邪神判別法について 1 (御論文)


明主様御教え 「霊線に就て」より (昭和23年9月5日発行)

神仏の正邪を判別する事が肝要

「(一部のみ引用) 霊線は人間ばかりではない。

神仏からも人間に通じさせ給うのである。

ただ人間と異なるところは、神仏からの霊線は光であり、人間の霊線は上魂の人で薄光ぐらいであり、

大抵は光のない灰白線のごときもので、悪人になる程黒色をおびるのである。

世間よく友人を選ぶ場合善人を望むが、それは善に交われば善となり、悪に交われば悪になるという訳で、全く霊線の反映によるからである。


神仏といえども正邪があり、正神からの霊線は光であるから、常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、

邪神からは光どころか一種の悪気を受ける事になるから、

思想は悪化し不幸な人間となるのである。

故に信仰する場合、神仏の正邪を判別する事が肝要である。

また正神といえども、神格の高下によって光の強弱がある。

そうして高位の神仏程その信徒に奇跡の多いのは、霊線の光が強いからである。」




明主様御教え 「宗教的治病に於る誤謬」 (昭和11年4月8日御執筆)

「世間往々、信仰によって病気治しをする場合、非常に誤られ易い重大事がある。

そうしてそれを誰もが気が付かないで、今日に至っている事である。

それは何であるかというと、信仰で治そうと思いつつ、実は自己の力に頼りつつあるその事である。

勿論、信仰で治そうとする以上、熱心であればある程、効果はあるはずであって、

その目標である神仏に祈願をこむるのであるが、

この場合、実は自分自身の精神療法をしている事が多いのである。

何となれば、真の意味における神仏は、人間が水を浴び、お百度を踏み、数時間経文を誦(よ)み拍子木等を敲(たた)き、

又は貧困に陥いるまで財産を提供させる等によって、

神徳仏果を享けるというごときは、実に謬れるのはなはだしいものである。

たとえていえば、神仏の御心は、親の心と同じようなものであり、信徒は子のようなものである。

子が親に向って、ある欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。

故に、その願求が正当であるならば、親は欣(よろこ)んで、否、吾子を喜ばせんが為、

難行苦行などさせずに、少しでも多く与えたいのが真情である。

随って、苦行を求める信仰は、その目標である神は、正神であるはずがないから、

こういう信仰は悉(ことごとく)、迷信であるといってよいのである。


しかし、子がいかに親の恩恵を享けようとしても、

その子が常にわがまま勝手な事をし、親を顧みずして、

ただ親から吾が欲しいものだけを与えて貰おうとしても駄目である。

矢張り平常から、親を思い、親に尽し、親の言う事を肯(き)き、

親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。

世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、

これらは実に親不孝者で、ついに親から見放されてしまうのは致し方ないのである。

しかし、こういう輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むという事になり、

自ら滅びゆくという哀れな結果になるものである。

故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、

又、出来るだけの報恩感謝をするのが本当である。

そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救う事である。

といって人間には、人間を救う力は到底有る訳がないから、自分が救われた神仏へ導くより外は無いのである。

そうして、人を導くその徳によって、それだけ自分も救われるのである。

又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。


次に病気である場合、それを治すのに病気が無いと思えとか、

又は思念するとか、難行苦行するとかいうのは、

皆自力で治すのであって、神仏の力徳では全然無いのである。

神仏の力徳が顕著であるならば、人間が苦しい思いをして有るものを無いと思うような錯覚的苦悩などする必要がない。

又、難行苦行なども、自己修養にはよいが、それらの信仰はみな、その神仏に力徳が欠けているので、

人間力を加えさして、さも神仏が御利益を与えたように思わせるのであって、一種の誤魔化しである。

世間、こういう信仰は余りにも多いのであるが、実はみなインチキである。

しかし、こういうインチキ的宗教は、来るべき神の清算に遇えば、忽(たちま)ち崩壊するのは必然であるから、

その神仏の教祖や役員信徒等は一時も早くその非を覚り、

本当の道に進まなければまことに危険である事を警告したいのである。」 (「新日本医術書」より)




明主様御教え 「神と悪魔」 (昭和18年10月23日発行)

「私は、神と悪魔について説いてみるが、これはまことに大胆極まるものと思う。

何となれば人間は人間であって神ではない。

又同様な意味によって人間は悪魔でもない。

従って人間は飽くまで神たる事も得ない代りに、悪魔たり得る事も出来ないのである。

ただ一時的神に等しき想念と行為は為し得るものであり、又、一時的悪魔になり得る事もあるであろう。

しかるに私は、霊的研究を為しつつあるうちに神の御意志とはいかなるものであるか、

又、悪魔の意志なるものもいかなるものであるかを想像し得らるる位の観念を得たと思うから、それをここに説こうとするのである。


しからば、神の意志とは何ぞや。

いうまでもなく絶対愛と慈悲そのものである。

しかしながら、私のいう神とは正しい神の事であって、世人は、神といえば全部が正しいものと想うようであるが、

実は等しく神といえども、正神もあれば邪神もあるのである。本居宣長(もとおりのりなが)の歌に、

八百万神はあれども心せよ 鳥なるもあり蟲なるもあり

とあるが、全くこれらを詠じたものであろう。

そうして今日までは、むしろ邪神の方が多く、正神は少なかったのである。

何となれば夜の世界であったからである。


ここで、今一つ重要な事がある。それは一神説と多神説であって、キリスト教のごときは一神説であり、日本神道はほとんど多神説である。

これはどちらにも理由はあるのであるが、日本だけでいえば多神説が正当である。

それは神は一神にして多神であるという説が本当であるからである。

そうして人間界に階級があるごとく、神にも階級がある、

その階級は私の研究によれば九十一あるのである。

昔から八百万の神といわれるが、全くその通りであろう。


ここで、参考の為、邪神なるものを解剖してみよう。

世間よく神様の罰があたるという言葉があるが、これは邪神系の神様である。

何となれば、罰という事は人を苦しめる事であるから、人間に対し、絶対愛より外にないのが正神であるから、そのような事はない訳である。


又 金を上げれば病気が治るというような神様も邪神である。

何となれば、金を上げれば病気を治すという事は一種の交換条件であって、

いわば神対人間の取引のようなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。

これらは正神は聴届け給う事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関わらず、無我愛に救わせ給うのである。

右のごとく、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、

反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、

そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。

ちょうど、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、

これらは神様を看板にして行う一種の詐偽的行為といっても差支えなかろう。

しかるに、こういう目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るというのが常態である。

故に、これを奇貨として布教師等が病人の懐を絞るという行為を見受けるが、

実に赦すべからざる罪悪で、世人はかような事に騙されぬよう大いに注意すべきであろう。

従って、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、いかに考えても、神仏の御加護に違いないと思われるような事があった場合、

その感謝の誠を捧げるという意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。


又、よくその宗教の信者が「その信仰を離れれば罰が当って不幸になる」とか はなはだしきは「一家死に絶える」などというのがあるが、

これらは、神が人間を脅迫する事であり、邪神である事はいうまでもない。


又、自己の願望を神に祈願する場合、正しからざる事、たとえていえば人を呪いあるいは自己の欲望の為社会を毒し、他人に迷惑をかけるような事等の願を聞届け、幾分でも成就させる神は邪神であって、

正神においては正しき願事以外は聴届け給う事はないのである。

以前私は友人から聞いたのであるが、盗賊の常習者の団体が講中を作って、ある有名な神社へ参拝するのであって、

そうする事によって、容易に捕まらない御利益があるというのである。

これらは実に怪しからぬ事で、神様に罪があるのか人間に罪があるのか分らないが、真実とは思われない位の話である。


この意味によって、正しい神仏か正しい宗教であるかという事は、何よりも常識によって判断するのが一番間違いないのである。

奇嬌なる言説や態度等は勿論、いささかなりとも国家社会の秩序に反するような点があれば、それは邪教と見なすべきである。


又、世人の気の付かないところに反国家的の邪教がある。

それは何であるかというと、朝から晩まで拍子木を叩いたり、又は数時間に渉って経文を読む事を可としている信仰である。

これらは無益に時間を空費する結果、国家の生産力に影響する事は勿論である。

右のごとき愚昧なる信仰は一部分であろうが、もし多数人が行おうとすれば、生産増強上由々しき大事であろう。

時局重大の折柄、当局においても一考されたいと思うのである。


そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。

ちょうど、子に対する親の愛の一層拡充されたものといえるのである。

故に、罰をあてるという事は正神には決してないのである。

しかしながら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷うか、又は不正の行為のあった場合、

当然の結果として災害を受けるというその事が、罰が当ったように見えるのである。


しかしこういう事もあるから注意すべきである。

それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。

それらは全く罰が当ったと同じ意味であるが、これらは脅迫信仰に多いので、

そういう事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するにおいて邪神は手を引くから、その後は何らの障りはないのである。

要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行を為すにおいて、天下恐るべきものはないのである。


次は、悪魔についてかいてみよう。

悪魔の心裡は一言にしていえば、神の御意志とすべてが相反するという事である。

即ち人に災厄を与え苦しめ、絶望せしめ、不幸のドン底に陥れ、遂には滅亡さしてしまうという、

実に人間として想像し得られない残虐性をもっているものである。

故に、一点の慈悲、一掬(いっきく)の涙さえないので、それが悪魔の本性であるからやむを得ないのである。

右のごとく人間を苦しめる事が、悪魔にとっては、実に愉快で、無上の喜びであるらしいのである。


右のごとく、絶対愛の神の御意志と、絶対悪の悪魔の意志とは両々相対して、常に葛藤を続けつつあるのが、今日までの人類社会のあるがままの姿である。

故に、これを大にしては国際的となり、社会的となり、小にしては個人的にもなるのである。

この意味において、個人の小さなる意志想念の世界においても、常に神と悪魔と対立し、闘争している事は、何人も日常体験しているところであろう。

そうして個人においては神の意志は良心であり、悪魔の意志は邪念であるから、良心が勝てば永遠の栄えとなり、邪念が勝てば身の破滅となる事はいうまでもない。

何となれば、神の御意志は栄えを好み給い、悪魔の意志は破滅を喜ぶからである。

右のごとく、私は神と悪魔について、私の想像をかいたのである。

次に、人間の心中における、神と悪魔即ち善と悪とについて、徹底的に説いてみよう。」(「明日の医術 第3編」より)




明主様御教え 「善と悪」 (昭和22年2月5日発行)

「私は神と悪魔について説こうと思うが、これは洵(まこと)に困難である。

何となれば人間は人間であって神でもなければ悪魔でもないからである。

しかしながら人間には自由がある。

ここでいう自由とは自由主義ではない。

しからば何か、それは人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。

そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものについての見解を述べてみよう。


まず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものである。

しかしながら私の言う神とは正しい神であって、

邪神ではないという事も変な訳であるが、

神には邪はなく正そのものが本質であるからである。

従ってここでいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に陥ったという訳である。

なぜ神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争している。

その場合八百万の神といえども最高級の神から最下級の神に到るまでの階級は百八十一とされている。

従って二流以下の神は往々邪神に負ける。

すなわちある期間邪神の虜になるのである。

本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なるもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破している。

そうして今日までの夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫され勝であった。

世の乱れはそれがためである。

そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは全く真理である。

善悪とは相対的なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。

従って善悪は時処位に応じて決めらるべきで、

たとえば今日の時代に善であったものが、次の時代には悪になる場合もあり、

個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争のごとく集団的に多勢を殺す場合、

罪人どころか殊勲者として賞讃さるるのである。

しかしながら個人にせよ、国家的にせよ悪は一時栄えても結局は破滅するが、

善においては一時的には苦しむが、時が来れば必ず栄える。

しかも死後の世界の実相を知るにおいて、善は永遠の幸福者たり得るのである。

そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易に知り得る方法がある。

それは見えざるものを信ずるか否かである。

すなわち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者は悪魔にまで堕落する危険があるのである。


そもそも人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、すなわち神仏が見て御座(ござ)るーという観念によるからで、

この世界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければいかなる悪事をしても構わないという観念になる。

故にこの思想を推進(すす)めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。

従って唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。

もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは衷心からの善人ではなく、

信用を保たんがための打算的で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的善者でしかないという事になる。

読者よ、こういう偽装善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。

この意味において見えざるものを信ずる人こそ真の善人でありと断定して差支えないのである。


ここに注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。

それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動のおもしろからざるものがある。

愛が無く利他的観念が乏しかったり、または虚偽、不正を平気で行うという人があるが、

これらは信仰の目標である神仏が邪であるからで、それについてこういう話がある。

ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を査(しら)べた。

ところが胴巻に百円の札束があったので詰問した所、この金は○○寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。

これなどは邪宗信者の典型であろう。

従ってその様な信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。

故に信仰に熱心であればある穏健康を増し、家庭は円満となり、家は富み栄え、他人から敬愛されるというようになるこそ、

正しい信仰の結果で、もちろんその神は高級なる正神正仏である。


またこういう事もある。全くの至誠をもって神に仕え、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも

病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人があるが、

それに対し道理をつけて善に解釈する。

すなわち神の試練または罪障消滅なる言葉である。

また難病の場合、宗教家に相談すると、いわく人間は須(すべから)く死生に超越せよなどというのである。

しかるに私は思う。

右の両方共正神であるが、実は二流以下の神で絶対の力がないからである。

しからば今日まですべての宗教、すべての神はなぜ絶対力を発揮し得なかったかという点であるが、これには理由がある。

すなわち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御教え 「正しき信仰」より (昭和23年9月5日発行)

「(一部のみ引用) しかし、こういう事も注意しなくてはならない。

それは相当の御利益や奇跡の顕れる場合である。

正しい神仏でも人間と同様上中下あり、力の差別がある。

二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うから、御利益や奇跡もある程度顕れるので、大抵の人は有難い神仏と思い込んでしまう。

ところが長い間には、二流以下の神仏では往々邪神に負ける事があるから、

種々の禍いとなって表れ、苦境に陥る場合があるが、

一度信じた以上何等かの理屈をつけ、神仏の力の不足など発見できないばかりか、

かえって神仏のお試しまたは罪穢の払拭と解するのである。


信仰者にして病気災難等の禍いがあり一時は苦しむが、それが済んだ後は、

その禍い以前よりも良い状態になるのが上位の神仏の証拠である。

すなわち、病気災難が済んだ後は、罪穢がそれだけ軽減する結果霊的に向上したからである。

それに引き換え、禍いが非常に深刻であったり、長期間であったり、絶望状態に陥ったりするのは、

その神仏の力が不足のため邪神に敗北したからである。

世間よくあらゆる犠牲を払い、熱烈なる信仰を捧げて祈願するに関わらず、思うような御利益のないのは、

その人の願い事が神仏の力に余るからで、神仏の方で御利益を与えたくも与えられ得ないという訳である。

このような場合、これ程一生懸命にお願いしてもお聞き届けがないのは、

自分はもはや神仏に見放されたのではないかと悲観し、

この世に神も仏もあるものかと思い信仰を捨てたり、自暴自棄に陥ったりして、

ますます悲運に陥るという例はよくみるところである。

こういう信仰に限って、断食をしたり、お百度詣りをしたり、茶断ち塩断ち等をするが、これらは甚だ間違っている。

個人的にどんな難行苦行を行なったとしても、それが社会人類にいささかの稗益するところがなければ、徒労に過ぎないわけで、

こういう方法を喜ぶ神仏があるとすれば、もちろん二流以下の神仏かまたは狐狸天狗のたぐいである。(中略)


そうして、狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、正邪もあるが、

頭目になると驚くべき力を発揮し、大きな御利益をくれる事もあるから、

信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利益で、

ついには御利益と禍いとが交互にくるというような事になり、永遠の栄は得られないのである。

以上説くところによって、信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、その識別に誤りなきよう苦言を呈するのである。」




明主様御教え 「神は正なり」 (昭和25年3月18日発行)

「今更神は正なりなどというのは可笑(おか)しな話であるが、

一般人はもちろん宗教に携わる教師も一般信者もとかく忘れ勝ちであるからここにかくのである、

というのは本教などは特に正義と善行に力を入れているにかかわらず、

稀には本道から逸脱し、あらぬ方面へ彷(さまよ)うものもない事はないからである、

そのような場合必ず神からお気付を頂くが、それを無視する場合、神の大鉄槌を蒙るのである。

まず普通信仰者の最初の中は至極真面目に御神徳や奇蹟に感激し、熱心な信仰を続けつつあるのであるが、

正しい信仰である以上おかげは著るしく自然多数の人から尊敬される事になり、生活境遇も大に恵まれるので、

本来なればいよいよ神恩に感謝し、一層身を慎しみ報恩に尽くすべきにかかわらず、

凡人の悲しさ、知らず識らず恩になれ、慢心が生じ、心に隙が出来るのである、

ところが邪神はこの隙を常に狙いつめているので、得たり賢しとその隙に入り込み、

その人を占領し肉体を自由自在に操るようになるので、実に危ういかなというべきである、

しかも覇気あり役に立つ人ほど邪神は狙うのである、

しかし本当に正しい信仰者でありとしたら邪神は手が出ないので諦めてしまうから安全であるが、

中には引っ掛る人もあるのでこの点仲々むずかしいのである。


しかし、これも標準に照らしてみればよく判る、つまり自己愛の有無である、

神様のため、人類のためのみを第一義とし自己の利害など考えずまっしぐらに進めばいいので、

こういう人こそ邪神はどうする事も出来ないのである、

ところが少しうまくゆくと自惚が出る、自分が偉いと思う、この時が危ないのである、

ついに野心をもつようになる、それがため自己を偉くみせようとし、勢力を得ようとする、実に恐ろしい事である、

一度こうなると、邪神は益々魂深く入り込みついに占有してしまう、

しかも大きい邪神になると相当の霊力を発揮する、

もちろん一時的霊力ではあるが、病気を治したり奇蹟なども表わすから、

慢心はいよいよ増長し、ついには何々神の身魂とさえ思わせられ、生神様となってしまうのである、

こういう生神は世間に沢山ある新宗教の教祖などはほとんどこの類(たぐい)である、

しかし本当の神様ではないから、ある時期までで没落してしまうのである、

ここ注意すべきは、そういう宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を厳正なる眼をもってみればよく判る、

その著しい点は、愛の薄い事と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、

自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループまたは信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅かし、

離反を喰止めようとするいわゆる脅迫信仰
である、

こういう点がいささかでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。


私が常にいう通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、

信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である、

ところが反対に秋霜烈日のごとき酷しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である、

特に注意すべきは、これは人に言ってはいけないなどというような、

いささかでも秘密があれば邪信と思っていい、正しい信仰は何ら秘密がなく明朗そのものである。」




明主様御教え 「善悪の戦い」より (昭和25年3月18日発行)

メシヤ教刊行物を見ない者は邪神憑依者

「(一部のみ引用) ここで、最も面白い事がある、それは本教刊行の印刷物である、

何しろ全部善い記事ばかりで非難の点などいささかもないから、

もし読まれると邪神の計画は頓挫してしまう以上極力見せないようにするばかりか、

邪神は非常にこれを恐れるのである、それは読むと苦しいためもある、

これは邪神憑依者が改心してからよく自白するところである、

ゆえに邪神憑依者か否かのメンタルテストにはこれが一番可い、

それは一家庭の眼に触れる所へ置いておくと、手にとって読む者は善い人間で、

見ない者は邪神憑依者と断定して誤りはないのである。


右の理によって、本教出版物をみる限り、邪霊は萎縮し、妨害心は消えるが、

みる事が出来ない間は、相変らず悪魔の僕(しもべ)となって、神に反抗するのである、

この事によってみても本教がいかに威力あるかが判るであろう。」




明主様御教え 「宗教即奇蹟」 (昭和26年4月11日発行)

「昔から、宗教に奇蹟は付物とされているが、全くその通りである。

この点自画自讃ではないが、我救世教程奇蹟の多い宗教は、恐らく古住今来例があるまい。

しからば、なぜ本教がそれ程奇蹟が多いかという事を、簡単にかいてみるが、それは本教の主宰神である神様が、最高最尊の御神格を有せられるからである。

世間では、神様とさえ言えば、それほど差別はないものとして、同一に見て拝む傾向がある。

ところが単に神様と言っても、上中下の階級があって、最高の神様から段々下って、産土神から天狗、龍神、稲荷等までもあるのだから、この点をよく認識しなければならないのである。

だから神様の階級について詳しくかきたいが、そうすると他の宗教の神様を暴露する事になり、どうも面白くないから、遠慮してかかないのである。

前述のごとく、本教主宰神の御神格がいかに高いかを、一つの例を挙げてかいてみよう。


本教浄霊の、いかに素晴しいかは、今更言う必要がないくらいだが、

日を経るに従い、段々世間に知れるにつれ、それが発展の一大要素となっている事ももちろんである。

そうしてまたこの浄霊による病気治しについて、誰でも不思議に思う事は、疑っても、物は試しだと思っても、

こんな事で治るもんかと思っても、思わなくても、同じようによく治る。

今までの信仰的病気治しは、ほとんど初めから信ぜよ、疑ってはならない、というのが通例であったから、

それに馴れ切っている人の頭では、前述のごとく不思議に思うのも無理はないのである。

よってこれはどういう訳かをかいてみよう。

まず、何もない内から信ぜよというのは実は己れを偽る事である。

何ら実証も見ない内から、信ずるなどは出来ない相談である、としたらこれは間違っているのは言うまでもない。

しかしながら言われた通り、一生懸命信じようと努めるのは、疑うよりも幾分の効果はあるにはあるが、それは神が下されたものではない、全く自力でしかない。

しからば、なぜこの間違った事が、当然のように、今まで思われて来たかというと、つまりその神様の力の足りない事を知らなかったからで、その足りない分を人力で補うという訳である。

この意味において本教のごとく、疑っても治るという事は、他力の力が大きいから、自力を加える必要がないからである。

従って治病力が足りないという事は、その神仏の位が低いためである。


また、こういう事もよくある、それは思うように御利益がないと、その教師なり先輩なりが決まって言う事には、あなたの信仰がまだ足りないからと言い訳をする。

ちょうど御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。

本来 神様は大慈大悲であるから、御願いしただけでも、必ず御利益は下さるものである以上、

人間が一生懸命になり、度を越すと反って、本当の神様ならお嫌いになる。

特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、お百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。

何となれば、神様の大愛は、人間の苦しみを厭(いと)わせ給うからである。

考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか、

ゆえに苦行によってたとえ御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。

何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。

ところが、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。

要するに、御利益を得たいため、無理に信じようとするのは、低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、これが高位の神様の証拠である。」