時期を待て 1
明主様御教え 「時期を待て」 (昭和24年6月25日発行)
「社会各方面をつぶさに観察する時、失敗者の余りにも多い事である、
ところが失敗の結果として、御当人だけの苦しみなら、やり方が悪いとか運が悪いとかいって諦めてしまえばそれで済むが、実はそれだけでは済まない、
では何かというと、一人の失敗が家族を路頭に迷わせたり、親戚知人にまで迷惑を及ぼすという事になるから、一種の社会悪を構成する事になる、
つまり最初の出発は悪意ではなかった事はもちろんであるが、結果からみてそうなる以上、軽々に看過出来ない問題である。
右のごとくである以上、失敗者のその原因を深く検討する必要がある、その結果余り人々の気のつかない所に、その原因を見出すのである、
というのは最初事に当る場合充分計画を建てて、遺憾なく準備をしてかかる、ではあろうが、
さて行ってみると予期通りにゆかないばかりか、思いもかけない邪魔や障碍が起るので、
御当人もその判断に苦しむ事となり、前途が判らなくなるというのが、失敗者の誰もがたどる経路である、
これはどこに原因があるかを説いてみよう。
右は一言にしていえば時期という事を無視するからである、
人事百般この時機ほど絶対的のものはない、
例えばあらゆる花卉や果物にしても農作物にしても、すべては時期がある、
時期に合わなければ他の事はいかに好条件であっても良成果を挙げる事は出来ない、
秋季草花の球根を埋めるから春になって花が咲く、春種を蒔き芋根を植えるから、夏から秋に美しい花が咲くのである、
果実にしても熟す時期は決っている、熟さない時採っても食う事は出来ない、充分熟した時に採ってこそ、美味な食物である、
農作物にしても、種播きや移植等すべて適期がある、もちろん風土気候にも適合しなければならない。
以上のように、大自然は人間に対し、時期の重要性を教えており、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものである、
従って人間は何事をなすにも大自然を規範としなければならない、それに学ぶ事こそ成功の最大条件である、
この意味において、私が唱える神霊療法も無肥料栽培も、その他の種々の方法にしても大自然に従う事を基礎としているから、
ほとんど失敗はなく予期の成果が得られるのである、ゆえに私は何かを計画する場合決して焦らない、
充分多角的にあらゆる面から客観し、熟慮に熟慮を重ねいかなる点からみても正しく、社会人類のため有益であり、永遠の生命ある事を確認し、しかる後準備万端を調え時期を待つのである、
ところが大抵の人はこの時を待つ辛抱がなかなが出来ない、時期いまだ熟していないのに着手するから
計画と時期とにズレを生じ思うようにゆかない、あせる、益々ズレが大きくなる、ついに失敗するという順序になるのである、
従って肝腎な事は時期来るまでの期間の辛抱である、
物には必ずちょうど好い時があるものだ、昔から「待てば海路の日和あり」とか「果報は寝て待て」とか「狙い打ち」とかいう諺(ことわざ)があるが、全くその通りである。
ところが右のような私のやり方に対し非常にまだるがる人が以前はよくあった、
また種々の献策や希望をいう人もあったが、私はそれらを採用すべく約束してもなかなか実行に移さないので焦れたり不思議がる人もよくあった、
私としては、時期が来ないから手を出さないまでである、昔から「チャンスを掴め」とか「風雲に乗る」とか「機会を逸するな」ーというような言葉もあるが、よくこの理を喝破している、
しからばその機運というものは何によって判断するかというと、まずあらゆる条件が具備し、機運からみてどうしても計画を実行しなければならないという勢が迸(ほとばし)るようになる、
そういう時こそ機が充分熟したのであるから、着手するや少しも無理がなく、楽々すべてが運んでゆく、そういう訳で更に力が要らない、自然にうまくゆく、
要するに熟慮断行の四字に尽き、たとえば重いものを坂から落す場合、つかえているものがある、
それを無理に動かそうとすると力が要る、そこを我慢して待っていると、障害物が石の重みで段々弱ってゆく、
もう一息という時指一本で押すと訳なく転がるようなものである。
「鳴かずんば啼くまで侍とう時鳥(ほととぎす)」とは家康の性格を諷(ふう)したのであるが彼が三百年の命脈を保ったのも全く時期を待つという、そのためでもあった。
以上によって、時期なるものがいかに重要であるかを知るであろう、大本教祖のお筆先にいわく「時節には神も敵わぬぞよ」とあるが、一言に喝破し得て妙なりというべきである。」
明主様御教え 「時の神様」 (昭和24年6月25日発行)
「一切万有人事百般、時の神様によって支配されないものは恐らく一つもあるまい。
興亡常なき歴史の推移も、善悪正邪の決定も、時の神様から離れて存在するものはない。
そういう意味で今日善であったものが、何年かの後には悪となり、今日真理としたものも何年後には非真理として見放される事も、
今日華かなるものも何年後には衰亡の運命をたどるというような事も、過去の歴史が遺憾なく物語っている。
ゆえに絶対の善もなく、絶対の悪もないといわれるし、また昔から正邪一如という言葉もあり、いずれも真理である事に間違いはない。
近い話が終戦前、忠君愛国を無上のものと信じ、唯一の生命を軽々しく扱った日本人が今日はどうであろう。
およそその時の目的と余りに背馳(はいち)した結果となり、悲惨なる運命の下に喘いでいる状を見ては、いかに誤っていたかは国民の脳裏に深く刻まれたであろう。
これらも終戦という掌を返した一瞬に変化したのであっていうまでもなく時そのものの決定である。
吾々が知る限りにおいて、あまり古からざる歴史においての例も見逃し難いものがある。
彼の徳川氏盛んであった時代が、明治維新という一線を画すや、それまでの大名旗本等がことごとく転落し、
それに引換え名もなき一介の書生が大臣参議となった事などを見ても、今日の状勢と相似たところがある。
終戦までの特権階級であった幾多の皇族、華族、富豪等の転落ぶりは、人々の眼にいかに映ずるであろうか。
言うまでもなく時の神様による事はもちろんである。
彼の大本教祖のお筆先に「時節には神も敵わぬぞよ」という言葉があるが、うがち得て余蘊(ようん)なしである。
ゆえに吾らは、地球上における一切の支配者こそは時の神様であると断定しても差支えないと思うのである。
以上の意味において、人間は時という絶対者に大いに関心を払うべきであると思わずにはいられないのである。」
明主様御講話 「時節ほど有難い恐ろしいものはない」 (昭和29年1月17日)
「前にも言ったとおり、箱根は霊的で熱海は体的ですから、熱海の地上天国ができれば、要するに体的に発展するわけです。だから本当に目立つわけです。いよいよおもしろい張り合いのある時期に入ってきたわけです。
だからして神様の方はチャンと準備や、芝居ならプログラムができているわけです。
そのとおりに、少しも違わないでチャンとゆくのです。ただ時期だけのものです。
大本教のお筆先に「時節ほど有難い、恐ろしいものはないぞよ」「この事が分り出したら、世界は唸るぞよ」というのがありますが、もうそこの直前に来たわけです。
それから「こんなものがあんなものになり、あんなものがこんなものになる仕組であるぞよ」というのがありますが、お筆先というのは実に簡単な言葉で、すばらしい大きなことを言い尽くしてあります。
私などもその当時は本当には分からなかったのですが、神様というものは、なんだか変な言い方だと思ってましたが、今になってみると、それがピッタリと当たっているのです。」
明主様御講話 「種を蒔いて時を待つのが一番」 (昭和23年8月18日)
信仰の要諦は時に従うことと我と執着をとること
「この御軸は今日初めてかけた。昭和七年、いまから十六年前に画いたのですが、ずっとしまっておいたのです。
白髪の観音様はこれだけです。上下のは四天王であり、周りの薄墨は夜の世界を表わしています。
この御軸を今日ここにおかけするとは思いませんでした。
神様のすることは深遠です。この建物の用材も終戦ごろ秋田の神社の神木であったのを買ったんです。
運賃ともで石三百円あまり・・・四百円まで行かなかったんです。
いまだったらとてもたいへんです。・・・
今度は熱海に二、三千人入れる洋館を建てるんです。
箱根は日本的、熱海は水で外国風にし大きくする。
小田原には和風洋風をとり入れた総合的なもので、それで五六七となるのです。
この敷地も六百坪ですが、以前交渉して売ってくれと言ったときはぜんぜん応じなかったが、
今度の財産税で手放すことになり、向こうから持ち込んで来たのです。
今後分会や支部の家を見つけるのも無理をしないで時を待つのがよい。
「果報は寝て待て」とはいい言葉です。
果報はねって(練って)待てと言う人もあるがそうではない。
つまり寝て待てとは忘れること、執着をなくしていることです。
徳川家康の「鳴くまで待とうほととぎす」、あれがいいのです。
信仰している人は神にお任せする考えになるから悠々としている。
種を蒔き時を待つのが本当です。
神様のことを人に教えても最初は信ぜず、やがて向こうから求めてくることがある。
これは蒔いた種が魂の中で育つんです。
「あんな人に話をしても無駄だ」などということはない。
種を蒔いて時を待つことです。
すべて人間はいままで「時」ということに関心がなかった。
「時」くらい絶対力のものはない。
これに逆らうから失敗したり苦しんだりするのです。
まず時に従うこと、あとは我と執着をとることです。
この三つを守れば常にうまく行くんです。」
明主様御講話 「時期をみるというのが一番肝腎」 (昭和29年2月26日)
「この間ハワイの本部の落成式があって、その時の模様が「ハワイ報知新聞」に出たのを読ませます。
ハワイにある二つのしっかりした新聞のうちの一つですが、割によく書いてあります。
(ハワイ報知二月十五日付掲載「世界メシヤ教布哇教会落成式」)
写真も出てますが、見たい人は後で見たらよいです。
最近になって隣地のそうとうの坪がうまく手に入ったので、いずれそこにはもっと大きなものが建つことになるでしょう。
そういうような具合で、ハワイ布教を始めたのが去年の今月ですから、ちょうど一年です。
それまではあっちには別になにもなかったのです。本当に縁もゆかりもない所に、言わば突如として行ったようなもので、それが一年たつかたたないうちにこれだけになったということは実に早いです。
つまり時期が来たわけです。なにごとも時期がありますから、時期をみるというのが一番肝腎です。
うまくゆかなかったり失敗するということは、時期に当てはまらないからです。
植物の種を蒔くにも、野菜や米の種を蒔くにも、やっぱり時期があります。
今度の特集号も非常に売れて、足りなくはないかというくらいなのですからして、これも時期なのです。
ちょうど去年あれほどの凶作で、これからどうしてよいか分からないと、迷ってどうにもならないときに「これだ」ということを見せるのですから、飛びつくわけです。
食物がなくて腹が減ってフラフラしているところに、ごちそうをやるというわけで、飛びついてくるというわけです。
ですから骨折って無理にやるということは、時期が来ないときに無理をやるから骨が折れるのです。
私は骨が折れることはよせと言っていますが、楽に楽しみながらやることがよいのです。
そうすればうまくゆくに決まっています。
ですから楽にスラスラゆくのは、時期が来ているからうまくゆくのです。
苦しまなければうまくゆかないということは苦痛の迷信です。苦しまないで、ふつうにやるというのが一番よいのです。それが本当です。
これについて一番分かるのは、絵の展覧会などに行くと、画家というのは、大いに苦心惨憺しなければ良い物ができないと思っているのです。
そのために非常に苦しむのです。その苦しむのが画面にチャンと出ているのです。
われわれが行って見て、楽しもうとするのが、そうでなくて苦しみが現われているから、苦しみがこっちに迫ってくるのです。
見ていて楽しみな良い気持ちにならないのです。要するに苦痛を移されるようなものです。これはみんな苦痛迷信の結果です。
今の人はその点なども大いに知らなければいけないのです。ところが、どういうわけでそういう苦痛迷信が起こったかというと、つまり今までは夜の世界であったから暗闇ですから、暗闇で物を探ったり物を見ようとするから苦しいわけです。どうしてもそういうことになるわけです。
ところが昼の世界になると一目で分かるから、つかまえようと思えば、すぐにつかまえることができるというわけなので、そこがたいへんな違いです。」
明主様御講話 「うまくいかない場合には諦めて時期を待て」 (昭和26年9月5日)
「とにかく来年からは本当になりますね。箱根が完成しなければね。
ここが完成すると、霊界に一つの中心ができたわけになる。
神様には順序があるからね。
だから無理が一番いけない。
それから、人間が計画を立てて、ここをやろうというとき、しにくいのは止せということです。
ところが、最初に目的を立てると、ついそこをやりたがる。
今まではそうだが昼の世界になると違う。
だから、骨の折れることなんかはいけない。楽な所が良い。そしておもしろい所は良い。
嫌だと思う所はいけない。嫌だと思った所は止せということです。
それこそ、歌でも唄っているようなことでなければいけないですよ。
だから、私でもちょっと厄介だなと思うと諦めて、時日を待つんです。
そうして、時節が来ると、きっとうまくいく。土地なんかもそうですが、熱海の地上天国の所にも、ずっと以前から欲しくてしようがない所があり、交渉してみるがまだ早い。いくども交渉したがね。
放任しておいたら先方から、どうかと言ってくる。
そうするとこっちは気が強いからね。勝手なことを言える。
神様はうまいことをするんです。相手の土地を袋の鼠にしてしまった。
そうすると、他に売れっこないんです。
結局メシヤ教に買ってもらうよりしようがない。
それで、買ってくれと言ってきたが、こっちが想像したよりか安い値になった。
そういうわけですからね。神様のほうは、ちょっとやって見ていけなければ手を引いて時節を待つんです。
そうすると、ちゃんとうまくやってくれますからね。
とてもひどいと思ったり、とても困難と思っても、放ったらかしておくとあんがい楽にいくものです。
実に言うに言われないおもしろさがありますね。
私なんか、美術品を欲しいなと思うんですが、思っているだけでよい。
ふと転がり込んでくる。これが如意宝珠(にょいほうしゅ)の働きなんです。
「如意」というのは、「意の如く」というんですからね。
すべて思う通りにいくんですね。
ところでおもしろいことがありました。
昔ある信者に額を書いてやった。「如意」と書いてやったんですが、すると落としてしまった。
私が書いたものを落とすことがあるかなと思っていると、普通の人のに「如意」とは言わないんです。
だからそれっきり「如意」という字は書かない。
が、邪神のほうがまだ勢力があるから、「如意」を邪魔する。
だが、もう「如意」の働きになる。ただ、今のところは「如意」が暇がかかるんです。」
明主様御講話 「良い考えが浮ばないのは時期が来ていないから」 (昭和26年10月5日)
「いま、鉱山をやってますが、非常に良い鉱山を買った。
三月ほど前に、一つの石を持って来て、こういうのが売り物に・・・と言うので、よし買え。
と言うので、翌る日あたり調べに行って、きっと出るに違いないと言うので、すぐ買っちゃったがね。
そこが、だんだん進んで行って、もう少し経つと本当になります。
早いときは馬鹿に早いです。
箱根の神山荘を買うとき、持ち主がHAですね。値段を聞いたらすぐ知らせろ。
と言って、十六万円ですかね。それですぐやれと言った。
そういうのも神様がやっているんですね。
神様がやっているから、人間の考えで、どうこう・・・ときめたりするが、それはいけない。
それを、千変万化、自由無碍と言うんですね。
神様が、こうしろと言うことは、ずいぶん案外なことや、夢にも思わないことがありますからね。
それで良いんです。
それから、良い考えが浮んで来ないときは、決してやってはいけない。
時期が来ないからね。
その代わり良い考えが出たら、神様がしろと言うんだから、やると良い。
そこのところは、ちょっと言うに言われないおもしろいところですね。
だから、ゆっくりするような、非常に急ぐような、
ちょっと・・・普通の世間的のやり方と、非常に違います。
私などは、非常に仕事が早いですね。
用はいくらでもありますが、そうかと言って、少しもせかせかしないですね。
ずいぶんゆっくりしていることもありますからね。
だから、自分なら自分、中教会なら中教会で、予定のようにいかなかったり、思うようにいかなかったりするときは、
決して悲観しないで、時期の関係で、神様の考えだからね。
そうかと言うと、どんどん発展する。
この分では、どんなになるだろうと思っていると、ぱっと止まる。
それで良いんです。
それで、一年前、二年前に較べるとウンと発展している。
それでも、発展しないと言うのは、横道に入っている。
軌道に乗っていない。神様にお願いして、それに気がつくと良い。
暇なときに・・・こういうときは本を読めということに違いないと、御神書を読むんです。
これはなんとも言えないところですね。」
明主様御講話 「時期到来の遅速も神様の御都合」 (昭和28年8月6日)
「「神様の事は遅れただけは一度になるぞよ」ということがあります。
だからして、やっぱりちょうどよい時と、遅れる時も、神様の時期は伸縮自在なのです。
これもお筆先に「何事も遅し早しはあるなれど、これも神様の都合のことじゃ」ということがあります。
つまり遅い早い、遅れたり早かったりはあるのです。
しかし決まる時期はチャンと決まっているのです。
何年何月何日までにこの仕事、次はこうということは決まっているのです。
その間の進んだり遅れたりはいくらかあるわけです。
ですからよくその時に考え違いをすることがあります。
ちょっと後戻りするように見えることがありますが、行く時になるとスーッと早く行くのです。
尺進寸退というわけですから、それを心得ていなければいけないわけです。
従ってアメリカなども、つまり遅れているに違いないですから、それだけ早いです。
ハワイなどは勿論そうです。私は去年でしたか、アメリカのどこが根拠地になるかという話が出て、ロサンゼルスだと言ったのですが、
その時にはロサンゼルスにはなにもなかったが、やっぱりロサンゼルスになりました。
それからまたちょうど二年くらい前でしたが、ハワイの仕事は樋口さんと決めたのですが、その時はそのような様子がないのです。
つまり神様はそういうような事情をつくってゆきますが、そういうことは少しもないのです。
ところが一年以上たってから、いろんな順序がついてきて、やっぱり樋口さんが行くような順序になりました。
つまり神様の方はその時に決まったのです。
それが一年以上遅れたのです。
そこでその取り返しのために早くなるわけです。」