相応の理について 1
明主様御講話 「相応の理」 (昭和28年8月26日)
「それから信仰上からも一番肝腎なことは、天国ということは一言で言うと「相応の世界」なのです。
すべてなにごとも「相応」しなければいけないのです。
相応するということは、つまり理屈に合うということです。
そう見てくると、人間が薬をのむということは相応しないのです。理屈に合わないのです。
というのは薬というのは木や草、葉とか、鉱物を粉にするとか、ペニシリンのように水苔からとったり・・・今度少し書きましたが・・・水苔というのは、神様は魚の餌にこしらえたのです。
淡水魚、鮎のようなものの食物としてできているのですから、人間が横取りするのは間違ってます。
とにかく病気というのは、人間の生命に関することですから、人間の生命を救うのに木の葉や草にその力があるわけはありません。
生命を壊すには力があるかもしれません、毒ですから。
しかし命を救うという力がそういうものにあるわけがありません。
それは人間以上でなければその力があるわけはありません。
人間以上とすれば神様よりありません。すなわち薬をのむことは理屈に合いません。
そういう理屈に合わないことをやっているのですから、まったく今日の人間はなんと言ってよいか、馬鹿を通り越してます。
「馬鹿は死ななきゃ治らない」というわけで、つまりそれで早く死んでしまうわけです。
これは信仰の面においても言えます。その家なりその人なりによって、御神体は相応しなければならないのです。
最近も信者でちょっと危険なことがありましたが、御守護でうまく行ったのでよかったのですが、それはあり得べからざることがあったのです。
よく聞いてみると、その人にしろその家にしろ相応しない御神体をお祀りしてあったのです。
やはり大光明如来様も、小さな家や資格のない所にお祀りするのは間違ってます。
それは相応しないからです。
支部とか、あるいは教師とか、あるいはそうでなくてもその家が立派なら、大光明如来様でもよいですが、やはり相応しなければいけないのです。
以前に、私が観音様の絵を画きましたが、横向きのはそうでもないが、前向きでアグラをかいた大きな絵のがあって、それが雨染みで汚れてしまったというのです。
おかしいと思って聞いてみると、小さな農家で、御掛軸だけが馬鹿に立派で、相応しないのです。そういうことがありました。
やはりなにごとも相応しなければいけないのです。
相応するということは理屈に合うということで、そうすれば決して間違いありません。
それと同じように、姓名がそうです。ただ良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけるとかえっていけないのです。
名負けがするのです。なまけ(名負け者)というのは、やはりそういうわけかもしれません。
それで私も以前は、ただ良い名前をつけるとよいと思って良い名をつけましたが、やはり良くないです。
それはやはり良過ぎてはいけないので、相応しなければいけないというわけです。
これは人間の名前でなくても、会名に「天」の字をつけますが、それはきっといけないです。
それはやはり名前が良過ぎる、高過ぎるのです。
私は経験がありますが、大本教にいた時分に、とてもよい名前をつけているので、さすがに名前は良いなと思っていましたが、ああいうことになりました。
そういうことも、そういうためにそういう名前をつけたと言えばそれまでですが、やはりあんまり良過ぎたのです。
だから名前をつける場合には良過ぎてもいけないのです。
そういうようなわけで、なにごとも相応ということを忘れてはいけません。
その人の行いでも、あらゆる生活でも、収入に相応し、身分に相応し、位に相応し、ちょうどそれにピタッと合うくらいになら、なにごともうまくゆきます。
それから、なにか少しおかしいなと思う時には、相応しているかしていないか、ということを考えてみれば気がつきます。
相応ということが理屈に合うのだから、昔から言う「分相応」ということはよい言葉です。
それから行いも、その境遇、環境、その場所、相手、いろいろなことに外れないようにすることです。
だからよく言う「突飛」ということですが、突飛なことでうまく行ったことはありません。日本の大東亜戦争なども、これは大きな突飛です。
とにかく日本の国力として相応しないことをやったのです。
まだ国力がそれほどでもないのに、東亜を征服して、しまいには濠州辺りまで侵略しようとしたのですから、これは突飛であり相応しないことです。
それからヒトラーがああいうことをやったのも突飛です。
片方でイギリスと戦いながら、後の方でソ連と戦うというので、振り返って拳骨をかざしたのですから、突飛のもっとも大きなものです。
そういう具合で、ちょっと人を驚かせるような、アッと言わせるようなことを好む人間がありますが、これはみんないけません。
だから、ありそうなことをやるということがよいのです。
そこで私はいろんな大きな計画などをしますが、決して出し抜けに、アッと言わせるようなことはやらないように注意しているわけです。
さっき読んだとおり、これからアメリカに布教するのですが、随分突飛なようですが、
しかし神様からいただいた力と、アメリカの状態ということを照らし合わしてみて、相応しているわけです。
決して食い違ってはいないからして、うまくゆくに決まってます。
そこで、やるにもパッとやってはいけないので、樋口さんがたった一人で行って、さっき言ったとおり一カ所で、そこからコツコツやり始めるのです。
こういうのは失敗がありません。後戻りがないから順調に行きます。
ですから私がやるこの地上天国のことなどもみんな見てびっくりするようなことをやっても、
細心の注意を払って順序と相応ということを忘れずにやっているのです。
ですからこの方が非常に順調に行って、後戻りがないから早いです。
ですから支部をこしらえるにも、パッと大きな計画をしたりしないで、だんだん順序を踏んで相応してやって行けば、うまく行くわけです。
大きくしようとすると大きくならないので、大きくしようと思わないで、小さくならないようにと思えばよいのです。
だから私は商売などを始める人によく言うのですが、儲けようと思ってはいけない、損をしないようにと思えば決して間違いないと言うのです。
というのは、成功したことを考えないで、失敗しないことを考えるのです。
これは少し苦労した人はよくそういうことを言います。
うまくやろうとか、成功しようということは思ってもよいが、それはごく軽く思って、本当に強く思うことは、失敗しないように、後戻りしないようにということを思っていれば決して失敗はありません。
これはちょっとしたことのようではあるが、根本的なものです。
だから損したらどうする、どう逃げる、ということを考えていなければならないのです。
私なども若い時分には随分金儲けをやりましたが、その時分にそういうことを考えてやっていれば随分儲けたが、その時分には儲けることしか考えなかったのです。
日本の戦争でも、負けたらどうするかということを考えていたらよかったが、
そういうことはぜんぜんなく、ただ勝つ一方のことしか夢見ていなかったから、ああいう悲惨な目に遭ったわけです。
そういうわけで、相応の理ということと、失敗してうまく行かなかったらどういうように逃げるかということを考えてやると、かえって成功することにもなり、順調に行くことにもなるというわけで、これは宗教でもあり哲学でもあるわけです。
ですから結果は、逆結果になるわけです。
ですから私は最初に始める時分には、なるだけ世間に知れないように、目立たないように目立たないようにしろと言ったところが、一番世間に知れてしまったわけです。
そういうようで、ちょっとしたことですが、結果において将来においてたいへんな違いになるわけです。
相応の理ということは、人間、相応者にならなければなりません。
なにごとも相応しないことはいけないのだから、なにごとも相応するように心掛けるということがもっとも肝腎なことです。
それから病気を治す場合にもそういうことがよく当てはまることがあります。
話が長くなりますからこの次にしますが、簡単に言っておきますと、この病気は薬毒の浄化だけれども、その人はどうして浄化が起こったか。
それから、ここに現われている病気は、因はどこにあるのか。
あるいはその環境・・・他の家族などはみんな賛成しているか、邪魔はいないか、ということなど、ちゃんと食い違いがないと、割合にうまくゆくわけです。
それが相応するということです。
よく浄霊で、どうしても治らなくて、それから神様にお願いするとじきに良くなるということは、浄霊ばかりに偏り過ぎるわけで、肝腎な元を忘れて枝の方を重視するから具合が悪いのです。
そういう点も、どういうふうにやるのが理屈に合っているか、相応するかということを考えると、割合に楽で、うまくゆくというわけです。」
明主様御講話 「人間万事相応の理」 (昭和28年8月27日)
「それから最近あったことですが、私の写真を二人で(二人とも資格者ですが)いただいたのですが、帰る時違えて持って帰ったのです。
すなわちAの人に上げたのと、Bの人がいただいたのが、あべこべになってしまったのです。
これがふつうの写真ならなんでもありませんが、ところが神様の方は、その人に上げたら、その人の護り神になりますから、他の人に行くと駄目なのです。
ところが一方の人の写真に折目のような皺(しわ)ができたのです。
それを私の所に持ってきて、こういうふうになったけれども、どうしたらよいでしょうと言うから、そんなことはない、よほど間違ったことがあるというので調べさせたら、今言ったことが分かったのです。
それは神様が、それは注意しなければいかんというおしめしです。
それでその皺は神様がつけたわけです。それで今度、一方を新しくチャンとやり直すようにしました。
また最近こういう人がありました。その主人公はそうとう古い信者で、神様のお手伝いなども時々するようですが、大酒が止まないのです。
それでこの間大酒を飲んで、とんでもない間違いをしそうになったが、それは神様がうまく止められました。
しかしそれはおかしい、そういうはずはないからと、よく調べてみると、あまりに小さな家のくせに「大光明如来様」をお祀りしてあったのです。
このことがまたたいへんにあるのです。
支部なら勿論結構ですが、家があんまり小さいとか、座敷の小さいとか、床の小さいのに、大光明如来様は相応しないのです。
それからその信者の資格の上下があります。その代わり立派な家で、大きな座敷でなら、大光明如来様も結構です。
ですからすべて相応しなければいけません。
食い違えば、どこかに故障が起こるというわけです。
前にも、平塚の方の百姓で、以前に観音様の絵を画いた時分に、横向きのならよいですが、
正面向きの「光明如来様」と言っていた正面向きの大きさなのに、非常な雨染みができて、それがちょっとくらいのものではないので、
どうしたらよいかというので、調べてみたところが、百姓屋のはなはだお粗末な所に、今言った光明如来様をお祀りしてあるのです。
それで、もっと小さいのにしたらよいと、そういうように改めたことがあります。
ですからただ立派なものならよいというだけでは駄目なので、相応しなければいけないのです。
人間はよく間違えるので、ただ立派ならよいと思うのです。
やっぱり昔から言う「相応」とか「程々」という、そういうことに外れてはいけないのです。
人間万事相応の理です。
この相応ということは、つまり理屈に合うことです。
いつも言うとおり、理屈に外れてはいけないということは、相応しなければ、やはり理屈に外れるわけです。
それからまた理屈に外れると無理をするということになります。
だからよく昔から「ぶるな。らしくせよ」という言葉がありますが、先生ぶってはいけない、先生らしくしろということです。
信仰を鼻の先にぶら下げて・・・これはメシヤ教信者にはありませんが、他の信仰に見られますが・・・信者ぶるのです。
そういうようで、「らしくする」ということは「相応する」ということですから、ちょうどよいということです。
そうすると万事うまくゆくわけです。順調に進んでゆきます。
ですから私がやっていることは、別にそう急ぎはしないので、ゆっくりやっていて結果が早いのです。
それは後戻りがないからです。ふつうは急いでも後戻りをするのが多いのです。
ですから遅くても確実にというわけです。これはイギリスの格言にありますが、「遅くても確実に」ということがあります。
これはイギリスが世界一になった第一でしょう。
私は昔からイギリスの「コモンセンス」と「遅くても確実に」という格言を非常に尊んでいましたが、今でも非常によいです。
ところが今のイギリスは「遅いために不確実」ということになってますが、
これは医学のために国民の健康が弱ったことによるのですが、それは今の話とはぜんぜん別です。
そこをよく考えて、智慧正覚を働かしてよく考えて、そうするようにしてすべてをやってゆくのです。
そうすると、あせらずゆっくりしながら、ドンドンうまくスムーズに運んでゆくわけです。」
明主様御垂示 「差別と平等」 (昭和24年2月18日)
信者の質問
「お弟子を指導させていただく場合、差別と平等はどのようにいたすべきでしょうか。
例えばずっと以前からお弟子になってもたいした働きのない人と、お弟子になったのは新しくても大いに働きのある人との場合はいかがいたすべきでしょうか。」
明主様御垂示
「これはね、どっちとも決めてはいけないのです。
働きと古さとどっちに片寄ってもいけない。
古い人には古い人としての功績があり、骨董ではないが古さの味がある。(笑声)
そしてどちらを主にするかと言えば、勿論働きを主にすべきです。
そして臨機応変にちょうどよくやったらいいのです。
こういうことは世の中の人間は下手でね。また学問では駄目ですよ。・・・
差別は縦であり平等は横ですからどっちに片寄りすぎてもいけないのです。
この前、社会党が煙草の配給を男女とも同じにしたが、実際は女より男のほうが喫むのだからこれでは不公平です。
だから私は「公平は不公平で、不公平が公平だ」というのですよ。(笑声)」
明主様御垂示 「上中下に差別をつけるのが平等」 (昭和26年9月8日)
明主様御垂示
「麦、米の二毛作は、麦が成績が良くないが、そのことについて御神示がありました。
麦は畠に作るもので、麦を田に作るというのが間違っているので、穫れるわけがない。
そんなにこすっからくしなくても、稲を田に作るだけで、食うだけは充分穫れる。
肥料なんか・・・ああいうことをするから穫れないんです。」
信者の質問
「陸稲(おかぼ)は違うわけですか」
明主様御垂示
「陸稲もいけないんです。やっぱり水田が本当なんです。
だから陸稲は今年はずいぶんやられてます。
やっぱり畠は麦と野菜にきまっているからね。
人間は理屈でやろうというので、違っているんです。
かえって理屈は悪くても実際は良いんです。
すべて・・・やることすること・・・都合なんです。
いっさいはちゃんと定まっているんですからね。
それを乱すから、うまくいかないんです。
昨日ある偉い人が来ましたが・・・粗末な形(なり)して、タビも履かないでね。
あれは間違っているんです。真善美ですからね。美がないんです。
信仰によっては、汚い形して、粗末な恰好して、粗末な家に住まってますが、真善美ですから美しくなければならない。
美というと・・・こんな美しい所はどこにもないですよ。
美ということを忘れているから本当のものじゃない。
強いて、まずいものを食って・・・まずいものを食べなければ生きていられないというなら良いですが・・・
わざわざまずいものを食って、粗末な形をして、粗末な家に住まうというのが、かたい信仰のように、人に思わせようというのは間違っている。
うまいものを食うというのは、うまいものを食う資格がその人にある。悪いことをしてではいけないがね。
順調にしてうまいものが食え、良い家に住めるなら本当です。
さっきの論文のように・・・ダイヤモンドと鉄のようにね。
鉄は鉄として鍋や鉄道のレールを作るようになっている。金で鍋や釜を作ったり、鉄砲作ったりしてもだめです。
金は金として、きれいにしてこそ値打ちがある。
と言うのは装飾に使うべきですね。貨幣なら貨幣でもそうです。
他の宗教でも間違っているのはたくさんありますよ。
天理教では、そうとうな人が印半纏(しるしばんてん)を着ているが、あれは間違っている。
印半纏というのは職人とかなんかの・・・礼服にもなるが・・・平等というのは嘘です。
あれは衣服の平等といいますが嘘です。悪平等ですね。
神様は公平なんだからね。あれは嘘です。
上中下に差別をつけるのが平等ですからね。
だからあれは間違っている。」
明主様御垂示 「階級があるのが自然」 (昭和23年12月1日発行)
信者の質問
「邪神はことさら正神らしく見せかけるように思われますがいかがでしょうか。」
明主様の御垂示
「これは無論そうであって、最初から邪神と分かられては人間のほうで警戒するから、
邪神の目的は立たぬ。
どこまでも正神と見せかけて間違ったこと悪いことを、善いこと正しいことのように思わせるものである。
邪神はいわば人間界の詐欺師のようなものである。
これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、よほどはっきりとした眼識をもたねばならぬ。
私の「信仰雑話」を書いたのも一つはそういうものにしっかりした判別力を植え付けるためでもあるから、
どうしてもこれによって智慧証覚を磨かねばならぬ。従って邪神の言動は立派に見えても必ずどこかに欠点のあるもので、
容易に見破り得るのであるが、人間はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。
例えば共産主義のごとき、これは自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする間違ったものであるが、
主義者はこれこそ大衆を救う唯一のものであり、絶対の真理だと信じてやっている。それだけにまた非常に強いところがある。
また社会主義のごときもそうで、これが本当のやり方で、これによって社会は救われると信じ切っている。
(註 「本当のやり方」は、「信じきっている」にかかっている。つまり、社会主義は本当のやり方ではないということを教祖は言っている。)
この主義によると、賢者も、智者も、愚者も、偉人も平等に取り扱おうとする。
そこに不公平がある。
大自然を見てもいっさいにおのずから階級がある。
偉人とか智者は社会からそれ相当の地位を与えられ優遇さるべきが本当であって、
それによって社会の秩序が保たれる。
また社会主義は人間の競争心をなくそうとするが、これは文化の進歩を阻害することになる。
競争心があるので進歩発展するのである。
次に資本主義もはなはだ間違っている。
これは、金力をもって大衆の幸福を蹂躙することになるからである。
どうしても全体が幸福を得るという全体幸福主義というような新しい思想が生まれなくてはならない。
そこまで文化が向上することを念願として進むべきである。」
明主様御垂示 「神様のことには民主的でない点がある」 (昭和23年5月18日)
信者の質問
「今度の新しい大光明如来の御軸は・・・」
明主様御垂示
「特別に書いたんです。教導師には上げてもいいが、階級的ですから。
一般会員はいけません。神様のことには民主的でない点がある。」