戒律信仰について


明主様御教え 「宗教に自由はあるか」 (昭和25年2月4日発行)

「世間一般の宗教観は、宗教というものは、非常に自由がないように思い、窮屈を恐れて触れない者も相当あるようである、

ところがこれは大きな誤りで、こういう誤りの原因は全く既成宗教の中の小乗信仰に因るのである、

小乗信仰は難行苦行と禁欲主義を実行する事によって、魂が磨け悟道に徹するという建前であるから、

吾々からみると一種の宗教地獄に落ちるのである、


これは何によって起ったかというとその信仰の本尊である神仏に力が足りないからで、

本来なればその本尊の御光によって左程苦しまずに悟りを得、安心立命の境地になるのが本当である、

とすれば、小乗信仰は自力であり、大乗信仰は他力という事になる。

そしてこの小乗道は印度のバラモン宗から起った物である。


以上によっても分る通り、小乗信仰は自由がなく、大乗信仰は無碍(むげ)の自由がある訳である、

といってただ単なる自由ではない、叡智が働かなければ我儘的自由となる危険がある、

真の自由とは他人の自由を尊重する事であるから、

そこに自らなる限度がある、いわゆる一定枠内の自由で、この自由こそ真の自由である、

何となれば他人にいささかでも障害を与えるとすれば気がとがめる、不愉快であるから、

そこに天空海闊的の気持にはなり得ない、

どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、これが真の自由である事を知るべきである。」




明主様御教え 「信仰と戒律」 (昭和24年12月17日発行)

「政治にも封建的と自由主義的とあるが、宗教も同様である、今日までの既成宗教は封建的が大部分を占めていた、

その現れとして何をすべからずとか、何をすべしとかいう戒律が多かった、

これらはいずれも封建的であって、小乗的である、それに引換え本教にはほとんど戒律がない、実に自由主義的である。

宗教における戒律は社会における法規と同様であって人間は法規の力で不正を支えているという事は本当ではない、

本当に立派な人間になれば、どんなところに放り出しておいても取締法規がなくとも悪は行えないというのが真の人間である。


この理によって、戒律とはいわゆる宗教の法規である、したがって戒律によらなければ正しい信仰的行いが出来ないという事は、本当の信仰ではないという事になる、

とはいうものの人類が野蛮未開の時代は人間の智能が低いので、宗教を真に理解し得ないので、

どうしても戒律によって悪を制御しなければならないからである。


以上によってみても明らかなるがごとく、高度の文化時代の宗教は真に神意を理解し得らるる人間にまで進歩したとしたら戒律という刑罰は必要がないので、

そういう宗教こそ恒久平和の地上天国を作り得る資格ありというべきである。」




明主様御教え 「観音信仰」 (昭和24年4月20日発行)

「人間生活において何事もそうであるが、特に観音信仰においては円転滑脱自由無碍でなくてはいけない。

円転とは丸い玉が転がるという意味であるから、角があっては玉が転がらない。

世間よくあの人は苦労人だから角が除れてるというが全くその通りである。

ところが世の中には角どころではない、金平糖のような人間がいる。

こういうのは転がるどころか、角が突っかかってどうにもならない。

そうかと思うと自分で型を作ってその中へ入り込み苦しむ人もある。

それも自分だけならまだいいが、他人までもその型の中へ押込んで苦しませるのをいいと思う人があるが、これらは小乗的信仰によくある型で、いわゆる封建的でもある。

こういうやり方は信仰の上ばかりではない、社会生活においてもカビ臭くて、鼻もちがならない。


そうして自由無碍という事は型や枠を造らない、戒律もない、天空海闊(てんくうかいかつ。人の度量が、空や海のように大きいこと)の自由で、無碍もそういう意味である。

ただ自由といってもわがまま主義ではない、

人の自由も尊重する事はもちろんである。


観音信仰は大乗信仰であるから、戒律信仰とはよほど違う点がある。

しかし戒律信仰は、戒律が厳しいから仲々守れない、

止むなくつい上面だけ守って蔭では息つきをやるという事になる。

つまり裏表が出来る訳でそこに破たんを生ずる。

と共に虚偽が生れるから悪になる。

この理によって小乗信仰の人は表面が善で、内面は悪になるのである。

それに引換え大乗信仰は人間の自由を尊重するからいつも気持が楽で、明朗で裏表などの必要がない。

従って、虚偽も生れないという訳で、これが本当の観音信仰であり、有難いところである。


また小乗信仰の人は不知不識(しらずしらず)虚偽に陥るから衒(てら)いたがる、偉くみせたがる、これが臭気芬々(ふんぷん)たる味噌になってはなはだ醜いのである。

そればかりか反って逆効果となり、偉く見えなくなるものである。

小人というのはこういう型の人である。


またこういう事がある。

私は普請をする時にはいつも職方と意見が異う。

どういう訳がというと、職方はただ立派に見せようとするので、それが一種の嫌味になるから私は直させる。

人間も右と同様で偉く見せないようにする人はすべてが謙遜となり、奥床しく見えるから、そういう人は心から尊敬されるようになる。

ゆえに観音信者は心から尊敬される人にならなければならないのである。」




明主様御教え 「太陽の救い」 (昭和27年11月19日発行)

「現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば、最初から色眼鏡で見る癖がある。

どうせ近頃の出来星宗教であるから、時世に便乗して巧い教理をデッチ上げ、愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いないと決めているので、

たとえ病気に罹っても医者にも掛からせずおまけに血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、困った世の中だくらいに思っているらしい。

なるほどそれが事実としたらその通りで、吾々宗教人といえども共鳴にはばからないのはもちろんである。


しかしそれも満更間違ってはいないとも思うというのは新宗教中二、三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。

その例として世間よくある大きな声で経文を読み鐘や太鼓、拍子木等を叩き、

近所迷惑などお構いなしでいい気持になっているのを見ると、一種の騒音罪悪であろう。

また衆人環視の中で、多勢の信徒が変な歌を唄いながら、

妙な手付で何の会釈もなく舞踊(おど)っており、さながら夢心地の陶酔境である。

これを見せつけられて余りいい気持のしないのは吾々のみではあるまい。

としたらこれらも社会的に見てどうかと思うのである。

そうかと思うと信仰に熱心な余り一人よがりになってしまい、

他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、

極端になると神憑りを喜び、気狂い染みた人間を作る信仰さえあるので、

これらもプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。

また罪のないのもある。

髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、

これらは全く嫌味タップリで、よくこんな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。

また昔からある種の信仰には付物の難行苦行であって、寒中の水垢離(ごり)、深山へ籠っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、

なるほど御当人は大満足であろうが、吾々普通人にはサッパリその了見が分らないので、むしろ可哀想に思うくらいである。


以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのしたやり方を宗教本来のものと思っているこの迷信も困りものである。

これらを見るにつけ、私は宗教人でありながら苦行をいいとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にもいっている。

以上のごとく今日低級信仰が巾(はば)っているので、最初かいたごとく有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。


ところが手前味噌ではないが、我メシヤ教は右のような信仰とは全然異っている。

まず第一常識を重んずる事、生活も行動も一般人と少しも変らない事、

いかなる人とでも親和を旨とし、円満を欠かない事等をモットーとしているので、

この真相が分ったならいかなる人でも安心して、本教の信者とならないまでも接近したくなるであろう。

ところが右の真相を知らないため、漫然と客観して前記のような常識外れの信仰と同一視せられるので、実に迷惑である。

従って本教の発展を妨害するものは無神論者でも科学迷信者でもない。

むしろ右のごとき好ましからざる新宗教といってもよかろう。

しかも意識的妨害ではないから、反って始末が悪いくらいである。

この事は考えるまでもなく日本特有の宗教界のあり方であろう。

というのは欧米においてはどの国も大体キリスト教一本である事と、文化の発達が日本より早いので、

宗教の見方にしても比較的公平であり、合理性に富んでいるからまことにいいが、

日本は仏教あり、神道あり、キリスト教あり、しかもそれらが幾派にも分れているので、

実に正邪混淆(こんこう)雑然としているから、その点実にやり難いのである。


だがいつもいうごとく、我メシヤ教は宗教ではなく超宗教であって、

歴史肇(はじま)って以来いまだかつてない救いの業であるから、何も彼も異っている。

何人も本教の型破り的やり方にみても分るごとく、在来の宗教の頭では容易に呑み込めないのも無理はないが、

しかし一旦分りかけたが最後、今まで求めていたものはこれだなと知り、心の底から歓喜が湧いて来るのは例外はないのである。

何よりも本教の発展振りをみれば分るごとく、僅か数年にしてこれ程発展した事実である。

それについて注意したいのは、最近数年間に素晴しく発展した二、三の新宗教もあるが、それは本教とは根本的に異っている。

というのはそれらの宗教は既成宗教を土台とし、その団体の多数の信者を糾合して出来たのである。

それに引き換え本教は一から十まで独創的である以上、この点充分認識されたいのである。

そうして前記のごとき非常識極まる宗教は、云うまでもなくその根本が小乗信仰であるから窮屈で自由がない。

しかし自由といえば宗教とは縁遠いように一般は思っているが、この点ヤハリ現界と同様、

民主的自由主義でなければ、今後における一般大衆を指導する事は出来ないであろう。

これを分り易くいえばこうである。

今日までの宗教は小乗本位であるから、世界と同様各国それぞれの色が異うがごとく、宗教もそうなっている。

従ってその説くところも自家本位で一般性がないから、救いの範囲も狭いのは当然である。

しかも小乗信仰は厳しい戒律があるので、それに縛られて苦しむのを行としている。

これらは神の愛を拒否する事になり、気の毒なものである。

これを私は信仰地獄といっている。

ところが本教は反対で、ほとんど戒律がないから極めて自由であり、

人生を楽しむ事を神の恵みとしているから、これこそ天国的信仰といえよう。

以上のごとく大乗的本教には宗教、哲学、政治、経済、教育、芸術、医学等々、人間に必要なものはことごとく包含されており、

ちょうど太陽があらゆる色をコントロールして白一色であるごとく、本教は昼の宗教であり、太陽の救いである。」




明主様御教え 「自由無礙」 (昭和11年1月25日発行)

「私はいつも、自動車に乗ってる時に、よく思うんですが、

観音行はちょうど、自動車の運転のようなものである。

途(みち)を真直に行くにはハンドルを絶えず、右とか左とか動かしておる。

そこが非常に面白い所で、真直と決めれば、必ず障害物に突当ります。

それと同じで今までは物を決めたがったので、それで失敗するのであります。

例を政治家に採って見ましょう。

政友会は、積極政策で行き、民政党は消極政策であるといいますが、

そういう風に決めるからいけないんであります。

これが決めない様になれば、政治もうまく行くんであります。

政治もそういう風に、お互いに決めなくなれば、政友会とか民政党とかいう、党派も無くなって、一つになるんであります。

いずれは政治もそうなりましょう。

社会は生きている。あらゆる物は生きて動いているんでありますから、

生物に対して、決めてかかるから、違って来るんであります。


例えば、剣術を使うにしても、主義で決めたら大変です。

打って来る時に、突きを防ぐ主義でやるとすれば、打たれるのは当り前であります。

こういう風に決めると、言う事が違うんであります。

今まで種々ありました。募債主義とか、非募債主義とか、あるいは、金輸出解禁とか、禁止とか、

最初から主義を立てるから違うんで、

主義を立てると、その物は死んでしまうんであります。


要するに政治は、積極にも非ず、消極にも非ず時と場合に依って応変するのがよいのであります。

何事でもそうなのであります。

今日は、積極、明日は消極という風でもよく、

あるいはこの月は積極、来月は消極でゆくという風でもよいのであります。

時処位に応じて千変万化するのが、本当なのであります。


観音行は何事も決めないで、自由自在なのであります。

観音様の事を、一名無礙光如来というのは、そういう訳であります。

将来の政治は、そういう行り方でなくてはならない。

すべて決めてかゝるというところに、間違いがあるんで、

その点から言っても、今までの行り方は間違っていたんであります、

モーゼの十戒とか、仏教の五戒とかいうのは、非常な間違いであります。

五戒とか十戒とか決めると、それ以外は何をやってもいい事になってしまうんで、戒律のないというのが真理であります。

ただ一つの教に帰依すればいいので、それによって自然に戒律が守れるんであります。

それが観音の行り方で、観音様は一の位一の数であります。


一という数は、数の元であり、拡げれば、無限の多い数にもなる。

一にして無数であり無数にして一であり、随って、いかなる数も、一なら割れるんであります。

二以上になるとそうは行かない、限られてしまう、

観音様は一であり、無数であるが故に、自由無礙なのであります。

今までの宗教はいずれもが二以上の数ツマリ枝であります。

枝は限られているので、全世界の宗教を帰一する事が出来ないのであります。

それ故今までは根本である一を隠して居った。

二までしか出ていなかったんであります。

この一こそ、最高の教で、絶対の救いであります。

言葉では言えぬ、力、これが即ち、真理であります。


話は一寸違いますが、総理大臣、即ち政治の主脳者が、観音力を与えられたならば、米の不作などど言う事はない。

必ず豊作になり各地に、風水害などいうものは、全然起らないのであり、

貿易なんかも能(よ)く調和がとれるんであります。」 (岡田仁斎)




明主様御垂示 「人間が本当に良くなれば戒律はなくなる」 (昭和26年12月1日)

信者の質問
「小乗と大(ダイ)乗ということで、お言葉をいただきますとき、大(タイ)乗とおっしゃられます。

普通は大(ダイ)乗というのは、小乗に対する大(ダイ)乗で、経と緯になり、大(タイ)乗は経緯で、もっと大きなものになっていくものと思っておりますが・・・」

明主様御垂示
「何でも大乗的見方でいくと、一時は悪くても、結果において良くなっていきますね。

小乗は、一時良くても、結果が悪くなる。

医学なんかはみんな小乗です ・・・薬や機械で治すというのはね。

しかし、小乗はすぐに良く見えるから、良いように思う。

大乗のほうは、結果が遅いからね。そこでみんな間違えちゃう。

今まで、本当の大乗はないんだからね。

そこで、そうかといって、大乗だけじゃしょうがないですね。

小乗もなければ・・・大乗だけじゃ誤解があるからね。

大乗にあらず小乗にあらず、大乗であり小乗であり・・・較べてみて、どっちかと言うと、大乗にする。

一番の間違いはそれから、決めるということが間違いですね。

決められないようにできているんだからね。

真理というのは、決められないようになっている。

だから、決めるべきことと、決めないことと、区別しなければならない。

決めることも、永遠に決める、時間的に決める、刹那的に決める・・・とね。」


信者の質問
「大乗小乗は身体でいえば、骨が小乗で肉が大乗と考えまして・・・」

明主様御垂示
「そういう点もありますね。

だから、教会なんか、小乗だったら、決して発展しないからね・・・骨だからね。

骨に触るのは、誰だって嫌だからね。やはり肉のほうがよいからね。

しかし、骨だけだったら・・・八十以上の婆さん・・・

そうかと言って、肉ばかりじゃピンとしないですね。グニャグニャになってね。

ところが、今までどんな宗教でも、みんな小乗的でね。


だから、本当いうと、戒律というものもないくらいにならなければならないね。

ところが、戒律がなかったら危険だからね。

それで、人間が本当に良くなれば戒律はなくなる。

戒律がいらないような人間にならなければ駄目ですね。

今度の文部大臣の天野氏か・・・あれが、変な ・・・国民実践要綱というのを出したが、あれが今いう戒律だからね。

こうしちゃいけない、ああしちゃいけない。

こうすべし、ああすべしと言って、人間が良い人間になるんじゃ・・・檻がなかったり紐がなかったりすると、危ないというのと同じですね。

放ったらかしてやっても、勝手にしろと言っても。

ちゃんとやるのが、人間の価値があるんです。

けれども、今までの世の中は、そういった戒律がなくちゃ人間が駄目だったから、あって良かったんですね。

本当の人間になってなかった。半獣半人だからね。獣的のところが、戒律になる。」




明主様御講話 「戒律は檻のようなもの」 (昭和29年3月6日)

「今度、今まで私の書いたものの中から選んで「メシヤ教の聖書」みたいなものを編集するについて、序文を書いてもらいたいというので書いてみましたから読ませます。

(御論文「救世教とは何ぞや 序文」) 

よく「メシヤ教にはまだ教義がない」とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。

本当いうと宗教ではないのだから、教義などはいらないわけです。

だいたい「教義」という言葉がピッタリしてないのです。

教えではないのですから・・・。

教義というものは昔から、ほとんどの宗教にはありますから、随分立派な、よくできた教義がたくさんあります。

つまり教義というのは、教えの理屈ですから、教えでは人間は救えないです。


今度の静岡民報に私のことが続きものになって出始めましたが、あの中にちょっとうまいことがあります。

「自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。

そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書の方になった。

それが分かってみると、さっぱり興味がなくなって止めてしまった」ということがありましたが、それはうまいことだと思います。

つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。

そういった道徳以外に、つまり理屈のつかない不思議なものがあるので、

それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。

そうなると、宗教としての価値というよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。

ですから教えはいらないわけです。


ここのところがなかなか難しいですが、ちょうど犯罪者が出ないように法律を作るということです。

法律を作るということは、「こういう悪いことをすれば、こういう罪になる、こういう刑罰を与えられる」ということで、わずかに秩序を維持してゆくというわけです。

それから宗教の教えというものは「人間はこうすべきものではない」「こうしなければならない」と、箇条書になっているのが随分あります。

だいたいその元祖はモーゼの十戒です。「何すべし」とか「何すべからず」とか、

ということでは、やっぱり、法律のような肉体的刑罰はないが、つまり霊的刑罰、そういうものがあるわけです。

聖書にある「他の女を、どうしようとか思うということは、すでに姦淫の罪を犯している」というような、一つの霊的刑罰です。

人間は刑罰によって良いことをする、悪いことをしないというのでは本当のものではないのです。

ちょうど酒を飲むと毒だから飲まないようにしなければいけないと、一生懸命我慢するというのと同じです。


ですから、宗教とすればまだ低い所です。高い所ではないのです。

そこで高い宗教というものは、「そうすべからず」とか、そういった刑罰がなく、ただそういうことが嫌なのです。

酒なら酒を飲みたくなくなるのです。

それで、そういう変なことはする趣味がなくなってしまうのです。


悪いことやずるいことをするのは、やっぱり趣味なのです。

汚職事件などをする人は、ああいうことが好きなのです。

気持ちの良い、並の手段で金を儲けるというのよりか、暗い所でやるそれがおもしろいのです。

ということは、つまりその人の魂が本当でない、低いからです。

魂が低くなければそういうことはしないのです。

つまり動物的根性が多分にあるから、どうも明るい、人間的感情がごく少ないわけです。

やっぱり刑罰という檻がなくては危ないのです。

檻があっても、それを破っているのですから・・・。

ですから霊的に言うとずっと低いのです。

本当に言うと、世の中で言う政治家とか、肩で風を切っている偉い人は、霊的に言うと実に低いのです。

下等なわけです。そういうようなわけで、法律も戒律もなにもなくても悪いことをしない、悪いことに趣味が起こらない、


それで良いことをするのがおもしろいという魂になると、それが本当の魂です。

ですからウッチャラかしておいても悪いことをしないというので、

人が見ているから悪いことをしないというのではいけないわけです。

そういう人間を作るのがメシヤ教の本筋なのです。

しかし無論いきなりそういう立派な人間になれるわけがないから、教義というものも必要です。

しかし根本はもっと上の方にあるのだからして、そこで宗教ではないというわけです。


今までこういう上等なものは出なかったのです。

ところがそういった上等なものが出たのです。

だからそういった上等なことを分からせるには、なかなか簡単にはゆかないです。

「そういう馬鹿なことがあるものか」というわけです。

つまり浄霊をすると疑っても治るというわけです。

ところが先は理屈で来ますが、理屈の方が下で、こっちは理屈より上です。

それで、研究すればよいのですが、今までの理屈で分からなければ「駄目だ」と、今のインテリなどは見るのです。

実に難しいのですが、しかし本当に分かれば、これはまた理屈よりかもっと良いものだから、これは離せないということになります。」