自由無碍について 1 (御論文)


明主様御教え 「自由無礙」 (昭和11年1月25日発行)

「私はいつも、自動車に乗ってる時に、よく思うんですが、

観音行はちょうど、自動車の運転のようなものである。

途(みち)を真直に行くにはハンドルを絶えず、右とか左とか動かしておる。

そこが非常に面白い所で、真直と決めれば、必ず障害物に突当ります。

それと同じで今までは物を決めたがったので、それで失敗するのであります。

例を政治家に採って見ましょう。

政友会は、積極政策で行き、民政党は消極政策であるといいますが、

そういう風に決めるからいけないんであります。

これが決めない様になれば、政治もうまく行くんであります。

政治もそういう風に、お互いに決めなくなれば、政友会とか民政党とかいう、党派も無くなって、一つになるんであります。

いずれは政治もそうなりましょう。

社会は生きている。あらゆる物は生きて動いているんでありますから、

生物に対して、決めてかかるから、違って来るんであります。


例えば、剣術を使うにしても、主義で決めたら大変です。

打って来る時に、突きを防ぐ主義でやるとすれば、打たれるのは当り前であります。

こういう風に決めると、言う事が違うんであります。

今まで種々ありました。募債主義とか、非募債主義とか、あるいは、金輸出解禁とか、禁止とか、

最初から主義を立てるから違うんで、

主義を立てると、その物は死んでしまうんであります。


要するに政治は、積極にも非ず、消極にも非ず時と場合に依って応変するのがよいのであります。

何事でもそうなのであります。

今日は、積極、明日は消極という風でもよく、

あるいはこの月は積極、来月は消極でゆくという風でもよいのであります。

時処位に応じて千変万化するのが、本当なのであります。


観音行は何事も決めないで、自由自在なのであります。

観音様の事を、一名無礙光如来というのは、そういう訳であります。

将来の政治は、そういう行り方でなくてはならない。

すべて決めてかゝるというところに、間違いがあるんで、

その点から言っても、今までの行り方は間違っていたんであります、

モーゼの十戒とか、仏教の五戒とかいうのは、非常な間違いであります。

五戒とか十戒とか決めると、それ以外は何をやってもいい事になってしまうんで、戒律のないというのが真理であります。

ただ一つの教に帰依すればいいので、それによって自然に戒律が守れるんであります。

それが観音の行り方で、観音様は一の位一の数であります。


一という数は、数の元であり、拡げれば、無限の多い数にもなる。

一にして無数であり無数にして一であり、随って、いかなる数も、一なら割れるんであります。

二以上になるとそうは行かない、限られてしまう、

観音様は一であり、無数であるが故に、自由無礙なのであります。

今までの宗教はいずれもが二以上の数ツマリ枝であります。

枝は限られているので、全世界の宗教を帰一する事が出来ないのであります。

それ故今までは根本である一を隠して居った。

二までしか出ていなかったんであります。

この一こそ、最高の教で、絶対の救いであります。

言葉では言えぬ、力、これが即ち、真理であります。


話は一寸違いますが、総理大臣、即ち政治の主脳者が、観音力を与えられたならば、米の不作などど言う事はない。

必ず豊作になり各地に、風水害などいうものは、全然起らないのであり、

貿易なんかも能(よ)く調和がとれるんであります。」 (岡田仁斎)




明主様御教え 「観音心と観音行」 (昭和11年4月11日発行)

「観音心とは観世音の御心の具現であり、観音行とはその具現の実行である。

しからば観音心とはいかなるものであるか、これを出来るだけ判り易く説いて見よう。

ついでに言うがこの観音心は、思想として未だ嘗つて人類の経験にも、哲学にも無いのであって、

端的に言えば現在の思想が清算されての後に来るもの、即ち明日の思想である。

この観音心とは一言にして言えば、応変自在融通無碍の心的活動である。

今日までのあらゆる思想宗教哲学等は、一定の法則主義主張又は戒律を造りそれを実践せんとして飽くまで固着する結果、

限られたる一定期の成果は在るが、時所位に依る変化物象の流転に応化する能わずして、

ついにその生命力を失墜してしまうのは、余りにも瞭かな事実である。

たとえて言えば、国と国とは国是国策を遂行せんとする固執によって一歩も枉(ま)げずついに戦をも起し、

又政治団体は主義に依って党派を生じ、階級はその利益の固執によって軋轢し、

宗教は解釈意識の相違によって、派を立てて相争う結果を生ずるのである。

これが実に人類社会闘争の根源であって、優勝劣敗も、弱肉強食も悉くがこの産物と云ってもよいのである。


この根本に気が付かなければならない。

仏陀は慈悲を説き諭した、因果の法則を示した、基督(キリスト)は愛と犠牲を、孔子は人倫の道を、モーゼは戒律をそれぞれ人類の為めに説いたことはすくなからず役立って居るのは否定すべくもない。

しかしこれら各々が持つ特殊性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。

何となればそのいずれもが、教理を立て戒律を造って居る。

それはそれ自身が既に限度を示して居る。

この故に完全ではない、教の無い教、戒律の無い戒律、主義の無い主義でなければならない。

即ち応対変通である。それこそ宇宙の運行と倶(とも)なる真理の具現である。


これを卑近な例にとって見よう。人間の不正を矯(た)めるに法律がある。

この法律はかくすべからずの項目が何百何千もあるが、いかに努力するとも所期の目的を達し得ないのである。

それは法規の文字によって範囲と限度とを示して居るからである。

不正な人間はこの限られたる法文以外に不正な手段を発見しようとするのが、何よりの実証である。

法網粗であった時代より、法網益々密になって、犯罪は減少しなければならないはずであるのに、事実はその反対の結果をさえ示すと云う皮肉は、私の説を裏書して居る。


彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しいと、思うのである。

この故に人間悪を絶対に匡正する方法それは人間内面に在る魂の工作でなくては根本的ではない。

その魂さえ浄化清澄であったなら、例えば法律の無い世界に住して居ても不正をやらないのは自明の理であるが、

この状態の魂こそは、法規や道徳や戒律に何ら束縛をされて居ないところの、実に自由無礙自主的活現であるからである。

天地と共なる真理そのままの姿であるからである。これ即ち観音心である。」




明主様御教え 「観音信仰」 (昭和24年4月20日発行)

「人間生活において何事もそうであるが、特に観音信仰においては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。

円転とは丸い玉が転がるという意味であるから、角があっては玉が転がらない。

世間よくあの人は苦労人だから角が除れてるというが全くその通りである。

ところが世の中には角どころではない、金平糖のような人間がいる。

こういうのは転がるどころか、角が突っかかってどうにもならない。

そうかと思うと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。

それも自分だけならまだいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思う人があるが、これらは小乗的信仰によくある型で、いわゆる封建的でもある。

こういうやり方は信仰の上ばかりではない、社会生活においてもカビ臭くて、鼻もちがならない。


そうして自由無碍という事は型や枠を造らない、戒律もない、天空海闊(てんくうかいかつ。人の度量が、空や海のように大きいこと)の自由で、無碍もそういう意味である。

ただ自由といってもわがまま主義ではない、

人の自由も尊重する事はもちろんである。


観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違う点がある。

しかし戒律信仰は、戒律が厳しいから仲々守れない、

止むなくつい上面だけ守って蔭では息つきをやるという事になる。

つまり裏表が出来る訳でそこに破たんを生ずる。

と共に虚偽が生れるから悪になる。

この理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。

それに引換え大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で裏表などの必要がない。

従って、虚偽も生れないという訳で、これが本当の観音信仰であり、有難いところである。


また小乗信仰の人は不知不識(しらずしらず)虚偽に陥るから衒(てら)いたがる、偉くみせたがる、これが臭気芬々(ふんぷん)たる味噌になってはなはだ醜いのである。

そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。

小人というのはこういう型の人である。


またこういう事がある。

私は普請をする時にはいつも職方と意見が異う。

どういう訳がというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。

人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。

ゆえに観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。」




明主様御教え 「解 脱」 (昭和26年1月25日発行)

「よく昔から、解脱(げだつ)という事をきくが、この言葉は簡単に善し悪しを決める事は出来ない。

世間普通の解釈による解脱とは迷いを去り、悟りをひらくとか、執着をとるとか、諦めをよくするとかいう意味であって、これは無論仏教から出たのであるが、

しかし何となく逃避的隠遁的響きがあり、これは東洋人特有の思想であろう。

ところで、実際からいうと、余り悟りがひらけ過ぎると、活動力が鈍るのが通例である。

もちろん競争意欲などはなくなり、民族にしても、印度(インド)のごとく衰亡する事になる。

ゆえに人間は迷う事によって生きる力が出るのである、と言って迷いすぎるのもこれまた危険がある。

また諦める事も活動力が鈍るきらいがある、といって余り諦めないと男女関係などは悲劇を生む事にもなる。

だからあんまり解脱してしまうのも面白くない。

ついには世の中が馬鹿馬鹿しくなり、孤独的になったり、生ける屍となったりしてしまう。


以上の諸々を考えてみると、何でも行き過ぎがいけない。ツマリ程を知る事である。

全く世の中は難しくもあり、面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあるというのが実相である。

結局 苦楽一如の文字通りが人間のあるがままの姿である。

しかしこれだけの話では結論がつかないから、私は結論をつけてみよう。


いわく人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。

迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は、時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。

要は時所位に応じ、事情によって最善の方法を見出だす事である。

しかしそうするには叡智が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがない程よく出る。

ゆえに魂の曇りをなくする事が根本で、それがすなわち誠である。

誠とは信仰から生まれるものであって、この理を知って実行が出来れば、大悟徹底した人というべきである。」




明主様御教え 「本能主義と禁欲主義」 (昭和27年12月24日発行)

「ドイツの有名な哲学者ニーチェの本能説に従えば「人間誰もは生まれながらにして種々な本能をもっていて、それはどうにもならない宿命のようなもので、もちろん人為的に抑える事は不可能に近いというべきものである」というのである。

なるほど一応は納得できないこともないが、それだけの説き方では不道徳も許されるということになり、一種の危険思想である。

従って相当智性のある人なら、一つの学説として取扱うこともできるが、吾々宗教人からみる時絶対受け入れ難い説である。

ところが右と全然反対な説もあって、しかも古くから実行もされている。

それは宗教中のある種のものであって、本能の罪悪観である。

それがため極端な禁欲主義に陥り、その苦しみを聖なる実践と解し錬磨修業の道程ともされている。

これを吾々から客観すると承服できないと共に、こういう信仰に限って社会とも同化せず、独りよがりに陥っている。

このたぐいの信仰で代表的のものとしては、彼のマホメット教(別名回々教、イスラム教)とインドのバラモン教、キリスト教中での清教徒(ピューリタン)等であって、日本には余り見られないが、若干それに似たのが今なお残っている。


以上のごとき相反する両者を並べてみると、そのどちらにも軍配は挙げられない。

というのはもちろん一方に偏しすぎているからであるが、これについて神は厳たる標準を示されている。

そうしてこの誤りは簡単に分りそうなものだが、割合世人は軽視し勝で分らないようだ。

これを一口に言えば彼の孔子の唱えた中道説である。

これについては私は常にあらゆる面から説いているから、信者はよく知っているだろうが、

実際問題としてはヤハリ孔子のいった今一つの「言うは易く行いは難し」である。

ところがこの事こそ実は信仰の本道でもあって釈尊の唱えた覚りもこれである。

そこで私はこの理をできるだけ平易に説いてみるとこうである。


まず卑近な例ではあるが四季の気候を見ても分るごとく、極寒と酷熱は人間誰もは嫌うが、寒からず暑からずという中和を得た春秋の気候こそ快適であり喜ぶのは当然である。

昔からこの季節に仏教重要行事としての彼の彼岸会(ひがんえ)がある。

それは気候が極楽浄土の実相を表しているからである。

だがそれは別として今私の言わんとするところは、処世上についてであるが、

これも一切万事 極端を避けなければ駄目だ。

ところが人間はどうも右か左かどちらかに片寄りたがる。

これがいけないので、失敗の原因も大抵はここにあるといっていい。

そうかといって決めなければならないこともあるから、この取捨按配(しゅしゃあんばい)が中々難しい点である。

そうしてこれを一層徹底的に言えば、つまり決めないと思う心がすでに決めている訳であるから、

決めてもいけず、決めなくてもいけず、といって中途半端でもいけないという

実に曖昧模糊(あいまいもこ)としているようで、実はこれが厳たる法則であり、ここに世の中の面白味があるのである。

つまり応変自在、自由無碍の境地になればいいので、要は一切に捉われないことである。

観世音菩薩の別の御名無碍光如来も、それを表わされているのである。


そうして今日の政治や思想問題にしてもそうだ。

彼の右派とか左派とが、資本主義とか、共産主義とか決めてかかるから間違が生ずるのである。

なぜなれば決めれば局限されるから他との衝突は免れない。

これが今日屁のようなことでも、一旦は必ず悶着が起り、どこもかしこもテンヤワンヤであるのはこのためである。

またこれは世界を観ても同様、国際関係にしても年中ゴタゴタが絶えないのである。

もっとも今日までの世界はこれあるがため物質文化の発達を見たのであるから止むを得なかったが、これからは逆になる以上、頭の切替えが肝腎である。

ということは、いよいよ真の文明時代が今や来らんとする時となったからである。

つまり彼岸の気候を標準として進めばいいので、これが我 メシヤ教の本領でもある。」




明主様御教え 「満足と不満」 (昭和28年3月18日発行)

「人間誰しも満足の境地になりたいのは言うまでもないが、それが思うように得られないのが人生であって、考えようによってはこれも面白いのである。

ところがよく考えてみると文化の進歩の動機は、人間の不満足な心にあるのだから、世の中というものは単純に解釈出来ないものである。

つまり不満足がある程向上もし、改革も出来、進歩もされるのである。

そうかといって不満がありすぎるとこれまた困る事になる。

例えば争いの原因となったり、身の破滅となる事さえある。

個人的には家庭の不和、友人、知己との仲違(たが)い、喧嘩口論、自暴自棄、警察沙汰というように、危険の因となる事さえ往々ある。

また社会的には過激な思想団体を作ったり、火炎瓶や破壊行動にまで発展し、内乱を起す事にもなるから軽視出来ないのである。

また右とは反対にあいつは好人物だ、お目出度いと云われるような人間は、余り不満が起らないらしく、

いつも満足してるようだがしかしこういう人間に限って、能力がないからマイナス的存在となる。

とすれば満足でも不可(いけ)ないし、不満足でも不可ないという事になり、どちらがいいか判らなくなる。

しかしそれは大して難しい事はない。帰するところ偏るのが不可ないので、両方を巧く按配(あんばい)すればいいのである。

といっても口では易しいが、さて実行となると中々難しいもので、そこが人生の人生たるところかも知れない。

要は千変万化どちらにも決めない融通性があって、その根本に誠があればその人は世の中から用いられ、出世もし、幸運をかち得るのである。」




明主様御教え 「再びベルグソンに就て」 (昭和26年7月18日発行)

「(一部のみ引用) それからまた彼の哲学には、万物流転という言葉がある。

これも仲々面白いと思う。

それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いていると言う意味で、例えば去年と今年とは一切がどこか異っている。

世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。

否昨日の自分とも、五分前の自分とも必ず異っているところがある。

としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。このように何でもかんでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。


従って、この理を人間に当はめてみる時、こういう事になろう。

何かの事にブツかった時、去年の観方も考え方も、今のそれと異っていなければならない。

大きく見れば終戦前と終戦後とは丸きり異っているではないか、僅かの間に驚異的である。

ところが多くの人は、何百年前のやり方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから、適確に現在を把握する事が出来ない。

これを称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。

つまり一切が流転しているのに、御自分だけは泥水のように停滞しているからで、こういう人こそ世の中から置き去りを喰ったり、不幸な運命となるのである。


既成宗教が振わないというのも、右の理を考えてみればよく判る。

この理によって万物流転と少しもズレル事なく、千変万化する事が観世音のお働きでもある。

観世音の別の御名である応身弥勒とはその意味で、応身とは身をもって応ずる、すなわち外界の事物に対し、自由無碍に応ずる事である。

無碍光如来の御名もその意味に外ならない。

判り易く言えば老人に対しては、老人に合うような話をし、婦女子には物柔らかく、智識人には科学的に、一般人には常識的平凡にするというように、

いかなる人にも話す場合、先方が理解し、興味が湧き、快く聞くというようにすればいいのである。

この方針で信仰を勧めるとしたら、案外巧く行くものである。」