相応の理について 2


明主様御垂示 「御神体奉斎と相応の理」 (昭和24年1月6日)

御神体が雨漏りで汚れた事例

信者の質問
「光明如来御書体御祭りの家にて雨漏りして汚れました。どうすれば宜敷いでしょうか。」


明主様御垂示
「訳のある事がよくある。

家に相応しないのをお祭りしているとこういう事がよくある。家に相当しなくてはいけない。一番良い部屋の床へ祭らなくてはいけない。

また、家中一致してお祭りせねばいけない。反対があると反っていけない。

また病気の治らぬうちにお祭りすると早く治るなどとして祭ってはいけない。

生命に関わらぬ病気は差支えない。

生命に関わる病気は、御光が強くなるから浄化も強くなる。

衰弱しているのは、それで反って斃れる。

であるから、これなども何か訳があると思うから、査べてみよ。」




明主様御講話 「部屋や家の大きさによって御神体の大きさを決めるべき」 (昭和10年11月11日)

「また、よく聞かれることですが、御神体に大中小とあるが、あれは一つにしてもいいじゃないかと言われることがよくあります。

これは馬鹿馬鹿しいことですが、そういうとき、どういうふうに答えたらいいかというと、すべてのことは相当ということが肝腎で、その家に相当したのがいい。

大きな床の間に小さい御神体をおかけしても相応しない。

大中小と、その床に相応したものでなければならぬ。

ちょうど、大人が子供の着物を着てるようなものではいかぬ。

羽織の紐でもなんでもやはりその通り、ちょうどいい相応の所についている。

すべて世の中の事柄は相応が第一で、大きい家には大きい御神体でなくては相応しない。

大きい家に小さいのを、小さい家に大きな御神体を祭るのもいけない。

ちょうど百燭の電灯を四畳半に点けるようなものです。

部屋や家の大きさによって大中小を決めるのです。」




明主様御垂示 「御神体も仏壇もその家や身分と相応すべき」 (昭和24年2月18日)

信者の質問
「各地にお祀りしてある同一神仏の御分霊の御力には差がありましょうか。」

明主様御垂示
「ええ、差がありますね。そこのところの人間しだいで差がつきます。

同じ神でも例えばお宮が立派か粗末かによってもその御力が違ってきますし、拝む人が多い少ないでも違います。

また、心から拝む人が多いほど神の威光は強くなるのです。

お宮の作りも立派なほど神の格が高くなります。」


信者の質問
「教導所などもやはり立派なほうがよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「勿論ですね、立派なほどいいです。」


信者の質問
「御仏壇はいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「仏壇も同様ですが、しかしこれは「相応の理」によって、その家や身分と相応しなければいけないのです。

大本教のお筆先に「今の人民神の住居を粗末にし、己が住居ばかり立派にして、神の家をないがしろにしているが・・・」とありますが、実際いまの人はそうですね。

しかしこれはたいへんな間違いです。

やはり家や身分に相応するのがいいんです。

また反対に、チッポケな家に住んでいるくせに仏壇をあまり不相応に立派にしすぎるのもよくないことで、そんなことをするとなにかお知らせがあります。

以前平塚のほうの人が、大光明如来をお祀りしたんですが、まもなく雨が漏って台無しにしてしまったことがありました。

これはその家に不相応なので、祀れないようになってしまったのです。

で、私は他の小さいのと変えてやったことがありました。」




明主様御垂示 「御神体奉斎と相応の理」 (昭和24年11・12月)

信者の質問
「まじめな一信者、あまり豊かでないのでだんだんに建て増すつもりで六坪ほどの小さい家を建てましたが、

床の間だけは立派にして、大光明如来様を御奉斎申し上げたいと申しております。よろしゅうございましょうか。」


明主様御垂示
「いいですがね。けど、つり合わないのはいけませんよ。

つり合っててしかもやや立派なほうがいいんです。

小さな床の間に大きい掛軸はいけないんです。

やっばり「相応の理」って言ってね、相応してなけりゃいけないんです。」




明主様御垂示 「御神体奉斎の形式 相応の理」

信者の質問
「初めて光明如来様を御奉斎する時の形式的要点を御教え下さい。」


明主様御垂示
「家が粗末で小さくて祭壇だけ立派なのも本当でない。立派な家でつまらぬ祭壇でも嘘である。身分に丁度よい形式でお祭りする。

すべて相応していなくてはいけない。相応しないと、お下りにならない。

形式とはそれらにおいて丁度よい所にある。」




明主様御垂示 「御神体奉斎と相応の理」 (昭和28年12月1日)

信者の質問
「以前に入信した人で、最近信仰が落ちている家庭を調べると、

最初から大光明如来様を奉斎し、それも間半(まなか)の床とか、立派でない床というのが非常に多いようです。

これが、順序として光明如来様を奉斎して現在にいたる家庭は、信仰も落ちず、順調に進んでおります。

そういうことがございましたが、これは順序が間違っているわけでございましょうか」

明主様御垂示
「そうです。それはよいことです。

そこなのですが、つまりいつも言うとおり順序があるのだから、最初の信仰が熟しないときとか、

いわばその人の霊的位ができなければ大光明如来様を祀ることはできないのです。

それからその家の床の間も相応しなければならないので、家があんまり粗末なときに大光明如来様は、かえって御無礼になるから、そういうのは光明如来様でなければならないのです。

それから信仰に入りたては光明如来様が本当で、入りたてから大光明如来様というのは嘘なのです。

ただ良くさえあればよいというのは嘘なのです。 (中略)


信者の質問
「三尺とか四尺の小さい床のことでございます。そういう床はそのままで大光明如来様を御奉斎してよろしいのでございましょうか」

明主様御垂示
「あんまり結構ではないのです。

本当は光明如来様にしなければいけないが、しかしそこの事情があるから、よくお詫びして事情が許す限りは・・・

そうかと言ってそれを取り替えるということはまずいから、お詫びをするのです。

お詫びをするということは、つまり順序をはき違えたというその間違いをお許し願いたいと言って、そのままにしておくよりしようがないです。

そうしてこれからそういう間違いがないように注意するということでよいです。」




明主様御垂示 「大黒様の台と調和の理論」 (昭和26年4月1日)

信者の質問
「大黒様の台につきましてお願い申し上げます」


明主様御垂示
「台があったほうが良い。床の間にじかではいけない。人間なら座蒲団です。

だから・・・あのお厨子の台は先に坂井さんからもらった。

私が見つけたがなかなかなかったのですがね。

実に調和が良い。なんでも調和しなければいけない。

大黒様の台でも、調和しなければならない。

木に竹をついだようではおもしろくない。

新しい大黒様には新しいもの。古い大黒様には古いもの。古いのがなければ黒い色に塗ればいい。

神様は調和の良いものを探しておいてくれますよ。

あれだって実に調和の良いものが見つかった。」




明主様御垂示 「仏壇の大きさと位牌の数も相応すべき」 (昭和26年12月8日)

信者の質問
「位牌が十五以上あり、仏壇の段が一段で・・・」


明主様御垂示
「それは駄目だ。つまり、すべて相応しなければならない。

仏壇の大きさと位牌の数は、ちょうど良いようにしなければ・・・御先祖が来ても、居心地が悪いですよ。

人間と同じで、狭い家に大勢いては気持ちが悪いでしょう。

そうかといって、広すぎても・・・一人か二人でも何だ・・・今言ったような具合にやりなさい。

位牌を拵え直すと良い。」




明主様御垂示 「墓石は子孫の身分・墓地の状況に相応すべき」 (昭和29年4月1日)

信者の質問
「普通の家では、先祖代々のがあり、あと墓石は別に作りませんが」


明主様の御垂示
「それで良いです。

それも墓地の狭い広いで判断するのです。

もし広いとすれば、新しい仏は祀ってやらなければならないのです。

それも臨機応変に常識で考えていって、丁度良いというやり方でやるわけです、

お寺参りに行く時には、ご先祖は挨拶に出て来るのですから、

そのときに、あんまり墓がひどかったり、もっとできるにかかわらず人間の怠慢でしないと、ご先祖は面白くないから、

「こいつはひどい奴だ、時々灸をすえてやれ」というので、

ご先祖が災難を与えたり、病気させたり、そういうことがあります。

ですから、思いもつかない、お寺参りに行った帰りに電車が衝突したりということがあるのです。


だから、これはやっぱり人間界と同じで、できる身分でやらないということや、

また、その人の境遇や色々に合わないということは、ご先祖としても面白くないのです。

また、ご先祖の中にも、怒りっぽいのとそうでないのがありますが、

怒りっぽいのはお気付けとか、そういう事があります。」




明主様御垂示 「御堂の中に墓石を入れてはならない」 (昭和24年4月13日)

信者の質問
「御堂を作ってその中に墓石を入れると一家死に絶えると申しますがいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「それはあるでしょうね、墓は雨ざらしでいいんです。

御堂というものは格のある霊を祀るためにあるんですから、人間の霊を祀るにはよすぎるんです。

そんなことをされると人間の霊は苦しいんですよ。

だから、ちょっと考えるとよく祀ったほうが霊が喜ぶと思われますがね、本当はそうではないんです。

また、神様と並べられても祖霊は苦しいんです。

よくされるとかえって苦しいんですね。

ちょうど地獄からいきなり天国に上げられたようなもんですからね、眩くて苦しくてとうていいられないんで、そこを逃げ出してしまうんです。

まあ、糞溜の蛆虫を床の間に上げたようなもんでね、(笑声)

どうしても一段一段上げないとね、本当じゃないんです。

そこで御堂の中に墓を祀るってことは間違ってるんです。

御堂ってのは神様を祀ることにきまってるんですからね。

やっぱり墓石は雨ざらしでいいんですよ。」




明主様御垂示 「家の新築と家人の死」 (昭和24年6月25日)

信者の質問
「家を新築すると家人の誰かが往々死亡等することがありますが、霊的に何か関係がありますか。御教示願います。」


明主様御垂示
「こういう事はある。(私など)引越すと一人は必ず死ぬ(その頃は浄霊出来なかったからだが)。

浄霊出来るようになって、大先生などそれがなくなった。

これにはいろんな訳がある。(その土地に)

一、浮ばれない霊があった場合とか、

二、その人が浄化に負ける場合。

(住む人間が、家より汚れてる時には、その家に追付くため浄化が起きる。そのため医者にかかって死ぬのである)


良い家になると、人間の霊的地位と相応せず、家に負ける時、人間の霊性が追付こうとして曇りを除ろうとして浄化が起る。

桧(ひのき)普請をすると死ぬ人がよくある。

桧は、神様に関係した事に使う木である。(人間が住むのは間違いである)

木には位がある。

桧造りに人間が住むと負ける。

霊界では家が上で、人間が下になる。

故に普通普請は、杉材が一番よい。

死なない人は失敗する。

(買う約束をした大谷別邸など野口潤が買って入ろうとしたら死に、それと同じのを伊豆の韮山へ作った。こういう例は沢山ある。

すべて相応の理であって、身分不相応の事をすると何か災難がある)

彼は、稲荷の帰りに崖から落ちて死んだ。

人間は相応すればよい。相応しないと何かある。

相応の家に住まぬと、すぐ故障が起る。」




明主様御垂示 「ヒノキを住宅には使うな」 (昭和23年12月2日)

信者の質問
「住宅に桧(ひのき)材の柱、廊下等を用いる事は差支えありませんでしょうか。

また、総桧の建築は宜しくないとも申されている事もありますが、いかがなもので御座居ましょうか。」


明主様御垂示
「桧木は、神社とか、神殿に使うべきもので、他に使ってはいけない。

総桧木の家の主人はきっと亡くなる。

だから住宅には使わぬ方がよい。

杉と松にするとよい。しかし、米桧とか台湾桧はいい。


木には位がある。桧木造りの家なら、住む人間が相応しなくてはいけない。

桧木は霊が強い。大きい木にはよく霊が宿っている。

大昔は、桧木を摺り合せて火が出たというので桧木という。

杉は軽い感じがして気持がよい。桧木の柱は固苦しい。

黒紋付を着たような感じである。」




明主様御垂示 「檜は神様のお住居に使用すべきもの」 (昭和24年8月)

信者の質問
「五十七歳の男子、昨年三月上旬納屋を改築し、その折に檜を使いました。

それと同時に病気になり医師の診断では幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)とのことですが身体は衰弱するいっぽうです。

最近御浄霊を始めましたが胃の左部に一個の玉のようなものがあり御浄霊すると動きます。これはなぜでしょうか。」

明主様御垂示
「これはいけませんね、納屋なんかへ檜を使っちゃあ。

納屋へ檜を使うなんてたいへんな間違いですよ。

檜ってのは神様のお住居だとか、なにかそういったものに使うべきものです。

先祖がこれをたしなめてるんですよ。

さっそく納屋を改造するんですね。

用材は杉でも松でも、檜以外ならなんでもいいですからね。」


信者の質問
「光明如来様をその家にお祀りしても、やはり・・・」

明主様御垂示
「光明如来様をお祀りしたって駄目ですよ。

神様としても間違ったことをしてればお許しになりませんからね、こんな場合はかえって先祖に賛成なさいますよ。

食べ物でもなんでもそうで、すべて相応の理なんですよ。

木といえども神様がちゃんと区別しておられるんですから、それを踏み違えちゃいけません。」




明主様御垂示 「古寺の屋板藁を堆肥に使い精神異常になった事例」 (昭和27年3月16日)

信者の質問
「M川T(男性)、今月一日より胃部と肺部が同時に痛み出し、長い時は七、八時間激痛があり、

御浄霊一時間くらいで鼠蹊部の方に下り、楽になり、下痢をいたします。

痛み出す前には臍の上部が固くなってまいります。

一昨年十一月より昨年四月まで、今年よりは軽い御浄化をいただいており、

その節御垂示いただき「薬毒だから長くかかる」とのお言葉でございました。

これは二カ月ほどで全快いたしました。

二十三年三月入信。大光明如来様、御屏風観音様を御奉斎、御資格をいただき、自宅でお道に御奉仕させていただいております。

なお、左下腿切断いたしております。父は胃潰瘍で死亡しております。


本人は戸主でございますが、妹に養子をとり家を出ており、生家も父のお祀りをいたしております。

生家の養子も入信いたし、たいへん協力いたしておりましたが、

昨年六月自然農法をいたし、村人や親戚の反対に興奮状態でおります時、

古寺の整理があり、屋板藁を堆肥にすべく買い取りましてより、精神異常となり、

親戚が入院させましたが一週間で退院いたしましてより、

信仰を強制的に止めさせられ、御屏風観音様もお祀りできず、本人がお預かりさせていただいております。

生家または父の霊と関係がございましょうか。

今後の処置および御浄霊の箇所につき御垂示お願い申し上げます。」

明主様御垂示
「屋根藁を堆肥に・・・これはちょっといかんですね。かわいそうなものだな。

この屋根藁なんて、たいへん間違っているですね。

つまり自然ということを忘れるんで、こういうことになるんですね。

もし屋根藁が堆肥にして良いものなら、これから方々の屋根藁を取って堆肥にしなければならない。

たいへんなことです。やはり、こういうことはたいへん間違っている。

片っ方の足を切断しているんですね。」


信者の発言
「さようでございます」

明主様御垂示
「とにかくまわりで反対しているんでしょう。」


信者の発言
「亡くなった父と関係が・・・」

明主様御垂示
「お父さんの霊とは関係がありませんよ。」


信者の発言
「入信いただいた時薬毒が・・・」

明主様御垂示
「そんなことは良いけれども、現在本人は家にいるんですか。」


信者の発言
「さようでございます」

明主様御垂示
「精神病というのは誰ですか。」


信者の発言
「実家の妹の主人でございます」

明主様御垂示
「精神病はこの人とどういう関係があるんですか。」


信者の発言
「生家の妹の婿でございます」

明主様御垂示
「信仰に入っておりますか。いつですか。」


信者の発言
「入っておりますが、判りません」

明主様御垂示
「精神病のいる家は、側が反対しているんですか。」


信者の発言
「親戚が反対で、御屏風観音様をM川がお預かりしております」

明主様御垂示
「夫婦二人きりで、亭主が精神病ですね。光明如来様は・・・。」


信者の発言
「まだでございます」

明主様御垂示
「それじゃしょうがない。妹というのは信仰に入っているんですか。

いつですか。大体で良いですよ。」


信者の発言
「大体、二十三年ごろと思います」

明主様御垂示
「しかし、まだ信仰に入ってないじゃないですか。

光明如来様をお祀りしなければ、信仰に入ってないんですね。

屏風観音様は止したんですね。」


信者の発言
「さようでございます」

明主様御垂示
「それじゃ治りっこない。それは、あなたが浄霊に行っているんですか。」


信者の発言
「いたしておりません」

明主様御垂示
「浄霊してなくて尋ねるんですか。」


信者の質問
「M川の御浄化と精神病と関係が・・・」

明主様御垂示
「関係ない。薬毒ですよ。先に薬毒と言ったでしょう。

だから、やっぱりそうじゃないか。長くかかると言ったんだろう。その通りですよ。聞く必要ないですよ。

だからいったん治ったが、それは治ったんじゃなくて、一時的なんだから、

こういうのは、やはりいくども、治っては悪くなり、治っては悪くなるんです。

薬毒だからね。だから痛い所を浄霊すれば良いんだからね。

痛い所に浄化が起ったんだからね。気長にやれば良いです。」




明主様御垂示 「忠魂碑、銅像について」 (昭和25年4月3日)

信者の質問
「忠魂碑や銅像を作りますと、霊にはどのような影響がありましょうか。」


明主様御垂示
「そういうものを拝むと、想念がいい意味でその霊の所へ届きますね。

けど、これも考えもんでね。

下手にやっちゃかえって悪いですよ。

いま、日本にあるのなんか、むしろ建てないほうがいいような人のが多いんでね(笑声)。

立派な人のならいいのですがね。

あの広瀬中佐のなんかいけませんよ、神田のあんな所へ建ててね、交通妨害ですよ。(笑声)」




明主様御垂示 「一番ヘッポコな名前をつけたほうがちょうど良い」 (昭和28年12月1日)

明主様御垂示
「私がいつも言うとおり、名前を変えてやる場合にも、名前が良過ぎて悪い場合が非常に多いのです。

私が最初言霊ということが分かったときに、なんでも良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけましたが、それが悪いのです。

それでおかしいなと思っていたが、神様から教えられた。

それは良過ぎるからです。

ですからその人に始終接してみて、その人の値打ちはこのくらいということが分かって、それに合うくらいの名前をつければ大丈夫です。

ところがこの人なら良い名前をつけるという人はほとんどないのです。

みんな一番ヘッポコな名前をつけたほうがちょうど良いのです。

ですから私はそれからはあんまり良い名前はつけないのです。」(中略)


信者の質問
「支部が立派になって大光明如来様になるまでは、信者は大光明如来様は止めるということでございましょうか」


明主様御垂示
「そうです。

そこで、長唄の小三郎さんは、小三郎だから成功したので、これがもっと上の大三郎というのなら駄目になっています。

だから「大」のついた人は必ず駄目です。

名負けと言って、名に負けるのです。

名負け(なまけ)者になってしまうのです。

それから「明」の字も良過ぎていけないのです。」




明主様御講話 「良い名前をつけるとかえっていけない」 (昭和28年8月26日)

「やはりなにごとも相応しなければいけないのです。

相応するということは理屈に合うということで、そうすれば決して間違いありません。

それと同じように、姓名がそうです。

ただ良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけるとかえっていけないのです。

名負けがするのです。なまけ(名負け者)というのは、やはりそういうわけかもしれません。

それで私も以前は、ただ良い名前をつけるとよいと思って良い名をつけましたが、やはり良くないです。

それはやはり良過ぎてはいけないので、相応しなければいけないというわけです。

これは人間の名前でなくても、会名に「天」の字をつけますが、それはきっといけないです。

それはやはり名前が良過ぎる、高過ぎるのです。

私は経験がありますが、大本教にいた時分に、とてもよい名前をつけているので、

さすがに名前は良いなと思っていましたが、ああいうことになりました。

そういうことも、そういうためにそういう名前をつけたと言えばそれまでですが、やはりあんまり良過ぎたのです。

だから名前をつける場合には良過ぎてもいけないのです。」




明主様御垂示 「名前も相応の理」 (昭和25年4月23日)

信者の質問
「湯屋、マーケットに「光」の名前をつけることはいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「そうですね、これはおもしろくないですね。

ま、ふつうの名前がいいでしょうね。

つまりね、光ってのは尊いんで、やたらにつけると名前負けがするんです。

名前ってものは悪いのもいけないけど、よすぎてもいけないんです。

いい名前をつけたため、かえって運が悪くなったってこともありますよ。

だからやはり相応の理って言ってね、なにごとも相応しなくちゃいけませんよ。そのほうが繁昌しますよ。」




明主様御垂示 「あんまり良い名前はいけない」 (昭和27年10月1日)

信者の質問
「名前をつけますときは何を基準といたしましたらよろしいでしょうか」


明主様御垂示
「それについて私は、言霊(ことたま)のことがだいたい見当がつくように書こうと思ってます。

それで心得ておくことは、良い名前をつけますが、良い名前というのは曲物です。

ナマけるのです。名に負けるのです。それが反っていけない。」




明主様御垂示 「神様も相応の理」 (昭和24年4月20日発行)

信者の質問
「家を引っ越しましたとき、古く祀ってありました地の神様を町内へ差し上げて町内の神様として裏のほうへ祀ってもらっていましたところ、

その後不幸が続くとのことでございますが、いかがいたしましたらよろしゅうございましょうか。」


明主様御垂示
「神様が気に入らないからです。

地の神様を町内の神様すなわち産土神にするのは出世したようであるが、

実は霊は相応の理により苦しいから元の地神としてお祀りするのがよろしい。」




明主様御講話 「神様は相応の理にやかましい」 (昭和26年8月28日)

「ここ(註 箱根の神仙郷のこと)が完成しなければ本当の発展がないんです。

ちょうど人間で言えば、立派な洋服を着たんだが、まだ靴下をはいてない。

跣(はだし)では歩けないから靴をはかなければならない。

ネクタイもしなければならない。

そういうわけで・・・揃ってはじめて人の前にいばって出られるというわけで、完成しなければ、そこに欠点がありますから発展がしない。

ですからこのくらいの本山がこれだけ拡がれば、それだけ教線も拡がるものです。

ですから、相応の理と言って神様の方は特にそういうことはやかましい。

それから、熱海は体で箱根は霊です。

熱海は緯(よこ)、箱根は経(たて)になる。

ですからここがすまないと熱海はできない。

こっちの建築がすまないと熱海の建築ができない。実にはっきりしている。

瑞雲郷の少し先に欲しいのがあるが、それを先に手に入れることはできない。

実に順序良く、隣から隣へと次々いっている。ああいうのにも非常に順序がある。」