道理について


明主様御教え 「道治国」 (昭和26年2月7日発行)

「今更言うまでもないが、我日本は法治国である。

もっとも世界中文明国と名の付くものは、ことごとく法治国で、一の例外もないが、実をいうと法治国すなわち憲法で治めるというやり方は、理想的とは言えない。

何よりも事実がよく証明している。見よ法律の力のみでは、犯罪を無くす事のいかに困難であるかは歴史がよく示している。

もちろん人間から全く悪を除り去る事は不可能であってみれば、右の事実も止むを得ないであろう。

これらの点に鑑み、もちろん宗教によらなければ真の解決は出来ないがしかし宗教のみでは急の間に合わない、

としたらその他の方法として、まず何よりも道を知らせる事である。

すなわち道とは道理であり合理である。

もっともこれも古くからある東洋道徳的であるが今私が唱えようとするのは、より進歩的の新しい道徳である。


吾々がこのような事を言い出すのは、近来社会的道義観念の頽廃(たいはい)が余りに酷いからである。

青少年の不良化はもちろん各種犯罪の激増等は目に余るものがある。

最近、識者間においてもようやくこれに気が付き、修身を復活せよとか、教育勅語に代るべきものを作れとか、種々の議論が出ているのは、この方面に気が付き始めた事で、喜ぶべき現象である。

そうしてこの事の依って来るところは、言うまでもなく終戦後国民一般が拠りどころを失い、帰趨に迷った結果、ついに今日のごとき無軌道的人間が多くなったのであろう。

終戦までは各学校においても、修身教育や教育勅語を基本とし、それに古来からの忠孝等の思想も心の底に植付けられていたためもあって、

今日からみれば当時の社会は、余程真面目であった事は否み得ない、

と言って、今更右のような旧道徳を復活する訳にもゆかない。

と、したら何とかして新しい時代精神を作らなければなるまい。

ただ終戦後我国民に与えられたものとして、民主主義があるが、これによっていかに封建思想の束縛から解放されたかで大いに多とするに足るが、

遺憾ながらその行過ぎが、現在のごとき社会混乱の温床となった事も否めないであろう。

とすれば、新旧の時代思潮から悪を捨て、善の面だけ採上げて、時代に即した新しい道義観念すなわち英国の紳士道のごとき新しい大和魂を作るこそ、何より必要であろう。


それが前述のごとき、道という基本的観念であって、これを教育上にも社会上にも大いに鼓吹するのである。

かくして社会悪を幾分でも減少出来たとしたら大いに喜ぶべきであろう、

ところで道すなわち、道理を解り易く云ってみれば、道とは一切に通ずるもので、言わば人間処世上の絶対指針である。

何となれば人間道に従えば、災いも失敗もなく、すべては順調にゆく、信用は高まり、人からは敬愛せられ、平和円満な境遇となるのはもちろんである。

こういう個人や家庭が殖えるに従い、その感化によって社会悪漸減に役立つ事は、言うまでもない。


この意味において、今日のごとく法のみに頼るとしたら、法に引っ掛らなければいいと云う、いわゆる利口者が増え、不逞(ふてい)の徒(やから)が横行するのである。

私は常に言うのであるが、神とは言換えれば道理である。

すなわち神を拝むという事は、道理を拝む事である。

ゆえに道理に従い、道理に支配される人間こそ、真の文明人である。この文を世の識者に提言するのである。」




明主様御教え 「道理に従う」 (昭和25年11月20日発行)

「信仰の妙諦は、一言にして言えば、道理に従う事である。

道理とは、道という字と理という字である。

特に道という字程意義深いものはない。

これを言霊学から言えば、ミは水であり、体であり、チは血であり霊である。

またミは女であり、チは男である。

すなわち陰と陽である。

そうして文字から言えば、首に「しんにょう」をかけている。

首とは人体にたとえれば、一番肝腎な道具である。

手や足は斬られても生きているが、首を斬られたら生命はない。

サラリーマンが職を失うのを馘を切られると言うのも面白い言葉である。

そのような肝腎な文字に、「しんにょう」をかけるのだから、これ程意義深い文字はあるまい。


また、道とは一切に通じる事である。

あらゆる交通機関も、電波も、光線も、人間同志の往来も道によらぬものはない。

日月星辰の運行といえども一定の軌道すなわち道がある。

このように道とは一切の根本である、とすれば道に外れるという事は、いかに間違っているかが判るであろう。


次に、理とは言霊上ラ行であって、ラ行は螺旋(らせん)と言う意味で、形で表わせば渦巻である。

渦巻には中心があり、その中心によって伸縮自在の活動を起す。

すなわち、左進右退なれば求心的となり、右進左退なれば遠心的となる。

例えば本教の中心は箱根強羅であるが、強は五であり、火である。

羅は渦巻であるから、火のポチが遠心的に拡がると言う意味になる。

昔から在る巴の形は左進が右進になる意味で実に神秘である。

またラリルレロの言霊は龍神の働きであって、龍はリウである。

動かない時は渦巻の形をする。

何よりも面白い事は、名前にラリルレロの入った人には龍神型が多いから、試してみると判る。

こんな説明をするときりがないから、これだけにしておくが、次に理の文字を解釈すると王偏は天、中、地、火、水、土を経の棒で貫いている。

ソナエは里という字である。

里とは田に土をかく、田は丸に十であり、土は十一すなわち統一である、とすれば、理の意味は万有の基本的働きであり、完全という意味になる。

天理教も良い名前である。

よく理法という言葉があるが、ついでだから法の字も解釈してみよう。

法の言霊は、ホは火であり、オは水であるが、言霊学上オはホに含まれてしまう。

これはオの水によって火が燃え続ける意味である。

また、文字は水を去るとかくが、これは水は緯へ流れるから乱れる憂いがある。

従って、水の働きを去れば経となり、厳然たる不動の意味となる。

法は犯すべからずと言う訳である。


以上の意味を総合すれば、道理の意味は判るであろう。

このように大きくして意義深い文字であるから、人間はこれに従わなければならないのである。

ゆえに道理は神であると言ってもいい。

道理に従うと言う事は神に従う事である。

人たるものいかなる事があっても、道理を重んじ道理に従い道理に外れてはならないのである。」




明主様御講義 「苦集滅道と道法礼節」 (昭和10年7月25日発行)

「仏教で肝心なのは法滅尽経及弥勒成就経である。滅法後ミロク下生して苦集滅道を説き道法礼節を開示すと出ています。


苦  一切の苦悩    病貧争

集  それを集めて   総て寄せて

滅  絶無にする

道  行り方      活動 運動


病気を治すに  霊的療法(悪霊を追出す)

           体的療法 (医者)

観音会はどちらも言わぬ、片よらぬ治し方である。



道法礼節

  ミ-体-身

   チ-霊-血  伊都能売 又は観音である。

道はあらゆるものゝ通るべき筋。

日月が東より西へ行くにも軌道がある。

一切は道により成り立ち進んで行く観音行である。

道とは首に辶(しんにゅう)、首は元首、人民の頭、首かくのごとくに、辶(しんにゅう)をかけたのだ。非常に意味がある。



観音会はこれを全世界に判らせる御用なのである。

天地の法に外れねば総て旨く行くのである。

天地の法律の事(造物主が造った法律)、道法(観音の法律)、完全無欠の法の事である。

法「水を去る」と言う字。

火なり(ホホ)、水臭い水気があるとて水は正しくないのである。

ヒはホにして炎、ホのホとなる。

手も触れられざる厳として犯すべからざるもの(水は融通がきく)。



神は順序なり、共産主義は之を打破ろうとしている。

軍隊も礼儀のある為に強いのである。

礼儀は順序から出たもの礼儀なくば順序たたず。

禮は豊を示すと書く。

余裕ある事、上流の金持が(富者)礼儀正しく貧者は正しからず、自ら階級あるのが本当である。

礼儀あれば貧乏無くなるのである。

親鸞には弟子一人もなく皆御同行なりと言うたが、日本共産主義の一番初めの人なり。

そのくせ弟子に○○等と言うのがあったのである。



節(ふし)なくば総て物は進行せず、春、夏、秋、冬も節なり。

観音運動にも節がある。節を越えると進行する。

一時的に止るのは節ですから止っても心配は不要である。

音楽でも節がある為非常によく聞えるのである。

国家の戦争も節です。日本の日清、日露、欧州大戦、満州事変等が節で、この節の為日本はよくなった。

節は勢を止める為一層強くなる。伸び放題にするのは悪い。

止めると勢が強くなる。

節を知らぬ者は途中でくたびれる。節がなければノッぺラボーで弱いし折れる。


以上のごとく、これから道法礼節を開示するのである。

なんでも道あり法則あるならば法の通りに座し法の通りに歩き行い寝るにも法あり。

それによって順序立ち行く。又何んでも節に合せて行えば旨くいく。

これを立派に行えば観音行の出来た立派な人となるのである。

これを二千六百年前に釈迦が説かれたのである。」」 (「観音講座 第二講座」より)




明主様御教え 「苦集滅道道法礼節」 (昭和26年5月2日発行)

「右の題目は、もちろん仏語(ぶつご)であるが、この意味は現在においてもよく当はまるから、それを解説してみよう。

苦集滅道(くじゅうめつどう)とは読んで字のごとく、苦が集まる、すなわち苦しみが多いと道が失われるという、

人間誰しも苦しみが余り多いと自暴自棄になるばかりか背に腹は変えられない式で、

道に外れる事をするようになるものである、

よくいわれる事だが、泥棒にも二種類あって、本当にズルイ奴と、貧に迫って悪いと知りつつも、苦し紛れにやる者とがある。

また闇の女でもそんな事をせずともよいのに、好んでする者と、切羽(せっぱ)詰(つま)って嫌々やるものとの二種があるのも同じである。


この弱点を利用して宣伝するのが、彼の共産主義である。

従って政治の理想としては、困る者、苦しむ者を作らないようにする、

それが犯罪を減らし、社会の秩序を保つ上に、最も根本方策である。

恒産あれば恒心ありという言葉も、よくそれを表わしている。

本教の理想である病貧争を無くすという事も、それ以外の何物でもない、

としたら何よりもまず健康が原(もと)であるから、健康人を増やす事こそ問題解決の鍵である。


次の道法礼節であるがこの事も現代によく当はまっている、

道法とはいうまでもなく道であり法であって、

道とは道理に叶う事で、道理に外れるために人間同士の悶着(もんちゃく)や、家庭の不和、社会秩序の紊乱(びんらん)となるのである、

法とは人間が作った法律のみではなく、神の律法もあって

これは目には見えないが、絶対犯す事が出来ない、

人間諸々(もろもろ)の災は、ことごとく神の律法を犯すための刑罰である事を知らねばならない、

実はこの刑罰こそ人間の法律よりも恐ろしいと共に、絶対免れる事は出来ないのである。

もちろん、死刑もあるのであって、それが災害による死、病死等すべて神律を犯したための刑罰死である。

そうしてあらゆる物にも法がある。

すなわち法とは一切の規準であり、秩序である。

判り易く言えば、人間の為すべき事、考うべき事はチャンと決っておって、

例えば政治家は政治家、教育家は教育家、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家、官吏でも、商人でも、医者でも、男でも、女でも、いかなる人間でも、

為すべき事、為すべからざる事は、一定の法則があり、

それを守る事によって順調にゆき、栄えるのである。

昔から法(のり)を越えるなというのもその意味である。


次の礼節、であるが、これこそ現代人には最も適切な言葉である、

特にこの点昔の人よりも大いに低下している、

私は日々多くの人に会うが、真に礼節を弁(わきま)えているものは十人に一人もないといってよかろう、

しかし何と言っても信者諸君は一般人とは区別がつく程よいには良いが、

ただ信者同士接触の場合、まだ物足りない点が見えるので、今一層向上して貰いたいのである。


しかし現在のような煩雑(はんざつ)な社会生活では、思う通りの礼儀は行われないから、ある程度は致し方がないとしても、

注意すべきは民主主義の履き違いから、若い人達には、上、中、下、無差別式の考え方の者がよくあるが、これは困ったものである。

なるほど昔のような士農工商的の差別主義も間違っているが、今のような悪平等的行過ぎも間違っている。

特に遺憾でならないのは学校教育のやり方である。

余りに自由主義のため、放縦に流れ、師弟の差別さえないのをよく見受けるが、

この点教師たる人も大いに考慮の余地があろう。

もちろん昔の軍隊式も困るが今のズンダラでも困るのである、

要は偏(かたよ)らないでよく程を守り、中性が肝腎で、

教育の方針もここにもってゆかなければならない事は言うまでもない、

礼節という意味はそれであって、既に古人が喝破しているのであるから、

現代人としてもそれに愧(は)じないようにすべきである。」




明主様御教え 「本然の道」 (昭和10年5月21日発行)

「観音様を信仰すれば、病貧争が無くなるばかりでなしに、未だまだ重大な御蔭があるのであります。

それは何かと云うと人間としての「真の道」が判るのであります。

あらゆる階級・・・あらゆる職業、すべての老若男女は、各々天から定められた「本然(ほんねん)の道」があるのであります。

例えば、民は君に対し、国家に対し、忠の道があり、子は親に対し孝の道があり、親は子に対する道があり、

夫は妻に対し、妻は夫に対し、自ら尽すべき事、行うべき道が、ちゃんと定められてあるのであります。

そんな判りきった事さえ、今日は判らなくなっている、それが、はっきりと判って来るんであります。

判ると共に、強制されたり誨(おし)えられないでも、自然に行う人になるんであります。

それが、いささかも、克己的でなく、進んで快く、行ってゆけるのであります。


ここが実に、妙不可思議力であります。

職業にしても、商人は商人としての、官吏は官吏、軍人は軍人、宗教家は宗教家、芸術家は芸術家としての、

それぞれ、天賦の道に適った行いがある、それさえ行っておれば、失敗もなく苦情もなく、

必ず成功もし、栄えもするんであります。裁判所や、警察の御厄介になる様な事が、全然起らないのであります。

折角、大臣になっても、市ヶ谷の別荘へ送られるような事はないのであります。

そういう事は、大臣は大臣とし、政治家は政治家としての、正しい行り方が、ちゃんと規(きま)っているに関わらず、

それを越えてしまうから、苦しむ事が出来るんであります。

罪を造ったり、争ったり法律に触れたり、借金に苦しんだりするのであります。


天から与えられた道、定められてある範囲から、なぜ人間は、脱線するのであるかと言う事を、お話し致しますと、

本来人間には、神より与えられたる本霊・・・即ち善霊と、動物霊たる副霊即ち悪霊と、この両様の霊が、必ず内在しておって、

この両者が、絶えず闘争しつつあるのであります。

随って副霊が勝った場合は、悪の行為として顕れ、本霊が勝った場合は、善の行為となるのであります。

かように、闘い争っている為に、反ってよく調和がとれて、種々な仕事が、出来て行んであります。

ちょうど、自動車の運転と同じ様なもので、

自動車は、左へも右へも行く故に、いかなる道でも、自由に走れるんであります。

しかし、いかなる場合でも、本霊が勝って行く事が、原則なんで、人間の本来の道なんであります。

しかし副霊が勝てば、それが脱線になって悪となり、

範囲を越えるから失敗をし、苦しみをする事になるんであります。

それですから副霊は、悪でありますから、どこまでも人間を脱線させようと、絶えず骨を折っているのであります。

ところが、観音様の御光を与えられると、副霊は、弱って行く・・・副霊が弱くなっただけは、本霊が強くなって行きます。

本霊の判断は、正しい判断でありますから、そこで、何事を行っても巧くゆく、間違いがないのであります。

一番面白いのは、お酒の好きな人が、私のところへ度々来られますと、嫌いになるんであります。

それはなぜかと言えば、酒を呑ませる先生は、副霊でありますから、

この副霊が、私の身体から放射する「観音光」の為に力が弱り本霊が勝って来るからで、

その本霊は酒が嫌いだから、酒が不味くなってしまうのであります。


こういう様な訳でありますから、観音様を拝めばどうしても、いい方へ変って行くのであります。

今日までの世の中は、人間の娯しみの大部分は、悪を娯しむ、・・・娯しみというものは、どうも悪に属するものが、多かったのであります。

それがつまり副霊が、勝って居るからであります。

ところが、本霊が勝って来ると、善を娯しむ、善い事をする事が、とても面白いのであります。

かく善い事をする面白さを、本当に知った時は、あんなに面白いと思った、

悪の娯しみは何とつまらない事であったんだろうと、不思議に思われて、来るのであります。

こういう様に、悪の娯しみよりも、善の娯しみの方が、何層倍、上だという事が、判った人が、真に救われた人なのであります。

しかも善の娯しみを、続けれぼ続ける程、そこに、健康と幸福が生れ発展があり、成功があるんであります。」




明主様御講話 「悪魔は道理を狂わそうとしている」 (昭和10年1月11日)

「こういうふうに、士農工商のあらゆる階級、親子兄弟から社長、技師、労働的の仕事をする人たちなど、

各々自己の階級職業などにより、ちょうど合ってる社会ができる。

そういう世の中ができれば、悪魔の目的はたいへん齟齬(そご)するんで、これをさせまいとする。

その最も強力なのが共産主義で、上のものを下へ、下のものを上へ行かせ、社会を混乱させ破壊に導こうとする。

これが彼らの目的で、今日の学校教育なども破壊し狂わせることを教える。

学校へ行った子は、親に背くなどは、その思想にやられる。

こういうことに対して観音運動は、狂わせないようにする。

宗教そのものも狂わそうとしている。」