お説教宗教について


明主様御垂示 「お説教宗教は低級」 (昭和25年2月)

信者の質問
「子供が死んで天国に行った場合、学校のようなものはありましょうか。」


明主様御垂示
「学校はありませんよ、霊界にはないんです。

その代わり智慧証覚を得るように自然に養成されるんです。

霊界でもね、八衢以下だと少し違ってて、ある程度教護師のようなものが説教をするんです。

けど、それも人間の心の修養とか学問とかとは違って、執着をとることや信仰のなんたるかをよく教えるんですよ。

そして天国のほうは、いま言ったように、その階級に応じて自然に智慧証覚を得るようになってるんです。

しかも高級になるほど言葉は使いませんよ。

上のほうになると目で意志を交換するんです。

もっと上になると目も使わず、ただ心、想念だけになるんです。

こうなるといくら遠い所でも、あるいは何十年何百年先のことでも自由に判るようになるんです。


この理屈は人間でも同じですよ。

たくさんいろんなことをしゃべって相手に判らせようとするのはまだ低いんですよ。

高級になるほどあっさりしたもんですからね。

あっさりしてて、しかもちゃんと先方に判るように話すのが一番高級なんですよ。

くどい話し方をする人がよくありますがね、くどいのほど低級であり、その人の頭の悪い証拠ですよ。

頭が悪くて、あっさりしてたんじゃ自分が理解することができないもんだから、

先方もきっと判らないだろうと思ってくどく言うんですよ。

宗教にしたって、しつっこく言う宗教ほど低級で、あっさりしてるほど高級な宗教なんですよ。

だから私のほうの宗教には説教なんかありませんよ。

一つ事を繰り返し繰り返し言ったり、お経だの説教だのを長ったらしくやるものほど宗教としては低級なんです。

お祭りだって半日くらいしてるのもありますからね。

真理ってものは簡単なもんですよ。

ややこしいものは真理じゃありません。

あのマルクスの資本論なんか一番ややこしいでしょうね。

これは、まあ労働者相手だから、あまり高級でもしかたないでしょうけどね。


例えば、太陽は東から出る、これは真理ですよ。

これはどこでも、昔も今も変わりがなく、これ以上に言いようがありませんからね。

私のほうでは幸福ってことを説くのに、人を幸福にすればそれだけ自分も幸福になるって言うんですが、

これが人々に判らないから、いろいろ例を挙げて説明してるんですよ。

いまの人はそれだけ頭が悪いんですね。

だから、小学校、中学校、大学と十何年もかかるんですよ。

よくよく頭が悪いんですよ。

いや、頭を悪くしちゃってるんですね。」




明主様御講話 「既成宗教はお説教宗教」 (昭和28年2月15日)

「今度「救世教奇蹟集」という本を出すつもりで、その序文だけ書きました。

そして今まで発表しただけの奇蹟のすばらしいものを出します。

それで結局宗教の価値ということですが、つまり宗教ではたいした奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。

宗教以上というとメシヤ教より他にはありません。

そこでメシヤ教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。

今までの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。

もっとも日蓮上人のような傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。

しかしメシヤ教では、私の弟子がキリストがやったような奇蹟も行なうし、

他の宗教の教祖がやるようなことは、信者さんでも充分現わせるのですから、そこに違いさがあります。

だから奇蹟の顕著なことと多いことが宗教の値打ちです。


ところが既成宗教はそういうことがないので、だんだん理屈の宗教になっていったのです。

一般に対してはお説教宗教です。

大体お説教というものは宗教ではないのです。

それは道徳です。

「人間はこういう気持ちをもて」とか「こういう行いをしなければいけない」と言うが、

そういう道理を説いて心を良くするということであっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。

ところが奇蹟を現わすことができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。

黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。

だから私の方では、あんまりお説教はやりません。

しかしそれも少しは結構です。ところが今までの宗教はお説教専門なのです。

また、「こういうように養生しなければならない」

「こういうものを食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない」というのでは本当のやり方ではないのです。

そういうのではしようがありません。

黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。

というのは、やはり宗教が持つ力です。

その力を現わしたものが奇蹟となるのです。

それで奇蹟は科学的にも説けるのです。

だから本当は奇蹟ではないのです。

よく奇蹟が現われると言うが、それはどうしても理屈がつかないので「ただ不思議だ」と言うだけです。

けれども本当は理屈がつくのです。


それで「いろんな不思議なことがあって命が助かる」ということは、正守護神がやるのです。

正守護神でも、信仰と霊的因縁によって力の強いのと弱いのがあります。

それからまた正守護神は一人ひとり人間を護っているが、その人間が徳を施し良いことをたくさんすると、その恵みが正守護神にも授けられます。

その人が良いことをするのは正守護神が蔭で手伝うからですから、正守護神もそれだけ御神徳を受けるわけです。

そうすると力を増すから、力が増すと、思うように助けることができるのです。

ですから奇蹟もたくさん現われるということになります。

だからこれは正守護神がやるのです。


ところが中には、正守護神で神格を得ているのがあります。

神格というのは、神様の位をもらった正守護神なのです。

そういうのはすばらしい力があります。

それからまたその人の系統によって、祖先が古くから産土神様に祀られている人は、その産土神様の力を分けてくれますから、

そこでその人の働きも大きくなれば、また奇蹟も大きくなります。

だからその関係が分かれば、奇蹟というのは不思議ではありません。

ただ目に見えないから奇蹟だと思うのです。きわどいところで、死ぬと思ったものが助かるということがありますが、

それは正守護神がやっているのですから、別に不思議はありません。

奇蹟集の序文だけを今読ませます。」




明主様御講話 「理屈や言葉の数で責めるのは間違い」 (昭和10年2月11日)

「いままでの宗教は教えとか説教とかで責めて行きます。

理屈や言葉の数で責めるのであります。

天理教では四時間でも五時間でも座ってやってますが、間違いであります。

値打ちのないものは説明がいりますが、

価値のあるものは説明はいりません。

話をすれば判ります。

大いに笑う気分でなければ駄目であります。

本当の岩戸は開けんのでありますから、

観音会では笑冠句を奨励しております。

他ではこの催しはやりません。」