脅迫信仰について
明主様御教え 「迷信邪教」 (昭和23年9月5日発行)
「今日新聞雑誌ラジオ等、盛んに迷信邪教にだまされるなという事を警告しているが、
なる程、迷信邪教は昔から絶えず輩出しているばかりか、今日は最も甚だしいようである。
しかし、全部が全部迷信邪教とはいわれまい。その中の幾分かは今日立派な宗教として残っているからである。
実をいえば、今日世界最大の宗教として隆盛をうたわれている彼のキリスト教にしてもそうである。
その立教者であるイエス・キリストが、生存中は迷信邪教として遇され、遂にあれ程の刑罰をうける事になったのを見ても肯けるのである。
茨の冠を被せられ、刑場へ曳かれてゆくその傷ましきお姿に対し、それを阻止すべき一人の義人も表れなかったという事実にみても、いかに時人から迷信邪教視せられていたかが察知せらるるのである。
わが国においても、遠きは法然・親鸞の遠島を始め、彼の日蓮が法華経を弘通するにあたって、その法難のいかに過酷であったかという事や、
近きは天理教開祖の中山ミキ子刀自の二十数回の留置所入り、数回の入獄等の例にみても明らかである。
ただ釈尊のみは全然迫害を蒙らなかった事は、その出身が皇太子であったという理由による為であろう。
私としても今日新しく発生した種々の信仰を観る時、その余りに低劣なるに、顰蹙せざるを得ない事がある。
もし私が当局としても、厳重なる取り締まりをせざるを得ないと思う程で、社会に迷惑をかけ人騒がせをさせる神憑り的信仰や、
到底見るに堪えない多数の信徒が踊り狂う狂態や、突飛な予言をし、世人に恐怖心を与えたり、騒音によって近隣を悩ます等の信仰も、本当のものとは思えない。
また中には、金儲けの目的をもってする宗教企業もあるが、これらのすべては時の推移と共に、いつかは没落し消滅するものである。
広い世間には恐ろしい信仰がある。
それは一種の脅迫信仰である。
例えば何年何月何日には大変事があるから、助かりたい人は何々教に入らなければ危ないと言い、
そうかと思うと、一旦入信した者が脱退しようとする場合、その先生が恐ろしい事を言う。
「あなたがこの信仰を離れたら最後、必ず死ぬ」とか、または「一家死に絶える」というような脅しを言って脱退を止めようとするが、
これらはいずれも正しいやり方ではない、一種の脅迫であって、恐ろしいから信仰を続けるという事は甚だ間違っている。
もともと神仏は愛であり慈悲である以上、脅迫などある筈はないのである。
有難い神仏であるから、入信したいというのが本当の信仰である。
またこういう事も警戒しなければならない。
それは執拗に信仰を勧め、何度断わっても来ては勧め、または長時間にわたって種々の行事を行ない、ために家業に影響を及ぼす事等である。
こういう信仰なども本当のものではないと私は思うのである。」
明主様御教え 「宗教と自由」 (昭和25年1月14日発行)
「今日までの宗教をみると、宗教にはほとんど自由がないといってもいい、
その多くは厳重なる戒律に縛られて身動きも出来ないくらいで、これが宗教本来の姿と思われて来た、
そういうのを深く検討してみると全く信仰地獄の観がある。
そういう宗教に限って何をすべからずとか、
何をすれば神様の御怒りに触れるとか罰が当るとかいう戒律づくめで、
自由なゆとりのある生活など見る事が出来ない、
そんな訳で神に対する観念は敬愛とか親しみなどはほとんどなく、
ただ恐れ戦(おのの)いているばかりだ、そればかりではない、
病気も貧乏も家庭不和も、年中付纒(つきまと)って放れない、
それらの苦悩に対しその教師はきっとこういう、
「貴方の家には先祖から罪障が多い、
苦しむのはそのためであるから一生懸命罪障消滅をしなければいけないが、
貴方はいまだ信仰が足りないから苦しみが絶えないのだ」とこういうのである、
中にはあまり苦しみがなくならないので信仰地獄から抜けようとすると、
決って言う事には「貴方がこの信仰をやめれば、一家は必ず死に絶える」と脅すので抜ける事も出来ず、
現状で我慢出来ず進退きわまるという人をよく見るのである。
信仰の目的は、天国的歓喜の生活者となるのであるに関わらず、
右のごとき、およそ反対な結果であるという事は何のためであるかというと、
そういう低級宗教を長く続けていると、肝腎な智慧は鈍化し理性を失い、善悪正邪の判別など出来なくなるのである、
そうしてこういう人と唯物主義者とを比べる時、結論としてどちらも安心立命など得られない事は、百年河清を待つに等しいと言ってもいい。
以上の意味において吾らは唯物主義者を救わなければならないと共に、地獄的信仰者をも救わなければならない事を痛感するのである。」
明主様御教え 「自由なる信仰」 (昭和27年10月8日発行)
「(一部のみ引用) 信仰の自由は、新憲法制度以来そうなったので、これについては論ずる必要はないが、私の言わんとするところは、信仰それ自体の自由である。
というのは世界中大中小幾多の宗教があるが、例外なく自分の宗教は最高であり、他の宗教は必ず劣るとしているのは誰も知るところであろう。
という訳で他の宗教へ触れる事を極力戒めている。
他教は邪教であるとか、コチラの神様のおとがめが恐いとか、二心あっては救われないとかいうのである。
それが宗教によっては随分厳しいのがある。
万一転向でもすると、大きな災いが来る、大病に罹る、命が失くなる、中には一家死に絶えるというような、縮み上がるような事をいって喰止めようとする布教師もある。
これこそ邪教の常套手段であって、もちろんこのような事は常識的に見ても、馬鹿馬鹿しいが、本人自身は案外信じて、中々決心がつき兼ねる。
ところがこういう信仰は新しい出来星の宗教のみではない。相当古い立派な宗教でも、それに似たような事が往々あるのだから不可解である。
これなどもよく考えてみると、自由思想は政治や社会面のみではない。
宗教にも封建の桎梏(しっこく)は相変らずのようである。
右のごとくであるから、私は宗教についての自由を言いたいのである。
それは信者の意志を制約して、教団の都合を図る事で、これこそもっての外である。
しかもその手段として用いるのが言葉の脅迫であるから、ここに至っては最早赦(ゆる)すべからざる信仰的脅迫である。
その一例として私はこういう事を聞かされた事がある。
自分は随分長い間熱心に信仰して来たが、年中病人は絶えず、貧乏の苦しみからも脱けられないので、段々信仰が嫌になったので脱けようとすると、
その布教師は恐ろしい事をいうので、どうしていいか分らないで迷っているといって相談をかけられたので、
私はそういう宗教は無論邪教だから、一日も早く止めなさいといってやった。
しかしこういう宗教も世間仲々多いようである。(後半省略)」
明主様御教え 「神は正なり」 (昭和25年3月18日発行)
「(前半省略) ここ注意すべきは、そういう宗教の教祖とか生神様とかいうものの態度を厳正なる眼をもってみればよく判る、
その著しい点は、愛の薄い事と、信仰は小乗的戒律的で厳しいと共に、
自分のいう事を聞かないと罰が当るとか、自分のグループまたは信仰から抜ければ滅びるとか、生命がないとかいって脅かし、
離反を喰止めようとするいわゆる脅迫信仰である、
こういう点がいささかでもあれば、それは邪神と断定して間違いないのである。
私が常にいう通り、正しい信仰とは大乗的で、自由主義的であるから、
信仰の持続も離脱も自由であると共に、天国的で明朗快活である、
ところが反対に秋霜烈日のごとき酷しい戒律信仰は邪教であり、信仰地獄である、
特に注意すべきは、これは人に言ってはいけないなどというような、
いささかでも秘密があれば邪信と思っていい、正しい信仰は何ら秘密がなく明朗そのものである。」
明主様御垂示 「脅迫信仰は邪神」 (昭和24年8月23日)
信者の質問
「近所の○○教の布教師が私の再縁の妻に向かって「あなたの夫はあなたに絶対的に服従しなければ目が潰れる」とか
「○○教に入らぬと夫婦ともやがて死ぬ」とか申します。
ところがその布教師は人の顔を見ただけで家族のことまでいろいろ言い当てますので、
妻は内心非常に怖れております。いかがいたすべきでしょうか。」
明主様の御垂示
「こんな、目が潰れるなんてことは絶対にありませんよ。
こんなのは脅迫信仰と言ってね、たいへんな誤りなんです。
こんなふうに脅迫する場合は必ず邪神ですから怖るるに足りませんよ。
脅かすってことは邪神がよくやるんで、本当の神様は絶対邪神には負けやしませんからね、ちっとも問題にしなくていいですよ。
私なんかも昔からどんなに脅かされたかまったく判りませんよ。・・・
信仰ってものはね、決して脅かしてやらせるものじゃないんです。
だから、こんなのは気をつけなけりゃいけない。
それから、くどくしつっこいのはいけませんよ。
神様はまったくあっさりしたものなんです。
「神様に二言なし」で、一言しか言われませんよ。
私はよっぽどのときだけ神様に伺ってみるんですが、そのとき神様はたった一言ですよ。
まったく、そりゃあ簡単なもんですよ、たった一言ですからね。
人間でもそうで、天皇から勅語が下るんでも決して繰り返しやしない。
「朕(ちん)惟(おも)うになんとかなんとか」ってまったく簡単なものなんです。
しつっこいのは本当じゃないんです。
だから、この道の宣伝もあっさりやらなくちゃいけない。
あっさり言って、それで先方が判らなければ、まだ時節も来てなければ因縁もないんですよ。
時期が来れば先方から求めて来ますからね、そのときによく話せばいいんです。」
明主様御垂示 「脅迫信仰は邪神」 (昭和24年8月23日)
信者の質問
「私の姉は○○教の布教師で、その関係上私もそれに入信いたしておりましたが、
一昨年七月このお道に入信いたしましたものの、まだ家には以前の神様がお祀りしてあります。
私の主人はその○○教が嫌で早く返せと申しますが、
神様を返すと一家がたいへんなことになると聞いており、
また、観音様とその神様とは同じだとも伺っておりますので、私は返さなくてもよいと申しております。これはいかがでしょうか。」
明主様の御垂示
「これは返すべきですね。
両方ってことはいけないし、それから、「この教えから抜けると一家死に絶える」とかいろんなことを言いますがね、そんなことは絶対ないんです。
こんな脅迫による・・・つまり脅迫信仰ですね、これは間違ってるんです。
神様ってのは大慈大悲なんですからね、こんなことは絶対ない。
正しい神様のお働きにはないんです。
こんなのは必ず邪神ですよ。
しかし、信仰をよしますね、すると・・・邪神ってのはどうにかしてできるだけ人間を苦しめようと始終隙を狙ってるんですが、
それがいままでは神様の御守護によって隙がなかったが今度信仰しなくなって隙ができると、そこへ邪神が災いを与えるんです。
それがちょうど、罰が当たったように見えるんです。
脅迫して信仰させるっていうのは間違いですよ。
そんなことをすると、脅迫する人のほうへ災いが来るんですがね。
だから、信仰でもなんでも正しいっていうことがなによりの強みですよ。
信仰しなくたって正しい人には災いなんかないはずなんです。
しかし、本当に正しいのは、信仰でなくちゃ続けられないんです。
見えざるものを信じなくちゃ、本当に正しくはなれないんですよ。
だれも見てないからこのくらいのことしたってかまわないだろう・・・って間違ったことをしようとする心がどうしても人間は起るものなんです。
ところが、信仰してると、神様が見てらっしゃるからこんなことはできないと思いますからね。
だから、どうしても信仰が、正しい信仰が必要なんです。」
明主様御垂示 「脅迫信仰は強盗」
「脅迫信仰は強盗に等しき行為である。
信仰は、難病が治癒するとか一家が平和となって有難いという場合信仰するのが本当である。
脅迫信仰は必ず離れる。」
明主様御垂示 「怖さ故の改心はホンマモノでない」 (昭和25年)
「使い途になる人間になる事で、それには本当の信仰をする。
そして霊的に浄まる事である。
入信した人は実に運がよい。
救世教へ入らぬと滅ぶ・・・という風な曲解的宣伝は極めて警戒せねばならぬ。
これは専売特許ではない。ただ一番力が強いのである。
「怖さ故の改心はホンマモノでないぞよ」とお筆先にあるが脅迫信仰はいけない。
一つの刑罰によって信仰する・・・という事になる。
立派な人間になる・・・これが本当である。」
明主様御教え 「迷信の実例」 (昭和10年代)
「迷信のいかに恐るべきかは、未だ充分に、世間に知れ渉っていないように思う。
それでこれから大いに戒告の為に、実例を有のまんま記いてみる事にする。
○○講の、御主人は役員までしている信者であるが、
この信者は、特に恐ろしい程の迷信的要素を含んでいるのは、世間周知の事であるが、
最近その妻女(三十歳位)が、赤児(生後三ケ月)を伴れて来たのである。
見ると、その赤児は口唇は膿毒によってただれ、絶えず、幾個所もから出血をしており、その惨(むご)たらしい有様は見るに忍びない位で、
全体的に栄養不良で青白く、一見まず助かりそうもない状態であって、
医師の言うには、梅毒であるから、注射を三十本しなければ治らないとの由で、
三本だけした時に、私の所へ来たのである。
そうして、鼻汁も絶えず膿汁で詰るので、その度に息が詰って、碌々(ろくろく)睡眠も出来ない有様であった。
母親はとみれば、これも非常に、元来は健康であるのだが、
どういう訳か、乳が出ないので、赤児へは人工乳をやっておった。
母親も調べてみると、腎臓が非常に悪く、手及び脚部はかなり麻痺しておった。
そこで私は、このままでは赤児は助からぬから、是非続けて来いと言ったのでとにかく三回は来たのである。
所が、驚く程良くなって、赤児の唇などは全く治癒し、顔色もまず、普通の状態でない。
従って、最早心配ないまでになった、母親も赤児と同じ様に、ほとんど九分通り全快してしまった。
しかし、この患者を連れて来たのは、私の方の新聞宣伝隊員であったので、三回限りしか来ないから、
そのものは見に寄った所、観音会で治療した事が、○○講の幹部に判ったので、
驚いた幹部は、脅嚇(きょうかく)的言辞を弄したのであった。
それは、いかに治るといえども、○○講以外へ行けば必ず盲目になるというのである。
そこで妻女は恐怖の余り行かないのであるという事である。
しかも外に三人未だ子供があるが、一人は跛で歩行出来ず、一人は腹膜炎一人は慢性扁桃腺という有様であった。
それらを、観音会ならば全部治るから来なさいと奨めた所が、
主人公いわく、実は、観音会で病気が治って来たという事は、所属支部の役員が知ってしまったので、
非常に驚き万一転向されては大変だと、協議会まで開いて、絶対的に私の方へ来る事を阻止しようと猛烈な弾圧を加えたのであって、
そうして、もし観音会の方へ行けば、妻女の眼が潰れるというのである。
観音会へ来れば目が潰れるというのは、いかなる理由であるか、おかしいというより、怪しからぬ言葉である。
そうして、そういう様な一種の脅嚇を以て、日々執拗に責めに来るので、
貴会へ行けば病気が治るという事は事実だからよく判っておるがそういう訳で、
余りに五月蝿(うるさ)いから、暫時(ぜんじ)、気を抜かして貰いたいと、沁々(しみじみ)言うのである。
特に妻女の方は、自分といい、子供達といいよりはっきり観音様の御霊徳を見せられているので、
これからは、心は観音様の方を念じ形式だけ今まで通りやるに過ぎないから、
悪しからず思ってくれろ、その内必ずお願いに行くとの事である。
そういう様な訳で、病気が治ろうが治るまいが、不幸であろうがなかろうが、それらはお構いなしで、
ひたすら、集団の牙城を守るに、汲々(きゅうきゅう)としているのである。
しかも、役員までになって、熱烈なる信仰をしているに係らず、妻女を初め、四人の子供までが全部病人で、
しかも、赤児は生命を保証し難いというに至っては、実に驚かざるを得ないのである。
私は反って、無信仰であったら、かような不幸ではないだろうとさえ思われたのである。
これらを見るにつけ、迷信なるものは、例えば泥沼の中に足を入れた様なもので、
進む事も抜く事も出来ないという、悲惨な状態で日を送りつつあるのである。
こういう不幸な人達が、現在いかに多い事であるか、それをいかにして、救い出すべきや、
この新しい社会問題として、考究しなければならないと、痛切に思うのである。
敢て識者の一考を冀(ねが)う次第である。
(二)
某女四十四歳、○○教十数年間、熱心に信仰し、その犠牲として夫と別れ、数万の資産を全部上げ尽し、
今は布教師として、他人の家に寄食して生活しており、半ケ年前より、左腕の自由を突如として失い、
その信仰によって治癒せんと、お授けその他、あらゆる方法を行うも、更に効果なく、灸治等を行えども、これまた効果なし、
新聞の記事によって本会へ治療を乞いに来た所、一回毎にメキメキ快方に向い、二週間位にして腕の自由を取戻すという奇蹟に、
十数年もやった従来の信仰に較べて、その余りに隔絶せるに驚いて、観音信仰へ転向したのである。
それだけなら別に不思議はないが、その婦人が最初の間、治療に来るのに、その所属教会へ、非常に秘密にしておったので、
その訳は、もし教会長へ知れれば、いかなる危害を加えらるるやもしれず、
腕の一本位叩き折られるかも知れないというので、私は実に驚いたのである。
いかなる事情があるにもせよ、神に仕える教会の支部長ともある身が、腕力を行使するという、その様な事があり得べき事であろうかと、不思議に思ったのである。
段々話を聞けば、それは日本で有数の宗教であるに係らず、
その教団には、飲酒家の非常に多い事、男女関係の紊乱(びんらん)している事等を聞いて、重ねて愕(おどろ)いたのである。
そうしてその婦人のいうには、以前は相当治病の霊徳はあったので、自分も熱信したのであるが、
昨年春頃より、その霊徳は皆無という位になったので、不思議に思っておったとの事である。
ちょうど、観音会の出現が、昨年一月であるから、今までのあらゆる宗教は、月の神様の系統であるから、
東方の光即ち太陽の出現によって、月の光は消えた訳である。
であるから、他のあらゆる宗教も、月日の経るに従い、段々御霊徳は無くなってゆくのは、致し方ない事である。
(三)
昭和十年夏頃、私の所へ来た患者で、一遍は腕及び掌は硬直して曲り、
足は漸(ようや)く歩く位で、絶対に座る事は出来ない、二十二歳の娘があった。
十四五年前からの病気で、いかなる治療を施しても、更に効果はなかったという事である。
それで、普通の治療だけでは難しいので、観音様を祀るべく、その母なる人に、勧めたのであった。
しかるにその母親の返事が実に驚くべき事であった。それはこうである。
自分の家は、先祖代々真宗である、私の宗旨は、医師、灸治、電気だけは許されてあるが
他の療法は、しかも阿弥陀様以外の神仏の御蔭で治して戴くという事は、
大変な罪であって如来様のお咎(とが)めこそ世にも恐ろしいのであるというのである。
そこで、私の方では、私の方で言うようにしなければ治らないとしたならば、どうするかというと、
母親いわく、たとえ一生治らなくても致し方ない、娘一人は、犠牲にしてもよいから、
どこまでも未来で、阿弥陀様の側へ行かれなければならないというのであるので、
最早一言の返す言葉もなく、黙した様な訳である、
これによってみるも、いかにその信念の強いかが判るのであって、常識を失っているかという事が判るのである。
一歩退いて考えてみよ、それ程までに如来様を信じているに拘わらず、一生障害者で通さなくてはならないのは、どうした訳か、
その生きたる事実は、阿弥陀様のアテにならぬ事を証明しているではないか、
そこで私は内々で、その娘だけに言うたのである。
貴女の病気は長い間阿弥陀様を拝んだその罪である。
なぜなれば、指が曲って、掌を合す事が出来ない。
又腰が曲らないから、額ずく事が出来ない、というのは、間違った仏を拝んだからであると言うたのである。」
明主様御講話 「脅迫信仰の具体例」 (昭和11年1月1日)
「最近、四十くらいの婦人で病気治しに来られる人あり、その方はいま一番発展している宗教の信者で、
その信仰では一番比較的に病気が治るんで信者になったもので、その人は病気で手がきかない。
そして肩から膿が出ている。
いままでにあらゆることをした。
なぜかというと、初めのうちは信仰で治そうと一生懸命やった。
それで治らず、しかたなく物的療法を始めた。
すると他の先生は、信仰がありながら医者などへ行くとは怪しからん。
そんなことするから治らぬといって怒られるそうです。
で、私は、それはアベコベだ。そんなことしたから治らぬのではない。
治らないからそんなことしたんだというのが本当と言えば、
その人いわく、以前はその信仰でそうとう治って、お蔭がいただけたが、近来はさっぱりいただけない。
どうも不思議だったが、今度は観音会がめっかって、実にこれだと思った。
そして、いますぐに転向したいが身体がこれでしかたなく、寝ても起きても観音様のことが頭に起る。
どうも不思議だという。
で、私は、いままではすべて夜の宗教ですから、夜のうちは月も星も光輝いて力があったが、今度は日が出て、月も星も見えなくなった。
それで、病気も治らなくなったんだと言ったら喜んでいたのです。
また、実は自分は内密でここへ来ている。
もしめっかれば片腕の一本くらいは折られるかもしれないと言う。
その宗教の所長さんというのは、とても乱暴者で、その信仰の人達はみな酒呑みで、酔っ払ってこのこと聞けばなにをするか判らないと言うのです。
ところが、観音会では酒を呑まない。また、酒など欲しくなくなると言えば、これこそ本当のものだ。
私のほうでは酒呑みばかりで、いつ乱暴をするか判らぬから安心ができない。
そういうときにこっちへ来れば安心だと言っていました。
ところが、昨日来て言うに、昨夜所長は酔っ払って落っこちたとかなんとかで、腕の筋の見えるところまですりむいてウンウン唸ってる。
治っても手は動くまいと言っている。
そんな神のお知らせをいただいていながら、ちっとも悟らぬという。
実にその信仰の人たるや、ふつうの人よりひどいくらいだと言う。
私も驚いた。
とにかく、世間で有力な信仰団体がそのありさま、その他は推して知るべしだと思った。
で、またあなたはどういうわけで手が動かなくなったか判るかと言えば、知らぬと言う。
で、本当のことを言えば、実はいままで拝んでいた神様は違っていたんだ。
もしいま気づかなかったなら、良いほうの手も悪くなるべきだった。
これは、間違った神仏を拝むと一種の罪になる。
それと、夜ならいいが昼間になったら、かえってそれを拝むために、日に背を向けることになる。
太陽が出れば、それを拝まなければいけない、と言ったのです。
その人は、どんどん良くなって一週間くらいになり、昨日など手などスッカリ上がるようになった。
自分の属してる支部には百人くらい信者がいる。
自分が治るにつれてみんな不思議に思ってる。
これが治ったら大いに宣伝しようと思ってる、と言っていました。
も一つ若い二十五になる婦人で、口から始終唾が出る。
出すぎるくらいに出る。初めは胃と腸が悪く、四年くらいやりさんざんに胃が駄目になった。
ひとのみち、生長の家にも半年くらいずついた。
一生懸命やったがちっともよくならぬ。
日日新聞をみて来たんですが、みると胃も腎臓も膿がある。
そしてコチコチに凝っている。首筋にうんと固まりがある。
そのくらいの凝りが一週間ここの治療をやれば、どしどし解けて行く。
ところが、半年も生長の家でやった。
それが、治ったと言いながら、ちっとも解けた跡はない。
病気が非常に治る宣伝していても、事実治ってないのをみると、事実は効なしと思われる。
古い宗教はともかく、新興宗教はそうとう力があると思っていたんですが、その婦人を見て驚いた。
してみると新興宗教のほうにも力はない。
本当に身体を治す力のあるのは、観音会より他にない。これは絶対に断定することができる。
どうしても、光明が強くなれば観音会のみでなく、世間一般が清められる。
病気にもなろうし、また、社会の暗黒面や罪悪や、間違ったところなどどしどし浮かび上がってくるに違いない。
この間の大本教の検挙や天理教のような具合です。
それで本当のものだけが残るわけです。
しかし、本当のものがいくらあるかということが疑問です。
そういうわけになっているから、今年から、改めていう必要はありませんが、
とにかく観音運動を大々的に拡げていかねば、本当に人類は危険千万と思います。
要するに、観音運動は個人の完成で、一人一人の人間をきれいにしていく。
要するに、曇りやゴミをとっていくというのが、観音会の全生命であります。
でありますから、個人をきれいにし、健康な肉体、健全な精神の人間をこしらえる。
これでたくさんなんで、健康な霊体の人間がいろいろな社会のことをやれば、立派な社会になる。
あえて政治などを云々する必要はない。」