自由無碍について 2 (御講義・御垂示)


明主様御垂示 「物事を決めるところに間違いが生ずる」 (昭和28年9月1日)

「奥の奥は説明ができないことがあります。むしろ感じです。これが覚りというものです。

とにかく実に微妙なるものです。だから話すことも書くこともできません。

これはやっぱり世界中で私一人だけが分かっているのでしょう。

他の人は分からないでしょう。

しかしその人の役目さえできれば、それだけ分からなくてもよいのです。

仮に星なら星が、どうも太陽の奴はあんなに光ってシャクに障る。

太陽のように光りたいと言ったところでしようがないので、星はやっぱりそれだけの光しかないのです。

だから本当に考えたら実に神秘幽幻なものです。

またそれが分かってしまっては面白くないので、分からないところに面白みがあるのです。

実に神様というのは、何とも言葉では言えない神秘なものです。


そこで一番間違いないことは、物事を決めるということがいけないので、決めないことが間違いないのです。

つまり物事を決めるところに間違いが生ずるのです。

そうかと言ってまるっきり決めなければ変です。

やはり決めるべきところは決め、決めるだけのものは決めるのです。

それから決められないものは決めないでおくことで、決めようとしてあせったり、苦しんだりすることは損です。

それからまた時というものがあって、その時にはこうしたほうがよい、また時が変るとそうしてはいけない、またこっちに行ったほうがよいということになります。

それも決めて決められないで、決められないで決めなくてはならないのです。

そこで実に幽幻微妙と言いますか、何とも言えないものがあります。

それから分かっていて分からなくて、分からなくて分かっているということがあります。

そうかと言って両方同じでは、分からなくて迷ってしまいますから、どっちかに決めなければなりません。

それからいつまでは決めていて、その先は決めないほうがよいこともあります。

それから一時間だけ決めてよいようなこともあります。

一時間だけ決めれば非常によいものを、一日決めていたために非常に悪くなります。

その限度というものが分からないのです。

しかしまるっきり分からなければ、何にも分かりませんから、ある程度は分からなければならないのです。

お釈迦さんは“一切空”と言っているのですが、そう言えば絶対に間違いはありませんが、しかしそれではとにかくあんまり無責任です。


生長の家などではよくそういうことを言ってます。

“病気を病気と思うからあるのだ、病気はないのだと思えば病気はなくなってしまう”という説を唱えていますが、これもやっぱり決めたわけです。

ないと決めていても、痛いときには痛いのです。

いくら痛くないと思っても痛いのです。

それは人間は霊だけで生きているのならそれでよいが、肉体というものがあるのですから。

そこで覚りの境地というのは、昔から坊さんはその境地に入ろうとしていろんな修業をするのです。

真言密教などもそうです。ぜんぜん何もないのです。

それで“お前分かったか”と言うと、“分かりました”“よし”と、それでよいのです。

何が分かったのだか分からないのだかさっぱり分かりません。

しかし師匠にはそれが分かるのだそうです。

もっともこれは分からないことはありません。

その人の言葉と行いによって、どのくらい分かったかということは見当がつきます。

そこで大僧正が法を授ける場合に、あいつはたいてい修業ができたから大丈夫だなと思うから、

“お前分かったか”と言うと“分かりました”“よし”と言って、お前には阿闍梨(あじゃり)の位をやると言うのです。

阿闍梨の位と言っても、形のあるものは何もないのです。

そういった煙(けむ)のものでやるのです。」




明主様御講義 「観音行に近い人程丸い」 (昭和10年8月5日発行)

「観音様は円満具足という事になる。

丸くて完全であるという事である真丸(真丸)という事である。

真丸はダイヤモンドをよく見ると解る。

ダイヤは八角であるからその八角を取って行くと真丸になるのである。

ハッパ六十四角である。

六十四角が真丸になるのである。

又三十三相というのが実は三十二相である。

この三十二相は化身で、本体の聖観音を加えて三十三相というのである。

聖観音は決して化けないのである。

六十四州と言うが、この意味に相通じている処がある。

麻邇の玉ー如意宝珠とも言う。

神霊(みたま)というのを神という。

神というのは真丸な円満具足なる事である。

玉の横のゝを上に掲げると主になる。

玉の字は非常に貴い字である。

伊都能売とは円満滑脱である。

玉はくるくる自由自在にどちらへでも転んで行く。

神様に角があっては善良な神様とは言えぬ。

丸くならねばならん。

丸いから転がるのである。

自由無碍に転がるのである。

法輪を転ずるとは観音様の事である。

滑稽洒脱である。

大いに笑わせるのである。

観音行に近い人程丸いのである。

どんな人にも合わして行かねばならんのである。

怒るのは真丸ではない。

人に突っ掛るのは角
である。

観音行はこの角が取れなければ丸くなる事は出来ない。

又 湿っぽくては駄目である。

笑い冠句を奨励するのはこの意味からである。

笑ったり笑わしたりすれば、自然に天国状態となり、円満になれるのである世界の平和とは争いがなくなる事である。」 (観音講座 第3講座より)




明主様御垂示 「応身の心得」 (昭和24年6月25日発行)

信者の質問
「観音様は三十三相と言いますが、従来の日本の神仏、例えば八幡菩薩も金比羅権現も、その他八百万神や諸善諸仏も三十三相に化現されるんでしょうか。」


明主様御垂示
「そんなことはない。

三十三相に化するのは観音様だけで、救いのために相手によって応身される。

これが観音様のお働きで、私がいつもやっていることで、信者の人もそういうようにしなければいけない。

それには自分の個性を滅却して、先方を主にするよう心掛くべきである。

これが応身の働きで、そのため化現され、それが三十三相である。

観音様は三十三相というが御本体は聖観音で蓮華を持っておられるお姿である。

蓮の花は仏法を表象し、仏法をもって救われるという意を表わしている。

禽獣虫魚にまで化するというが、これはぜんぜんないこともない。

神様の霊は虫などに憑依することもある。」




明主様御垂示 「観音力、観音行、観音心」 (昭和24年3月1日発行)

信者の質問
「観音力、観音行、観音心について。」


明主様御垂示
「観音力とは観音の発揮する力であって、

この観音力をいただけば人間がこれを発揮することができるのは

諸君が無数の奇蹟を行なっている事実によっても明らかである。

ただその際、人により発揮する力の強弱の差別はある。


観音心とは観音の大慈大悲の御心でありその御心を心として体現することが観音行である。

特に観音心行においては絶対に人を咎(とが)めてはならぬ。

この人を尤(とが)めるのが一番いけないのである。


御讃歌に菩薩行ということがあるが、菩薩とは仏教では覚者を指すのである。

この菩薩まではだれでもなれるのであるが如来には容易になれない。

如来も無論インドの位で、尊者、菩薩、何々天、如来、明王という位がある。

菩薩行とはその菩薩になるまでの行をいうのである。


観音様のことを無碍光如来とも応身弥勒ともいうのであるが、

これは自由無碍、円転滑脱、行き詰まることのないお働きをいう。

また応身とは、相手に応ずることで、時により所により人によりあらゆるものに応じ千変万化の行をするので三十三相に化現されるというのも、応身のお働きを示したものである。

であるから観音行においてはまず応身することができなくてはいけない。

そして本当に観音行が腹へ入ればどんなことでもうまく行くのである。


観音様は一面非常に勇猛な点もあるので、最勝妙如来という御名もあり、

また馬頭観音のお働きもあるが、この場合は獣になられて悪鬼羅刹(あっきらせつ)を克服されるのである。


神様のことはことごとく極めて合理的であって、神様のなさることやお許しのあることは必ず肯けるべき理屈がある。

従って人間の行動も無理がないとともに理屈が立たなくてはいけない。

しかしそれは決して窮屈に難しく考えるのも感心できない。要するに信仰は当然のことを行えば良いのである。

よく「果報は寝て待て」と言うが、あらゆることは決して焦ってはいけない。

寝て待つくらいな、常にゆったりした気持ちでなくてはならぬので、そうすれば物事がうまくゆくということで、これも観音行の一面である。」




明主様御垂示 「事に応じて千変万化」 (昭和26年11月5日)

信者の質問
「小乗的な行き方を反省いたしますと、親切すぎるくらいにヒント与えているということになりますが・・・」


明主様御垂示
「結構ですが、その場合に、堅っ苦しい戒律的はいけない。

道徳的ですね。少しは良いが、あれにこだわりすぎてはいけない。

だから、言うに言われないんですね。

それから、相手によって違わなければならない。

だれもかれも同じではいけない。

相手によって、小さく言うこともあるし、中くらいに言うこともあるし、大きく言うこともある。

それが応身の働きですね。

信仰だって、相手に理解し得るようにね。

インテリはインテリらしく、普通の人は普通に、女子供は分かりやすく単純な話ですね。

人によって違わなければならない。

その修行ですよ。

だから、なんでも、一番いけないのは、決めるのがいけない。

こうだと、決めちゃうと、真理からはずれちゃう。

そうかと言って、ぜんぜん決めなくて、でたらめでもいけない。

決めるべきものは決める。

決めていけないものは決めない、事に応じて千変万化にする。

それが自由無碍です。

法律というのは、定めるから悪人が出る。

これは罪になるということを定めちゃうから、それに触れないことは罪にならないということになって、法律をくぐることになる。

お医者でも、これはこういう療法でやる。

あれはこうと定めるからいけない。

つまり真理は一つです。

だから決めることができないし、決めないことはいけない。

決めて、また決めない。

それから、はっきり言ってもいけないし、はっきり言わなくてもいけない。

つまり、わけが分からない。

そこに、一つのコツを見出すので、それが最高の信仰です。

だから、そこにいくと、ほとんど口には言えない。覚りですね。」




明主様御垂示 「決めつけると衝突してしまう」 (昭和26年11月5日)

信者の質問
「二年半くらい前と思いますが、「無限」という雑誌の記者がインタビューのとき、ブランコのことをおっしゃられましたが、

大きく振れるのが一般で、小さいのが明主様で、しかし小さくても止っているのではなく動いている。という・・・」


明主様御垂示
「そうですね。

自動車の運転ですね。こっちに決めれば衝突する。こっちに決めても衝突する。

どっちもいけないから、まっすぐ行く。

自動車の運転は一番良く分かりますね。

それが、つまり信仰の最高のものなんです。

今までの信仰はそういうことを説いてないですね。

朧気(おぼろげ)には説いてありますがね。」




明主様御垂示 「人を見て法を説け」 (昭和27年12月1日)

信者の質問
「もう一つは、人間の目で見ましたところでは、ああいう人、こういう人ということがございますが、

一番はっきりしていることは、一万円と二万円は誰にでも分かります。

それから期間で、その連続が一番お蔭をいただくというわけでございます」

明主様御垂示
「そうです。はっきり分かるのです。だから要するに理屈は簡単なものです。

ややこしいことはありません。むしろ簡単なために分からない場合がよくあるのです。

こうして(御浄霊)病気が治るということと同じです。

医者が大騒ぎをして治らない、こうして治るものか、と。反って簡単すぎるために分からないことが多いのです。

それは今までややこしい面倒臭い世界に住んでいたからで、ちょうど薄暗い所に住んでいたから見えないが、明るいとすぐ見えるのです。

それが霊的であって物質的でないから、すぐに分からない。

従っていろいろと分かりにくいわけです。

それが一つの仕事というわけです。

だからその人によって、話で分からせるのの上手下手と言うか、急所ですが、さっきも言った通り急所を見るのです。

この人にはこういうことを言えば分かる、しかしまた人によって違うのです。

この人にうまく言ったことを他の人に言っても分からないのです。

人を見て法を説けということです。

それは別に考えなくても自然になるものです。

その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行くようになるのです。

それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分が喋ろうということになるから、それでスーッといかないのです。

この教えは応身というのですから、先方に応ずるようにすると、ちょうど先方に触れるような話になってしまうのです。

これはなかなかやさしくて難しいのです。それが一つの修行です。

そこに行くようにだんだんやることです。

そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。

だから頭が良いとも言えるし、霊位が非常に高くなるとそうなるのです。

むやみに喋っても割合に効果がないのがありますが、鉄砲打ちの名人みたいなもので、一発であたるのと、散弾などをバラバラ射って、やっと一つあたるというのと同じです。」


信者の発言
「やはり叡智(えいち)と濁智(だくち)でございます」

明主様御垂示
「そうです。そういった味わいはおもしろいものです。

あんまり喋ってはいけないし、喋らなくてもいけないし、時と場合によって千変万化自由無碍というわけです。

だから一つの学問みたいなものです。

ただこのほうの学問は世の中の学問とは違うわけです。

こっちは高級なのです。大学以上です。

だからそういうふうになれば、どんな学者や大学の先生でもちゃんと先方で頭を下げます。

私は高等小学だけみたいなものですが、先方は大学の先生でも頭を下げて来ます。これはその一つの見本です。」


信者の発言
「先日秦さんという作家の人が、明主様にお目にかかりました後で私のところに来まして一時間半くらい話しましたが、

今日は来て良かったと非常に喜んでおりました。

その場合にもどんな人と会いましても、相手が感心するようなことを話させていただけ、一歩上のことを言わしていただけますことは、実にありがたいことでございます」

明主様御垂示
「それはそうです。世界が違いますから。」




信徒の寄稿 「教師には教師への叱り方」

「年月は忘れましたが、私は「おひかり」を落としてしまったことがあります。

紐を首にかけず、ワイシャツの下に入れて入れて外出しましたが、帰ってシャツを脱ぐ時、畳の上にポトンと落としてしまったのです。

このことを教会の先生に伺いに行きましたら、「明主様にお浄めしていただきなさい」と言われ、お願いしていただきました。

それで、明主様の所に伺いましたら、私の落とした「おひかり」が、明主様の机の横に置いてあるのです。

私はハッとして、縮み上がってしまいました。

しかし、「おひかり」はふたつ置いてありました。

察するところ、私のほかにも「おひかり」を浄めていただこうという信者がいるらしいのです。

「これは誰のだ!」と明主様はおっしゃいます。

私は小さくなって頭を下げているばかりです。

すると明主様は、「おひかり」の袋を持って、顔のところへ持って行かれ、1分ぐらい念じて、フッと吹かれます。

これでお浄めはすみました。

私はホッとして、うやうやしく「おひかり」をいただきました。

つぎに、「これはだれのだ」とおっしゃるのです。

席にいた人(この人は教師の資格をもっている人でした)が、小さな声で、「私のでございます」と答えました。

すると、明主様は、「なんだ、上に立つ者が・・・」ときつく叱られました。

私は自分も一緒に叱られているようで、首をすくめました。実に怖かったのです。ずいぶんきびしい方だなと思いました。

では、なぜ、私は叱られなかったのかと、あとで考えました。

それは恐らく、私が入信ホヤホヤだから、まあ仕方ないと明主様はお思いになったのだろうと思います。

私は、このことがあってから、「おひかり」の取扱いだけは、実に気をつけています。」




明主様御垂示 「人によりそれぞれ違った御用がある」 (昭和26年10月25日発行)

信者の質問
「最近各支部の月並祭後、信者を浄霊中、自然に憑霊現象が起るようになり、

なにかといろいろ霊界または霊的のことを勉強させられております。

よく信者の御先祖が救いを求めて出られたり「位牌を作ってくれ」とか、

「位牌の祀り方の傾が違うから直してくれ」と出られますので、できる限りのことはしておりますが、

ある先生のお話などを聞くところによれば「あまり親切に霊の救いをすると、いくらでもたよってきて限りないし、そうしたことをしていると物質までみんな0(ゼロ)になる」と言われます。

私は頼ってくるからにはみんな霊線がつながっているから頼ってくるのであって、むちゃくちゃに頼るわけはないと思います。

なお霊を救ってやれば必ず感謝の想念はいつかは物質化するものと思われますが、いかがなものでございましょうか。

右に対し、なにとぞよろしく御教示のほどお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「右のようなある先生には困ったものである。

○○の一つ覚えのように、融通がきかないのだから。

こういう先生は、千変万化、自由無碍、応身の教えに外れている。

この意味によって霊的事象も、人により所により、時によって正邪、善悪いろいろある。

これを見分けて適当に処理することが、できるようになれば一人前の本教信者である。
 
従って、この人の憑霊は、この人にこの御用があるのだから、なんら心配なくやればいいのである。

すべて人によりそれぞれ違った御用があるのだから、単なる自己判断で決めるのは最も間違っているから、その点よく心得てもらいたいのである。

ちょうど芝居に例えればよく判る。

いろいろな役があるからおもしろい芝居ができるのと同じである。」




明主様御垂示 「江戸っ子と伊勢屋について」 (昭和25年2月20日発行)

信者の質問
「大先生(註 明主様のこと)は「江戸っ子」ではいけない「伊勢屋になれ」とよくおおせられる由うけたまわりましたが、この意味について。」


明主様御垂示
「そんなことを言ったことはない。

伊勢屋式も感心できないが、江戸っ子は浅薄で、することにどうも持続性がない。

事柄によってはあっさりもいいが、あっさりしすぎると成就せぬことが多い。

また江戸っ子には、善人が多く消極的で、意気地がない傾向がある。

要は臨機応変である。」

(註 伊勢屋の意味・・・伊勢出身の商人が多く用いた屋号。けちな人(伊勢出身の商人には勤倹の人が多かったところから))