宗教詐欺について


明主様御教え 「詐欺時代」 (昭和28年10月21日発行)

「これも可笑(おか)しな題だが、実は本当の事であって、ただ一般が気が付かないだけの話である。

それは何かというと今日の社会は真実そのものは至って少く、大部分といっていい程大なり小なり詐欺的手段が公然と行われている。

それを今かいてみるが、例により医薬の面でまず薬である。

毎日の新聞の広告欄を見ても分る通り、薬の広告が大半を占めている。

このような莫大な広告料を払ってまで割に合うのだから、いかに売れるかが分る。

これでみても今の人間が服む薬の量は大変なもので少し有名な売薬は、五段抜き二つ割大の広告を毎日のように出しているが、

この広告を吾々の見地から検討してみると、ほとんど詐欺ならざるはないと言っていいくらいである。


例えばこの薬をのんだら何病に効くとか、何病の発病が予防出来るとか、血が増え肉が増えるとかサモ素晴しい効果がありそうに思われるが、

ことごとくは売らんがための欺瞞(ぎまん)手段である。

というのは第一当局にしても薬の効く効かないは問題ではない。

ただ害にさえならなければ許可する方針だというのであるから、売薬業者もその点充分承知しているはずであるから怪(け)しからん話だ。

もっとも昔から売薬の効能といって誇大が当り前のようになっているのは誰も知っているであろう。

これらも公平に見て一種の詐欺的行為といえよう。

しかも人の弱身につけ込んで金儲けに利用するのだから、その罪 赦(ゆる)し難しであろう。


次は医学であるがこれも大同小異で、ただ世人が気がつかないだけの事である。

例えば貴方(あなた)の病気は一週間通えば治るとか、この注射を何本射てば快くなるとか、

この手術なら、この薬を続ければなどといって患者に安心させるが、

恐らく言葉通りに治った例(ため)しは極く稀(まれ)であって、

大部分は見込違いであるのは医師もよく知っているはずで、

これをパーセンテージで表わしたら、意外な結果であろう。

してみればこれらも善意の詐欺といえない事はあるまい。


ゆえに「貴方の病気は私には分らないから確かな事は言えない、

服み薬でも注射でも何々療法でも、治るとは断言出来ない、

入院しても確かに治るとは請合えない」と言うのが本当であろうが、

それでは患者は来なくなり、たちまち飯の食い上げとなるから止むを得ないとは思うが、

患者こそいい面の皮であり、医師の立場もサゾ辛いだろうと御察しする。

また手術にしても一回で治らず、二回、三回というように回を重ねても治らず、

酷(ひど)いのになると一週間の入院で治ると請合っても治らず、

二週間、三週間、ついには半年、一年となっても治らない例もよく聞くのである。

これらに至っては多額の入院料を払いつつ、長い間散々苦しんだ揚句(あげく)、病気の方は入院当時よりも悪化し、

結局退院か死かのどちらかというような人も随分多いようで、

結果からいってヤハリ詐欺になり患者は被害者になる訳である。

そのような事が何ら怪しまれず公々然と行われている今日であるから、実に恐ろしい世の中と言わざるを得ない。

ところがこういう場合医師は巧く逃げる。

いわく貴方は異常体質だ、手後れだったのだ、非常な悪質な病気だ、万人に一人しかない病だなどといって済んでしまう。

中には良心的な医師もあって、自分の見込違いだったという事もないではないが、これらは極く稀である。


次は政治面であるが、政府の公約も、議員候補者の選挙演説なども、

国民や選挙民に誓約した言葉などその場限りで忘れてしまい、何ら責任を負わないのが通例となっている。

また政党なども口では国家本位などというが、実は我党本位であって、是々非々(ぜぜひひ)も御都合次第で、いつかは煙になる事が多い。

また商工業者の見本と現品の違う事など当然のようになっており、手形の不渡の多い事などかけば限りがない程で、

ただ法に触れるか触れないかの際(きわ)どい詐欺は当然のように社会一般に行われている。

というように今日の世の中で正直明朗はほとんど見られない。


今一つの驚くべき事は宗教にも詐術があると聞いたら誰しも意外に思うであろう。

それは何かというと、例えば貴方の病気を治すには、幾ら幾ら金を献げなさいという宗教がある。

しかしその通りに上げても治らず、死ぬ事もあるから、これらは神の名を利用した立派な詐欺であろう。

そうかと思うと御利益のない内から信じなくては治らないというかと思えば、御利益のないのは信仰が足りないからなどと逃げるのも、厳密にいえば詐欺でないと誰か言い得よう。


こうみてくると今日の世の中は、真実は絶無とは言えないまでも、まことに寥々(りょうりょう)たる有様でほとんど嘘つき瞞(だま)し合いが普通の事のようになっている。

全く闇の世の中である。

この闇の世の中を明るい世の中に切替えるのが我メシヤ教の使命であるから、世間でもお光様というのであろう。」




明主様御教え 「神と悪魔」より (昭和18年10月23日発行)

「(一部のみ引用) 又 金を上げれば病気が治るというような神様も邪神である。

何となれば、金を上げれば病気を治すという事は一種の交換条件であって、

いわば神対人間の取引のようなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。

これらは正神は聴届け給う事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関わらず、無我愛に救わせ給うのである。

右のごとく、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、

反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、

そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。

ちょうど、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、

これらは神様を看板にして行う一種の詐偽的行為
といっても差支えなかろう。

しかるに、こういう目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るというのが常態である。

故に、これを奇貨として布教師等が病人の懐を絞るという行為を見受けるが、

実に赦すべからざる罪悪で、世人はかような事に騙されぬよう大いに注意すべきであろう。

従って、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、いかに考えても、神仏の御加護に違いないと思われるような事があった場合、

その感謝の誠を捧げるという意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。」




明主様御教え 「信仰の合理性と再浄化」より (昭和28年5月27日発行)

「(一部のみ引用) そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。

分相応の最大限度であればいいのである。

神様は何もかも御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、

その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。

そのようにすべてが理屈に叶えば、まず再浄化は起らないはずで、たとえ起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。


話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、

これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、

これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから、御利益のあろうはずはない。

全く取次先生の考えが誤っているからである。


そこへゆくと我 メシヤ教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるにかかわらず、

それを怠るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。

それでも気がつかないから命まで召上げられるので、どこまでも不合理は赦されないのである。

今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせるためであるから、

それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、

それを裏切るとしたらせっかくの救いを自分から拒否する訳である。」




明主様御教え 「光明如来」 (昭和10年3月4日発行)

「観音様は別名光明如来と申され、光に依って一切を救われるのであります。

今日までの宗教は罪障消滅するには非常な努力をしなければならないのでありまして、

それでもなかなか一生懸っても消滅は六ケ敷(むずかし)かったんでありますが、

それが今度は観音様に依って至極簡単に罪障消滅が出来るんであります。

なぜかと言えばそれは大きな光であって、光で出来るんであります。

罪障なるものは大きな光に遇えば速かに消えてゆくんであります。


ところが、今日までのあらゆる宗教の光は、小さいのであって、

ちょうど電灯のようなもので各宗の御本尊は電灯会社のようなもので

各信者へ電気の光を供給していたのであります。

ところがその電気の光を戴くには種々な努力と費用が要ります。

まず大仕掛な水力又は火力工事を起して動力を造り、それから種々の機械や人力に依って電気を起し、蜘蛛の巣のように電線を引っ張り、種々な工夫をして光を諸所方々へ間配るのであります。

ちょうど今までの信仰に依って神仏の御利益を戴くのはこんな具合なのであります。

それでも人間はこれ位結構なものは無いと信じ切っておったんであります。

一軒の家の中ではとても明るい大した光の様に思っていても、一歩外へ出れば真闇暗であります。

それで球が壊れれば付け替えねばならず、時々故障が出来たり、停電があったり、大地震でも出来ればいつ真闇になるか判らない。

真に安心は出来ないのでありました。


しかし今まではそれ以上の光が無いから人間はそれを唯一の頼りとし有難く思って来たんであります。

ところが今度は太陽の光が出るんであります。

太陽が出ればいかなる光も消されて、世界中が一度に明るくなるんであります。

太陽の光は月光の六十倍もあって別段何らの手数を要しないで光に浴する事が出来る、これは誰でも知って居るので有ります。

ただしかしこの太陽が出たのを知った時、素直に戸を開け放てばこの大きな光を無雑作に受け入れらるるのであります。

しかし人類は今まで何千年来、眼に見える太陽の光には毎日浴しておりますが霊界の太陽の光に遇った事が無い。

そこでこれから、戸を閉め切って電気の光以外に光というものはないと諦めていた人々に、

さあいよいよ黎明が来たぞ、みんな速く戸を開けろと言うて世界中へ呶鳴(どな)って知らせる。

それが観音会の運動になるんであります。

でありますから、この声を聞いて素直に、戸を開けた人が一番早く光に浴して救われるので、

躊躇(ちゅうちょ)している人は後廻しになるから詰らないのであります。

手数や費用も要らなくてこんな大きな光に遇えるという事を識って人々は非常に驚くのであります。


それで申し辛(づら)い事でありますが、今までの宗教の信者が種々苦心惨憺して罪障を除ろうとしたが中々除れなかった。

その為 宗教家の方では種々巧い事をこしらえて逃げ口上にしたんで有ります。

例えば病気や災難が有るとそれは信仰が間違っているとか、信仰が足らないからだ等と言い、

あるいはそういう事が起って来るのは祖先以来溜っていた罪障が出て来たんだと言い、

又 病気で死ぬ人があるとか又非常な打撃を与えられる様な事があれば、

死んだ人が罪を持って行ってくれたんで大変結構な事だと言い、

大難を小難に祭り替えて貰ったんだ等と言うのであります。

そういう様に病気災難に対し信仰が間違ってるとか、足りないとか言うこの言葉は事実そういう事も無いと言えませんが、

巧妙な抜道に使う場合も随分有るのであります。

信仰が足りないと言うならば一体どこまでやったら足りるか標準が判らない。

金銭の御用もどの位しなければならないのか、その見当も皆無判らない。

それが為始終戦々兢々として一種の不安があり、信者は喜びと不安と相半するという様な状態であって、

見方に依っては気の毒とも言えるのであります。

これについてこういう実例があります。


私の知人で○○教の布教師をしていて病気になりました。

その布教師の上の先生と云う人が、毎日やって来て、貴方には非常な罪があるから懺悔(ざんげ)をしなければいけない。

懺悔をすれば必ず治るというのであります。

それで御本人は自分の悪い事を考え出しては懺悔をしたが中々良くならぬ。

すると先生は、未だ罪障が有るに違いない。

悪い事が残っているに違いないからよく思い出して懺悔をしなさいと言う。

しかしその人はもう ありたけの懺悔をしたんで無いと思うが、

それでも五十年も生きていたんだから、長い間のことゆえ未だ忘れている事もあろうと細い事まで考えてみたがもういくら考えても無い。

それでも病気は治らぬ。

すると先生は、今度は奥さんの方にあるに違いないからと奥さんに向って、すっかり懺悔をする様に言ったのであります。

そこで奥さんもいろいろ悪いと思う事をすっかりざんげをしたが病気は治らず、未だある未だあるの一点張りで、

そうしているうちに到頭亡くなってしまったんであります。


私はこの実例をみた時、実に馬鹿々々しいと思うより恐ろしいとさえ思ったんであります。

人類はこういう様な信仰でいつまでも苦しまねばならぬと言う事は実に悲惨なものだ。

黙ってみてはおれぬと思ったのであります。

こんな訳ですから、少し学問のある人や智識階級の側では、信仰を馬鹿にし神仏なんて有るものか、

そんなものは一切迷信だと片付けて振り向かないのは一面無理のない事であると思います。


又 信仰者の方ではそれを観て、少し学問があったり智識があると神仏の事は判らないと憤慨する、

これらを大きな眼を以て観ると、一方には迷信の集団があって多数の人が苦しんでいるし、

一方には神仏に無関心な唯物主義の集団があって、

心中不安を感じながらともかくも満足らしく生きているんであります。


こういう様な現在の状態、これを称して暗黒無明の世というのでありますが、全くそれに違いないと思うのであります。

しかるにどちらも実に気の毒な人達でこの気の毒な二種の人達に属しないで、

別にただ空々寂々で生きている人達もあります。

ところが今度はこういう人達残らずを、一様に大きな救いの力に救われると云う時機が来たのであります。」




明主様御講話 「財産詐取の親玉は天理教」 (昭和28年9月15日)

「さっきの「超愚」の中でもう一つ、気がつかないことでこういうことがあります。

新聞などを見ると売薬の広告が目につきますが、これは昔と違ってよほど書き方がうまくなりました。

昔は「なんでも治る」というようなことを書きましたが、今は「特種な病気に」というように書いてあります。

ところがその薬は一つとして本当に治るものはありません。これは売薬に限らず、信者は知ってますが、どんなに立派な医者が、高価な薬とか進歩した世界で有名な薬とか言ったところで、結局病気は治らないのです。

もしそれで治れば、メシヤ教の信者は一人もできません。

治らないからこうして信者が増えるのです。

そうしてみると売薬の広告は全部詐欺です。

ですから高い薬を買って治らなかったり悪くしている人は詐欺にかかった被害者です。

あなた方はみんなそうです。薬の詐欺にかかったのです。

しかしこれにはだれも気がつかないでしょう。

信者の人でも、そう言われなければ気がつかないでしょう。

そうしてみると、ああしてデカデカと詐欺行為を許しているというのは、これは当局も知らないからでしょうが、当局も詐欺の被害者なのです。

そう考えてみると、これも「超馬鹿」の中に入ります。

私は前に 「たいていな宗教は詐欺だ」ということを言ったことがあります。

宗教の詐欺というのは珍しい言い方なので、初めて聞いた人はびっくりします。

というのは、病気の時にどうしても治らない、お医者でも治らないというので、信仰を求めるというと、まずどんな宗教でも「信心すれば治ります」と言うのです。

よくこういうことがあります。すなわち随分一生懸命に信心しても良くならないといってこぼすのです。

そうしてその宗教の先生に言うと「それはあなたの信仰が足りないのだ、もっと信仰をしなければいけない」と言うのです。

この「信仰が足りない」ということは、結局金の上げ方が足りないということなのです。

それは信者をつくるという手もありますが、それはそうとうの先生格にならなければ、なかなかそうはゆかないです。

メシヤ教では、じきに信者をつくれますが、ほかの宗教ではなかなかそうはゆきません。


だから手っ取り早いのは、なんといっても金を上げることです。この方の親玉は天理教です。

その金の上げ方のひどいのになると、前によくこういうことがありました。

「あなたはいくらいくら金を上げなさい。そうすればきっと治る」と言うので、その人はひどく工面して、借金したり質に入れたりして、先生の言う額を上げたのです。

そうしても治るわけがないから結局死んでしまったのですが、そこでどうせ死んでしまうのなら金を上げなければよかった、と言うのです。

「それは神様の詐欺にかかったのだ」と言ったら、「神様が詐欺をしますか」と言うから、「神様は詐欺はしないが、神様を取り次ぐ者が詐欺をするのだ」と言ったら「へえ、恐ろしいものですね」と言ってました。

これは売薬の詐欺よりもっと上のものでしょう。

ですから世の中には大中小さまざまの詐欺があるのです。それを見分けるだけの目がないわけです。

だからとにかく今の世の中というのは、ほとんど詐欺の世の中と言ってもよいのです。


話は違いますが、道具屋はいろんな物を持って始終来ますが、私は道具屋に「道具屋というのは、うまく法律にかからない詐欺だ」と言っているのです。

というのは、持ってくる物はほとんど贋物なのです。十品持ってきて、本当の物は一品くらいなものでしょう。あとは怪しげな物です。

品物だけが詐欺ならまだよいが、値段が詐欺です。

仮に品物を百万円と言って持ってくるので、こっちは驚いて突き返すと、早いので数日、遅いので数カ月後に、他の道具屋がそれを持ってきて、百万円と言った物を二十万円とか言いますが、それでも買わないと、今度はまた他の道具屋が持ってきて、八万円とか言ってきます。

そうすると最初の百万円というのは、たいへんな詐欺です。ーそれからこういうことを聞きます。


そうとうに力のある人が美術館を造ろうとしているのですが、それができないのです。

というのは、本物ばかりでなければ公衆の観覧物とはできないのです。

この間も小林一三氏が来て、四時間ここにいて非常に喜んでいました。

あの人はよそでは、たいてい五分か十分しかいないそうで、こういうことは例がないと、随行の人が言ってました。

それで美術館以外の物も見せてやりましたが、よくもこんなに集まった、と言ってました。

あの人は古くから買ってますから、数はあるので、量においては私なども負けますー。

道具屋が知らないで持ってくるのならよいですが、それを知っていて持ってくるのです。

長年来ている者が、いっぱい食わせようと思って持ってくるのですから、実に恐ろしいものです。


今の売薬の詐欺は命にかかわることですから悪質ですが、詐欺の点においてはポチポチです。

お医者さんはもっとはっきりした詐欺をしてます。

「あなたは入院すれば治る」「この薬をのめば治る」と言っていて、そのとおりになったことはおそらくありません。

これはお蔭話にも始終あります。それは医者は長年経験しているのだから、治るか治らないかは、はっきり分かるに違いないのですが、そうしてみると「試しにやってみよう」「うまくゆけば治るだろう」というわけですから、これは立派な詐欺です。

ですから今の世の中の人で、少し懐の温かい人はほとんど詐欺の被害者です。

それがはっきり分かるのはメシヤ教信者だけです。

ほとんどの人は詐欺を見破ることができないで、詐欺のために命までにかかわっている人がたくさんあります。

そこで神様はそういうことをはっきり暴露するのです。

その詐欺の本元は邪神ですが、霊界では邪神はメシヤ教というのが随分怖いのです。

しかしだんだん邪神の方が力が弱ってきつつありますから、別にたいして心配はありませんが、話をすればそういうことになるわけです。」




明主様御講話 「宗教の詐欺が大きいし恐ろしい」 (昭和28年9月16日)

「もう一つおもしろい話があります。これは今に書きますが、詐欺の時代ということです。

というのは、今の人間はほとんど詐欺の被害者です。

それが詐欺ということが分かればよいが、それに気がつかないのです。

一番大きな詐欺は薬です。これは新聞広告にもたくさん出てますが、「この薬をのめば病気は良くなる」 と言ってます。

「治る」とは書きませんが、それは本当は治らないからです。

そこで「良くなる」とか「好転する」とか書いてます。

それはそうでしょう。薬をのんだ時は一時気持ちが良くなるからそう書くのです。

それで「治る」とは書かないが、「治りそうだ」ということを書いてます。

「この病気に対して、これほどよい薬はない」と言ってますが、

本当は治らないのですから、治らないのに治るということを書いているとしたら、立派な詐欺です。

ですからみんなは詐欺の被害者なのです。


それから医者が「この病気はとても重いから、入院して手術しなさい」と言う。

「それでは先生、入院したら治りますか」と言うと、

「それはやってみなければ分からない。しかし入院すれば、入院しないよりはよい」というように言います。

それがおかしいのです。

自分に見込みがなくて、ありそうに思わせるということは立派な詐欺です。

お蔭話にも始終ありますが、「入院しろ」と言うから入院したところが、かえって悪くなって、

入院したときにはまだ起きれたのが、とうとう寝たきりになったというのがあります。

これは恐ろしい詐欺です。

世の中にあるふつうの詐欺は金を損するくらいですが、これは命をやられるのですから詐欺取財でなく詐欺殺人です。

それから「あなたは一週間通いなさい、まあ治るでしょう」とか、

「この注射を一カ月続ければまあ治りますよ」 と言うが、

それを続けて治ったことはないのです。これも立派な詐欺です。


ところがまた、宗教の詐欺が大きいし恐ろしいのです。

「信仰しなさい。あなたの病気は信仰しだいで治ります」と言うが、

この「信仰しだい」というのが臭いのです。

それで「先生どうも良くなりません」と言うと、「それはあなたの信仰が足りないのです」と言うのです。

この「足りない」ということが遁辞(とんじ)で、腹の中からそう思っているのではないのです。

最初にああ言った手前ちょっとまずいから、そういった詭弁(きべん)を使わなければならないのです。

メシヤ教の方は信仰が足りても足りなくても治りますが、ふつう世間の宗教での一番の逃げが「信仰が足りない」です。

このために被害を受けているのがたいへんなものです。

ところが前にも話したことがありますがーある大きな宗教でのことですーそこの妻君から聞いたのですが、

親父が病気で「二百円寄付すれば治る」と言うので、一生懸命に金をこしらえて二百円寄付したのです。

ところがそれから間もなく死んだのです。

「どうしたものでしょう、掛け合おうと思ってますが」と言うから、

「掛け合いなさい、しかしおそらく返さないでしょう」と言ったのです。

それで「信仰には懲り懲りした」と言ってました。

「それでは神様が詐欺をするようなものです。

しかし神様はそんなことはしないが、神様を看板にしてその教師が一つの詐欺をしたのだ。

これは相手が信仰だから、まさか裁判に訴えるわけにゆかないし、

そういう法律もないのだから、しようがないですね」と言ったのですが、そういうことがあるのです。

そうすると宗教を看板にして詐欺をするわけです。

この被害がまた大きいのです。


大体一番大きな害というのは、それがために宗教の信用を傷つけることで、これは大きいのです。

これもお蔭話によくありますが、メシヤ教の信仰を奨められて、今までいろんな宗教で懲り懲りしたというようなことを書いてあります。

そういうようで、つまりこっちが大いに宣伝したり拡張する場合に、この宗教の妨害というものがたいへんです。

宗教というものは駄目だ、おまけに新宗教というのはみんなインチキだ、と思わせるようなことです。

それは言論機関などもそう言います。

それからまた自分が信仰してみて、御利益があると言っていながら、ないということもありますから、

メシヤ教をあんなに奨められたが、やっぱりそんなものだろうと思う、その妨害というのがたいへんなものです。

一番変な新宗教による害の方が一番大きいくらいなものでしょう。

そういったいろいろな妨害を排除して、そうしてだんだん発展してゆくということは、神様のお力が強いからです。なかなかたいへんなものです。

それについてちょっと書いてみました。

(御論文「本教発展の主因」)」




明主様御講話 「宗教的詐欺取財、詐欺殺人」 (昭和28年9月17日)

「それからもう一つ気がつかないことに、これは今に書きますが「詐欺時代」というのです。

というのは、今の世の中はほとんど詐欺ばかりなのです。

そう言うとちょっとわけが分からないでしょうが、一番の詐欺は売薬です。

新聞広告にさかんに出てますが、読んでみると、「治る」とは書いてありません。

しかしうまく書いてます。「これはその病気に非常に適合している」とか、あるいは「のむと快くなる」とか、

「治りを促進する」とか、「とにかく病気が緩和される」とか、そういうことは書いてありますが、「治る」とは書いてありません。

ところがそれで治るかのように思わせようとしているのです。

ところが実際において治るわけがないのです。

薬屋も実際において治らないということは知っているのです。

それで売薬法では、害にならなければよいということが条件になっているのです。

効くということは、つまり薬は毒ですから、毒の分子があるほどよく効くのです。

だからそれではいけないという規則になっているのです。

しかしいくらかは効かなければ、みんな買わないから、ただ医者が盛る薬より毒が少ないだけです。

それで、実際には治らないのに、治るかのごとくに思わせて金をとるのですから、詐欺取財です。


それからもっと酷いのは、お医者が「あなたの病気は一週間で治る。まあ二週間続けたらよいでしょう」と言うのですが、

これは始終お蔭話に出てますが、実際にそのとおりになったことはありません。

それでお医者も確信があるわけではないので、「たぶん治るだろう」というわけです。

しかしもしお医者が本当のことを言って「あなたのようなのは治らない。

今までこういうのを経験しているが、一人も治ったことはない」と言うと、

メシが食えないから、これは詐欺ではないので、やむを得ない罪悪です。

そういうやむを得ない罪悪というのはたくさんあります。


パンパンガールもそれです。パンパンガールはいばって言います。

「私たちがいるから娘さんたちが安心して外を歩けるのだ。もし私たちがいなかったら、どんなことをされるかも分からない」と言ってます。

これも命にかかわる罪でないからまだよいが、命にかかわる罪があるのです。


お医者が「あなたの病気は重いから入院しなさい」と言う場合、

「では入院したら治りますか」と聞くと、「いや、それは分からないが、入院するよりほかない」と言うのです。

「あなたは入院しなければ駄目だ。入院すれば治る」と言うのならよいですが、「やってみなければ分からない」と言うのです。

それから 「先生、手術すれば治りますか」と聞くと、「いや手術してみなければ分からない。

しかし、しいてあなたの方で手術してくれと言うのならやりますよ」と言うのです。

それで手術をする時には、どんなことになってもよいという証文をとります。

そうしてみると詐欺です。

確信がないのに、慢然として入院させて、高い金をとるのです。

そうしてたいていな者が悪くなるのです。

入院するときには歩いて行ったのが、帰るときにはたいてい自動車です。

そうすると少なくとも詐欺被害者です。


それで一番酷いのは宗教の詐欺で、これがまたたくさんあります。

「先生私は最初治ると言うから信仰に入ったが、どうも思うように治らない」と言うと、

「それは信仰が足りないのだ」と言うのですが、この「信仰が足りない」というのが、いい逃げ場なのです。

前にも話したことがありますが、ある大宗教で「あなたの病気はあんまり欲張ったためだから、その罪を神様にとっていただかなければならない」と言うから、

「どうすればよいか」と聞いたのです。その時分はまだ物価の安いときですが、

「二百円寄付しなさい。それで治りますよ」と言うので、

そこはあんまり裕福ではない人ですが、どうにかして二百円つくってあげたのです。

それから一週間たたないうちに死んだのです。


それで私は相談をかけられたのです。

「とり返すわけにはゆかないでしょうか」と言うので、

「どうも信仰の方ではそういう話は聞いたことがないから、駄目でしょう。

諦めるよりほかないでしょう」と言ってやったので、しかたがないと諦めたようですが、これは立派な詐欺です。

これは神様をカタにして詐欺をするわけですが、これは詐欺取財でなくて、宗教的詐欺取財、詐欺殺人です。

だから非常に悪いのです。


そういうようで今日よく検討してみると、詐欺的のことがふつう常識のようになってます。

政治家にしてもそうです。全部がそうではないが、かなりあります。

ですから選挙運動の時には、「こういう政策をする」とか「わが党はこういう方針である」とか言っても、

つまり不渡手形になることの方が多いくらいなものです。

選挙運動をする時には、棚から運が落ちてくるような、ボタモチでホッぺタをたたくようなことを言っていて、

さて当選して議員になるといい加減なことを言っているのです。

これもやっぱり一つの詐欺です。

ですから調べてみると、そういった詐欺的なことが実に多いのです。

しかしあんまり多いために気がつかなくなっているのです。

そういうものだと思い込んでいるのです。

世の中のことは本当のことはない、というようなことになってしまったのです。

それで私は、そういう小さいこともですが、特に肝腎なことはドンドンついて、それを暴露しなければならないと思ってます。


暴露戦術ということをよく言いますが、神様の方で暴露戦術と言っては、はなはだ格好が悪いから、なるだけそういうふうには見せないように、うまくやっているつもりです。

ですから本当いうと、医学というものは「病気製造」あるいは「官許殺人だ」ということを書きたいのですが、それではあんまり酷いです。

前に書いたことがありますが、とうとう出せなかったのです。

だからだんだん読んでゆけばそうなっても、今のように超愚的に書くわけです。結局馬鹿を通り越した、とんでもないものだと、婉曲に言うので、そこに難しい点があるのです。

ですからこの間のラジオの放送の時にも、美術館のことや自然農法のことはスラスラと話せたのです。

それを出すかと思ったら、医学の方のことでした。それで医学のことに関しては実に話しにくいのです。

それで非常に渋滞でトギレトギレ話したので、どうもおもしろくなかったのです。

しかしあんまり医学をコキ下ろしては刺激しますから、できるだけ緩和して話したために話しにくかったのです。

ですから私は原稿を書くにも、ほかのことはスラスラとゆくのですが、どうも医学のことは厄介なのです。」




明主様御講話 「多過ぎるため詐欺に気がつかない」 (昭和28年10月7日)

(御論文「詐欺時代」) 

「詐欺にもいろいろあるというのは変なことですが、人を瞞すのが詐欺で、一色ですが、つまり多過ぎるために詐欺ということに気がつかないのです。

だから売薬などでも、効かなければ「けしからん」と言うのがあたりまえですが、

効かなくても「これはこういうものだ、気休めみたいなものだ」と言ってすましてますが、

これはそういうことが多くなってしまったので分からなくなってしまったのです。

よく昔流の封建的の主人とかに、奉公人などがなにかというと、どなりつけられたり頬を叩かれたりしますが、

これが、こういうものだということになっているから、あえて不思議はないことになっているのです。

田舎などでは今でも、嫁などは非常に虐待されて、それこそ嫁だけは台所でメシを食うという所がよくあるそうです。

けれどもそれがあたりまえだ、こういうものだという一つの運命的に解釈しているのです。

それと同じように、お医者が言うことが違ったりーこれは違うことの方ですーお蔭話などを見ても、

「一週間で治る」「一カ月で治る」ということを言っても、それはぜんぜん違っています。

それだから浄霊の方に来るのでしょうが、しかし医学では治らないのが真理なのだから、これはだれでもそれがあたりまえです。

ただ一時押さえで治ったように見えるが、しかししばらくすると、元のとおりに発病するということはあたりまえです。

よく冷静に見ると、実に真実のものはありません。

本当に真実のものはメシヤ教以外にないと言ってもよいくらいです。

それで一番罪なのは、ここにも書いてあるとおり宗教の詐欺です。

それだから世の中から宗教というものが軽蔑されたり、また少し古いのは立ち行かないような状態になっているのです。

だから肥料迷信というのも、一つの迷信を迷信と気がつかないようになってしまってますから、どんな実際を見せようとなかなか信じられないのです。

ですから去年十八俵とった伊野という人は、最初のうちはみんな軽蔑して、大勢で寄ってたかって、無肥料で作るというのはどうかしていると、手を打って冷やかしたそうです。

そういう人たちの今の顔が見たいと思いますが、近ごろはぜんぜん沈黙どころか、コソコソとまねを始めているのでしょう。


「まねはしておりますが、座談会などにはまいりません」 (註 茶色の文字は信者の発言)


そうでしょう。しかしもう少したつと頭を下げてきます。これら迷信は実に根強く入ってます。病気もそうです。

だから詐欺にかかっているということが、詐欺にかかりつつ詐欺と思わないで詐欺を信じているのです。

だからなんと言ってよいか分からないので、やむを得ず、この間のように「超愚」という名前をつけたのです。」




明主様御垂示 「宗教詐欺の一例」 (昭和24年3月8日)

「「この病気が治ったら御礼をする」と言う人がありますが、これも反対で、これでは神様が下になってしまうのです。

つまり、神様のほうで治させていただいて御礼をいただくということになるのです。(笑声)

天理教は上げることをさかんに言うが、天理教自身に力がないため病気などが治らずそのため一種の詐欺になるんですが、

これは神様が悪いのではなく、取り次ぎする人が効かないのに効くと人に言うから悪いのです。

だからもし効かなかったらその金を返せばいいんです。

で治らなくてかけ合ったりする話をよく聞きますが、しかし順序から言えばそれが本当で、神様のほうを主にすべきです。・・・

親切はどこまでも親切にすべきです。

実際問題としてはそうどこまでも親切にはできないが、事情の許す限り親切にすべきですね。」