時期を待て 2
明主様御垂示 「時節が一番重要」 (昭和25年5月22日)
信者の質問
「第七問をお伺い申し上げました者で御座いますが、光新聞十四号掲載の「時期を待て」の御論文中に、
「時節には神もかなわぬぞよ」と、事を行うに時節が最も重要である旨の御教えが御座いますが、
今迄私は孫呉の兵法に天の時、地の利、人の和の三つの中で人の和が最も重要とされております故、
事業を行うにも人の和の方が重要と考えて参りましたが、
これも格言「良薬は口に苦し」というような誤りで御座いましょうか。御教えをお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「そんな事はない。人の和は結構である。
しかし時期が一番である。
兵隊は軍事だからいいが、私の方は平和であるから、時、人の和の順になる。」
明主様御垂示 「物事が順調に行かぬ場合」 (昭和24年6月25日発行)
信者の質問
「物事が順調に行かぬ場合は浄化でしょうか。なにかのわけがあるのでしょうか。」
明主様御垂示
「物事が順調に行かぬ場合は浄化のための場合もあり、時節が来ぬのに焦るからでもある。
果物がまだ熟さぬうちに取って食うようなものである。
その他罪穢があるとそれに相当した邪霊が憑こうとするがこれとても一種の浄化の現われである。
しかし誠の心を持てば速く浄化がすみ、善い心掛けと良い行いをすれば運勢が開けるようにこの世はできている。」
明主様御垂示 「迷う時は現状維持が一番いい」
「結論に行かなかったのは、また、想念が一致しなかったのは時機が来ないのである。
題目は大抵の場合必要はない。現状維持でよい。政治家など非常に長時間会議するのはおよそ智能の程度が低い。
何か問題を考える時、どっちにしていいか判らぬ時は決めぬ方がよい。
時期が来ると、どうしてもこうしなくてはならぬ・・・という結論が浮かんでくる。
故に、迷う時は現状維持が一番いい。はっきり見通しのつくまでは・・・。
いかなる問題も結論は一つしかない。それさえ発見すればよい。
民主主義とはそれで、指導者が指導するのではない。国民の心が一致している所をみて指導者が手を打つ。
また、時機の熟するのを待つ。
大抵の事は信仰雑話を見れば判る。眼光紙背に徹すべきである。
悟覚。真覚・・・見真実で出来る。普通の人では出来ぬ。
正覚、等覚は覚者(菩薩)にならなくてはならぬ。
三つの本を読めば覚者になれる。
何でも簡単でなくてはいけない。」
明主様御垂示 「最善をつくして時を待つのが一番」 (昭和23年9月28日)
信者の質問
「善悪不二と申しますが、善主悪従と考えてよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「ええ、いまはそう思っていればよい。」
信者の質問
「道を求めるについて低いものは高い者を経て初めて高くなれると存じますが・・・」
明主様御垂示
「ええ、まあそうです。」
信者の質問
「道を悟るため自分でいろいろやってみても頼りないのですが・・・」
明主様御垂示
「それは主観だから判らない。この場合は神が客観する。
そこで自分は最善を尽くして時を待つのがいい。
向上を期するのはいいが、短時日にしようとすると焦りになり、焦っては高まるよりむしろ地獄、修羅道へ近くなる。」
信者の質問
「自分を指導する者がなければ自分が救われないと考えますが。」
明主様御垂示
「指導は他力であり、自分で向上を励むのは自力であり、この両方で行くべきです。
他力だけでも救われるが自力も必要、日蓮宗は自力のみだが、これは一種の信仰地獄へおちることになる。
だから最善を尽くして時を待つのが一番いい。」
明主様御垂示 「果報は寝て待てについて」
信者の質問
「「果報は寝て待て」との有難い御言葉ですが、一つの難関に打当った時、いかに考えるべきでしょうか。
(イ)最善の努力が払われなかったのか、
(ロ)神様が止め給うたか、
(ハ)邪神の邪魔する故か、
(ニ)時期でなかったか、右、御教示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「寝て待つ程ゆったりした気持でなくてはならぬ。焦ってはいけない。
果報を追いかけたりつかまえたりするようではいけない。来るのを待つ気長さが必要である。
(イ)、(ロ)、(ハ)全部合っている。最善の努力はどの程度か判らぬ。これは智慧である。智慧が足りなかったという事が多い。
第一は時期が来ぬ。第二は誠とか智慧が足りない等、その人により種々ある。
邪神の邪魔は始終ある。邪神の邪魔は自分のメグリを除られる。
こっちにスキがあり、または原因をもっている。
人に騙される資格があれば騙される。
智慧の不足等考えなくてはならぬ。
強盗や不良等が多いのは、日本人民全部が腐っている。
そこへ蛆が湧くので、湧くような状態である。
皆正しい本当の心持になれば霊界が浄まるから、悪い気持は起らなくなる。一切は相応する。
共産党など怠けたり飲んだりして困ると社会が悪いという。自分の事は棚上げにする。
野心はあっても力なく成功せぬ場合、成功する人間をやっつけようとする。正しければ苦労はない訳である。
前の世の悪人で正しいのもある。そのために苦労がある。
これは前の世の罪の浄化である。
祖先の罪の場合、しかし本当の誠の人なれば御守護によりそう困らぬ。そういう人は物資にも困らぬ。」
明主様御垂示 「相手が判らなければ時を待つ」 (昭和24年9月・10月)
信者の質問
「自分が正しい立場にあっても争いを好まぬ性質から自重して時を待つ心と、
相手と口論してもその正否を決めねば収まらない心とはどちらが善であり人間的でしょうか。」
明主様御垂示
「これは臨機応変でどっちに決めてもいけないんです。
自重すべきがいいときと、・・・けど、口論はいけませんね、この道は争いをなくすんですからね。・・・
相手が誤解してるときにはそれに対して説明する、説明ですよ。
それでも相手が判らなければ時を待つんですよ。
口論なんかしてもまだ解決しないと、次にこれ(拳骨をお振りになる)になりますからね。(笑声)」
明主様御垂示 「お道を理解できない信者は放っておき時期を待つ」 (昭和23年5月28日)
人を悟らせるとか裁くとかいうことは僭上の沙汰
信者の質問
「講習生が判らないときは・・・」
明主様御垂示
「時を待つのがよい。
人間が判らせるのではない。
人が人を悟らせるとか、あるいは裁くとかいうことは僭上の沙汰です。
判るように言うべきことだけ言って、あとはその人の自由に任せたらいいのだ。
判らない人はほおっておいて時を待つ。
そして神様にどうか早くあの人が判るようになりますようにと祈ったらいいんです。
第一、人に判らせようなどとしていてもその人自身判っちゃいないんだから。
私の弟子はいまたくさんいるが本当に判っている人は一人もありはしません。
私だって判らせたいと思うことはいろいろあるが、まだ時期でないから黙っているのです。」
明主様御垂示 「救われる時期は神秘で難しい」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「一般に無神論者と言われている中にも、先祖祀りということはしている所はありますが、どうもお蔭をいただけません。
そういう人達をこのお道にお導きする方法を御教えお願い申し上げます」
明主様御垂示
「別に方法というのはありません。
なぜかというと、導くということは導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。
あとは心配しなくてもよいのです。
なぜといって人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、いくら言っても駄目です。
その時期というのは非常に神秘なもので難しいものです。
例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。
ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。
そこでメシヤ教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝のほうでしょう。
大枝が救われて小枝が救われて行くのです。
それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。
そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。
だから分からないのはまだ時期が来ないのです。
だからスラスラ行くのは時期が来たなと分かるし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。
それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。
ですから滅びる人はいくらやっても駄目です。
だからさっきの「食道が悪くて、噴門からどうとかする」というのは、もう救われない側になっているのです。
救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。
ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。
それは別に難しいことはないので、見分ければよいのです。
この人は救われるか、あるいはもう駄目な人かということはすぐ分かりますから、
どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。
それから楽に行かないのは救われないほうです。
この間の論文に書いてありますが、救われない人がすっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。
最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人のほうが疎かになり、それがたいへんな間違いです。
そういうことを見分けるのもその人の智慧証覚が向上していれば見分けもつきます。
ですから智慧証覚を磨けばその判断力がつくのです。
それで智慧証覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。」
明主様御垂示 「結婚の迷」 (昭和23年)
信者の質問
「自分でどうにもならない事は惟神にせよとの事ですが、努めてそのようにしようとしてどうしても忘れられないと言う事は、邪霊に敗けているのでしょうか。
惟神にそうなるのと、邪霊に敗けてそうなるのとどう違うでしょうか。御垂示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは一概に決める事が出来ぬ。
絶対の一人であるとすれば、いずれは夫婦生活をしなければならぬ。
反対者があったりなどするのは、時期を待つより外ない。」
明主様御垂示 「性的満足の得られぬ場合も時期を待つ」 (昭和23年8月8日)
信者の質問
「夫婦間においてそのいっぽうが病質や障害者のため性的満足の得られぬ場合はいかにいたしたらよろしいでしょうか。またその場合の離婚は差し支えないでしょうか。」
明主様御垂示
「それは主人に罪がある。
慎しんで罪の消えるまで待つことです。
それはちょうど懲役に行ったようなものです。
刑務所に入ってしまえばそういうことはできないでしょう。・・・
しかし許されることをあまり期待してはいけない。
これを徹底して話もできるがここではどうも・・・
議会でも秘密会があるようにいつか小人数のときに話しましょう。」
明主様御垂示 「我慢して時期を待てば駄目亭主と離婚できる」 (昭和23年12月8日)
信者の質問
「夫婦、親子などの間で、ある人が他の人の犠牲になることがよくありますが、
このような「人間関係の犠牲」ということはどのように判断いたすべきでございましょうか。」
明主様御垂示
「ちょっと抽象的で判りにくいが・・・」
信者の質問
「生活能力もなく頼りにならぬ実に永い間仕えた妻がついに耐えられなくて別れてしまったという場合でございますが・・・」
明主様御垂示
「それはね、その妻に犠牲になるだけの罪があるのです。
だからある時期まで待つべきです。
我慢して待っていれば自然に神様が主人と別れるようにしてくれるのです。
その場合、信仰心があるとその間の苦しみも軽いし、またその時期も早く来るのです。」
明主様御垂示 「時期を待てばうまく離婚できる」 (昭和24年9月18日)
信者の質問
「異性の双生児(両性共健在)で本年三十九才の女子、昨年三人目の後妻として嫁ぎましたが、婚家との折合悪く、毎日不快な日を送っています。
本年八月入信致しまして本人は観音様にお縋りして、何とか神様の御用をしたいと以前より一層婚家を嫌います。
婚家の方では三人目の妻で、今度離縁すれば後へ来てくれる者がないと言う気持か、不満ながら離縁もしません。
本人は「離縁して欲しい、何とかその家を出たい」と申します。
入信を導いた者として、いかに致せば円満で御座いますでしょうか。御教示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「無理はいけない。時を待てば、神様が無理なく離れるようにして下さる。」
明主様御垂示 「夫の不倫も時期を待つ」
信者の質問
「自由恋愛、見合結婚をめぐり、ラジオ、雑誌等にて適、不適が論ぜられております。
新人は自由恋愛結婚を喜び、昔堅気の人はこれを嫌う傾向があります。
しかしいずれも産土神の御取持ちだとすれば文句等あり得ないのですが、
自由恋愛結婚は結婚後どうも調子がよくないようであります。
近頃は特に自由恋愛結婚を望み、親に叛いて結婚している人達がおりますが、これらも産土神の結合させたものでしょうか。」
明主様御垂示
「簡単にはゆかぬ。これも恋愛と見合結婚の場合と神様は両方扱う。
前世愛し合ったものが恋愛が遂げられぬ場合執着が残っている。
今生に生れてたまたま会うと成功させようとして両方が熱烈になる。
こういう恋愛は無軌道的になる。
これも産土神または正守護神が執着を除らすためある期間許す。
ある時期へゆくと熱がさめる。執着が除れる。それで割合にうまくゆかぬ。さめてしまうのである。
また、産土神が決めた相手が違う場合もある。それで別れる。
であるから見合の方は永久的の方が多い。
前世の因縁によるのであるからどっちともいえぬ。
であるから神様に任す事でよい。
夫婦になると、中途において亭主が愛する女が出来たり、妻は愛人、不純な男が出来る場合もある。
結婚してから前世の執着が残ってる事があると無茶苦茶になる。
他から見て不道徳だが、本人は夫に済まなくともそうはゆかぬ場合がある。
熱が冷めると大抵元へ戻る。
それを人為的解決をしようとすると悲劇が起る。
結局、時期を待つと案外うまくゆく。その苦しみにより魂が磨けてくる。であるから時期を待つのが一番最良である。」
明主様御垂示 「神様が未信者を使って妨害活動をさせることもある」 (昭和23年8月21日)
「すべて時期と順序がある。
反対によって神様がちょっと止める事がある。
非常に反対のあるのは神様がやってる事がある。
神様はとても深くて、人間に判断のつかぬ事がある。時が経つと判る。
思うように行かなかったり故障が出る時はそういう事を思ってよく考えてみる。
道場の普請でも、今二ケ月で出来る訳はない。それが一ぺんに出来る。時期が延びていたのである。
人間は早過ぎたり・・・神様が早かったりする。ただ、延びると一ぺんになる。
ただ、物が出しぬけに行く事はない。最初ボンヤリしていたのが次第に濃くなり、段々見えてくる。
先の事があまり早く判ってもいけない。
私は人の心が判り過ぎた。最初これはいいと思った。
次には人が来ても、口をきくのもイヤで、これは困ると思った事がある。
やはりあまり判ってはいけない。判らぬ所に味がある。
人はよく忘れっぽくていけないと言うが、大隈氏は「忘れる人は羨ましい、自分は悪い事迄覚えてる」・・・と言った。
また、霊の見える人など、悪魔や動物や苦しんでる霊など見える人があって、気味悪くて仕様がないそうで、これも善し悪しである。
必要の場合見えるのはいい。」
明主様御講話 「明主様の御神業と時期」 (昭和28年12月26日)
「それで建築ばかりでなく、あそこに行って、みんな見て分かるでしょうが、今道路を作ったり木を植えたり、いろいろやってますが、それは二、三度行って、三十分か一時間まごつけばすっかり分かるのです。
だから考えたり迷ったりすることは、ほとんどないです。歩くうちにチャンと分かるのです。
これは自分でも始終不思議に思ってますが、それがまたおもしろいのは、時期時期に応ずるのです。
必要な時期が来るとすぐに分かるのです。時期が来ないうちは、なかなか分からないのです。
ヒョッと見て分からない時は、これはまだ時期が来ないからだと止してしまうのです。
時期が来ているとすぐ分かるのです。
ですから、随分難しい所があって、どうしたらよいかなと分からないことがあります。
そういう時は止して時期を待つのです。そうして時期がいま決めなければいけないという時になると、はっきり分かるのです。
今やっている美術館の所から展望台に行く道路ですが、そこのところがふつうはちょっと分からないのです。
非常に急勾配になっているし、どの辺からどういうようにゆくかということが、ちょっと見当がつかないのですが、それがちょうどその時期になってきたので、この間二度ばかり行きましたが、実によく分かりました。
その道ができると自然に無理がなくゆくのです。そういうようですから、神様の仕事というのは実に不思議なような、おもしろいような、変なものです。
なにからなにまでそういう具合で、美術品にしても、こういう物があればよいな、こういう物が来ればよいなと簡単に思ってますが、それも、あれはとても手に入る物ではないと思っているうちに、時期が来るとスラスラと入るのです。
それで入ってから、これはこういう展覧会をやらなければいけないのだ、ということが分かるのです。
そういうことを話しているときりがないが、それはおもしろいものです。」
明主様御講話 「明主様の御神業と時期」 (昭和28年12月27日)
「今美術館ができる方の土地をいろいろ指図しましたが、
これは簡単でして、私が二度行って、一回三十分か一時間ですっかり指図しました。
道についても、もう少しするとすっかりできあがるから分かりますが、これはなかなか難しい所でした。
ところが行って見ると自然にそういう形になっているのです。
これは神様は前からそういうふうに準備してあるのです。
ですからみんなが、ここにこんな立派な道がどうしてできるだろうとびっくりしてますが、それはそういうふうに地形がそうなっているのです。
だから簡単なものです。
それから今読んだように、天井の高さにしても、見てちょうどこのくらいの高さがよいというように、すぐに浮かぶのです。
それはなんということはないので、決まっているようなものです。
高からず低からずです。
それから柱も太からず細からずで、チャンと出るのですから、なんでもないのです。
それからまた階段の所の手摺ですが、ああいう形というのは他にないです。
これなども、どういうふうにしましょうかと言ってきたが、
私も最初はぜんぜん分からないし、考えてもいなかったので、
そこで行ってみると、ああいうふうにチャンとできてしまうのです。
それでああしたのです。
ところが神様の方の仕事というのは、みんな非常に楽で手間がかからないのです。
あの手摺なども実に簡単なものです。
あれなら一番安くできるでしょう。
ところが形が非常におもしろいと非常に褒められます。
そういう具合で、不思議と言うよりほかありません。
そうかといって、その時にならなければ出ないのです。
前からその設計をといっても駄目なのです。
私はどうしようかと思っても出ないと止めてしまうのです。
その代わり時期が来るとスラスラと分かってしまうのです。
こういうことも「神は順序なり」で、こういうことにも非常に順序があるのです。
ちょうど土地なども、隣の土地がぜひ欲しいと思っていても、どうしても駄目なのです。
というのは、その時は必要がないのです。
ところが必要な時になってくると、先方で買ってくれと申し込んでくるようなものです。
それはおもしろいものです。
ですからだいたいのことは前もって見当がつきますが、
少し具体的に細かいことなどは、その時にならなければ出てこないのです。
そういうような具合で、この秋に会館と展望台ができただけでも、世の中が随分びっくりするだろうと思います。」
明主様御垂示 「明主様にも御神業御開始の時期というものがあった」 (昭和26年4月1日)
信者の質問
「昔反対していたような人が来て、もうすこし判るように話してくれていたらということを言っておりますが・・・」
明主様の御垂示
「そういうこともあるにはあるが、先がもっと判ろうとするほど来ないからね。
指導者の熱意とか頭の働きとか言う点もある。
それから本人の生ぬるい点もあるし、時節の来ない点もある。
例えば罪があるため、最高の神様にお会いできない場合は、延びますから・・・
一概に良い悪いはきめられない。
時期は恐ろしいもので、私が大本教に入ったとき、甥が中学生で、綾部に行って、川があるのですが、そこに落ちて溺死した。
それは私の兄の跡取りになるので「お前が大本教に入ったから、あそこに行って死んだのだ。大本教は敵だ」と言うのです。
私も、現実にあったものだから大本をよした。
それから五年目に綾部に行った。それから熱心になった。
ああいうことも私の時期だね。
最初のときは時期が早かった。
五年延ばしてちょうど良かった。
ただ早く行くばかりが良いわけじゃない。
その点はいろんな霊的な意味がある。
断定をしないで、おもむろに見て、時を待つということが一番良いですね。」