密があったんですね。

あらゆるものがそうだったんですね。

これは宗教も無論そうでしたね。

なにしろうっかりすればキリストみたいや、日本のいろんな偉い坊さんでも島流しになったり、殺されようとしたりしたから、どうしても明からさまにできない。

秘密にしたんですね。われわれだってそうですよ。

終戦前はそうですよ。

はっきり言えなかった。

だから「明日の医術」でも暖昧極まるものがあったですが、

あれははっきり書けなかったんです。


ところが今はそうではない。

言論の自由ではっきり書けるから、今度の「結核信仰療法」ははっきり書いた。

日本がそういう民主的になったということは、昼間の明るい時期に一歩近づいたわけですね。

そういうわけですから、メシヤ教というのは昼の世界を造る。

昼の世界になるについて出現した宗教です。

ですから今までの日本の宗教と違うんです。

だから私の言う通りにやれば決して間違いない。

裏があると思ったら間違いですね。

だから素直になれ、というのはそういう意味ですね。

素直にそのままやれば、すべてうまくいくんですね。」