難解宗教について


真理というものは簡単


明主様御講義 「主神の御目的と天地経綸の真相」 (昭和10年7月15日発行)

「これから説く事は世界の大秘密である。それをいよいよ暴露するのであります。今までは夜の世界であった。

それ故諸々の穢(きたな)い事が匿(かく)れて居ったのであるが、観音様がこの世に現れた為に霊的に日が出た事になり、いよいよ秘していたことが目に見えて来た。

その見えて来たままをお知らせするのであり、それで今までの迷いを去り、不安を除き去るのであります。

今までのことは総てはっきりしていなかった。

真理は簡単でありまして複雑な事はない。

従来のあらゆる経典やお筆先は判らなかったのであるが、気が付いて見ると難しいものであります。

色々ややこしい複雑極まるもの程、誤魔化しがあるのである。

マルクスの資本論のごときは、学者でもわからん位にややこしいものであります。

要するにそれは真理ではないからである。

自分で真理が判らないから、色々に誤魔化していたのである。

御経、バイブル、御筆先もややこしくて判らん。これが今までの世で習慣となり、訳がわからんから有難いのであるとなったのであります。

判らんお経を称(とな)えられて、有難いなぞとは一種の変態心理だと思う。

この判らん御経を坊さんに上げて貰っても判らんものを、人間ですら判らぬものを霊になったらなお判らんことになる。

この間違いを直して行く事が我々の今後の務であります。

座禅のごときも、実に馬鹿々々しい事で朝から晩まで座っている。

これも一般人間には判りもしない寝言のごとき事を言って喜こんでいるだけで民衆に通用しない事は本当のものではないのであります。

バイブルも判らんが、これは外国語を直訳した為である。黙示録も夢物語に等しいのである。

儒教も孔子が言った事で余程判る事は判るが、昔の法律のごときであって、日本の憲法を見た方が反ってよく判る位のものである。

しかし中には忠孝の道五常五倫の道を説いてある、これは宗教ではありません。

ここにおいて喜びを与える事も出来ないのである。

日本の神道は古いのは教義がない。

祭式、祈祷、呪禁(じゅごん)のごときものであるから、先頃宗教へ入れるかどうするかとの問題が起って未だ決定していない。

新しい宗教には、天理教、金光教、大本教等は教義が出来ている。

天理教は教祖のお筆先が根本で謎のごとくで判らん為、学者、その他色々の人を頼み後に人間が教理を作ったのである。

お筆先を読んでもある一部は判るが判然と全部が判らん。

金光教も色々あるがこれは極平易な事柄であって、現代の人間へ対する程という様な事はなく、単純な爺婆や花柳界の人達を喜ばす事である。

大本教はお筆先であるが、余り同じ様な事を繰返して煩雑過ぎ、謎の様な事が多過ぎる。

中にて大本の霊界物語は、何もしないで読んでも一ケ月もかかる。

その中に肝心な事はポッチリでこれも判らん。一度や二度や三度位読んでは判らんのである。これ故大衆を救うというものはない。

はっきりしないから一般民衆を救う事が救えぬのである。

これは夜の世界で出来たから判然としないのである。

今度観音様のことが判然とした時が光明世界なのである。

五六七の世がありますが、今直(すぐ)に全部判然する時は敵が出来たり、邪魔が出たりして反感が出来て駄目になる。

これが為観音様の御神業に障ることとなり、この方の目的を達せられん事となるので、困るから多少歯痒い事もあるが、今までのことを思えばはっきりとしているのである。

現在までの宗教のここはこういう事であると説いたまでである。(後半省略)」 (「観音講座 第一講座」より)




明主様御教え 「万教帰一」 (昭和11年1月25日発行)

「今まで種々な宗教がありますけれど、それらは大変間違いがあるんで、

それは神様が、世界経綸の上において、本当の事を発表する事が出来なかったんであります。

その為に、いくら一生懸命になっても、本当の事が判らない。

判らないから種々と迷いが起り、迷いが起るから、人間社会が良くならなかったんであります。

要するに人類は、今まで真実の事を知らされなかった。

宗教の教義や聖典などは、仮りであって、いわば、仮定的の教なり説だったんであります。

それで今まで、お釈迦様以来の聖者、又は偉人等が種々と説かれたりしても、駄目であった。

実は今までの聖者や偉人と言われた人達も死ぬまで本当の事が判らずに、実は迷って死んだのが大部分であります。

達磨のごときは、面壁九年も苦念して、悟りを開いたという話がありますが、

その悟りを得たというのは、どこまでか判らないので

一番奥を知ったのがお釈迦様でありますが、

それでも経文の中には、本当の事は説いてなかったのであります。


今までに、大小種々の教が出、今なお、新宗教が簇出(そうしゅつ)していると言う事は、要するに本当の教が出なかったからで、

絶対的価値ある教が出たとすれば、種々な説や教が出る余地はない訳であります。

例えば、病気の薬にしても、後から後から種々出来るというのは、つまり前の薬が治らないからで、

本当に治る薬が出れば、それで解決するから、最早、新薬は出る余地がない訳であります。

又種痘であります。これが発明されて以来、決して新しいものが出来ないというのは、あれ一つで解決してしまったからで、

教えにしても、本当のものが出れば、その教一つになってしまうんで、

八宗九宗あらゆる教というものは、存在の意義がなく、又新宗教の出現の余地もない訳であります。

何宗とか何教とか今以て沢山あるのは、絶対のものが無かった証拠であります。

そしてモ一ツ不思議な事には、今まで観音宗の本山とか、観音教とかいうものは無かった事であります。

これが神様の深い経綸であって、それは、将来あらゆる宗教を綜合統一する準備だったんであります。


今度いよいよ観音の教えが、教えと言っては当らない。

実は観音力が出る訳なんで、それでいよいよ、観音力に依って、万教帰一の時が来たんであります。

従って、観音様の教えというものは、教えとしては極簡単なんで、

この前も太陽のお話をしましたが、太陽なんであります。


先刻も清水さんから言われました。

三五(あなない)の月が隠れて、今度は、東方の光が出るという事は、夜の幕が閉じて、昼になるという事です。

これを世界に準(なぞら)えてみますと、三五の月、即ち月とは西方文明になるんで、東方の光が出ると、西方文明が清算されるという事になるんであります。


今までの教えは、まず一番親玉としては仏教であります。

その経文は、実に大したもので、八万四千もあるんでありますが、前から私は、あれ程沢山書かなくってもよさそうなものだ、

あんなに沢山書いたから誰にも悟れなかったんで、悟れないから、多くの人が迷ったのであります。


真理というものは、極めて簡単であるべきで、簡単でなくては、最大多数者は救われるはずがないではありませんか。

それでは、なぜ沢山の文字を使わなければならなかったかと言うと、これを光でたとえてみましょう。

蝋燭(ろうそく)で明るくするには沢山に灯を点けなければ明るくならない。

一部屋を明るくするには、何十本も点けなければならない道理で、

お経とか、バイブルとか、その他種々の聖典が、沢山文字を使ってあるのはそういう訳であります。

又仏典や聖書の文章が頗る難解である。

これも不思議であります。

滑稽なのは難解だから有難味が有ると言うのです。

諸君、たとえてみれば、芝居を観て筋が分らないから面白いと言う人がありましょうか、

もしあったら、その人は、精神異常者でありましょう。それと同じであります。

太陽の出るまでは、薄暗くとも、蝋燭や電灯を沢山点けて我慢するより仕方がないのであります。

所が観音会は至極簡単で、ただ太陽に向えばいいんであります。

家を明るくするには、ただ戸を開ければよろしい。

人間ならば心の窓を開ければいいんであります。

昔は先刻岡庭さんの壷坂の沢市のお話がありましたが、

今までは、あれ程に一生懸命になって信仰しなければ、御利益は戴けなかった。

今日の観音会のごとく、僅か一円五十銭で頂いたお掛軸を拝めば、よく病が治るんでありますから、

実に結構な時節になったんであります。


二三日前に、私の家へ、ある婦人が来られ、二階へ上って来て言われるには、

「先生、下に懸っているお観音様は、生きておられますね。」と言われ、

「拝んでると、観音様の御姿から、光明が発すると同時に、

最初眉毛を動かされ、次に眼をパチパチさせられ、

次に口を開けて御笑いになる。そうして、立ってるお観音様が歩き出されたんで吃驚しました。

右の方へ歩いて行かれると、又元の所へ戻られる。

昔の話に左甚五郎の彫ったものが生きて歩いたとか、飛んだとか言いますが、全く嘘じゃないのですね」とこういう話をされたんであります。

それで私は、それはそうだ、描いたお観音様が、それ位でなかったら、

世界中を救うという事は出来ないではありませんか、と言ったんであります。」




明主様御垂示 「真理は簡単」 (昭和24年4月4日)

信者の質問
「真理は発見さるべきでしょうか、発明さるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これは問題になりませんね。真理の発明なんてありませんよ。

よく、真理の探究って言いますが、あれがいいんで探り究めるんです。

真理ってのは永久不変のものです。一万年前だって、十万年前だって変わってませんよ。

そしてその真理を探究するってのはいいことですよ。

一つでもよけいに知るのは結構ですよ。


ただ気をつけねばいけないのは、真理でないものを真理と間違えることですよ。

一番の真理ってのは太陽が東から出るってことですよ。

これには一点の間違えもありませんからね。

人間が生きるってのも真理ですよ。

また、眼で物を見、鼻で匂いを嗅ぎ、舌でしゃべる、これも真理です。

こんなことは判りきってますがね、この判りきったことが真理なんですよ。

反対にややっこしいことは真理ではありません。

あのマルクスの「資本論」なんてとてつもなくややっこしいもんですがね、あんなものは真理ではありませんよ。

ややっこしくするのは真理でないものを真理であるように見せかけようとする技巧ですよ。

仏教のお経も、とても長ったらしいややこしいもんですが、あれだって真理は少ないんです。

そこで「真如」って言うんです。真の如しですからね。

真理のようなもんで実は真理じゃないってことですよ。

だから、仮の娑婆、仮の世って言うでしょう。

あるいは、一切空とか空々寂々ってね。

そりゃあ真理でなけりゃ空ですよ。(笑声)

実相って言うのが本当で、真如ってのは一時的の仮のものですよ。

よく八万四千の経文って言いますがね、あれなんかも真理じゃないんですよ。

真理ってのは簡単なもんですよ。

御浄霊で病気を治しますね、これは真理ですよ。

あらゆるものは火、水、土の力に関係のないものは一つもないんですからね。

そしてこの御浄霊は火、水、土の力ですからね。」




明主様御垂示 「八万四千の経文は極く低級」

信者の質問
「夜の世界には腹芸という事をよくやる者がありましたが、光明世界においてはこれは権謀術数となると思いますが、いかがでございましょうか。」


明主様御垂示
「光明世界でもある。むしろ余計ある。

今の世界は腹芸がなさすぎる。今の人間は考え方が足らず、智慧が足りないので出来ない。本当に出来る人は滅多にない。

極く人間が進化すると言葉はあまり必要はない。

顔だけで通じるようでなくてはいけない。

諄々(くどくど)しく書いたり言ったりしているのは未だ文化が進歩していない。

一口で判る事を諄々しく言っている。

宗教でも諄々しく説くのは低級宗教である。

八万四千の経文等極く低級で、金属なら鉄のようなものである。金でなくてはいけない。

良いものは極く少しである。

本なども出来るだけ簡単に説いてある。

経文なら厚い本が一冊位なのを、本教では一ページ位にしている。

権謀術数と腹芸とは異う。これは悪い意味である。

顔だけ見て意志を交換するようでなくてはいけない。

恋愛などはウインクなどで通ずる。これは発達している。

昔は歌でした。歌で心を打ち明けるなど優美で、今よりは進歩している。」






難解宗教は人を救えない


明主様御講話 「本を読まねば病気が治らないというのでは無学な人間は治らない」 (昭和10年10月11日)

「(一部のみ引用) ですから、いくら生長の家をやってもタカが知れております。

あれが滑稽なのは、本を読まねば病気は治らぬというが、そうすると急病人は治らぬことになる。

本も厚い本を一遍読んだだけでは駄目だという。

病気が治らぬと本の読み方が足らぬという。

何遍読めば治るということは言わぬ。

すると教育のない土(ど)ん百姓などは治らぬ。

とてもあれだけのものは読めない。

そうでなくとも難しい新しい書き方ですから、そうとうのインテリでなくては判らない。

よほど哲学的趣味でもなかったら読めない。

そしてまた野蛮人は救えない。黒人は絶対に救えない。

それでいて万教帰一だなどと言っているのはおかしい。

帰一と言ったところで、アラーの神など拝んでる原住民みたいなものは救えやしない。

よく人の話題に上りますからお話しておきます。」




側近者の寄稿 「クルリ瓢箪 狂信地獄」 (昭和27年4月25日発行)

「(一部のみ引用) この宗教の二大聖典の中、神の申した事は毛筋の横巾も違わぬと書かれたお筆先は、確かに神の権威に満てる経の厳然たる審判書であって、その千古の名文は正義感を揮い起たしめその予言は恐怖に震えしめたが、

あまりにも経一方に過ぎるその教の実行は社会生活に反逆する事になり、孤立的苦しみを生んだ。

これに全く反して、緯の教典は自由奔放赤裸々なる人間性の中に道を説かんとせられたもののごとく、現代人の耳にも入り易く、智的に説かれてはいるが、

徒らに冗漫に流れて、肝腎の真実は掴みようもなく、寧ろ頭脳を混乱せしめた。

著者自身、嘘かホンマかホンマか嘘か、嘘じゃあるまい誠じゃなかろ、ホンに判らぬ物語りと説かれたごとく、実に荒唐無稽的不徹底極まるもので現実の社会生活から離れしめるのみであった。

私は百二十巻と称さるるこの物語の過半を六七年間何回も読んだが、結果として得たものは、迷蒙と混乱と錯覚の苦しみであり、精神分裂症的頭脳であった。

そして私はこの二大教典を社会と没交渉に専読しているうちには、遂に経緯の教典の亡霊と化し完全な寄生虫的無能者となっていた。」






難解宗教は分裂する


明主様御教え 「暗中模索」 (昭和10年9月15日発行)

「今日までのあらゆる聖典、即ち経文、聖書、御筆先等の著述を読む人は、誰しも気付くであろうがそのいずれもが、いかにも曖昧模糊としており、謎のごとく、不可解極まるものが多い事実である。

しかるに、それを誰も、今日まで怪しむ者がなかったのみならず、はなはだしきは、解らないから有難いのだ、なぞと言うに至っては、まことに滑稽千万である。

それは人類が、一種の宿命的心理作用に捉われ切ってしまって、賢哲や、聖者の遺文聖典は、無批判的に盲目的、絶対真理と決めてしまってかかるという、妙な癖からである。

経文にも、バイブルにも、真理に外れた個所は、随所にあるのであるが、それを見破る人がなかった。

それは、実に不思議な事であった。

彼ら聖者達が言った中にも、誤れる言葉がある。それを、後世の人間が無理に真理付けて、有難がって居たという事は、実に、馬鹿馬鹿しい事であった。

こんな事を言えば狂人のような大胆さを嗤(わら)うであろう。

しかし、私は断言する。

もし、聖者達が言った事が、全部真理であったならば、人類はもっと救われて居るべきで、地上天国は、すでに出現していたかも知れなかったのである。


釈尊は、仏教の真髄は真如(しんにょ)だと言った。

真如とは、真の如(ごと)し、即ち、真理のごときものであって真理そのものではないという事である、

いわば、真理が現われるまでの、仮定的、第二義的のものであったという意味である。

又、あらゆる聖典の文意たるや、実に恐ろしく明瞭を欠いている。

いずれにも意味がとれ易く、謎的寓意的で、不必要な、諒解し難い文句や、あらずもがなの蛇足に満ちている。

なる程、驚嘆すべき名文も、太陽のごとき真理も、珠玉の名句も、多々あるにはあるが、それにも増して、不必要な文字の羅列が、余りにも多過ぎる事である。


各々の宗教が、年を経るに従って、幾宗にも、何十派にも分裂するという事は、何が為であるか、それは、経典の不徹底に基くが為である。

明々白々、一点の疑いを挿(さしはさ)むべき余地がないように、説かれてあれば、何ぞ、迷いの生ぜんやである。

見る人各々によって、幾種にも解釈が出来るような説き方であるから、幾(いく)何派にも分裂するのであって、当然過ぎる話である。

仏典の要諦も、バイブルの真実も、二千有余年間、幾万の人が努力したとても、未だに真底の秘義を把握出来ないでいる。

科学でさえ方程式が有るではないか、故に学者も、政治家も、教育家も、商人も農民も、あらゆる大衆がみて以て、簡明直裁に、天地の真理を把握して、いささかの迷いも生じ得ないという経典こそ、真の救世的、大威力を有(も)ったものである。」 (「病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?」より)




明主様御教え 「宗教と分派」 (昭和23年9月5日発行)

「宗教には種々の派がある。例えばキリスト教においてもカトリック、プロテスタント等をおもなるものとし、新旧種々の派がある。

仏教においても、日本だけでさえ真宗、浄土、天台、真言、禅、日蓮等をおもなるものとし、その一派が各派に分かれており、現在五十八派に分かれている。

神道においても、神社神道を別とし、教派神道においては大社、御嶽、扶桑、禊、天理、金光等を主なるものとし、十三派あるにみても明らかである。


以上のように、何派にも分離するという事は理屈に合わないと思うが、私はこう観るのである。

すなわち、その原因は教典にあるのではないか、というのは、聖書にしても仏典にしても、甚だ矛盾難解な点が多く、その解釈に当たっては人によりまちまちの見解に分かれるので、勢い種々の分派ができたのであろう。

もっとも教派神道はキリスト教、仏教のごとく大教祖がなく、古事記、日本書紀等の古典を基本としたり、神憑り的教義や、教祖の教え等によって成ったものである。


以上のごとく、根本は同じ宗教でありながら、各派に分離する結果、ともすれば争いなどを生じ勝ちになるので、宗教本来の使命たる人類愛的教化に悪影響を及ぼす事はもちろんで、遺憾の至りである。

全くその原因が前述のごとく教典の難解なるがためである事は議論の余地はない。

もっとも難解であるところに、かえって有難味があるという理屈も成り立たない事もないが、

あまねく人類を救うべき意味から言えば、万人の最も理解しやすくするのが、本当ではないかと思うのである。

以上のごとくであるから、私はできるだけ難解をさけ何人にも理解出来得るよう、新しい形式のもとに教えの道を説かんとするのである。

なお私は漸次政治、経済、教育、芸術等の方面にわたっても、宗教を通じての新解釈を発表するつもりである。」




明主様御教え 「私は真理を書く」 (昭和26年9月25日発行)

「私は十数年前から原稿を書き始めたのであるが、もちろん信仰を中心にしたものばかりで、今までの宗教の開祖などと異って、固苦しい事や、野暮(やぼ)くたい事など一切抜きにして、

いかなる階級の人にも、解り易いようにと、意を用いて来たのである。

しかしここに具合の悪い事もある。というのは例えば釈尊の八万四千の経文にしろ、キリストのバイブル、真言の密教、親鸞の歎異抄(たんにしょう)、日蓮の御文章、天理教祖の御神楽歌、大本教祖の御筆先等々にしても、

どれもこれも一種の悪く言えば宗教臭味があり、よく言えば何かしら神秘的で、判るような判らないようなところに、反って魅力があるのではないかとも思えるのである。

と言って解釈が難しいから、その人次第で色々にとれるから、どうしても分派が出来易い。

何よりもその宗教が大であればある程分裂し、相剋(そうこく)し合う例は歴史がよく示している。

そんな訳で信徒はその信仰の真髄を掴み得ないため、迷いが生じ易く、真の安心立命は得難いのである。

右のごとくであるから、今までの教のやり方では、一つの宗教でさえ和合統一など到底出来ようもない。

況(いわ)んや全宗教の帰一など夢にも思えないのであって、年々新宗教の増えるのも、そんなところにあるのであろう。

仮に日本だけにみても、人口増加に比例して、宗教の数も増えつつあるのが現状である。


ところがいかなる宗教でも、その拝む的といえば、エホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿弥陀、観音等が主な神仏で、

その他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、もちろん立派な神仏には違いはない。

中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、その根本に遡れば、独一真神すなわち主神一柱で在(おわ)す事は論のないところであるが、

今日までどの宗教でも、自分の方が一番最高で立派な宗教なりとし、排他的観念も多分にあるから、統一などは出来よう訳がないのである。

そうかといって最後の理想だけはどの宗教も同一である。

すなわちこの世の天国、極楽世界、理想世界の実現であり、人類全体の幸福であって、これに反対である宗教は一つもあるまいが、

それならそのような世界の実現はどうすればいいかというと、すなわち世界を打って一丸とする帰一的宗教が生まれなければならないのである。


それこそ万人挙(こぞ)って信じ得られる程の、超宗教的偉大なものでなくてはならない。

それが我メシヤ教であるとは云わないが、そういう世界を作り得る手段、方法、すなわち計画設計はどうすればいいか、それを教えるのが本教の使命であって、

その認識者が各民族の智識人間(かん)に増えるに従って、目標に向かって一歩一歩前進するのである。

これを一言にしていえば、真理の具現であり、これによって一切の誤謬は明らかになり、是正され、明朗清純な光明世界が実現するのである。

もちろん人間から悪は追放され、虐げられていた善が興隆し、人類は幸福を楽しむようになるのである。

従ってまず真理を普く全人類に知らせる事こそ根本である。

というと人は言うであろう。

昔から多くの偉人が、剰(あま)すところなく真理を説いて来たではないか。

故に今更その必要はないと言うかも知れないが、実はこれが問題である。

というのはもし今までに真理を開示されていたとしたら、それが具体的に表われ、既に天国世界は実現されているか、そうでないまでもそれに近づきつつあらねばならないはずであるが、そういう気振(けぶ)りすら見えないのである。

なるほど物質的には確かに天国に近づきつつあるといってもいいが、他の一面すなわち精神界に至っては、何らの進展もなく、もしろ反対でさえある。

これでは真に天国世界はいつになったら実現するか、見当もつかないのである。

としたらその原因こそ、今まで信じて来た真理そのものは、実は真理ではなかった事に気付くであろう。


何よりも世界の現実を見るがいい、総ては天国とは余りに隔たりがあるではないか、人間の最大苦悩である病気は、依然として減らないし、

貧乏という生活苦も相変らずであり、個人同士の争いも、国家的争いすなわち戦争も見らるる通りの有様である。

としたら、全く真理が行われていない証拠である。

従って今まで真理と思っていたものは、実は偽(ぎ)真理であるから、天国建設の妨害にこそなれ、有用なものではなかったのである。

ところがいよいよ時期到来、神は真理を解明すべく、私をして普く人類に知らしめ給うのである。

それが我メシヤ教出現の理由であるから、私のかく文章は、万人に解り得るよう神が神示され給うのである。

右のごとくであるとしたら、私の今までかいたものはことごとく真理であって、真理の鏡に照らして偽真理の欠陥を晒け出し、改善する方法を諭(おし)ゆるので、

これによって真理と偽真理との区別がハッキリするばかりか、その上事実をもって示すのである。

それが彼の浄霊医術であり、自然栽培であり、芸術の向上であり、地上天国模型の建設である。

以上によって、私の現在実行しつつある事業は、一言にしていえば、真理具現の一大課程であり、筆によって真理を分らしむべき大努力である。」




明主様御講話 「今までの宗教は曖昧模糊」 (昭和26年9月18日)

(御論文「唯物医学と宗教医学」のあとの御教え)

「こういう具合に色々説いていくんですが、興味があって、知らず知らず深い所が分かっていくんです。

深い所に入っていくと、仲々面白いんです。仏教から神様に入り、そう言う関係を説いていく。

そういった宗教的な色々な事はすっかり分かることになる。

今までの宗教と言うのは曖昧模糊だったんです。

それは夜の世界の事を説くものだから仕方がない。

本当に説いたら、どうしても仕事をする気にならなくなる。

そこで、うまくぼかして、無理な欲望など抱かせない。

その為に苦しみが生まれる。

それを助けるためにお釈迦さんは、ぼかして、全然諦めさせないような、諦めさせるようなことを言った。

仏滅後五六七の世が来ると言うのは、諦めさせないようにですね。

そう言う訳だから、後世の学者やそう言う人達は自分流の考えで、いやに七難かくして、非常に神秘な尊いもののようにつくったんですね。

だから、本当の事が分からないからして、色んな説が出来、色んな宗派が出来た。

結局迷いをなくするために一生懸命やるのが、迷いを増やしている。


そうでしょう、肝心な事を説いていなかった。又、説いてはいけなかったんですね。

キリスト教なんか、バイブルなどは良いですが徹底しない。

「汝何をするな」「汝何をせよ」と言うが、どうしてそれをしてはいけないと言う事を説いていない。

丸呑みにすれば良いが、そうはいかない。

段々文化が進歩してくると、理屈をつけるようになる。合理性を持ってくる。

そうすると、あんな宗教と言うのは空みたいな物になる。

そうすると物質的に進歩した結果、悪の発生になる。

悪の発生の為に世の中が悪くなる。人間が苦しむ。

だから結局、今までの世の中は不徹底極まる、曖昧模糊としたものです。

だから、そういうものと諦めるより仕方がない。

ところが、今度は昼間の世界になるから、はっきり分かってくるからして、迷いがないばかりか人間の思う通りになる。

何が思う通りになるかと言うと、健康です。人間と言うものは病気と言うのはないものだと思えなかった。

どんなに偉い人でもいつ病気にかかるか分からない。

これだけは取れない。

事実偉い人になっても病気で死ぬからね。お釈迦さんでも病気で死んだ。そうしてみると本当に安心できない。


ところがメシヤ教では病気の心配がなくなるんですからね。

私の娘が結婚した婿になるのが、この間会社で健康診断で結核の初期だと言うんです。

今来てますが、そんなのすぐ治せるから来いと言って、何も心配ない。

非常に喜んでいる。これが世間だと大変だ。

子供がありますから、染ると大変だと隔離されて、絶対安静で、どんな事になるか分からない。

ところがこっちは平気ですからね。そんなものは風邪ひいたくらいです。この安心は今までにないんですからね。


そこで、ここで五六七の世の一番肝心な根本が出来た訳です、人間が地上天国の資格者になっているんです。

結局いつも言う通り、病気の心配、戦争がなくなる。

段々進んでいくと戦争の原因を書きますが、病気と戦争がなくなれば、それで良いんです。あとは全て解決する。」




明主様御講話 「大衆はお経が解らないから有難がってあげる」 (昭和26年12月1日)

「ピカソなんか非常に高いですね。

大衆は変なもので、ピカソの絵はあんなに高いので、良いに違いない。

良いか・・・と言うと、その良い悪いが解らない。

良いんだ、値打ちがあるんだ、とこう思って・・・お経と同じです。


お経が、解らないから有難がってあげるんです。

お経が解ったら、ありがたがるのはずっと減る。

何とか言うお経なんですが、翻訳してみると、男女関係のことを書いてある。

実に猥褻極まるものです。それをありがたがるんですからね。結局人間はあんなものですね。

だから、私は逆に、はっきり判るように書いてますが、だからそう言った意味においてはありがたがれないんですが、

しかし、ありがたがる、ありがたがれないと言う事じゃなくて、こっちは人間を・・・人類を救うんですから、解る事が主ですから、

お経や・・・バイブルもあんまり解らないですが、お経よりは良いです。

解らない事と言うのも良いが、そのために迷いを生ずる。

迷いを生ずるから、仏教でもキリスト教でも、派が沢山出来る。

だから、人類を本当に救う事は出来ない。

ただ、何となく救われると言うので、徹底しないですね。

もっとも、力と言うものが不足していた点もあるから、今までとしてはあれで良いんです。

こちらは、そう言うあいまいな点などは、はっきりさせると言うんで、これが今まで夜の時代であり、私は昼間の文明の根本をつくるんですね。

これは、そうなるのが当然の話です。」




明主様御講話 「聖書やお経が模糊曖昧な理由」 (昭和28年12月23日)

「それともう一つは霊界が暗かったからで、ちょうど夜、物を見るようなもので、はっきりしなかったのです。

それだから今まで説いたいろいろなものがはっきりしないのです。

バイブルでも経文でもはっきりしないのです。だからそれを読んだ人でも、つまり想像です。

「オレはこう思う」「貴様はそう思うだろう」というようなことで、まちまちなのです。

ですから本当にバイブルや経文を読んでも、分かる人はおそらくないです。

というのは、夜、物を見ようとするようなものだからです。


ところがメシヤ教の方ははっきりしているのです。

私は書くものにしてもはっきり書いているのです。少しでも迷いがなく、解釈の仕方が一つよりできないように書いてあります。

そこが、昼間の明かりで物を見るというように思えばよく分かります。だからすべて早いのです。


夜ですと探り探り、見当をつけてやるのですから、たまには間違ったり、やり損なったりすることがありますが、昼間は遠くまで見通しがつきますから、そういうことはないのです。

ですからして、これからはいっそう早くなります。それで、今年一年でも随分早いです。

知らるるとおりハワイに三月から手をつけて、もうそうとう立派な本部ができてしまっているのです。

それも、別にこっちから金を出したわけでなく、先方で半年ばかりで作った信者が金を出して本部を造るというのですから、これもおそらく破天荒な話です。

それで、来年は米国の方もそうとう活躍しますから、これもまた予想もつかないほどの収穫を上げるでしょう。

それからまた熱海の地上天国ができると、これはまたとにかく日本中の評判になりますから、たいへんに大きな刺激を与えるだろうと思います。」




明主様御垂示 「新形式の経典の説き方」 (昭和23年8月4日)

「既成宗教は非常に嘘が多い。仏典でも聖書でもはっきりせぬ。

二つにも三つにも解釈出来るようにしか書かぬ。

そういう書き方をせぬのが新形式である。」