貧乏製造宗について


明主様戯文 「貧乏製造宗」 (昭和10年7月25日発行)

「宗教と名の付くものは八宗や、九宗どころの数じゃない。

一寸指折り数えただけで、南無阿弥陀仏や蓮華経、だけで五十と六派あり。

高天原が十三派、アーメンでさえ幾派あり。

この外もぐりや名の知れぬ出来星宗教数えたら、幾何百かは判らない、

それやこれやを信じたり、迷信したりする人も、幾千万か判るまい。

それら信者は御利益を、タンマリ欲しい人ばかり、

中には俺は御利益など、あての有難信心じゃないぞ国家や人類の為を思うて身命を賭しているんだと肩を張り、肘を怒らし偉そうに口には言えど肚の底、割って砕いて見たならば、

おおよそ世智辛い世の中に骨折るばかりで結局は、御蔭が零と言う事が判っていたなら始めから、信仰する様な大馬鹿が、ただの一人もありますか、などと言っても見たくなる。

信心も詮じ詰めればどなたでも、御利益ウンと欲しい為め、一円上げて一万円に増して返して貰いたい、とは口先で言わぬだけ

まことに虫の好いねがい、そんな欲張り連中が、ほうきで掃いて棄てる程、どこにもうようよして御座る。

さすがの神様仏様、苦笑いして横を向く、とは知りながら宗教に、よっては巧く仕組んでる。

欲張り野郎の肚の中、見抜いた様に巧い事、言うも言ったり

世の中が、いよいよ神様が言う通り大変りする時が来た。

その暁は大出世が、きっと出来ると欲張り共が、よだれを垂らしそうな餌、見せびらかすから堪まらない。

錦魚(きんぎょ)や鮒や雑魚共が、うかうか釣られてしまう
ので御座る。


こんな調子で世の中の、有象無象を引寄せて、タンとも無さそな懐を、ウンと搾(しぼ)っちゃ捲揚げて

立派な御宮をオッタテテ、名前ばかりで中味の無い、出店を何百何千と、あっちこっちにこしらえて、

頭数さえありゃいいと、名前を並べるそれだけの、亡者のような信者をば、何百万と拵えて、


大宗教の威勢見せ、蔭へ廻って新聞や、そっちこっちへ丸いものを、コッソリと撒いては臭い物の、蓋止料(ふたとめりょう)にする等は、どこまで行っても抜目が無い。


こんな事とは知らないで、何も知らないお芽出度い、善男善女はヒト苦面、しては年中御奉納、とは体裁が好いけれど実は締木(しめき)に掛けられて、絞って搾って搾り抜かれ、どうにもこうにもならないで、

家賃は溜り借金は、山程に成って身動きも、出来ない程の為体(ていたらく)、

親類縁者はどこもかも、愛想尽かして見向きさえ、しないざまではお助けを、してくれそうな事はない、

まるですいがらしの飴の様
、とは本当に可愛想、眼も当られぬ次第で御座る。


それに引換え本山は、益々立派に相成って、御一統様は大名の、様な豪奢(ごうしゃ)な暮し向き、

湯水の様に流れ込む、信徒の汗や膏(あぶら)をば、教祖が生きて御座ったら、冥利が尽きると血の涙、お流しなさるで御座ろう
て、

これを例えりゃ冬枯の、広い野原を見渡して、一本杉がニョキリと、立っている様な形じゃろう、

小作いじめの地主より、算盤弾く商人より、ズッと上手な搾取振り、

こんな無慈悲な やりかたが、世の中救う宗教と、どう考えたとて受取れぬ。

こんなインチキ気が付かぬ、娑婆であるとは不思議で御座る。


まず宗教は誰やらが、言うた阿片か知らないが、金看板を懸けていて、インチキ流をやっている、大宗教がウンと在る。

人の眼玉にゃ見えないが、ちょうど殺人メチールの、様な悪酒を飲まされて、グデングデンに酔払い、白いものでも黒く見え、青いものでも赤く見える。

という様な色盲に、なってしまって肝腎な、常識などと言うものは、薬にしたくも無い程に、成ってしまってはもう遅い、

中には少しましなのが酔がそろそろ醒めかかり尻に帆掛けて逃げようと、思って試みるが神罰が、恐ろしいのでグズグズと、してはボンヤリ日を送る。

そうかと言って今までの、様に踊るのはなお いやと、生きた亡者のようになり、米食って糞を垂れるだけ、虫螻同然な日を送る、


そんな可愛想な人間を、こしらえている宗教を、今度阿呆が名をつけて、貧乏製造宗という。


こんな調子で生亡者(いきもうじゃ)、ドシドシ製造されたなら、一体全体吾々の、愛する国家はどうなるか、経済財政国防や、対外発展覚束ない。

元気な国民無くなって、印度や朝鮮の二の舞を、する様になるのは知れた事、

こんな亡国的人民を、製造する様な宗教は、飛躍日本の方針と、ちょっと違っていはせぬか、

こういう所へもその筋や、識者の眼玉を向けられて貰いたいので御座るで御座る。


とは言うもののこの世には、真の神様太陽の、ように光って居らっしゃる。

みんな人民は子供じゃで、苦しみ除ってやるわいと、それはそれは素晴しい力を今度は観音様が揮(ふる)いなさるから有難い。

それはどこだと聞くだけ野暮じゃ、それが大日本観音会。

自体貧乏は大嫌(おおぎら)いの、観音様でいらっしゃる。

銭や食うのに不自由を、させるなんどと言う様な、けちな事など無い事は、実印押して保証する。

観音会員になった人は、金はどんどん懐へ、都合好くよく流れ込む。

妙不可思議な観音力、今まで泣いて暮らしてた、家庭もいつか春のよう、豊になれば物事は、何でも彼んでも片付いて夫婦喧嘩や啀合(いがみあ)い、六十米(メートル)の台風で、ふっ飛ばしてしまったよう。

みんなの懐暖かに、なるから達磨に足が出来、赤字公債の愚痴などは聞かない様な朗かな、娑婆と相成り満州の、資源開発やすやすと、出来るんだから堪まらない、

それにはどうも糞も無い、一人も多く観音会へ、入会すればそれでいい、

こんな結構な簡単な、信仰あるのを明烏が、阿呆阿呆と呶鳴(どな)っては、鼻から ちょうちんブラ下げて、真暗闇で高鼾いびき、グウグウ寝てる人達をさまして上げたいので御座る。」 (明烏阿呆)




明主様御教え 「観音易行」 (昭和11年4月30日御執筆)

「観音信仰は、観音行を実践する事は言うまでもない。

しかし、観音信仰は昔からあったのであるが、観音行は無いと言ってもいいのである。

何となれば、真の観音行はこれまでの信仰とは、余りにかけ放れていてほとんど反対の点が多い位である。まずその点から述べてみよう。


一般世人が神仏へ対する信仰、その意念と形式は、一つの定型をなしている事である。

それは熱心であればある程、あらゆるものを犠牲にしてしまう事である。

たとえてみれば、その信仰の為には家庭を捨てて顧みず、夫は妻を捨て、妻は夫を捨てる場合もあり、

将来の生活の窮迫を知りながら、金銭物質を奉献して顧みず、ほとんど第三者が見て狂人とさえ思われる位である。

しかしその当人は、純真にして、熱烈なる信仰を飽くまでも思惟し、

他の忠言など耳に入るべくも非ず、第三者の忠告は、反って火に油を注ぐような結果とさえなるのである。

そうして、その時代の目的なるものは、そういう信仰によって、祖先以来の罪障は消滅され、

又、それによって、その信仰団体の理想である世界が実現するのである、と固く信じてしまっている事である。

しかるに、こういう状態を続けている内に、段々生活は窮迫し世間的信用は失う。

ついに二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなり、ぬけがらのごとき性格を抱く者の数は、数えきれない程多いのである。


これらはいずれも、真の信仰ではない。

又その開祖及び宗団とその信仰の本質が、正しくないが為である。

要するに、一将功成り万骨枯るという式で、信者の幸福を犠牲にして、宗団そのものが大を成さんとし、自己の理想社会を建設せんとする為である。

故に、その機構や活動を仔細に点検すれば、一種の信仰共産主義である。

しかし、この様な信徒の幸福を犠牲にして顧みない宗団それ自身は、永続すべきはずがない。

いずれは崩壊の危機に遇うのは当然であろう。

又、社会的に観てこういう宗団の信徒は、一種の精神変質者であるから、往々秩序や伝統を破り勝ちであって、自然その宗団以外の交渉は絶えるのであって、

言い換えれば、社会的、国家的異端者のようになるので、

その結果として、不敬や脱税等の行為にまで、知らず識らずに進むのである。

こういう宗教は、時の経過によって解消するのは当然であるが、それに惑わされて気の付かない、善良なる信者こそは、実に可哀相なものである。


しかるに、我観音信仰はそれと異り、否むしろ反対の事が多いのである。

極端な犠牲がない。

ただ大いなる御霊徳に対する感謝報恩あるのみである。

又、難行苦行は絶対に観音様のいみきらい給うところである。

何となれば、難行苦行は地獄である。

観音様は極楽浄土における最高の御位で在らせらるる以上、どうしても地獄的境遇には堕ちる事が出来ないのである。

であるから、観音信仰はまことに易行である。

要するに一切万事常識的である。

どちらにも偏らないのである。

長い間狂わせられた一種の変態的信仰の型を、世人はそれが真の信仰であるかの様に錯覚してしまったのである。

それへ対し我観音信仰は、新しい信仰形式が生れるのである。

故に、詮じ詰めれば、人間本来行うべき事を行い、為すべきを為すだけである。

即ち、当然の事を適切な行為によって遂行するまでである。」




明主様御教え 「本教の強味」 (昭和26年10月31日発行)

「標題のごとく、他のいかなる宗教にも見られない強味を、本教はもっている事で、それを今ここにかいてみよう。

というその主なる点は経済面である。

普通宗教と言えば、昔からその宗派なり団体なりを維持運営するための費用は、全信徒からの寄付によるのはもちろんであり、

神社や寺院によっては、参詣者の賽銭によるのもある。

そのような訳だが、特に新宗教にあっては、積極的運営がほとんどである以上、

建物を始めとし、何や彼やその費額は、案外多く要るものであるから、

つい無理をしてでもやらなければならない事になり、

宗教によっては、少し熱心な信者となると、献金献金に追われ通しで、年々貧乏になってゆき、

古い信者になると、飴の吸殻(すいがら)しのようになってしまう者さえよく見るのであって、

これが新宗教を警戒したり、敬遠したりする原因ともなっているようである。

これらもいつもいう通り、霊的には救われても、体的には救われていないのである。


ところが本教においては、病貧争絶無の世界を作るのがその建前となっている以上、

健康を解決すると共に、貧乏も解決しなければならない訳で、この点においても神様は大きな恵を下さるのである。

何よりも本教信者になるや、最初は貧困に苦しんでいた者でも段々改善され、一、二年も経つと金銭の心配など全く解消してしまうのである。

もちろんこれには立派な根拠がある。

というのは、入信するや、その日からでも人の病気を治す力を与えられるから、

どんな人でも入信後数カ月も経つと、博士の見離した病人や、死の宣告を受けた患者も、全治快復させる事が出来るので、大きな御利益(ごりやく)を頂いたからには、

謝礼をしなければ気が済まない事になり、そういう収入が漸次増えてゆき、ついには生活費を差引いても、金が余るくらいになる人も多いので、神様へ奉謝すべく本部へ献金するのである。

従って本教においては、他宗教では到底真似の出来ない程の、大規模な経営を行う事が出来るので、世間の注目を引くのである。

その結果、メシヤ教はドエライ収入があるとか、これこれの財産があるなどといって、馬鹿馬鹿しいような数字を、よく新聞や雑誌に出しているが、前述のような訳で、そう見られるのも致し方ないともいえる。


今一つ、これも他では全然見られない強味というのは、本教信者になると、病気の心配が無くなってしまう。

しかも本人のみではなく、家族の者まで病気に罹っても御手前ものの浄霊で、雑作なく治るので、医師も薬も必要なくなると共に長患いなどする者もないから、

これが経済面及び精神上に及ぼす御蔭は大変なもので、病気で休む者などほとんどなくなるから、能率の上からいっても、その利益は莫大なものである。

全く世界広しといえども、このような宗教も、団体も決してありはしないであろう。

ところがまだある。それは不正をする者がない事である。

それがため会計上の事は、帳簿や受取などの必要もなく、ただ税務署に関する事だけの帳簿を備えておけばいいのである。

という訳で七面倒臭い事は一切ないから、手数もかからず、気持もよいので、この御蔭は筆や言葉には表わせない程である。

そうして一切万事信者がやっているので、誠意をもって無駄な事や、不利益な事は、出来るだけやらないように心掛けているので、すべて簡単にスムーズにゆく、

例の造営の土木事業にしても、半分以上は奉仕者であるから、銘々が食糧持ち無賃金で、誠と熱で骨折るのだから、

その能率の上る事は驚く程で、言わば速くて良く出来るという訳である。

もっとも最初雇い入れた労務者も、いつかしら信者になってしまうので、今日は全員信者といってもいいくらいである。

何よりも本教造営の捗(はかど)り方の速いのと、出来栄えの素晴しい事であって、見る人、ことごとくが驚嘆するところである。

こういうような訳だから、世間で見るような仕事の上の監督者などは、全然要らない。

時々私がちょっと指図するくらいであるから、ほとんど自由であっても、怠けたりサボる者など、薬にしたくもないのである。

もっともこういう点は他の宗教にもあるにはあるが、たださきにかいたごとく、本教独特の強味である信者が宗教活動をしながら、相当の収入がある事、病気に罹る事はほとんどない事、不正者がないため、安心して任す事が出来る事等である。

としたら本教が今までに類例のない程の、発展振りをみても判るはずである。


これについていつも思う事は、今日社会におけるあらゆる階級の、邪悪分子の多い事である。

従って、もし官吏、会社員、労働階級、その他あらゆる従業員ことごとくが、メシヤ教信者になるとしたらどうであろう。

実に想像も出来ない程の、素晴しい能力が上り、幸福を得られる事となり、恐らく日本は世界の模範国家となるのは、太鼓判を捺しても間違いないのである。」




明主様御教え 「宗教的治病に於る誤謬」より (昭和11年4月8日御執筆)

「(一部のみ引用) 世間往々、信仰によって病気治しをする場合、非常に誤られ易い重大事がある。

そうしてそれを誰もが気が付かないで、今日に至っている事である。

それは何であるかというと、信仰で治そうと思いつつ、実は自己の力に頼りつつあるその事である。

勿論、信仰で治そうとする以上、熱心であればある程、効果はあるはずであって、

その目標である神仏に祈願をこむるのであるが、

この場合、実は自分自身の精神療法をしている事が多いのである。

何となれば、真の意味における神仏は、人間が水を浴び、お百度を踏み、数時間経文を誦(よ)み拍子木等を敲(たた)き、

又は貧困に陥いるまで財産を提供させる等によって、

神徳仏果を享けるというごときは、実に謬れるのはなはだしいものである。

たとえていえば、神仏の御心は、親の心と同じようなものであり、信徒は子のようなものである。

子が親に向って、ある欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。

故に、その願求が正当であるならば、親は欣(よろこ)んで、否、吾子を喜ばせんが為、

難行苦行などさせずに、少しでも多く与えたいのが真情である。

随って、苦行を求める信仰は、その目標である神は、正神であるはずがないから、

こういう信仰は悉(ことごとく)、迷信であるといってよいのである。」




明主様御講話 「入信して貧乏になる宗教は偽物」 (昭和10年6月21日)

「いずれ、本部の地所の候補地もおよそみつかりました。

なぜおよそかと言いますと、まだ金を出して、こちらのものにならないからで、約一万坪ばかりありまして、

金さえできれば、いつでもこちらのものになるようになっているんであります。

それも、他の宗教のように、みなさんから寄付を強要するなどということはぜんぜんなく、ぜひ出さしていただきたいという方はお断りはいたしませんが・・・

すべて神様のことは、どうか出さしてくれと言うて出すのが本当であって、

いくらいくら出してくれと金高まで書いた奉加帳を門並を持ってまわり歩くなどは間違っているんであります。

それはいままでのやり方で、既成宗教へいくと、どこどこまでも伸ばさねばならぬと、非常に迷信的の宗教のため、苦しみ悩む人がたくさんできる。

それはなくさねばならない。

それは信仰の病気で・・・

それで、病気治しを願うとき、その病気は治してやるからいくら出せ、などいうのは、実に恐るべき迷信で、こういうことは断然なくしてしまわなければならないのであります。

そういう方法は、あらゆる宗教にあるんであります。


観音様のほうは実にうまいもので、これは、いま発表はしませぬが、それについてこういう標準があります。

いまここにある人があって、ある宗教へ入ったとすると、その宗教へ入ったときと入った後と比べてみればいい。

その宗教に入ってから病人がなくなり、体が丈夫になったかということ、また財産が減ったか増えたかを見ねばなりませぬ。

もしか、財産が減ったか、またつぶれたかとしたら、その宗教は本当のものではないのであります。

なんとなれば、本当の宗教は病貧争をなくするんでありますから、

貧のほうへ接近させるのは本当の教えではない
のであります。

そういうふうに見るのが一番判りやすいのであります。
 
まず信仰に入って財産が増えたか減ったか、あるいは、商売が衰微したかどうかをみればいい。

もしか少しでも財産が減ったなら、それは迷信だと断定して差し支えないのであります。


ところが、観音会には決してそういうことはないのであります。

もしあればこういうことは言えません。

しかし、特に使命のある人は、一時商売をよさなければならぬから、大きい家に住んでいたのが、小さい家に一時入るようなことがあるのは、特にしかたがないと思っていただきたいのであります。

観音会のほうの博使や医者ができても、ほかの既成宗教の役員や布教師ですと、いくら成功しても、生活はキリキリいっぱいであります。

けれども観音会はそうではないので、すべてが無理がなく、相応の理で身分階級も当てはまるので、博使以上になると、家も門構えの家に住むようになるのであります。


既成宗教を見ますと、ちょうど「一将功成り万骨枯る」という状態で、これはあらゆる宗教に当てはまると思います。

本部は馬鹿に太くなって、御一統はすばらしい豪奢(ごうしゃ)な生活をし、信者は切り詰めた生活をしているのであります。

それはたいへんにいいように思われるんです。

それはたいへんに間違っているということは、すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。

すべてのそういう種々な、いままでの欠点や、いままでの間違ったことを、本当の治ったやり方になってくるのであります。

そういう新しい形式、新しい文化が生まれるんであります。」




明主様御講話 「信仰して貧乏になる宗教は邪教」 (昭和10年7月11日)

「貧乏製造宗」(御発表)

「こういうふうに宗教は貧乏を作る。

どういうわけか、これがまだだれも気がついてない。

天理教にしろ、あらゆる宗教にしろ、最初教祖の出たときはよい。信者の行いも正しかった。

ところで、邪神界のほうでは二千年以前から大きい野望をしてる。それがフリーメーソンであります。

新しい宗教とか、新しい思想とかが起ると、すぐにそれを狙う。

そして、これもご承知のことですが、将来世界を自分のものにしようというために、ユダヤ人はいまもって国家を形成していない。

キリスト教は表面ああなっているが、実権はユダヤ人が握っている。彼は最後にならなければ表面にならない。で、ロシアなどはまだ本当に表面に出ていない。奥の奥で操っている。

フリーメーソンは各宗教へ働きかけている。

そして世界の人間を残らずフリーメーソンの会員にしようとしている。

そのため、金はみんな自分のほうへ吸いとってしまうというやり方で、ご承知の通りインターナショナルなどははっきりと貧乏を謳歌している。

つまり、貧乏人を非常に待遇をよくし、金持ちには恐怖を与え、金持ちになるのをイヤにさす。

日本なんかは最近だんだんそういうことは影が淡くなったように見えるが・・・しきり金持ちは非常に恐怖心を抱いたもので、

それはできるだけ金持ちを造らず、その国家が富まぬようにする。

これが彼らの重大なる方針で、金がなかったら国防や軍備などが充分にできぬ。

彼の策略としては各国を貧乏にして、自国が大いに軍備を造るので、

今日ロシアなど自国の軍備を世界一にならしめようとして、他国を貧乏にしようとしている。

この方針はキリスト教も実はそれにかなっている。

この前に、「金持ちの天国に入るは駱駝の針の穴を潜るより難し」という、これは有名な標語ですが、

実はユダヤから出ているんで、金持ちにさせないためのもので、

金持ちが一番恐い、金持ちがいると軍備をされるからです。


天理教はご多分に漏れず、実はユダヤの悪魔が入ってきて、

教祖はこれと戦って敗けているんであります。

ですから天理教の神は実はユダヤの神であり、それがためにさかんに金を搾取する。実に残虐なものであります。

また実にうまいことを言っている。第一に金はいっさいの罪穢とする。

泥棒や人殺しをして貯めた金なら罪というのがあたりまえだが、あたりまえに稼いで得た金を罪穢というはずはない。


さんざんに吸いとられて食うや食わずになると、天理教のほうでお助けとか、お授けをする仕事にまわされて、食うだけは食わしてもらう。

これは純然たる宗教的共産主義で、まだまだほかにもそういう宗教があるんであります。

仏立講なんかもそうであります。

要するにファッショとか共産主義とかは恐ろしがって、政府も識者でもそれを弾圧しているが、滅亡しないといって苦心に苦心しているが、宗教が共産主義だとは宗教だけに気がつかない。

それが気がつかぬだけに深刻で、これは善の仮面を被っているだけに厄介で、ふつうの共産党は悪を標傍しているからいいが、宗教は善の仮面を被っているんで始末が悪い。(中略)


もし信仰して貧乏になるような宗教ならば、全部ユダヤのものと思って差し支えない。

あるいは貧乏人が、もしたくさん出たとしたら、それは邪教だとみていい。

天理教はたくさんできたら日本はどうなるでしょう。

現在でも八十億の赤字が出てる。

現在どころか、国防さえも充分でないから、どうなるか判らぬ。

でありますから、日本には金持ちをたくさんこしらえなければならぬ。

そうすれば赤字公債などもなくなる。

満州開発もできる。

満州の開発が充分できれば、世界は日本に対してどうすることもできなくなる。

そして白人を日本が教えて行く。

そうすれば世界の平和は来る。

世界の平和を築くのは日本人しかない。

ヨーロッパのほうを見ても判るごとく、白人は闘争の人種でどうしても喧嘩しなければ承知しない。」