変態的信仰者について 3 (カルト宗教批判)


明主様御講話 「今までの宗教は熱心になると狂人じみてくる」 (昭和10年1月11日)

「昔から「健全なる精神は、健康なる肉体に宿る」と言いますが、これはちっと疑問がある。

ずいぶん大きな仕事をした人でも病体の人がある。有名な正岡子規など肺の初期になって、かえって大作を残した。

石川啄木でも病院中で作った歌は実にいい歌がある。

ですから「健康な肉体に健全な精神が宿る」と言えば、角力取りなど偉大な立派な精神を持ちそうなものです。

しかし、健全な精神なら必ず健全な肉体を持つのは真ですから、根本は健全な精神で、健全な精神を作ることが根本で、

あらゆる宗教をみて、病人のない宗教があれば、それは本当の宗教の使命を遂行してるものであります。


しかしながら、いかなる宗教の信者も病人のない宗教はない。

信者でも信者でない人も、健康状態は同じようなものです。

それは力のないことを証明しております。

ですから観音運動は宗教改革と医学の革命で、だいたいこの二つで世の中はよくなる。

政治や経済などは、それは専門家に任せばそれでよい。

宗教改革といっても、ルターのようなものでない、もっと大きい。

今日はすべて世界的になってるから、世界的のものでなくてはならぬ。


各宗教の間違った点は、阿呆文学で指摘する。

こういうことをまじめに言うと、はなはだお気の毒ですから、かえって反感を持つといかんから、滑稽にする。

最初に大本教の一番の欠点をやり、次に天理教をし、最初は屁の玉宗、今度は南無諦め宗というのを作りました。いま、読んでもらいます。

「南無諦め宗」(御発表)

この次は、外の方面へ向けて、狂人製造宗というのをやるつもりです。

観音運動の目的はただいまお話した通りでありますが、

観音運動の最後の目的たる人間を良くする、当然のことをする人間を造ることは、非常に簡単であってなかなか難しい。


なぜかと言えば、いままでのものは、人間が当然なことをしなかったために、どっちかへ脱線する癖がついている。

その癖を直すのが観音運動にもなる。

観音運動はご承知の通り、観音様はどちらへも片寄らぬお働きをなさる。

男でもなく女でもなく、日でも月でも、また火と水のお働きをなさる。

火と水両方合わしたもの、ちょうどお湯で、人間を湯へ入らせるように、いい気持ちにさせる。

これは先だって言ったことですが、ちょうど気候で言えば春と秋で、寒からず暑からずという具合です。

これが人間の行いになり、心になればよろしい。

どういう行いかというと、どっちへも片寄らぬ、極端にならぬ行いで、いままでの宗教とは、その点が反対なほど違う。


いままでの宗教は、非常に熱心になるほど極端になる。

狂人じみてくる。狂言になる。

そういう信仰になると、外でみるとおかしい。

それですから親戚知人からは反対され、結局信者だけの付き合いになって、それで神様の思し召しに合ってると思う。

ところが観音行は信仰が進むほど、信仰してるのかどうだか判らなくなる。

この点が判らぬことで、要するに味噌くさくなくなるわけであります。

たとえてみれば、その時とその場合とその相手によって、千変万化し、ちっとも主義とか決めるとかいうものはないのであります。

陽気が変わるように、天が晴れたり曇ったりするように、水の流るるごとく少しも拘泥してはいかぬ。」




明主様御講話 「悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとする」 (昭和10年1月11日)

「大本信者は喧嘩好きで、到る所で喧嘩する。

そのくせいっぽうでは人類愛善運動などしている。

これは自分達が神の選民と思わせる。

そして社会の一般人よりは一等上だというのですから、社会の人間は眼下に見くだす。

平民を見るような態度で、社会から特殊扱いにされると偉がる。

またそういう人は団体中でも、信仰が進んでるなどと言われていばる。

第一、教祖は三千世界の大狂人、教主は大化け物と、両方がそうですから、

大いに狂人と化け物にならなければならぬというので、

ほとんど狂人じみないと信仰が進んだと言えない。

そしてあたりまえなことをすると、あれはまだ駄目だと言うのです。

それで、その団体が気違いじみる。

大本のみでなく他の各団体にもこういう団体はたくさんあります。


これは悪魔が各宗教を通じて物を狂わせようとするので、その働きこそ実に恐るべきものであって、

そういうような宗教と、後はぜんぜん無力な宗教との二種ですが、

無力宗教のほうは売薬のようなもので見過してもいいですから、

いままでの宗教は、真理だとありがたがった中にも、人心を狂わせようとする働きがたくさんあります。


親鸞が言った「善人尚往生を遂ぐ、況んや悪人をや」というように、悪を栄えさせるようなこと、

ああいうようなことが各宗教にたくさんあって、

生長の家で言う「物体は心の影なり」というのは、狂わせようとする大きなものであります。

これも物を狂わせんとする一つの錯覚運動の極端な物質否定で、あの奥にはある悪魔がいる。

ですからお気の毒だが滅びるんであります。


もしみなの人がああいう思想になれば、せっかく発達した世界がどうなるかしれない。

当然のこと、当然のものが本当のものなんであります。

森羅万象一切に狂うものはない。

草木の育つのも、太陽が出るのも、ちっとも狂わぬ。

天地自然の運行は狂わぬ。

悪魔は破壊しようとして、そのために人間を狂わそうとするのです。

神様はこれを救われるわけであります。」




明主様御講話 「苦しみを楽しむのは間違い」 (昭和26年10月5日)

(御論文「天国的宗教と地獄的宗教」のあとの御教)

「今読んだ通り一番肝心な事で、つまり今までの世の中は苦しむ事を良いとしてきたんですね。

その結果人類は苦しみを楽しむと言う事になった。

色んな宗教や精神の修養場と言うものの説き方は、苦しみを楽しめと言うように説いてある。

病気で苦しみながら有難い有難いと言う宗教がありますからね。

あれは苦しみを楽しむと言うんで、大変な間違いですね。

だから世の中の一切はねじれちゃった。

素直にありのままと言う事はなくなって、おかしくひねくれちゃったんですね。

そこで皆ありのままと言う訳ですね。

だから神様と言うのは、率直に感じたまま、見たまま・・・それが本当の神様のみ心なんです。

それを人間が色々にひねくれて、楽しく楽に行ける世の中を、わざわざヘンテコに・・・苦しむようにつくっちゃった。

だから、信仰を一生懸命しながら段々貧乏になったり、病人が絶えなかったりする。

だから、いわばメシヤ教は宗教改革も一つの仕事になっているんですね。

医学の改革やら、宗教の改革、農業も改革し、色んなものを改革するんですね。

だから、それが判かりさえすれば、目が醒めたようにありがたくなるんですがね。

何しろ長い間ひねくれた文化が続いてきたんで、分からせるのに骨が折れる。

安いものを食っていた者に、たまたま美味いものを食わせると、変に思ったりする。

こう言う美味いものがあると言っても、そんなものがあるものかと言うんだから始末が悪い。」




明主様御講話 「苦しみを楽しもうというのが今までの宗教」 (昭和27年9月26日)

「美術館はなにしろ狭いし、それから特別展覧会をやりたいと思ってますから、

今あるのをいちいち片づけてやるというのも厄介ですから、どうしても別館を造ろうと思っている。

それで今の萩の家の後ろ手・・・女の人の宿舎を移築して、その跡に・・・ちょうど四、五十坪の別館を造ろうと思っている。

そうして特別展覧会の会場にしようと思っている。

来年は最初、浮世絵展覧会をやろうと思ってます。

今度私は来月京都に行きますが、それは京都の美術館で浮世絵展覧会をやるのですが、

そこは今まで接収されていたのが解除になったので、それを記念して浮世絵展覧会をやるので、なかなか大仕掛けにやるそうです。

それに四、五点出品したので、ぜひ来てくれと言いますし、私もぜひ行ってみたいと思ってます。

随分あらゆる物を集めて並べるらしいです。


で、そんなわけで行こうと決めると、ちょうどさっきの土地も手に入ることになったので、

それでどうしても見なければならないというようなわけで、行くことになったのです。

つまり私が行こうと思うことは、めったにないですが、今年は行くまいと思ったが、

やっぱり神様の方で行く事情を作られるわけで行くのです。

ですから人間心でいろいろ計画しなくても良いのです。

そういうふうな事情になってくると、うまく行くのです。

そういったことがなくてやろうとすると、失敗したり無駄をしたりするのです。


だから私は、骨折ってやることはいけないと言うのです。

楽に、楽しみにやることでなければいけない。

ところが今までの世の中はあべこべで、苦しまなくてはいけなかった。

よく苦心惨憺ということを言いますが、本当は苦心惨憺をしたもので、ろくなものはないのです。

だからよく絵だとか品物を作るにしても、よく苦心惨憺して作りましたというのは、私は駄目だというのです。

苦心惨憺して作ると、作品に苦心が表われますから、そういうものが表われては美術品は駄目なのです。

楽しみ楽しみやったものでなければ駄目です。

そうすると見た人が、それから受ける感じが良いのです。


そこでいつも言う通り、その点が今までのことと反対ですから、ちょっと分かりにくいのです。

なんでも苦しみさえすれば良いと思う一つの習慣です。

ですから一番苦しんでやったことは失敗している。

ですから日本のこの間の戦争ですが、あのくらい苦しんだ戦争はないです。

昨夜も「黎明八月十五日」という映画を見ましたが、

実にあの当時の大臣や偉い人たちが、軍人とのいろんなややこしい悶着で、

一人近衛師団長ですか殺されましたが、そんなような場面を見ました。

やっぱり苦しむことはいけないなと、つくづく思われましたが、

やはり苦しみというのは地獄になります。

よく難行苦行をして苦しんでますが、あれは自分から好んで地獄に落ちるのです。

ですからやっぱり天国や極楽はできるわけはないのです。

その点をよほど考えなければいけないのです。


というのは今までの宗教で天国を造る宗教はなかったのです。

つまり地獄のままで、地獄はしようがないのだから、せめて苦しみを、つらい思いをしないで、つらくないようにしようというのが目的です。

ですから苦しみを楽しもうというのが、今までのいろんな宗教です。

苦しみを楽しもうということになると、ほとんど人間の頭脳は錯覚しているのです。

ですから苦しみは苦しみ、楽しみは楽しみですから、その結果メシヤ教は非常に現当利益がある。

ところがそんなのは駄目だ、信仰すれば病気が治るとか金が儲かるというのは、そんなのはごく浅薄と言わなければならない。

そんなことは度外視して精神的に救わなければならないと言って、額に八の字を寄せて理屈を言う人がありますが、それは今まではそういうふうに、すべてがそうなっていた。

楽しんで物事をやるということはできなかったのです。

そこでそういうような変態的になっていた。

だからそういう思想・・・考え方を直すのは、なかなか骨が折れるのです。

私なんかも以前はそういうことで随分失敗しました。

わざわざ好んで苦しむのです。

そういうことのないようにということは、今のメシヤ教の「神様にお任せしておけばうまくいく」ということです。

今まではお任せしてうまくやってくれる神様がなかったのです。

力がないのです。かえってお任せするととんでもないことになる。

それでよほど自力を出さなければならない。と、こういうわけです。」




明主様御垂示 「新宗教による邪魔が一番恐い」 (昭和28年3月1日)

信者の質問
「名古屋のほうの天理教の教会では、千人以上の勤労奉仕者が集って第三次戦争のための防空壕を作っているそうでございます。

宗教家として解釈に苦しむことでございます」

明主様御垂示
「それは、大いに先見の明ありという御自慢なのです。

信徒だけでしょうが、天理教にはいればそういう逃げ場があるという、一つの呼び物にしようというわけですが、ごく低級な考えです。

だから神様の御守護はもう信じられないというわけですが、まあそういうようなものでしょう。


信者の質問
「新宗教の最である天理教にしてそのようですから」

明主様御垂示
「そうです。この間も出てましたが、主人をよみがえらせるというので三月の間死骸をそのままにして御願いしていたのですが、

警察で知って調べてみたらミイラになっていたというのですが、それはむしろ恐ろしい迷信です。

ですからとにかくメシヤ教を邪魔するのは新宗教です。

だから新宗教などにはうっかりはいれないという一つのたいへんにマイナス的働きをしていたのです。

だからジャーナリストとかインテリというのは軽いものです。

新宗教が邪魔するのが一番恐いのです。

それから読売に出てましたが、踊る宗教で、自分の腹には天照大御神がいると言って威張って、往来に出て踊ったりしているのをニュース映画で見ましたが、

ああいうことをしなければならないというと、新宗教は低級なものだ、本当に愚夫愚婦を瞞すものだというわけで、新宗教の不信用を起こすのです。

それをありがたがってやっているのですから、これがたいへんな妨害です。

しかし結局時の問題で、良いものは良いし悪いものは悪いし、変なものは変なのです。

それでメシヤ教だけは違う、これこそ本当の宗教だということがだんだん分かって来ます。近頃はだいぶ分かって来ました。

さっきも言ったように東京日日に出るということは、そうとうに理解しなければ、そういうことはしないでしょうから・・・。」