素直が一等 1
明主様御講話 「神様は未信者も使われる」 (昭和28年6月1日)
「この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。
それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。
よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。
ところがそういうことで開けるということはまずありません。
かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。
そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。
神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。
ですからつまりぶつかって来たということは、神様は「助けよ」 という思し召しだと考えるのです。
こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというようなことがありますが、それが将来案外な働きをするものです。
「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするが案外駄目です。
そういうことが多いです。
これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。
むしろそういう人のほうが多いです。
だからぶつかって来た人は、なおせという思し召しで、
フラフラになるのは放ったからしておけという思し召しです。
だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。
それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。
そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。
神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。
今の場合に、皆が医者にかかれかかれというのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。
「あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ」と頑張るのはとんでもないことです。
そしてこういうわからず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。
そこが大乗と小乗との違いです。
だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。
それを「あいつはああいうことを言う」と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。
ですから私は女中などが「こうしたほうがよい」とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。
決して人によって区別したりしません。
神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。
それからまた邪神が偉い人にかかって迷わせるということもありますからそこに言うに言われないところがあります。
よく神憑りになって、狐なら狐が憑って来ますが、
そうすると狐に瞞されてたまるものかと思うでしょうが、それが違うのです。
狐に瞞されたほうがよいのです。
いろんなことを言いますから、「そうかなるほど」と言っているのです。
それでこれはどういうわけですかと聞くと、先はペラペラと返事をします。
そうしてやっているうちに今度は狐自身がボロを出してきます。
それで狐は謝るのです。
私はそういうことがずいぶんありました。
瞞されるものかと思っているときは、かえって瞞されたり怒ったりするのです。
狐がぜんぜん嘘のことを言っていても、「そうですか」と感心して聞いているのです。
そうすると狐のほうで間違ってしまうのです。
これは実に味わうべきことです。
そうしていたらなんでもありません。
すべてに結果がよくて円満に行きます。
そこが大乗でなければならないのです。
ですから先が嘘をついても、それを咎める間は駄目です。
なるほど、そうですか、と感心しているのです。
しかし肚の中では分かっていなければなりません。
そこまで人間は横着というか、そうならなければならないのです。
道具屋が来て私を甘く見て、「これはこういう物だ、これは贋物だ」と言うから、
「そう言えば全くですね」と言うが、肚の中では何を言ってやがるのだと思ってます。
これは馬鹿野郎だな、オレがそんなことを知らないと思って言っているがと、うわべは感心して聞いているのです。
そうしているうちに、「うまいことを言う、なるほどそうだな」と教えられることがあります。
中国の何とか言う人は 「人によって話を区別するな」ということを言ってます。
つまらない人足か、それこそ百姓などが言うことで非常に教えられることがあるのです。
ですから人によって区別をしないようにすることです。
何でも自分に耳にはいったことは一応気に止める必要はあるのです。
また子供に教えられることがあります。
これは経験があるでしょうが、子供がとてもうまいことを言います。
ちょうどベルグソンの直観の哲学と同じようで、
子供は本当の直観ですから、素晴らしいことを言います。
母親と子供が喧嘩をしてますが、子供の言うことが本当の場合がよくあります。
ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起こらないのです。
病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、「それは結構だ、全くそのとおりだ」と言って、
感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。
「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。
それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。
それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。
それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ」というように言うのです。
それでそれに感心して医者にかからないで薬をのまないとそれで結構です。
しかしそれに感心しないで、医者にかかり薬をのむというのは自業自得です。
それを何とか説得させようと一生懸命にやるというこれが、まだごく青いのです。
要するに人間、心の底に誠があればよいのです。
あとはできるだけ横着でよいのです。
心の中心にさえ誠があって、助けてやろうという気持ちがあったら、あとはそれこそ臨機応変でよいです。
それが千変万化です。
ですから、よくやりますが、こういう方針、こういうやり方というように立てたらもう駄目です。
つまり円転滑脱というか、それです。
だから人間は、難しいことですが、アクが抜けなければいけないです。
いつも言うとおり、たいていなことは負けるのです。
議論とか、そういういろんなことは負けるということです。
これが一つの修行です。
先方の嘘も本当に聞いてやるという、一つのつらい所ですが、そこを平気で我慢できるようになる修行です。
これが本当の生きた修行です。
それで一時誤解されたり、一時は負けても、決して長く続くものではありません。
いずれは必ず先方が悔悟なり分かるなりして謝るとか、
あるいはそれがもしか分かることになると、今度はこっちを非常に尊敬します。
あの人は偉い、オレが前にあんな下らないことを言ったが、
それを真面目に聞いてくれた、よほど腹ができているに違いないと、それからは信用することになります。」
明主様御垂示 「運命に従順が一番よい」 (昭和29年3月1日)
信者の質問
「現界に生まれ変わる場合には縁のある所に行くものでございましょうか」
明主様御垂示
「そうです。」
信者の質問
「それはほとんどと言ってもよろしいのでございましょうか」
明主様御垂示
「そうです。ぜんぜん縁がなければそういうことはないです。
「袖すり合うも他生の縁」とはうまいことを言ってます。
こういうことは非常に深いもので、何代前に人を助けたりすると、その助けられた人はどうしてもその恩に酬いなければならないのです。
そうするとその助けれくれた人がいないとその息子、息子もいないとその子孫と・・・あるいは助けてくれた人が地獄に落ちて当分出られない、そうすると遅れますが、遅れてもいつかは必ずそうするものです。
例えば甲の人が死に、供養します。信者でお祀りします。
ところが甲の人は生まれ変わっている場合(生まれ変わらない内の、霊界にいたときに、籍のような記録のようなものがあるので)その籍を通じて生きている人に行くので、生きている人に良いことがあるのです。
「オレはどうしてこんなに良いことがあったのだろう」「宝クジが当たったのだろう」ということは、
どこかしらで、誰かが、霊を供養しているとか、恩返しをしようとしている、それが生まれ変わっていることがあるのです。
だからクジが当たるとかいうことでも、偶然ではないので、必ずわけがあるのです。
そうかと言って、競輪などで当たりますが、これはまた意味が違います。
これは祖先が、どうしても一度家の財産を潰さなければならない。
そのために子孫の、ある者は賭事が好きだからあれにやらせようというわけで競輪に行かせるのです。
すると最初はうまく当たりますから、その人は夢中になってやっている内に身上をみんな潰します。
それで「やっとオレの所の財産を潰して罪穢れをとったから、ではこれから子孫は栄えるだろう」ということになるのです。
だから一切、現われること、人から交渉あることも、住む土地も、みんな因縁があるのです。
つまらないようなことでも、それに従わないと、やっぱり悪いのです。
よくそれを通じて自分の思ったとおりを突き抜こうとしますが、ロクなことはないです。
だからそういうのは我です。
「よし、オレがこう思ったら、誰がなんと言ってもやり抜いてみせる」
「どんな事情があってもやり通してみせる」という、これが危ないのです。
それよりか、ちょっとやってみていけなければ止してしまうのです。
さっぱり信念がないように見えますが、ところがそうではないのです。
つまりそこで素直、運命に従順ということが一番よいのです。
これは決して間違いないことです。間違いなければうまくゆくのです。
ところが、どうも人間というのは「精神一到何事か成らざらん」主義で、なかなか素直にゆかないのです。
私はいつかも言ったことがあるが、人間は腹に力を入れなければいけないと言いますが、腹に力を入れてはいけないのです。
武芸者でも腹に力を入れているのは、まだ本当ではないのです。
もし腹に力を入れていると、敵がパッと来たときにパッとゆく千変万化の働きができないのです。
それが、腹に力を入れてないと、千変万化の働きができるのです。
機に応じ、身に応じての働きができるのです。
だからああしようこうしようと思ったら、必ずうまくゆかないです。
寒ければ暖かい物を着るし、暖かければ涼しい物に替えるという主義が一番よいのです。
私なども昔は「精神一到何事か成らざらん」主義をずいぶんやりましたが、やっぱりいけないです。
神様のことを知らない内はそうやっていたが、分かってみると、人間なんてものは実に頼りないものです。
ブヨみたいなものです。
大風が吹けば潰れてしまうようなものです。
ただ神様につかまっていれば大丈夫ですが、つかまっていなければ実に危ないものです。
だから今は「オレが」という連中が汚職問題でドシドシブチ込まれてますが、自分では確信を持って、すばらしいものだというわけなのですが・・・。
それについては、ただフワフワしていては、それは駄目です。
そこにおいて智慧というものがいるのです。
智慧というのが肝腎なのです。
だから智慧証覚というものを磨かなければならないのです。
それにはやっぱり頭ですから、頭に曇りがあっては駄目です。
今の人は頭に曇りがあるから、貧血しているから、智慧の働きが悪いのです。
本当に分かってみれば、信仰のない人間というのはしようがないのです。
だからこの間も「汚職の母体」という論文を書きましたが、
これは栄光に続けて三度出しますが、徹底的にやろうと思っているのです。
日本の政界というものは、どうしても大浄化作用がなくてはしようがないです。」
明主様御垂示 「使命に素直になれ」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「資格者といたしまして、人を救うこと、信仰の向上を図ること、御奉仕とをどのような順序に考えましたらよろしいものでございましょうか。
また金銭物資の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げます」
明主様御垂示
「恐ろしい質問だね。
それは、どっちが肝腎だということを考えるそのことが間違ってます。
そういうことは考えないのが本当です。
というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。
向上は全般ですが、各々その使命があるのです。
というのはそういう事情になってくるのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。
金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。
また金がない、信者をたくさん作るというのはそういう使命があるのです。
それは周囲の事情がそうなって来ますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。
それから向上ということは、一番のことは智慧証覚です。
いろんなことが分かることです。
分かるといっても間違った分かり方ではいけません。
その標準は御神書です。
御神書に書いてあることがだいたい「なるほど」と思えれば、それは智慧証覚がだいぶ上がっているのです。
「どうも分からない」というのもあるし、そのときはなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。
いろんなことがフッと解るのは智慧証覚が向上しているのです。
病状をみて、この人はこの病気だということを当てれるのは、よほど智慧証覚が上がってなければならないのです。
だから以前は五つ分かったが、この頃は六つ分かる、七つ分かるというのなら智慧証覚が向上しているのです。」
明主様御垂示 「下の人の言うことを聞くことが雅量」 (昭和23年8月28日)
信者の質問
「智慧は神様から教えていただけるものと考えてよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「そうです。ところが自分の我があるとそれをふさいでしまっていただけないのです。
ですから素直になることです。
世間には自分より偉い人の言葉はよく聞くが、下の人の言うことは聞かないという人が多いがそれが我なんです。
下の人の言うことを聞くことが雅量です。
私でも部下の人の言う通りにしてやる。
傍で見ると「大先生はなぜあんなことを聞いてやるのだろう」と思われるほどですが、それだから人々は喜んで働くのです。
きっと失敗するようなことを「どうでしょうか?」と言ってくると、私は「よい」と答える。
そうするとその人は失敗する。ところが失敗して初めてその人は悟るんです。
智慧と誠とあとは常識です。
で、本当のことは常識に合っており合理的です。」
明主様御垂示 「事業の不振は転業のサイン」 (昭和27年10月25日発行)
信者の質問
「私は昭和二十六年六月入信、大光明如来様、御屏風観音様、大黒様を奉斎させていただき、
昭和二十三年十二月より現住所にて砕石採取業を開設、本県各土木事務所を需要先として納入いたし、
作業人員一日平均二十人くらい使役して生産搬出に努めておりますが、
昨二十六年三月ごろ砕石工場の山の地滑りの天災をこうむり、砕石工場機械設備いっさい大破損を生じ、
幸い人畜には被害なく、その後ようやく復旧いたし、今日まで生産を継続しておりまして、
尊き御神業の御奉仕の万分の一端なりと努めさしていただき、
当甘木支部、金子先生のもとにて御浄霊御指導いただいておりますが、
私の経営の事業面が意のごとく進捗せず、貨物自動車事故および設備の電動機クラッシャー、エアーコンプレッサーなど交わる交わる故障など多く、
なおまた税務署関係などは、こんな田舎に工場などの設備ない関係か、利潤の見込みを多額に要求され、まったく工場閉鎖の一歩前の現状でございますが、
これもやはり私に課せられた罪穢の御浄化とでも申すものでございましょうか。
もしや不相応で他に事業転換の時期のお知らせではございませんでしょうか。
特別の御慈悲をもちまして明主様の御垂示御救い方賜りたく、謹んでお願いいたすしだいでございます。
次に私は昭和三年より昭和十五年まで、満十二年間県土木部勤務退職後福岡市に工務所を開設なし、一般土木工事測量設計業をなし、
その後二カ年間春日原占領軍司令官CRダグラス中佐のもと、ニックネーム「スピード」設計顧問として採用され、
同中佐在日間仕えさしてもらい、引退の上現在の事業に着手今日に及んでおります。
以上参考まで申し述べさしていただきます。」
明主様御垂示
「現在の砕石業は、あなたには適していないから、転業したほうがいい。
そうして大光明如来様によくお願いするとあなたの心に次の業が浮かぶから、その通りやればうまくゆく。」
明主様御垂示 「順調に行かないことは止めるべき」
「順調にゆけばいいが、故障が起ったらやめるという風でよい。
神様の事はきっとそうである。
スラスラとゆくのでなくてはならぬ。」