錯覚宗教について


明主様御講話 「世の中を悪くする悪魔の仕組み」 (昭和10年2月11日)

「いままでの世の中のあらゆることは判らなかったから、みなごまかしで終わっておったのであります。

ごまかされて感心して随喜の涙を流しておったのであります。

仏教の解脱もみなこじつけてあるばかりであります。

そういうことをよほど暇な人があったとみえて、さかんに奨励していたのであります。

禅宗の坊さんや信者達がよく言う、「隻手(せきしゅ)の声を聞く」なんてまじめになってやっているんですから、人間も馬鹿馬鹿しいものであります。

この隻手の声にはいろいろ解釈がありますが、私は、隻手では音はない、双手で音がするのであります。

私は隻手では音はないと解釈いたします。


それから、よく聞くことでありますが、肉体はあるのでありますが、ある人は肉体はあるが事実は空だと言います。

あの生長の家の谷口正治氏は大本時代に、私も知っておりますが、やはりこれと同じ説でありますが、

この谷口氏は病気は仮のものであるから心で健全だと思えば癒えるというのでありまして、これなどがごまかしの第一等のものでありまして、

こういうふうに、いまに至るものを変てこに、曖昧にしてゆくので判らなくなります。


親鸞の言った、「善人は救われる、況んや悪人をや」と言うことがあるが、

これを聞いて信者がみな喜んでおりますが、これがごまかしの傑作であります。


これ故に霊界にたくさんいる悪魔が、世の中を悪化するように出てきて、この連中に憑って活動するのでありまして、

世の中を悪くする悪魔の仕組みであったのであります。

この通り阿弥陀の悪の働きをやったのでありますが、それも天地経綸の重要なる悪の役割をしたのでありますが、結局、これも善になるのであります。


阿弥陀の陀の字が非常に悪の働きとなるのであります。

陀の字のこざと偏を虫偏にすれば蛇になります。

これをもって悟れば良いのであります。

今度は阿弥陀様が改心するのであります。

マッソンをこしらえたのは、奥の院に阿弥陀様が祭ってあったのであります。


いままでは、観音様より上にいて人々に拝ませていたのでありますが、

阿弥陀が下に降って観音様より下になれば、五六七の世となるのであります。

このような例はなにほどでもたくさんありますが、善悪を判らないようにしていたのでありまして、

南無阿弥陀仏を称えさえすれば、悪も救われるというが、これが悪人を作ることが多くなるのであります。

できた悪を救うよりも、悪を最初から作らんようにするのが、本当の教えであります。

このように根本がたいへんに違うのであります。


救世軍が年の暮れに鍋を出して、正月の餅を配ることをやり、また、不仕合せの者、罪人などを救うというが、

その根本にさかのぼり、不幸な者ができんようにするのを考えないで救うと思っても

根本から出ぬようにしなければ、これは根絶することもできず、いつまでやっても際限のないことになるのであります。

救うのも必要だが、このような不幸な者のたくさん出ぬようにするのが一番良いのであります。

社会事業は箆棒(べらぼう)だ、いっぽうで不幸な人を造り、それを救うのであります。

それが出ぬようにするのが本当なのだ。

これがごまかしの世界なのであります。」




明主様御講話 「悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとする」 (昭和10年1月11日)

「大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。

そのくせいっぽうでは人類愛善運動などしている。

これは自分達が神の選民と思わせる。

そして社会の一般人よりは一等上だというのですから、社会の人間は眼下に見くだす。

平民を見るような態度で、社会から特殊扱いにされると偉がる。

またそういう人は団体中でも、信仰が進んでるなどと言われていばる。

第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化け物と、両方がそうですから、

大いに狂人と化け物にならなければならぬというので、

ほとんど狂人じみないと信仰が進んだと言えない。

そしてあたりまえなことをすると、あれはまだ駄目だと言うのです。

それで、その団体が気違いじみる。

大本のみでなく他の各団体にもこういう団体はたくさんあります。


これは悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、

そういうような宗教と、後はぜんぜん無力な宗教との二種ですが、

無力宗教のほうは売薬のようなもので見過してもいいですから、

いままでの宗教は、真理だとありがたがった中にも、人心を狂わせようとする働きがたくさんあります。


親鸞が言った「善人尚往生を遂ぐ、況んや悪人をや」というように、悪を栄えさせるようなこと、

ああいうようなことが各宗教にたくさんあって、

生長の家で言う「物体は心の影なり」というのは、狂わせようとする大きなものであります。

これも物を狂わせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥にはある悪魔がいる。

ですからお気の毒だが滅びるんであります。


もしみなの人がああいう思想になれば、せっかく発達した世界がどうなるかしれない。

当然のこと、当然のものが本当のものなんであります。

森羅万象一切に狂うものはない。

草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂わぬ。

天地自然の運行は狂わぬ。

悪魔は破壊しようとして、そのために人間を狂わそうとするのです。

神様はこれを救われるわけであります。」




明主様御講話 「本を読まねば病気が治らないというのでは急病人は治らない」 (昭和10年10月11日)

「病気治しなども、機械や薬も使わず講釈もいらぬ。

生長の家のように、ある病気をないと思えなどとは言わぬ。

あるものはあるんで、それをないと思う努力はたいへんなもので、これもいかに生長の家の力がないかを表明しているもので、

あるものをないと思う努力、これくらいの努力はない。

ここに電気があるが、これをないと思えなど、こう思わなければ病気は治らぬなど、いかに無力であるかを表明している。

言い換えれば、無力をかくのごとく表明しているようなものであります。


観音会のほうは病気があると思っても治る。思わなくても病気はある。これが本当の神の力であります。

あるものはある。あるものをなくす、これが本当の神で、神の力であり、あるものをなしと思う、これは人間の力であります。

力というものは反対に考えたがる。

角力をとっても、力を入れて向こうを追っぽり出すなどは本当の力ではない。

取っ組まずに先方を倒す、これが観音力であります。

ですから、観音力は頼りないようにみえる。

それで病気を治すにでも、そう撫でたりさすったりして病気が治る。

そんなことで病気が治るとは判らぬが、病人のほうでよくなったと言うので、変に思うくらいであります。


ですから、いくら生長の家をやってもタカが知れております。

あれが滑稽なのは、本を読まねば病気は治らぬというが、そうすると急病人は治らぬことになる。

本も厚い本を一遍読んだだけでは駄目だという。

病気が治らぬと本の読み方が足らぬという。

何遍読めば治るということは言わぬ。

すると教育のない土(ど)ん百姓などは治らぬ。

とてもあれだけのものは読めない。

そうでなくとも難しい新しい書き方ですから、そうとうのインテリでなくては判らない。

よほど哲学的趣味でもなかったら読めない。

そしてまた野蛮人は救えない。黒人は絶対に救えない。

それでいて万教帰一だなどと言っているのはおかしい。

帰一と言ったところで、アラーの神など拝んでる原住民みたいなものは救えやしない。

よく人の話題に上りますからお話しておきます。


人は神の子という。人間は罪の子じゃないという。

罪の子というのは嘘で、神の子、仏の子だという。

罪の子と思うが故に罪を犯すようになる。

実は神の子であって罪の子ではない、と思えば神の子になる。

これもおかしい。なんとなれば、現実に罪を行なわぬものはない。

おそらく生長の家の信者のだれでも罪を行なわぬものはないと思う。

いくら神の子仏の子であると言っても、そういう人は万人に一人か二人しかないでしょう。

本当言えば神の子であり、罪の子であると言うべきで、みんな半分しか言っていない。

どこまでも罪の子であり、神の子であります。

人間は向上すれば神の子だし、堕落すれば罪の子になる。

一日の中でも神の子にもなり、罪の子にもなっている。

これはしかたがないので、ただある範囲を越えなければそれでいい。


美しい女を見て無感覚でいる人はない。

アア好い女だ、妾にでもしたらとだれしも思う。これは私も思う。

これはキリスト教ではそう思っただけでも罪になるという。実に野暮な話であります。

そういう心を起さす心を造ったのは、やはり神様であります。

金持ちの子などを見ると、うまくやってやがら、ぶっつぶしてやりたいと貧乏人ほどそう思うのはしかたがない。

ただそれを行いに表わさなければいい。罪の子の部分より神の子のほうが勝てばよい。あるものはしかたがない。

賀川豊彦が言ったことに、善悪は電信の符号のようなもので、良心が切れるとまた悪が続き、また切れては続く、ちょっと切れては繋がる。

これはたいへんよくできている。

これによれば、繋がったときが神の子で切れたときが罪の子になる。ただその切れたときが短ければいい。


こういうことも事実にふれずすこぶる独断的であります。

また、物質は心の影という。

これは心のほうからいうので、物質は心の影になる。

これは見方によって違う。


ここに観音行が絶対真理であることを識るのであります。

すべてにおいて絶対に決めない。

そこに真理があり、昔から善悪不二、一如とかいう。

人は神の子であって罪の子であると言えば、絶対に行き詰まり見当のとれぬようなことはない。

ですから、生長の家はいっぽうでは非難される。

今度、Tというのが裁判所へ告発した。

生長の家の欠陥は、いっぽうへ決める、それでやられる。

今後観音行で行けば、どんなことでも決して負けない。

応変自在であります。」




明主様御垂示 「真言密教の覚りの境地は意味不明」 (昭和28年9月1日)

「奥の奥は説明ができないことがあります。むしろ感じです。これが覚りというものです。

とにかく実に微妙なるものです。だから話すことも書くこともできません。

これはやっぱり世界中で私一人だけが分かっているのでしょう。

他の人は分からないでしょう。

しかしその人の役目さえできれば、それだけ分からなくてもよいのです。

仮に星なら星が、どうも太陽の奴はあんなに光ってシャクに障る。

太陽のように光りたいと言ったところでしようがないので、星はやっぱりそれだけの光しかないのです。

だから本当に考えたら実に神秘幽幻なものです。

またそれが分かってしまっては面白くないので、分からないところに面白みがあるのです。

実に神様というのは、何とも言葉では言えない神秘なものです。


そこで一番間違いないことは、物事を決めるということがいけないので、決めないことが間違いないのです。

つまり物事を決めるところに間違いが生ずるのです。

そうかと言ってまるっきり決めなければ変です。

やはり決めるべきところは決め、決めるだけのものは決めるのです。

それから決められないものは決めないでおくことで、決めようとしてあせったり、苦しんだりすることは損です。

それからまた時というものがあって、その時にはこうしたほうがよい、また時が変るとそうしてはいけない、またこっちに行ったほうがよいということになります。

それも決めて決められないで、決められないで決めなくてはならないのです。

そこで実に幽幻微妙と言いますか、何とも言えないものがあります。

それから分かっていて分からなくて、分からなくて分かっているということがあります。

そうかと言って両方同じでは、分からなくて迷ってしまいますから、どっちかに決めなければなりません。

それからいつまでは決めていて、その先は決めないほうがよいこともあります。

それから一時間だけ決めてよいようなこともあります。

一時間だけ決めれば非常によいものを、一日決めていたために非常に悪くなります。

その限度というものが分からないのです。

しかしまるっきり分からなければ、何にも分かりませんから、ある程度は分からなければならないのです。

お釈迦さんは“一切空”と言っているのですが、そう言えば絶対に間違いはありませんが、しかしそれではとにかくあんまり無責任です。


生長の家などではよくそういうことを言ってます。

“病気を病気と思うからあるのだ、病気はないのだと思えば病気はなくなってしまう”という説を唱えていますが、これもやっぱり決めたわけです。

ないと決めていても、痛いときには痛いのです。

いくら痛くないと思っても痛いのです。

それは人間は霊だけで生きているのならそれでよいが、肉体というものがあるのですから。


そこで覚りの境地というのは、昔から坊さんはその境地に入ろうとしていろんな修業をするのです。

真言密教などもそうです。ぜんぜん何もないのです。

それで“お前分かったか”と言うと、“分かりました”“よし”と、それでよいのです。

何が分かったのだか分からないのだかさっぱり分かりません。

しかし師匠にはそれが分かるのだそうです。

もっともこれは分からないことはありません。

その人の言葉と行いによって、どのくらい分かったかということは見当がつきます。

そこで大僧正が法を授ける場合に、あいつはたいてい修業ができたから大丈夫だなと思うから、

“お前分かったか”と言うと“分かりました”“よし”と言って、お前には阿闍梨(あじゃり)の位をやると言うのです。

阿闍梨の位と言っても、形のあるものは何もないのです。

そういった煙(けむ)のものでやるのです。」




明主様御教え 「生長の家の主張には根本的誤謬あり 此文を以て谷口氏に質す」 (昭和10年頃の御執筆)

「「生長の家」の谷口氏が、絶対唯心論を振り翳(かざ)して、あらゆる攻撃を物ともせず、

敢然として戦い続けている姿は、まことに悲壮そのもので、

その英雄的行動は、まことに讃嘆に値するものがある。

しかしながら、惜しむらくは、氏が唯一の御題目であるところの、「物質は心の影」という事は、余りにもその誤りがはなはだしいので、一言、その妄を明らかにしたいと思うのである。

今ここに私をして言わしむれば、これは半面の真理であって、全面的真理ではない。

何となれば霊物両方面の実世界において、氏のは、霊の世界からのみ観ての説である。

なる程、心の世界即ち霊の世界からみれば、心霊を主とするから、物質は心の影であるが、

反対に、物質の世界から観れば、心は物質の影である。

即ち観点によっての相違なのである。


本来、森羅万象は、霊と物とが、密接不離なる関係にある事は明らかで、

人間といえども、霊と体から成立ち、霊が脱出して、霊界に行く事が死である。

仏者はこれを往生という。

なぜ、死を以て、生れ往くと書くかというに、仏界即ち霊界から観れば、現界の死は、生である。

死ぬ前の事を、生前というのもこれと同じ理である。

故に、谷口氏は飽くまで、心霊界一方だけを、主としての観点を、固執しているのであるが、

これでは真理に外れているから、到底一般人を済度承服さす事は出来ないであろう。

どうしても両方面からの観点、すなわち繰返して言うが、霊界での観点は、「物質は心の影」であり、

物質界での観点は、「心は物質の影」であると説かなければ、実相ではない。

故に、病気は本来、無いと思念すれば、治癒するという主張であるが、

それは一種の欺瞞であり、自己に対しての心理錯覚を強要するのであるから、患者にとっては、非常な心の苦痛である。

結局、自力療法である。

神仏の力では全然ない。

故に、ある種の限られた病気以外は治療され得ないのである。

一時的法悦はあっても、永遠の法悦は有り得ないのである。


私は言う。病気が在ると思いつつ、否、治らないとさえ思いつつ、なお完全に治癒されてゆく。

その他動の力こそ、いささかの自力の加わらない治病力こそ、それは絶対の大神から流れて来る光、

言い換えれば人間を救い給う、神仏の大慈悲の活現である。

この大慈悲に浴して初めて、不磨(ふま)の信念を得、大安心の境地に置かれて、永遠の生命を把握し得らるるのである。

故に、自己の心中にのみ神を求め、仏の実在を信ぜんとするのは、古来から仏者が、既に説いた小乗的自力信仰であって、

あえて今新しく説く程の価値はないのである。


要するに、「生長の家」の説も、全般的教義主張も、私から観れば、新しい点は更に無いので、

氏が大本教に在った関係上、ほとんどが大本教の焼直しへ仏教とキリスト教の一部を巧みに取入れたまでに過ぎないのである。

即ち「物質は心の影」というのは、大本教の一枚看板である霊主体従と同工異曲であり、

神想観は、鎮魂帰神法であり、

本を読めば、病気が治るというのは、出口氏が編纂の、霊界物語を読めば病気が治る、というのと同じである。

これを要するに、「生長の家」が今日、とやかく言われるのは、氏の宣伝法即ち、営業政策の巧妙と大胆さが、時機に投じたのと、

従来の宗教が、インテリ層を閑却していたのを、氏は巧みに、こちら面に呼びかけた等の理由で、今日の発展にまで到ったのであろう。」




明主様戯文 「屁の玉宗」 (昭和10年10月21日発行)

「世の中も変れば変るものじゃわい。

雨後の筍(たけのこ)みた様に新興宗教とやらがニョキニョキと、出るわ出るわ一週間に、一本ずつ位とは恐れ入る。

中にも近頃売出しの、薮に生れて長くなる、筍みたいな錯覚宗、何々薬か化粧品の様に、新聞広告を第一の、道具に使って広告し、

ニキビ書生や青二才、蓮ッ葉女性や生臭坊主、未だ世の中の苦労など、した事ない様な坊ちゃんの、

引ッ掛りそうな御託宣、並べて好奇心をまずそそり、何とかの本を読んだなら、釈迦 基督(キリスト)に一遍に、なるというのだから笑わせる。

もしそうなったなら大変じゃ、釈迦 基督が多過ぎて、差詰(さしずめ)お寺の坊さんは、肉食妻帯御取上げ、

まったイエスが、あちこちに不敬事件を起すので、毎日死刑じゃ堪らない。

そんな物騒な本などをどしどし売られたらどうなるか、とは思ってもみたものゝ良く考えりゃそれはその売薬などの広告と同じ流儀の商売上手、

釈迦や基督うんぬんは、誇大広告の嘘の皮、一皮剥げば影の影、実に何にも無いのやて、まずは安心なんどゝは思いも何にもしないので御座る。


西洋医学に愛想尽かした人達の、相手に出来た何々療法、数え切れないその中に、これはこれは驚いた。

珍妙不思議な療法が出来てただ今ジャンジャンと鳴物入りで広告中ただしこれには名がないので阿呆が命名して進ぜる。

それは精神錯覚療法と命けたらピッタリ合おうで御座る。

とは余りに変テコな、名前じゃないかと言う事を、罷(や)めてトックリ聞きなさい。

この療法の言う事にゃこの人間の肉体は、心の影じゃで肉体は、テンデ無いから肉体の、病気もテンデ無いんだと、言うのじゃからして面白い。

つまり筍も人間も、宗教も国家もこの地球も、テンデ無いので、有ると見えるのは生命の、実相とやら知らぬ奴。

本来宇宙の一切は、空々寂々ゼロの零というのじゃから何が彼やテンデつかまえ所などないマルッキリ湯の中で屁をした様なアブク論。

御本人様も無いんじゃて、それに向って文句言う、とは屁の玉を相手にして喧嘩する様な べらぼうだが、

阿呆も割と利巧者いくら悪口言ったとて屁の玉同然空気同然の蔭みたような相手じゃて、ブン撲ぐられる心配なんか無いのじゃから面白い。


これで病気が治るというので御座るから世の中は狭いようでも広いもの、

鼻糞程に ききもせぬ、売薬じゃとてデカデカな、広告すれば売れ出して、何十万の金儲け、する奴さえもあるんじゃて、

石川や浜の真砂は尽きるとも世に泥棒と言うところを、

泥棒の二字を馬鹿の字に入れ替えたならなおの事名歌になるのに五右衛門もチッと脳味噌の足りぬ奴。

ともあれ「在るものを無いもの」と思わせ、無いものを在るものと思わせるという大錯覚、

嘘と思うならどなたでもこの宗教の本部とやらー一寸覗いて見りゃ判る。

青い顔した病人が、現実の病気を一生懸命に無いと思おうとー

錯覚に、汗水垂らし八の字を額に寄せての苦悶面(づら)見ればまことが可愛想、哀れ儚(はか)なき次第で御座る。

だが待てよ、病気治しの錯覚だけなら、未だ未だよいが今一歩、脱線したなら大変じゃ、

人の物と、自分の物と、自分の物と人の物と、アリャコリャトンチンカンに思ったら、金のある奴は堪らない、

ウッカリとしてこの娑婆に、居られる者じゃ御座らぬて、などと心配する程の、事もない哩(わい)初めから影も形もテンデ無い。

臭いばかりの屁の玉宗、煙となって発散を、してしまうのでまず安心。」




明主様戯文 「生命ちゅもの」 (昭和10年8月16日発行)

「この間の新聞広告欄の、谷口雅春氏の著書の見出しに、生命の奔流や、いのちのはやて、などとあるので、はて、変じゃわいと、阿呆考えてみたので御座る。

で、この人によれば生命ちゅうものは、河へ流れ出したり、風になって、ふっ飛んでしまうのであるから、実に危いでは御座らぬか?

何と諸君、河岸(かわぶち)や、風の吹く日は、しっかり生命ちゅうものを、押えて流れたり飛んだりせぬ様にする事じゃて。」




明主様戯文 「空々寂々」 (昭和10年6月発行)

「この間ある人がこの阿呆に向ってこういう質問をしたのじゃげな、

それはその人にある先生が例えば人間の肉体はこの通り実在はしているようだが、

真実は空なものであると言われたが、それは真理であろうか? とそこで阿呆答えていわく、

宜しいそれなら今度その先生に遭いなすった時、いきなり横ッ面を張り飛ばしなさい。

もし怒ったら先生のおっしゃる通り信じまして先生の肉体は実在しない空でありますから、空を打ったんであります、

と言ってやりなさいと言ってやったところその場に居た二三の人達と共に大笑いしたので御座る。」