偏るな (観音行について)


明主様御教え 「程とは」 (昭和26年8月8日発行)

「私は以前某所で、山岡鉄舟先生筆の額を観て感心した事がある、それは最初に程という字が大きくかいてあり、

その次に小さく「人間万事この一字にあり」とあった、これは今もって忘れられない程私の心に滲(し)みついている、

というのは、私は今日まで何十年の間、何かにつけてこの額の字を思い出し、非常に役に立っているのである。

昔からよい格言も随分あるが、これほど感銘に値いする文字はないようだ、たった一字の意味であるが、何と素晴しい力ではないかと思う、

従ってこの程の字を標準にして、世の中の色々な事をみると、何にでも実によく当はまる、

たとえて言えばやり方が足りないとか、やりすぎるとかいう事や、右に偏ったり、左に偏ったりする思想、金があると威張り、ないと萎(しな)びたりするというように、どうも片寄りたがる、

多くの場合それが失敗の原因になるようだ、彼の論語に中庸を得よとの戒めもそれであろう、

昔から程々にせよとか、程がいいとか、程を守れという言葉もそれであって、つまり分相応の意味でもある。

これについて、信仰的に解釈してみると、いつもいう通り、本教は経と緯、すなわち小乗と大乗を結べばその真ン中が伊都能売の働きとなるというので、これも詮じ詰めれば程の意味である、

従って人間は第一に程を守る事で、程さえ守っていれば、すべてはスラスラとうまく行くに決っている、嗚呼(ああ)程なるかな、程なるかなである。」




明主様御教え 「伊都能売の身魂」 (昭和27年4月25日発行)

「私は今まで幾度となく、伊都能売の身魂の事を言ったり記いたりしたが、余程難しいと見えて、真に行える人は何程もないようである。

ところが決してそう難しいものではない。根本が判って習性にしてしまえば案外容易に実行出来るものである。

実行出来ないというのは、非常に難しいと思うその先入観念のためである。

と共にそれ程重要な事と思っていない点もあるように思うから、幾度もかかない訳にはゆかないのである。


伊都能売とは一言にしていえば、偏らない主義で、中道を行く事である。

小乗に非ず大乗に非ず、といって小乗であり、大乗であるという意味である。

つまり極端に走らず、矢鱈(やたら)に決めてしまわない事である。

そうかといって決めるべきものはもちろん決めなくてはならないが、その判別が難しいと言えばいえるので、

言わば料理のようなもので、甘すぎていけず、辛すぎてもいけないというちょうど良い味である。

これはまた気候にも言える。暑からず寒からずという彼岸頃の陽気で、この頃が一番快いのである。

というように人間の心の持方も行いも、そういうようになれば、第一人から好かれ、万事旨くゆくのは当然である。

ところが今日の人間はどうかというと、実に偏りたがる。

これがよく表われているのが彼の政治面であろう。

今日右派とか左派とかいって、初めから偏した主義を標榜している。

従って物の考え方が極端で、しかも我が強いと来ているから、年中争いが絶えない。

という訳でこれが国家人民に大いにマイナスとなるのである。

この意味によって政治といえども伊都能売式でなくてはならないのは当然だが、そこに気の付く政治家も政党も仲々出そうもないらしい。

何となれば吾々に近寄るまでになり得る人はまことに寥々(りょうりょう)たる有様であるからで、

また戦争の原因もそうで、この両極端の主義を通そうとする思想から生まれるその結果である事はもちろんである。

そうして信仰上の争いもよく検討してみると、ヤハリ小乗と大乗、すなわち感情と理性との相違からである。

だからその場合、経の棒を半分短かくし、緯の棒も半分縮めれば一致するから、円満に解決出来るのである。

従ってよく考えてみれば仲直りも大して難しいものではないのである。それについてこういう事もよくある。


すなわちいかなる方面にも保守派と進歩派が必ずあって、宗教でもそうである。

この二者の争いを観ると、前者は古い信者で伝統墨守(ぼくしゅ)的頑(かたく)なで、新しい事を嫌う、まず丁髷(ちょんまげ)信仰ともいえるが、

後者の方は進歩的ではあるが、新しさに偏して何事も古きを排斥したがる。

そこに意見の不一致が起り、相争う事になるが、これらも伊都能売式になれば何なく解決出来るのである。

そうして肝腎な事は宗教といえども、時代精神を深く知る事である。

ところが宗教人はどうも時代に無関心で、むしろこれをよいとさえしている傾向が強い。

何百何千年前の伝統を金科玉条としている。

なるほど信仰は精神的なもので、経であり、永久不変の真理であるから、曲げられないのはいいが、経綸の方はそうはゆかない。

これは物質面であるから、時代相応に変遷するのが本当である。

すなわち精神物質両方の完全な働きで、すなわちどこまでも伊都能売式で行かなくてはならない。


右の意味において、今日釈迦やキリストの時代と同じように思って、その教えややり方をそのまま実行しても、現代人の魂を掴む事は到底出来ないのは言うまでもない。

既成宗教の振わないのもその点にある事を知らねばならない。

要するに伊都能売の働きこそ、一切の根本的真理である事が分ればいいので私が常に伊都能売の意義を説諭するのもそのためである事を、信者諸君は充分心得て貰いたいのである。」




明主様御垂示 「偏るから問題が起きる」 (昭和28年6月1日)

(布教師が患者を医者にかけないまま浄霊し、死亡させた事件が新聞沙汰になったことについて、明主様が厳しいご注意をされた後の御垂示)

「今の問題を動機としてこういう話がでましたが、私はこういう話をしようと思ったのではないので、自然に出て来たのです。

しかしこういうことによって大いに教えられるわけです。

そこでこの失敗がよい働きをしたことになり、そこでその失敗を神様のほうでよいことにしてくれるわけです。

そうすればその働きによって、その罪が消されるということになります。

だから、信仰も、とにかく大乗的に考えて行けばすべてにうまく行きます。

うまく行くから発展もするというわけです。

それに神様のほうはなかなか深いのです。

それは神様のほうばかりでなく、世の中のこと一切が実に何とも言えない面白いものがあります。

人間はそこまで分からないから迷ったり苦しんだり怒ったり、

見当違いなことをよいと思ってやることになります。

大本教のお筆先に「あんな者がこんな者になり、こんな者があんな者になる仕組であるぞよ」というのがありますが、

実に簡単で何とも言えない味わいがある言葉です。

ですからいつも言うことですが、医者のために苦しんでいる人を見ると、医者に対しての憤激もずいぶん起こります。

しかし医者がそういうように病気をなおすことが下手であればあるだけ、こっちの値打ちがあるのです。

だからもし医者がスラスラと病気をなおしてしまったら、それで済んでしまうから宗教になどくる者はありません。

そうしたらこっちの人の活躍する所はありません。

だからお医者の下手なのに対して大いに感謝してよいです。

ところがお医者に聞いてみると、医学の目的は人類から病気をなくすることだと言ってますが、

人類から病気がなくなったら、お医者さんはメシが食えないことになります。


そこで考えが、大乗と小乗と違ってくるのです。

何でも神様にお任せすればよいということも真理なのですが、

やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。

神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。

だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるということも必要なのです。

とにかくそこの使い分けです。

そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。

大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗のほうが主になってはいけないので、

大乗のほうが主になって、小乗のほうが従にならなけばなりません。

その使い分けに難しい所があり、言うに言われない面白味があります。

いつも言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、

一日のうちに二、三度着替えることがありますが、

私はそれが一番よい陽気だと言うのです。

どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。


そういうようなもので、人間というものは、何でも不平に持ってくるのです。

それでは何事も満足するとよいかというと、満足したら進歩がなくなります。

そこで不平も必要になります。

要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしませんが、

しかしうまく あんばいし、使い分けて進んで行くのが本当です。

自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでも一方が勝てば、そのほうに行ってしまいます。

不満のことも起こるのだから、不満のこともよいです。

それからまた一方 満足もあるから、それもよいのです。

それから病気で苦しんでいるときに、命が危ない、このままではどうしても死ぬよりないというときに、

これはいくら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。

そうしているうちに、なおって、だんだんよくなってきて命の心配がなくなると、

今度は欲が力をつけてきて、どうしても金をこうしなければいけない、

ああしなければいけないという欲が出てくるのです。

そうしているうちにいつの間にか、助かりさえすればよいというときのことを忘れて、欲を出すということは、誰でもあることで、私なども経験があります。

それは最初の病気のときに考えたことも本当なのです。

それからそういった欲が出るのもやむを得ないのです。


ただそこのところをうまく程のよいということです。

人によると、助かってしまってから今度は ばかによくなったと、

最初思っている半分も三分の一もお礼をしないということもあるので、

そこでこの間再浄化ということを話したり書いたりしたのです。

そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。

そこで「程々」ということが伊都能売になるのです。

私は以前読んだことがあるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、

小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。

実に簡単に言い現してあります。「程」という字は大したものです。

伊都能売ということの働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。

それで「程」ということは、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。

「程」というのはどっちにも片寄らない、ちょうどよい所に収めるというそれをよく現してあります。

あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいということになります。

ところがその程がよいという人はまことに少ないので、たいていはどっちかに片寄ってます。

だからそれで失敗したりうまくいかなかったりするのです。

今日は珍しくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。

しかしメシヤ教ではこういう話をあんまりやりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、

そういう意味においてたまにはよいと思って話をしました。では質問をどうぞ。」




明主様御講話 「観音行について」 (昭和10年11月21日)

「観音行について、病気を治すのは霊に偏るか体に偏るかですが、いままでちょうどいいというものはない。

あらゆるものが偏っていた。

これが大きな世界のことばかりでなく、一個人のことでも偏ると行き詰まる。

どっちも偏らなければ開けて行って、順調に行くんであります。

私は、いつも柿を食いながら思うんですが、樽柿の一番甘いのは、柔らかからず固からず、というのが一番いい、甘い、あそこに観音行があると思う。

気候でもいいのは春と秋で、物の味でも甘からず、辛からず、というのが一番よい。

私はよく台所から聞かれるが、味はどんなくらいがいいかと言うが、いつもちょうどいいところがいいと言う。

そのたびに言うので、このごろは聞かなくなった。

すべて言葉でも、話でも、日常のことでもすべて同じことで、あまりしつっこくては嫌で、また簡単でも判らぬ。

ですから、しつっこくなく簡単でない、ちょうどいい言葉がいい。

場合により、人により、時により、いろいろに合わして行けば決して行き詰まらない。


そういうようなやり方や教え方はなかった。

これは観音様が出られなかったためであります。

阿弥陀様は絶対他力だし、お釈迦様は自力で、自分の力だけ頼ったり、阿弥陀の力だけ頼ったりする。

ちょうど、その間がなかった。


その間が本当の真理で、これによりすべてがよくなる。

いままで何事があっても、情に捉われたり、理屈に走り過ぎたりしたが、情も加味し、理屈も立たねばならぬ。

そこに言うに言われぬ味がある。

そこが観音行で、もしも物がうまく行かなかったり、金がうまく入らぬとかいうときは、必ずいっぽうに片寄ったところがあるに違いない。

ですから、ちょうど頃合を行けば行き詰まらない。

右か左かいっぽうへ行けば、必ず行き詰まるに決まっている。

いまは右がよいか、左がよいかになっている。

右にもよく左にもよくという、その間がない。

その間の運動が観音運動で、これより他にはない。

これをどこまでも実行して行けばよい。


信仰もあまり熱心ではいけない。

カンカンでもいかぬが、ぼんやりでもいかぬ。

馬鹿に一生懸命やるかと思うと、すぐしなくなるんではいかぬ。

まじめにコツコツやるのがいい。

どこまでもそれでやるのがいい。

これが観音信仰の真髄であります。

男でもなく女でもなく、また男であり女でもある。

両方へみな観音様はかかっている。

これが観音様のお働きを表わしたもので、どこまでも、これを本位で進まなければならぬのであります。」




明主様御講話 「暑からず寒からず、湯のようでなくてはならない」 (昭和10年8月1日)

「何事も 程の一事を守りなば たやすかるべき此世なりける

なんでも程度というものがあります。

いくら信仰といっても程度があって、あんまり熱一方になると触ると火傷するようになり、あまり冷たいと触れない。

暑からず寒からず、湯のようでなくてはならぬ。

それが程であります。

いままでの世界はこの点非常に考えなければならぬことは、湯のように程のいいということがなかった。

大きくみて、運動にしても左翼運動、右翼運動しかなかった。政党にしても消極的と積極的の両方しかない。

極端から極端へ行く。いままでは左翼が出ておそろしがらしめた。

今度は右翼が出てファッショ気分になった。

そういうふうに極端に行く。今度の五・一五の神兵隊の事件など起って、いまにどんな事件が起るか判らぬ不安がある。

ところが左翼とか、右翼とかいうように、いまは冷たいとか熱いとか、どっちかですが、

湯のようなちょうどよい道、それは、観音様の教えとか行いしかないのです。」




明主様御講話 「暑からず寒からずという世界が伊都能売式」 (昭和10年9月21日)

「今日からお彼岸の入りですが、お彼岸ということについては、まだ本当に解釈されていないようですが、

観音様から知らされましたからお話さしていただきます。

いままでの世界は、霊的か体的かどっちか一つしかなかった。

霊体一致という文明はできなかった。

これは観音会がやるので、これからすべてそういうように現われてくる。

東洋は霊的偏重の結果、物質否定とか禁欲主義になり、そのため亡国的となる。

すなわち地獄的国になる。西洋は体的に傾き、ヨーロッパはあの通り地獄的惨状を現わした。

要するに極端で、右か左か、赤化かファッショかどっちかになった。

これを真ん中すなわち両方を調和した文明、これが理想的の社会の文明で、それを観音会がやる。

ちょうど彼岸は寒暑調和の時です。

いままでは火と水ですが、観音会は湯であって、暑からず寒からず、ちょうどいい。

そういう気候からいうので、彼岸は暑からず寒からず、ちょうど暑さ寒さの間になっている。

それで暑さ寒さも彼岸からといいます。

こういう暑からず寒からずという世界が伊都能売式で、これが最後の目的だという意味です。

彼岸は彼方(かなた)の岸ですから、その意味でできたものであります。」




明主様御講話 「平凡に見える人が偉い」 (昭和26年10月11日)

(御論文「経と緯」発表)

「これは今まで書いたり言った通りした事ばかりですが、

これは「文明の創造」の宗教編に入れるものですから、それで読んだ訳なんです。

ただ、急所というべきは、人間は全て平凡に見える人が偉いんです。

普通偉いというと、変わった風ですが、それにごまかされるんですよ。

ですから、宗教家で、何かと言うと、いやに普通の人とは変わった格好をしますがね、

頭の毛を長くしたり、ひげをうんと生やしたりしますが、あれは本当に偉くはないんです。

ですから、それを頭に置いておくと間違いないですね。

ですから、私に初めて会った人は、よく皆んな驚くんです。

教主とか何んとか・・・教祖様なんて、生神様然としているが、私は全然そんな事はないからね。

びっくりして・・・分からない人も、好感を持つんです。

そんなような具合で、要するに、どっちか・・・経とか、緯とか。

右とか、左とかに偏らないとすると、どうしても平凡になっちゃうんですね。

だから、仕事の出来る人とか・・・結果の良い人は、どこが悪いか分からないようで、あたりが極く良いんです。

ところが世の中は知らないから、変わった人が偉いように思われる心理状態のために、

偉く見せようという人は、変わった事を工夫してやりますが、

一つの間違いですが、それを言いたいためにこれを書いたんです。」




明主様御講話 「信仰を他人に勧めるなら機会を見てあっさりやれ」 (昭和10年11月11日)

「どういうことを一番気をつけなければならぬかというと、お祭りや講話会にご無沙汰することがいけない。

それをしないと決してうまくゆかない。

いざという時に間に合わないからお取り替えになるわけであります。

それで月に一回以上は本部などへ必ず参ることで、それも難しいことでない。

他の宗教などは朝の五時ごろに起きて行かなければならぬ。

一日一回は必ず行かなければならぬ。

そんな強制的なことをせぬから苦しいことはいらぬ。

そして後はできるだけ運動をして拡めればいい。

いま、会員をたくさん造らなければならぬ。

それも無理に奨めたりするなどすることはいけない。

気持ちよく話して先方から進んで信仰に入るようにしなくてはいけない。

その点も大いにいい。


要するに、観音力はどっちか極端になってはいけない。

どうしても信仰に入れぬ人は説いてはいけぬ。

また信仰に入るようすすめてはいかぬ。

機会をみてあっさりやればスラスラと入る。」




明主様御講話 「今までの宗教は熱心になると狂人じみてくる」 (昭和10年1月11日)

「昔から「健全なる精神は、健康なる肉体に宿る」と言いますが、これはちっと疑問がある。

ずいぶん大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規など肺の初期になって、かえって大作を残した。

石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。

ですから「健康な肉体に健全な精神が宿る」と言えば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。

しかし、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作ることが根本で、

あらゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。


しかしながら、いかなる宗教の信者も病人のない宗教はない。

信者でも信者でない人も、健康状態は同じようなものです。

それは力のないことを証明しております。

ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、だいたいこの二つで世の中はよくなる。

政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。

宗教改革といっても、ルターのようなものでない、もっと大きい。


今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。

各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。

こういうことをまじめに言うと、はなはだお気の毒ですから、かえって反感を持つといかんから、滑稽にする。

最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最初は屁の玉宗、今度は南無諦め宗というのを作りました。いま、読んでもらいます。

「南無諦め宗」(御発表)

この次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗というのをやるつもりです。

観音運動の目的はただいまお話した通りでありますが、

観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然のことをする人間を造ることは、非常に簡単であってなかなか難しい。


なぜかと言えば、いままでのものは、人間が当然なことをしなかったために、どっちかへ脱線する癖がついている。

その癖を直すのが観音運動にもなる。

観音運動はご承知の通り、観音様はどちらへも片寄らぬお働きをなさる。

男でもなく女でもなく、日でも月でも、また火と水のお働きをなさる。

火と水両方合わしたもの、ちょうどお湯で、人間を湯へ入らせるように、いい気持ちにさせる。

これは先だって言ったことですが、ちょうど気候で言えば春と秋で、寒からず暑からずという具合です。

これが人間の行いになり、心になればよろしい。

どういう行いかというと、どっちへも片寄らぬ、極端にならぬ行いで、いままでの宗教とは、その点が反対なほど違う。


いままでの宗教は、非常に熱心になるほど極端になる。

狂人じみてくる。狂言になる。

そういう信仰になると、外でみるとおかしい。

それですから親戚知人からは反対され、結局信者だけの付き合いになって、それで神様の思し召しに合ってると思う。

ところが観音行は信仰が進むほど、信仰してるのかどうだか判らなくなる。

この点が判らぬことで、要するに味噌くさくなくなるわけであります。

たとえてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいうものはないのであります。

陽気が変わるように、天が晴れたり曇ったりするように、水の流るるごとく少しも拘泥してはいかぬ。」




明主様御垂示 「愛の表わし方 (淡白の味い)」

信者の質問
「可愛い子供に、可愛くてたまらないような気持で強く抱き締めたり、苦しみを与えるような行為や、自分の使用人でも特に信用している人間に困難な仕事をさせるような、およそ愛の心と反対的な心は、どんな心なのでしょうか。」


明主様御垂示
「これも程で、いくらいい事でも程がある。程度を越してはいけない。

子供が迷惑せぬ程度にしてやめておけばよい。

およそ極端なやり方はいけない。

気候でも寒過ぎても暑すぎてもいけない。

食物でも甘すぎても辛すぎてもいけない。あっさりしたところに味がある。一番飽きないのは白米と水である。

人間でも同じ事である。」




明主様御垂示 「無制限の喫煙」

信者の質問
「煙草は無制限に喫んでもよろしゅう御座いましょうか。」


明主様御垂示
「何事も無制限はいけない。すべて物には程がある。

山岡鉄舟の「程・・・人間万事此一字にあり」とあったが、いい言葉だと思った。

片寄らぬのがいい。中庸がいい。

煙草も禁欲的に喫まないのも感心しないが、あまり喫んでもいけない。

煙草を喫むと頭がよくなる。煙草で、その香を嗅ぐと頭を刺激して良くなる。」