新興宗教の脱税について
明主様御講話 「西にできた宗教の根本は悪」 (昭和10年12月21日)
「最近、大本教と天理教の事件がありましたが、あれが出てから、ここへ来る患者の方は減ってきた。
人間の心理状態は変なもので、こっちには別に関係はありませんが、一般に宗教的なことの信頼は減ったかしれませんが、
観音様は実にその点はうまいんで、さっそくと日日新聞にここの記事が出た。
そうしたら俄然来る人が増えてきた。検挙事件のあった前よりもズーッと増えてきた。
こういうことも観音様が、あらゆることをお使いになっていることが判ります。
天理教や大本教の検挙、これは予言しておきました。
「光明世界」三号の「最後の審判」というところにありますが・・・
また、宗教にしても、インチキや間違ったことをしておれば、どしどし滅んで行くし、
それを自覚して悪を改め善に立ち還れば、再び伸び栄えて行くんであります。
これが観音力の偉大なる力の表われであります。
また、その前に、観音力すなわち東方の光は、今後月日の経つにつれて、それはあらゆる方面に渉って・・・
大本も天理も間違いがあって、それを是正されるためにあったことで、致し方ないことで、
たしか大本はあまりにもひどいことがあり、去年あたり私は予言した。
天理教など脱税問題などおもしろくない。
商人としての場合ならば、同情すべき点はありますが、天理教などの脱税したのは驚くべきもので、
その金もただ信者から出したもので、それを脱税するとは、
いかにふつうの商人などよりも、もういっぱい見さげ果てたことで、これを神様が見逃すわけはない。
も一つはああいうふうなことがあると、観音会などに影響があるんではないかということですが、
これはたいへんな間違いで、東方の光が出て明るくなるに従って、昼間になり、間違ったことが消えて行くんであります。
悪という字ですが、西の元の心は悪で、西にできた宗教の根本は悪ですから、どうしても清算される。
悪といっても今日までは必要だったんで、善いとか悪いとかいうことではない。
それで脱税などすることになる。
西に起ったものには、どうしても悪の分子が必ずある。
それがどうして清算されるかというと、夜の産物であり、夜の宗教だからで、秘密がどうしてもある。
昼間のもの、昼間の宗教は明るいから、そういうものがない。
西のものには必ず暗い所がある。
いかに月が明るくとも、日のようにはゆかない。
秘密があるから、それを暴くために官憲に家宅捜索などされたりする。
そのために、これからは、あらゆる宗教にいろんな問題が起ってくる。
昔からいう世の終わりということは、世界の終わりということではなく、
夜の終わりということで、世界の終わりなどという馬鹿なことはない。
世界は永遠に発達してゆく。
われわれの世界が滅亡するなど、常識から言ってもそんなことはない。
いままでの宗教は夜の宗教で、どうしても昼間の宗教と入れ替えになる。これは宗教だけではすまない。
宗教は霊界に属する品物で、今度、神様が光明世界を造られるには、霊界のほうから先にされる。
すると宗教のほうから先に清算される。洗われるから、宗教のほうをまず掃除し、それから政治、経済、教育の方面になる。
そうなるといろんな問題が起ってくる。
それはいまお話はできない。
で、最初に宗教界の大掃除があるわけであります。
今度の事件によって、当局も、これから大いに警戒しなければならぬと警察など、宗教課を造って大いに取り締まるようですが、
これは非常に結構なことで、われわれとしても大いにお願いしたいくらいなものであります。
いいものは栄える。悪いものは滅びる。
観音会は昼間の宗教ですから、観音会が発展するに従い、夜のものはどうしても用がなくなってくる。
月夜で照ってた月も、日が出てくるに従い、月の用がなくなり、白月のようになる。
これはどうしてもしかたない。太陽の明るさによって、月または星は光を失うのはしかたのないことであります。
英国は月、米国は星の型になってるが、日本が勃興するに従って、英米の光が薄れる。
それと同じく、観音会の発展とともに、西のほうの宗教が光を失う。
そして、それが崩壊される。それは観音様がやられるわけでなく、私がやるわけでもない。
ちょうど、夜が明けるに従い、夜の秘密が判ると、これは怒ってもしかたない。
それがだんだん光明世界ができて行く型になる。
そういうわけでありますから、観音運動はだんだん発展するに従い、明るい世界になって行くから、
他の宗教はどうなっても、相関せず焉(えん)であります。」
明主様御教え 「観音易行」 (昭和11年4月30日御執筆)
「(一部のみ引用) 観音信仰は、観音行を実践する事は言うまでもない。
しかし、観音信仰は昔からあったのであるが、観音行は無いと言ってもいいのである。
何となれば、真の観音行はこれまでの信仰とは、余りにかけ放れていてほとんど反対の点が多い位である。まずその点から述べてみよう。
一般世人が神仏へ対する信仰、その意念と形式は、一つの定型をなしている事である。
それは熱心であればある程、あらゆるものを犠牲にしてしまう事である。
たとえてみれば、その信仰の為には家庭を捨てて顧みず、夫は妻を捨て、妻は夫を捨てる場合もあり、
将来の生活の窮迫を知りながら、金銭物質を奉献して顧みず、ほとんど第三者が見て狂人とさえ思われる位である。
しかしその当人は、純真にして、熱烈なる信仰を飽くまでも思惟し、
他の忠言など耳に入るべくも非ず、第三者の忠告は、反って火に油を注ぐような結果とさえなるのである。
そうして、その時代の目的なるものは、そういう信仰によって、祖先以来の罪障は消滅され、
又、それによって、その信仰団体の理想である世界が実現するのである、と固く信じてしまっている事である。
しかるに、こういう状態を続けている内に、段々生活は窮迫し世間的信用は失う。
ついに二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、ぬけがらのごとき性格を抱く者の数は、数えきれない程多いのである。
これらはいずれも、真の信仰ではない。
又その開祖及び宗団とその信仰の本質が、正しくないが為である。
要するに、一将功成り万骨枯るという式で、信者の幸福を犠牲にして、宗団そのものが大を成さんとし、自己の理想社会を建設せんとする為である。
故に、その機構や活動を仔細に点検すれば、一種の信仰共産主義である。
しかし、この様な信徒の幸福を犠牲にして顧みない宗団それ自身は、永続すべきはずがない。
いずれは崩壊の危機に遇うのは当然であろう。
又、社会的に観てこういう宗団の信徒は、一種の精神変質者であるから、往々秩序や伝統を破り勝ちであって、自然その宗団以外の交渉は絶えるのであって、
言い換えれば、社会的、国家的異端者のようになるので、
その結果として、不敬や脱税等の行為にまで、知らず識らずに進むのである。
こういう宗教は、時の経過によって解消するのは当然であるが、それに惑わされて気の付かない、善良なる信者こそは、実に可哀相なものである。」