理屈に合う


明主様御講話 「浄霊で病気が治らない主たる原因」 (昭和28年7月6日)

「病気などは特にそうですが、急所の発見ということが一番肝腎なのです。

それからこの前も言ったとおり、理屈に合わないことはいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき条件が理屈に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。

これはこの前話したから大体分かっているでしょうが、その理屈に合わないことという一つの条件というのは、神様のことを知った人とぜんぜん知らない人とはたいへん違うのです。

知らない人はたいへん無礼なことをしても、これは知らないから許されます。

ところが信仰にはいってそうとうたって、知っているはずのところの人が、理屈に合わないとお蔭がないわけです。

そういうこともよく考えるべきことです。

やってみて、どうしても思うようにゆかないということは、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんなことを思うが、そういうことはごく少ないので、

本当は急所を外れていることと条件が理屈に合わないことが一番多いのだから、そういうことに気がつくようにならなければならないです。

それはその人の智慧証覚です。

だからまず智慧証覚を磨くということが一番肝腎です。

智慧証覚が磨けると急所の発見が早いのです。」




明主様御講話 「順序とは理屈に合うこと」 (昭和28年12月5日)

(御論文「私の文章とその他」発表)

「今読んだような具合で、どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。

苦しみながらしている気はしないのです。

道楽みたいなものです。

観音様の中に「遊行観音」というのがありますが、ちょうどそういうようなものです。

それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。

それでいろいろ苦しんだり、気がいかないことをやっているとうまくゆかないのです。

この点が今までの世の中の人と反対です。

これは信者の人でも同じわけです。

だからいやいややったり、苦しんでやったりした時にはロクなことはないです。

病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行く時は、きっと治りが良いし、治るから行くわけで、またそうだから良いわけです。

だから楽に行けばゆくほど発展するのです。

ここが今までの世の中と違うわけです。


ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それをあたりまえのように思っているのです。

私も始終そういうことがありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないというときには、「オレは苦しんでやっていた」ということに気がつくのです。

それでそれをほうり出して、他のことをやるということがあります。


それからまた時節というものがたいへんなもので、たとえうまくゆくことでも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。

それはやることが悪いのでなくて、時節が来ないのです。

そこを見通すだけの智慧証覚がなくてはならないのです。
 

それからまた順序ですが、これがまた実にたいへんなものです。

うまくゆかなければならない、こうならなければならないのがどこかつかえている、うまくゆかないのですが、

そういう時によく考えてみると順序が違っている場合があります。

それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。


ですからそういうようなことを早く発見するということが智慧証覚です。

この智慧証覚というものがまたたいへんな意味・・・というよりか、物事に影響するのです。

それで智慧証覚があると気がつくのです。

一番分かりやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。


それで順序というものは、やはり理屈に合うことです。

合理的なものです。

だからその病人なら病人が、まだいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりするときにはうまくゆかないのです。

そのうまくゆかないというところにまた一つの理由があるのです。

それは、その病人がなにも分からないうちは疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それはあたりまえです。


ところがそうとうに話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、

入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、その時は治りが悪いのです。

うまくゆかないのです。

そういうことに対してチャンと合理的の理屈があるのです。

だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それからそうとうに信じている人で治りが悪いということがありますが、それはそういうわけです。

ぜんぜん知らない人はいくら疑ぐっても、それはあたりまえのことで許されるのです。

理屈に合っているのです。

ところがそうとう事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。

そういうことをよく考えてみると、チャンと理屈に合っているわけです。

その合っている理屈を早く発見し、早く知るということが智慧証覚です。

心の鏡に写るわけです。

ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するということになるのです。


ここに信仰の、案外軽く見ていることで、実は非常に重要な点があります。

このことについては、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」ということをよく言います。

これはそのことです。それでその智慧がある程度まで働いたのが覚者と言うのです。

それで大覚者というと一番偉いのです。

それで、お釈迦さんが言ったのに「証覚を得れば菩薩にする・・・「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」である」ということを言っているのは、やはり覚りということは智慧です。

ですからいろいろとなにか気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。

そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書をたくさん読むということが一番よいわけです。

ですから御神書を読んでも、前にはよく分からなかったのが、

その次に読んだら、あるいはしばらくたってから読むと、「これだ」「こんな良いことがある」「こんなはっきりしているのにどうして自分は分からなかったか」ということがあるが、前に読んだときには曇っていたからです。

だからだんだん曇りが除れてゆくにつれて、だんだん分かりが良くなるということは、そういうわけです。」




明主様御講話 「理屈どおりにゆけば全てが順調にゆく」 (昭和28年9月7日)

「それからこの間あったことですが、地方にある、ある中教会が東京に出張所をつくっていたのです。

その出張所によく働く熱心な信者があったのです。

それが事情は言えませんが、ちょっと信者として考えられないほどのことがあったのです。

あったというよりか、ありそうだったのですが、それは御守護でうまく、なにごともなくすんだのです。

これはおかしいと思って、中教会長とその人間を呼んで聞いてみたのですが、そこは支部であって支部長がいないのです。

ただの出張所になっていたのです。

それがいけなかったのです。右につき心得ておかなければならないことは、仮にも支部と名のついたものは、必ず支部長がなければならないのです。

出張所だけというのはいけません。

お医者さんなどには出張所ということがあって、何時から何時までは院長が出張するということになってますが、宗教ではそういうことはいけません。

どんな時に病気が起こるか分かりませんから、支部長がいればすぐに呼ぶことができますが、

いないとその支部としての機能を発揮してゆくことができないから、

それを神様が教えるためにそういうことがあったのです。

ですからちょっと気がつかないようなことでも、案外大きなことがあるからして、

いつかも言ったとおり、理屈に合わなければいけないということで、つまりその理屈を考えるのです。

考えれば分かるのです。


もし分からないとすれば智慧証覚が鈍っているからです。

鈍っているということは霊に曇りがあるのです。

だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。

それにはできるだけ御神書を読むのです。

そうするとそれだけ曇りが取れて智慧証覚が発達しますから、よく気がついたり、理屈が分かりよくなります。

それで理屈どおりにゆけばすべてが順調にゆくのです。


時々いろいろなことの質問がありますが、なにかある時には調べてみると必ずどこかに理屈に外れていることがあります。

だからこの理屈を知ることです。理屈を知ることは、要するに気のつくことです。

だからお釈迦さんは「悟りを開け」「覚者になれ」と言ったのです。

「覚者になれ」ということは、今言った智慧証覚がある程度まで発達することです。

ですから仏教の方ではよく「智慧」ということを言ってます。

お釈迦さんの説いたことの眼目は、ほとんど「智慧」でしょう。

そういうようで、「智慧」ということは、今言った智慧証覚、つまり「覚り」です。

覚りということは、あきらめということばかりでなく、「自覚」「覚者」ということですから、

それは大きい小さいにかかわらず、なんでも理屈に合わせなければならないのです。

そうするとその人のすることが、そう骨折らないですべてがうまくゆくのです。」




明主様御講話 「理屈に合わなければいけない」 (昭和28年9月6日)

「それから注意しなければならないことですが、名前は言いませんが、中教会が地方にあって、東京に出張所がある所で、

その出張所で熱心に働いている信者の一人が、最近信者としてはちょっとあり得べからざることをしようとしたのです。

それは神様から止められて事無きを得たのですが、そういうことはあり得べきことではないのです。

そこで呼んでよく調べてみたところが、そこは出張所になっていて支部長がいないのです。

つまり支部であって支部長がいないということが、たいへんな間違いなのです。

支部はよいのですが、しかし支部長はちゃんといなければいけないのです。

というのは支部長がいないと、そこに属している信者になにかあった場合には、出張する先生を待たなければならない。

ところがそれが地方なのですから、そうすると支部はガランドウと同じです。

ガランドウでは支部としての機能を発揮することはできませんから、それは嘘なのです。

そこで私は、「その支部を止せ、それで支部長になるべき人ができたらまた開けばよい」と言ってやりました。

そういう嘘をやっていたから、そこであり得べからざる間違いが起こりかけたのです。

そういうようなわけで、これもやっぱり理屈に合わないことです。

だからやはり、支部なら支部とすれば、その機能を発揮することができるような組織ができていなければならないのです。

それをぜんぜん、そういうようなでたらめでいるということは許されないのです。

よく医者などでは出張所ということがありますが、それと同じように思ったのでしょうが、

神様の方はそれと同じようではぜんぜんいけないのです。

そういうようで、なにか問題があるとか、なにかある場合に、それを調べてみると必ず間違ったところがあるのです。

それを神様が教え注意されるのです。


この間もあったことですが、私の写真を支部長と信者と両方でいただいて帰ったのですが、

いただいた写真が同じものだと思って、両方で間違えて持って帰ったのです。

そうすると信者の方の写真に皺(しわ)みたいなものができてしまって、

とても掛けておけないような見苦しさでそれがはっきり分かるのです。

それでどういうわけかという質問があったので、とにかくこっちに持ってきて見せろと言って調べたのです。

それは同じ写真だからよいと思って交換したのでしょうが、それはいけないのです。

それで神様がそれを知らせるためにそういう皺ができてしまったわけです。

そうしてそれでお知らせになったわけです。

そういうようで、いただいたものを、同じものだからといって替えるということは、たいへん間違ったことです。

それをいただいたということは、その瞬間にその人の護り神なのですから、人が違えばぜんぜん意味がなくなり、結局無駄になるわけです。

それも、チャンといただいた以上は自分の将来を御守護してくださると思えば、そういうことはできないわけです。

つまりそこに心に隙があるか、あるいは軽く見ているわけです。

それでウッカリとそういうことをしてしまうのです。


ですからこの間も言ったとおり、チャンと理屈があるのですから、ちょっとでも理屈に外れたことはいけないのです。

ですから信者さんのいろいろなことを見ていると、つまらない、どうでもよいことに非常に重きをおいて、

ちょっとしたことが御無礼になったのではないかと心配して質問してくることがあります。

それで非常に重要なことを割合に軽く見ているのです。

その区別を割合に知らないのです。

ですから重要なことと、そうでないこととの差別をよく知らなければならないのです。


今の私の写真というのは一番重要なのです。

「光明如来」とお掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様よりか私が上なのです。

ところが人によると光明如来様の方を上にして、写真の方を下にするのがありますが、これはたいへんな間違いです。

ですからそういうように理屈を考えるとすぐ分かるのです。

ところが昔からのいろいろな宗教はそれがなかったからなのです。

しかし昔でも、仏体とかそういう場合には管長なり教祖が魂を入れるということになってますが、

やはりそういったのは、形とか彫物とか絵というものは坊さんにはできないので、魂だけは開祖なら開祖が入れることになってますが、

やはりそれと同じようで、私が書くということは、それが最高のものとして見なければいけないのです。

ですからそういうような理屈に合わなければいけないということを、よく心得ておかなければいけません。」




明主様御垂示 「何も知らない人が疑うのは理屈に合っている」 (昭和28年8月1日)

信者の質問
「信ずるから治る、信じないから治らないというのではございませんから」

明主様御垂示
「いや、信じなくても治ります。

ところが神様のほうは、信仰にはいらないうちは信じなくても治るわけです。

ところがだいたい分かってきても信じないと、そこにちょっとくい違いがあるのです。」


信者の質問
「私はこう言うのです。

同じ御浄霊をお受けしても、その人が本当にありがたいというときと、馬鹿にしているときとは自ずとお蔭をいただく程度に差があるというのです」

明主様御垂示
「ところが一概にいかないので、何も知らない人は最初は、こんなことで治るものかということは、それはそれで、理屈に合っているのです。

それから奇跡を見せて、なお疑うということは、人間のほうが間違っています。

だからそこにおいて結果に違いが出て来ます。

だから再浄化というのはやっぱりそういうわけです。

一旦治ったのですから、そうすれば絶対だから、これはたいしたものだと思えばよいのですが、

治ってもまだグズグズしているから、そこで正守護神が怒ってしまうのです。

そこでもう一度苦しめてやろうということになるのです。」


信者の質問
「お光をいただき病気が治りながら、想念が感謝を伴っていないというときに再浄化の可能が多くなるわけで・・・」

明主様御垂示
「そうです。神様のほうは寸分違わないので、理屈に合っているのです。」




明主様御垂示 「未信者が栄光新聞を粗末にしてもお咎めはない」 (昭和27年5月1日)

明主様御垂示
「新聞に出しますが・・・私の書いたものに対する注意ですね。

粗末にすると必ずお気付があるということを、今度の新聞に出します。」


信者の質問
「未信者に配ります時には・・・」

明主様御垂示
「それは構いません。未信者は粗末にしても構いません。

それは、何だかんだ言うと、そんなおっかないものなら俺はよそうと言うことになりますからね。

また知らない人は神様はお許しがあります。

解ってからはちゃんとその点はお咎(とが)めがあります。」




明主様御垂示 「理屈に合って合理的なら神様はお許しになる」 (昭和29年3月1日)

信者の質問
「田舎の信者で、御額の表装に出したいが、遠方であるために、列車には空いたときしか持込めず、歩いてというわけにもゆきません。

損わないようにして貨物で送るというお許しはいただけないものでございましょうか」


明主様御垂示
「それはよいです。これは心得ておかなければならないのは、神様は、できることをやらないのはその人の罪になり、それから、そうしなければどうしてもやれないというのはお許しになります。

例えてみれば、そこの家の人が、お天気を見るとか火事を見るとか言って、神様を祀ってある上に行くと罪になります。

ところが屋根がいたんで雨が漏るので、屋根屋を呼んで、屋根屋が屋根に上るのは、それはそうしなければ直せないから、よいので、罪にはならないのです。

チャンと理屈が成立っていればよいのです。

だからいつか言ったとおり、理屈に合って合理的のものならなんでも差し支えないというのは、そういうわけです。

そうしなくてもよいことをそうすると、それは人間のほうが怠慢になる、というよりか、神様に御無礼になるのです。

汽車で送らなければ他に方法がないという場合は、それでよいわけです。

ですから私のほうで、アメリカに御守を始終送ってますが、それより方法がないのですから、そういうのは決してお咎めはないわけです。」




明主様御講話 「御礼と私用金とは釣合うべき」 (昭和28年5月27日)

「それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、それを忘れたり、

よけいなつまらない金にはウンと使って、御礼の方には少しばかり上げるということも理屈に合いません。

ですからこの前も言ったとおり、理屈に合わなければいけないということです。」




明主様御垂示 「病院に行った人には浄霊するな」 (昭和28年7月1日)

信者の質問
「十七才の女学生でバレーの選手ですが、急に体中が引きつり、名古屋医大にて舞踏病と言われました。

肩から延髄の右にものすごい固まりがあります。

光明如来様は御奉斎いたしており、母親とその娘が入信しておりますが、主人はまだでございます。

周囲の事情により入院をといわれておりますが、奥さんは病院に浄霊に来てくれと申します」


明主様御垂示
「絶対にいけません。

そういうことをあなたが私に聞くということがおかしいです。

そんなことは今まで知らなかったということは変です。

だいたい病院に行ってやるということは、先方ではお医者さんにお任せしたのだから、

こっちがやることは間違っているから、やらないのが本当です。

ただ、何かの事情で病院に行ったが、本人が「もういやだ、神様にお願いしたい」と言うし、

また側の人で反対する者がないという場合には行ってもよいですが、

一人でも反対する者があるのは駄目です。

そこの主人公が「とんでもないことをした」という気持ちになって、あなたに頼みに来れば行ってもよいです。

そうでない限りは絶対に行ってはいけません。

人間界のこともそうですが、

特に神様のことは筋がたっていなければいけないのです。

筋が立たないことは絶対にしてはいけません。

だからこの間話もし、論文も書いたように、合理性ということですから、理屈に合っていなければならないのです。

今のは理屈に合っていないから駄目です。どこから見ても理屈に合っていればよいです。

肝腎の主人が医者にお願いするのではぜんぜん筋は立ちません。」




明主様御垂示 「病院で体に穴を開けるような人に浄霊するな」 (昭和28年7月1日)

信者の質問
「噴門と食道の所に癌があり、咽喉からは牛乳二合くらいしか通らず、あとは横腹に穴をあけて胃に流動物を送ってます。

浄霊すると噴門の辺がもーっとして通らなくなります。そういうのはいかがいたしましたらよろしいでしょうか」


明主様御垂示
「止めたらよいです。そういう間違ったことをして助かるわけがありません。

そういうのに引っかかていたら、労多くして効無し、骨折り損のくたびれ儲けです。

だから絶対にやってはいけません。 (中略)


それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。

ですから滅びる人はいくらやっても駄目です。

だからさっきの「食道が悪くて、噴門からどうとかする」というのは、もう救われない側になっているのです。

救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。

ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。

それは別に難しいことはないので、見分ければよいのです。

この人は救われるか、あるいはもう駄目な人かということはすぐ分かりますから、

どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。

それから楽に行かないのは救われないほうです。

この間の論文に書いてありますが、救われない人がすっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。

最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人のほうが疎かになり、それがたいへんな間違いです。

そういうことを見分けるのもその人の智慧証覚が向上していれば見分けもつきます。

ですから智慧証覚を磨けばその判断力がつくのです。

それで智慧証覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。」




明主様御講話 「理屈に合わないと神様はどうしようもないの」 (昭和28年5月26日)

「理屈に合えば、神様は愛ですが、理屈に合わなければ神様はどうしようもないのです。

神様は御利益をいくらでも与えたいのです。

ところが資格がないのです。

たとえてみれば金銭にしても、神様はいくらでもザルなり財布なりに入れてあげたいのですが、

この財布の中に汚いものがあるから入れられないのです。

それを掃除すればよいのです。

ですから人間の方で命を助かりたい時には、人間の方で助かる状態にすればよいのです。

それをしてないから、神様の方にも規則がありますから、神様自身がその規則を外すことはできないから、助けたくても助けられないということになります。」