邪神判別法について 2 (御講話・御垂示)


明主様御講話 「入信して貧乏になる宗教は偽物」 (昭和10年6月21日)

「いずれ、本部の地所の候補地もおよそみつかりました。

なぜおよそかと言いますと、まだ金を出して、こちらのものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、

金さえできれば、いつでもこちらのものになるようになっているんであります。

それも、他の宗教のように、みなさんから寄付を強要するなどということはぜんぜんなく、ぜひ出さしていただきたいという方はお断りはいたしませんが・・・

すべて神様のことは、どうか出さしてくれと言うて出すのが本当であって、

いくらいくら出してくれと金高まで書いた奉加帳を門並を持ってまわり歩くなどは間違っているんであります。

それはいままでのやり方で、既成宗教へいくと、どこどこまでも伸ばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教のため、苦しみ悩む人がたくさんできる。

それはなくさねばならない。

それは信仰の病気で・・・

それで、病気治しを願うとき、その病気は治してやるからいくら出せ、などいうのは、実に恐るべき迷信で、こういうことは断然なくしてしまわなければならないのであります。

そういう方法は、あらゆる宗教にあるんであります。


観音様のほうは実にうまいもので、これは、いま発表はしませぬが、それについてこういう標準があります。

いまここにある人があって、ある宗教へ入ったとすると、その宗教へ入ったときと入った後と比べてみればいい。

その宗教に入ってから病人がなくなり、体が丈夫になったかということ、また財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。

もしか、財産が減ったか、またつぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。

なんとなれば、本当の宗教は病貧争をなくするんでありますから、

貧のほうへ接近させるのは本当の教えではない
のであります。

そういうふうに見るのが一番判りやすいのであります。

まず信仰に入って財産が増えたか減ったか、あるいは、商売が衰微したかどうかをみればいい。

もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差し支えないのであります。


ところが、観音会には決してそういうことはないのであります。

もしあればこういうことは言えません。

しかし、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでいたのが、小さい家に一時入るようなことがあるのは、特にしかたがないと思っていただきたいのであります。

観音会のほうの博使や医者ができても、ほかの既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリいっぱいであります。

けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むようになるのであります。


既成宗教を見ますと、ちょうど「一将功成り万骨枯る」という状態で、これはあらゆる宗教に当てはまると思います。

本部は馬鹿に太くなって、御一統はすばらしい豪奢(ごうしゃ)な生活をし、信者は切り詰めた生活をしているのであります。

それはたいへんにいいように思われるんです。

それはたいへんに間違っているということは、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。

すべてのそういう種々な、いままでの欠点や、いままでの間違ったことを、本当の治ったやり方になってくるのであります。

そういう新しい形式、新しい文化が生まれるんであります。」




明主様御講話 「信仰して貧乏になる宗教は邪教」 (昭和10年7月11日)

「もし信仰して貧乏になるような宗教ならば、全部ユダヤのものと思って差し支えない。

あるいは貧乏人が、もしたくさん出たとしたら、それは邪教だとみていい。

天理教はたくさんできたら日本はどうなるでしょう。

現在でも八十億の赤字が出てる。

現在どころか、国防さえも充分でないから、どうなるか判らぬ。

でありますから、日本には金持ちをたくさんこしらえなければならぬ。

そうすれば赤字公債などもなくなる。

満州開発もできる。

満州の開発が充分できれば、世界は日本に対してどうすることもできなくなる。

そして白人を日本が教えて行く。

そうすれば世界の平和は来る。

世界の平和を築くのは日本人しかない。

ヨーロッパのほうを見ても判るごとく、白人は闘争の人種でどうしても喧嘩しなければ承知しない。」




明主様御垂示 「生活を困らすような神なら信仰するな」 (昭和23年8月17日)

信者の質問
「従来の商売を捨てて専ら観音様の御手伝いをさせて頂いておりますが、

財力乏しく二、三ケ月後には生活に困ることと存じますが、家族の反対を押し切って進ませて頂きます。

生活の心配は御座いませんでしょうか。」


明主様御垂示
「生活に心配するような事は決してない。

ちゃんと神様の方でそんな困らすような事はしない。絶対心配ない。

以前、中島が金に困り、電車賃がなくて来れなかったという。

ちょっとその宅へ立寄ってみると、赤貧洗うがごとしであったが、それから年々良くなり、近来は素晴しい。

生活を困らすような神なら信仰する要はない。

人間でも働けばそれだけの手当をする。」




明主様御垂示 「現当利益の有無が正神・邪神のメルクマール」 (昭和24年5月25日発行)

信者の質問
「宗教、芸術、文化の誠とはいかなるものですか。」


明主様御垂示
「いかなるものにも善悪正邪があり、宗教でも正教と邪教がある。

ぜんぜん邪教というものはないが、たいていは堕落の結果横道へ外れたり、外道に堕ちたりする。

いままでは最初は良い目的で始めたものが中途から邪神に利用される。

すなわちその宗教が力が弱いから邪神に負けるのである。

世間は新しいものを邪教視するが、新しいものには良心的なものが多く、比較的古いものに邪教が多い。

古いものほど黴(かび)が生えたり破損したりなどしており、邪神に負けやすいからである。

宗教によって救われるということは、入信以前よりは幸福になるものでなくてはならぬ。

例えば身体が丈夫になるとか、貧乏だったのが豊かになったとか、家庭が融和する状態になったとかいうように。


次に芸術にも正不正がある。

それは芸術によって良い感化を受け、崇高な観念が湧くとかいうようなものが誠の芸術である。

ところが反対に邪念を起さしたり堕落さしたり、不快を催したりするものも多い。

例えば近代絵画のごとき、特に洋画の人物などは妖怪のようである。

これらは自分の主観を恣(ほしいまま)にしているからでむしろ美術ではなく醜術というべきである。

これもある時期まででまた改められることになる。

いまの日本画は描くのではなく塗抹(とまつ)である。

例えば書をなすったらどうなるか。

それは芸術品ではなく提灯屋の書いたものと同じである。

日本画は筆力とその味わいを出すところに価値があり、それが真の芸術である。故に塗抹絵は美術工芸品だと私は言う。


次に文化の誠であるが、文化と言っても非常に広いのであるが、それを人類が利用する場合それがため社会が良くなり、人類の発明や発見を利用して人殺しや世の中を悪化させるのは誠の文化ではない。

かように人間の使いようによって文化は善くも悪くもなるのである。」




明主様御講話 「邪神の癖はエロ問題を起こす」 (昭和10年7月11日)

「それで天理教はどういうことに使っているか判らぬ。

鉄筋コンクリートなどのお宮を造るかあるいは貯蔵するか。

それくらいなものであります。

これは資本の私蔵であります。

経済学者もこういうことに目をつければいいと思う。

実は日本を弱らせるユダヤの邪神がやっているのであります。

でこの邪神の癖として、必ずいっぽうにエロ問題を起す。

先刻宝島さんが言われた桃色問題を起すことがたくさんあると言われたが、これは当然なことで、

各宗教はみんなそういう具合に邪神が占領している。

ですから最初よくてもしまいにはだんだん崩れて行くんであります。」




明主様御講話 「邪神は人間の自力を出させる」 (昭和11年1月21日)

「先刻、右手悟浄さんの話に、他宗では一生懸命拝んでも御利益はないという話をしました。

これは右手さんのお話の通り、からっぽうで中がないからであります。

中のないというわけは、実は一生懸命、一心不乱に拝んでも御利益をいただける神仏がない。

神仏には御利益のない証拠で、あれは自力的に一生懸命に拝んで治す力を、

自分に滲み出そうというやり方なんであります。

生長の家もそうで、病気はないと思ったら治ると思うので、あれも力がない。

そういう自分の精神力を出し一生懸命になって治るんであります。

人に頼まれて一生懸命に祈って治すのは、これは人間の人体電気が病人に働きかけて治るんで、

やはり神仏の力でもなんでもない
んであります。

ところが、観音様のほうはいくらも力があるから、祈らなくとも心に思えば希望通りになる。

これはちょうど、親が子に対して思っているようにしてやりたいと思うのと同じことです。

なにも子が一心不乱になって、こうしてもらいたいと願わなければ与えられないという親はないはずです。

親子の関係と同じことですから、むしろ一心不乱になるほうが、痛々しくて不快感を感ずるわけです。


ですから、実は神仏に力のないのを無理に祈って自力でつくるんであります。

しかし、まるっきりからっぽかというと、御利益を与える力はからっぽでないが、他のものがある。

やはり神仏と称してる霊がある。

それは、ある目的を抱いてる霊で、自己がその宗教を盛大にして、権勢を張ろうという目的の霊であって、

さも御利益を与えるようにみせかけて、実は人間の自力を出させてやらす。

それで、実は神仏が与えたかのごとくみせかける。

そういう欺瞞的な詐術をしてるんで、ほとんどの宗教はみなそれであります。

ですから、邪教インチキというのは、ほとんど全部の宗教が邪教インチキなんであります。」




明主様御講話 「水浴び・断食・お百度参りは邪神」 (昭和28年6月27日)

「いま言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、

神様の方では「お前は信仰に入っているのだろう。

オレのほうでうまくやってやる。

そんなにセツイテ頼まなくてもよい。

そんなにオレを不人情にみられてはおもしろくない。

お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」という事になります。

従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。

やっぱり邪神です。

それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。

人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、

神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。

ですから神様にお任せするという事になると、神様の方でも大いに助けよいのです。

その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。

それで神様としては、神様の役に立つものはどうしても助けます。

それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまでは手を引かれて時を待たれるのです。

神様というのは、今の睾丸が出来た(信者の無くなっていた睾丸が浄霊により復活した体験談)というように、大変な御力で、助けようと思えばなんでもないのです。

ただ助かる条件が揃わないのです。

ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。」




明主様御講話 「邪神はしつこい、神様はあっさり」 (昭和27年4月6日)

「それから、もう一つ注意することがあるんです。

よく邪神が憑いてるか憑いてないか、あるいは邪神か邪神でないかを見る、一つの方法があるんです。

それは、一番分かりやすいのは、邪神というものはしつこいんです。

で、神様ほどあっさりしているんです。

ですからクドクドしく一つ事を言ったりするのは、これは邪神と見て良いですね。

で、高級な神様ほどあっさりしている。

ですから、あっさり言う人は身魂が高級と思って良いですね。


それからクドクドしく言うのは、邪神でなければ、神様では低い・・・低級とは言えないが、低いんですね。

一番低いのは狐ですよ。まくし立てますが、あれはたいてい狐です。

そういうのでなく、本当に身魂が良い人は穏やかに・・・議論したりまくし立てたりすることはないですね。

それから女でペラペラしゃべるのは狐が多いです。


男で、いばったりするのは天狗ですよ。

こう見ていれば間違いない。

議会なんかで、いろいろ議論したりしますが、あれは天狗ですからね。

天狗というのは、負けるのが嫌ですからね。

言い出したら通そうとする。

議員だとか学者や弁護士だとか、ああいうのは天狗が多いんです。

横車を押したり、人に議論したりするのは、天狗に限るんです。

なにしろ天狗というのは問答が好きでして、

天狗は問答して勝ったのが、位が上がっていくんですから、議論して勝とうとしますね。

みんな天狗ですよ。

それは天狗も良い働きをしますよ。

だから悪くはとれないんですが、しかしよけいな手数をかけるだけのもので、

天狗でも智慧のあるのは良いですが、あまり智慧のないのは困るんですよ。

年中争ったり・・・口争いですがね。

人の感情を害したり、物事を捗(はかど)らせなかったり、そういうことがありますからね。

こういう、天狗の憑いている人でも、だんだん神様のことが分かれば、自分の欠点が分かってきますから良いわけですが、

そういうように、大体参考にすれば良いですね。」




明主様御垂示 「邪神はくどいことが好き」 (昭和23年8月28日)

信者の質問
「弟子の御浄め(註 当時の浄霊の名称)している重病人の住所姓名病状などを毎朝定時にお観音様に言霊で奏上し、御守護をお願いしてもよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これは勿論で一種の遠隔的意味になる。

その場合あまりくどくどしく言わずにあっさり言うほうがよい。すべて三度までよいのです。

だいたい神様はくどいことが嫌いで、くどいことが好きなのは邪神です。

だから祝詞も三度でよい。

もし三度以上あげるのなら間をおいてからがよい。」




明主様御垂示 「邪神は正神を装う」 (昭和23年12月1日発行)

信者の質問
「邪神はことさら正神らしく見せかけるように思われますがいかがでしょうか。」


明主様の御垂示
「これは無論そうであって、最初から邪神と分かられては人間のほうで警戒するから、邪神の目的は立たぬ。

どこまでも正神と見せかけて間違ったこと悪いことを、善いこと正しいことのように思わせるものである。

邪神はいわば人間界の詐欺師のようなものである。

これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、よほどはっきりとした眼識をもたねばならぬ。


私の「信仰雑話」を書いたのも一つはそういうものにしっかりした判別力を植え付けるためでもあるから、

どうしてもこれによって智慧証覚を磨かねばならぬ。従って邪神の言動は立派に見えても必ずどこかに欠点のあるもので、

容易に見破り得るのであるが、人間はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。


例えば共産主義のごとき、これは自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする間違ったものであるが、

主義者はこれこそ大衆を救う唯一のものであり、絶対の真理だと信じてやっている。それだけにまた非常に強いところがある。


また社会主義のごときもそうで、これが本当のやり方で、これによって社会は救われると信じ切っている。

(註 「本当のやり方」は、「信じきっている」にかかっている。つまり、社会主義は本当のやり方ではないということを教祖は言っている。)

この主義によると、賢者も、智者も、愚者も、偉人も平等に取り扱おうとする。

そこに不公平がある。

大自然を見てもいっさいにおのずから階級がある。

偉人とか智者は社会からそれ相当の地位を与えられ優遇さるべきが本当であって、

それによって社会の秩序が保たれる。

また社会主義は人間の競争心をなくそうとするが、これは文化の進歩を阻害することになる。

競争心があるので進歩発展するのである。


次に資本主義もはなはだ間違っている。

これは、金力をもって大衆の幸福を蹂躙することになるからである。

どうしても全体が幸福を得るという全体幸福主義というような新しい思想が生まれなくてはならない。

そこまで文化が向上することを念願として進むべきである。」




明主様御垂示 「副守護神の巧妙な奴は善の仮面を被る」

信者の質問
「壮年期にある者が青年特有の道徳上の潔癖を冷笑する場面をよく身受けますが、この場合の壮年者の本霊及び副霊の状態を御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「これも副守護神で、副守の巧妙なのは善の仮面を被る。

共産主義などそうで、邪霊がそれを善と思わせるのである。

そういう人は愛が足りない。愛を通して物をみれば、憎むものも咎むるものもない。

善は利他的観念、他人をよくする。人良かれという事。

これは大乗も小乗もない。他人良かれの人が集まればよい。

自分を善く見、他人を悪く見る観念から争いが起る。

神は愛なり、力なりで、愛をもってみれば人を咎める事はない。

人を善とか悪とか決めるのは僣越である。人間が人間を見て分るものではない。

常識でみれば大体判るが、本当の事は判らぬ。これは神の領分である。

要は人間が人間を裁く事は出来ぬ。キリストは姦淫の罪を決めたが、これは自分自身がその気持があるからである。

これは作り話かもしれぬが、ある若い女が名僧の弟子になり、ある時イキナリ齧(かじ)りついて試そうとした。

「私が齧りついたらあなたはどんな気持か」と質ねると「何ともない」(枯木(こほく)寒厳(かんがん)之冬暖気なし)と答えた。

何の感じもしないというのは嘘で、実際は変な気持がした筈である。

姦淫は許すべからざるものであるから制えた・・・と言うのなら本当である。」




明主様御垂示 「邪神は善を標榜」 (昭和27年9年25日)

「正神の顔をしているのもありますから・・・。

邪神というものは決して悪を標榜していません。

みんな善です。それでみんな一杯食うのです。

それは大きい邪神ほど善です。

医学と同じです。医は仁術なりと言って・・・

ですから私の本に書いてあるでしょう。

悪を善と信じて行う悪が一番恐ろしいと。

ですから理屈をつけてもっともらしくしますが、非常に良いように見えて結局は悪なのです。

それが邪神のやり方です。」




明主様御垂示 「邪神は善を装う」 (昭和24年5月26日)

反対者による妨害も時期の問題

信者の質問
「本教の御用を務めたいので御座いますが、反対するものが多いので思うように出来ませんが、どうしてで御座いましょうか。

また、いかが致しましたならよろしいでしょうか。御教示願います。」


明主様御垂示
「反対者はあるに決ったものである。

これを知らずに反対する者と、邪神の家系で反対するのとある。

邪神は決して悪くみせない。

反対するのが良いよう、巧い理屈をつくる。

放置して時期を待つ事である。

先方と闘争せぬよう、避けるようにして、その程度で御用する。

大先生とて今以て反対者はある。これは五六七の世まである。

しかし、本当のものは良くなる。それを妨害したものは必ず滅びる。

であるから、ちっとも心を用いなくてよい。

ただ、時期の問題であるから、焦らず、気をもまず、気長に待っているのがよい。」




明主様御講話 「現在のほとんどの宗教は邪神が運営している」 (昭和26年10月15日)

「邪神は何億といるんです。

それで階級が色々ある。

神界・・・神様の方と大体同じですね。

そこで、信者一人一人を引き落とそうとして狙っている。

ですから信者の人でも、ちょっと考え違いしたり、迷ったり。

良いと思って間違ったりする。

大本教のお筆先に「今は悪神がそこら中入りており、一寸の隙もないぞよ。

いつなんどき悪神に儘にされるか分からないから、気をつけるが上にも気をつけた方が良いぞよ」とある。

みんな、信仰にある者は、抜身の中にあるような気持ちで、ちょっとの油断も出来ないと言う意味で、なかなかうまい事を書いている。

ところが神様にちゃんと手を合わせていると、御守護があり、憑けないで退いてしまう。

という訳だからそこでうまく行くんです。そう言う訳なんです。


それですから、色んな宗教・・・信仰もあるけれどもほとんど邪神がやっている。

だから神、仏を拝んでいながら随分間違った事をしますが、

つまり、その宗教の拝む的が邪神であったり、邪神でなくともその神様が邪神に自由にされるんです。

「お前、俺の言う事を聞かないとやっつけるぞ」と言う。

神様でも邪神にかなわないのはたくさんあります。

江ノ島の弁天様に行った時、お宮の中に、本尊は狐がいるんです。

弁天様はいやしない。

それから、武蔵の国魂(くにたま)神社と言うのがあります。官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)かです。

立派な神社ですが、それもやっぱり邪神に占領されていた。

そんなような訳で、神社を拝む場合にみんな神様と思って有難く拝むと、どうしてどうしてとんでもない。

そう言うのがたくさんあります。

そうでなければ、世の中こんなに悪くなっている訳がない。

神様に力がなく、邪神に負けているから、こんなに禍や戦争や病気がある。

と言うのは、こう言う訳なんです。」




明主様御講話 「今までの神様はたいてい天狗、狐、龍神」 (昭和28年6月27日)

「昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものができてないからです。

そこで神様の方も今までの神様はみんな枝の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。

だから今までの神様というと、たいてい天狗とか狐とか龍神が多いです。

ですから本当言うと、神社が百あると、本当の神様は十も難しいでしょう。

あとはみんな邪神系です。

邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞されているのです。

そういう神様もたくさんあります。

そこで本当にすがれるという神様はいくらもありません。

それでむしろボロボロになった神社で、あんまりかまわれないような神社に、よく本当の神様がおります。

伊豆の伊東に玖須美(くずみ)神社というのがありますが、

古いやつれている方が本当の神様で、一方の公園にある普請した方は枝の神様です。

それを見た時に、私はつくづく思いましたが、かえってよい神様の方がやつれているのです。

というのは約三千年前に日本系の神様が押し込められて、外国系の神様の方が来て、それが日本を統治したのです。

そのために今言ったような形になったのです。」




明主様御垂示 「邪神からもなかなか光は出る」 (昭和27年5月1日)

信者の質問
「深町の御神体を見ますと、明主様の御神体ほど強くはございませんが、光が出ております」

明主様御垂示
「いや、邪神でもなかなか光が出ますよ。」


信者の質問
「外させました方が・・・」

明主様御垂示
「そんなのは無論駄目ですよ。災いが起こりますよ。

はやり、悪にも力があるんですからね。

しかし、一時的で継続しないです。

それからもう一つは、悪の光で、本当の光ではないです。」


信者の質問
「明主様のは太陽のようでございますが、深町のは月か星にもいかないくらいでございます」

明主様御垂示
「そうでしょう。それは早く処分しなければならない。

外して、少しの間しまっておいて・・・。

そうですね、一年くらい経ったら焼いてしまえば良い。」


信者の質問
「御守も深町のに取替えておりましたが、結核末期が御浄霊一週間で良くなりました」

明主様御垂示
「つまり、こっちはダイヤモンドなら、先はガラス玉です。

イミテーションのあるものです。

ちょっと見るとダイヤの光に似てますよ。イミテーションはね。

だから、イミテーションは、何しろ水銀を加工してある鏡だからね。

それでやっぱり光だからね。そういった違いさです。」




明主様御垂示 「邪神にやられてもスースーいく」 (昭和26年11月1日)

信者の質問
「何事をいたしますときでも、神様を信仰して悪いことをするということはないと思いますが、スースーいくということは、良いと思ってやるのが・・・」

明主様御垂示
「いけない、スースーいっても駄目です。

なぜなら、邪神にやられてもスースーいくんです。

そこで叡智です。大乗ですね。

小乗でスースーいくのは危ないんです。

大乗というと・・・どうかと言うと、仮にこの人を助けると言う場合に、人間の力は限度があるから、両方助けることができない。

較べてみて、どっちが大きいか考える。

一番大きいことは世界人類を助けると言うことです。

それで良くなれば、決して間違いはない。

そこで、私は「世界人たれ」と言う論文を書いている。

だから、世界中の人間が一国の人間になれば、戦争はなくなってしまう。

今までは、それほどでなかったが、これからは全て世界的にならなければならない。」




明主様御垂示 「破戒者の浄霊でも効果があるのは惰力による」 (昭和23年9月18日)

信者の質問
「御光りをいただいておりながらお道に背いている人でも、治病の効果があるように見えることがありますのはどういうわけでしょうか。」


明主様御垂示
「これは一口で言えば惰力です。

一時はよくてもいずれ駄目になりますよ。

勿論、邪神が働いているんですね。」

(註 惰力・・・これまでの習慣や勢い)