変態的信仰者について 2 (カルト宗教批判)
明主様御教え 「天国的宗教と地獄的宗教」 (昭和28年3月25日発行)
「まず宗教について有りのままをかいてみれば、今日までのあらゆる宗教は、ことごとく地獄的宗教といっても、敢(あえ)て侮言(ぶげん)ではなかろう。
何となれば重立った宗教程、開教当時蒙(こうむ)った法難、受難に悩んだことは例外ない程で、宗教に法難は付物(つきもの)とされているくらいである。
しかもその宗教の信者までも迫害や受難の道を辿(たど)って来た事実は、史上数え切れない程であって、中には読むに耐えない慄然(りつぜん)たるものさえあるのである。
今日世界を風靡(ふうび)しているキリスト教の開祖、イエス・キリストにしてもそうであって、十字架上の露と消えた事蹟や、パリサイ人共の迫害は有名な話であるが、日本においても大なり小なり、茨(いばら)の道を潜らない宗教家はなかったといってもいい、
ただその中で釈尊と聖徳太子のみが例外であったのは、言うまでもなくその出身が皇太子であったからである。
そうしていかなる宗教の開祖にしても、もちろん悪ではないどころか、凡人以上の善者であり、人並外れて愛が深く慈悲に富み、不幸な者を救わねば措(お)かないという信念をもって、命を犠牲にしてまで救いの業を貫(つらぬ)こうとしたのであるから、善の塊ともいうべき聖者である。
従って本当からいえばその時の政府も民衆も、その労苦を犒(ねぎら)い感謝し、最大級の優遇を与えるべきにかかわらず反ってその逆に悪魔の巨頭のごとく憎悪し、迫害圧迫生命までも絶とうとするのであるから恐らくこんな不合理な話はあるまい。
ゆえにこれを冷静に批判する時、右のごとく大善者を憎み虐(しいた)げ、葬ろうとするその行為はその人達こそ悪魔ということになるのは理の当然ではあるまいか。
そうして本来人間という者は善か悪かのどちらかであり、決して中間は存在しないのであるから、換言すれば神の味方か悪魔の味方かどちらかである。
とすれば神を嫌い、無神思想を唱え善を行う宗教に反抗する人は、悪魔の僕(しもべ)ということになるのは当然である。
そうして今日偉大なる宗教とされているその開祖にしても、初めの中(うち)は悪魔扱いにされ、極力迫害されたにかかわらず、ついに悪は負け善が勝ったのは歴史の示す通りである。キリストが受難に遭いながら「吾世に勝てり」と言われたのもその意味であり、味わうべき聖言である。
ゆえに既成宗教は、開祖の死後相当の年数を経てからようやく認められ、神と祀られ、仏と崇(あが)められたのがほとんどである。
もちろんその教によって人間に歓喜を与え、社会の福祉増進に寄与するところ大であったからであろうが、開祖生存中にそのように認められた宗教はないといってもいいくらいで、法難は当然のように思われ、信者としても苦難の生活をむしろ喜ぶような傾向にさえなってしまったのである。
特にキリスト教のごときはキリスト贖罪(しょくざい)の受難を亀鑑(きかん)として、苦しみを覚悟の上蕃地(ばんち)深く分け入り、身を挺(てい)して活躍した悲壮なる史実も、これを読んで胸の迫る思いがするのである。
だからこそ今日のごとく世界至る所にキリスト教程、根強く教線の張られた宗教はないのである。
日本においてすら彼(か)の切支丹(きりしたん)バテレンの迫害や、天草の乱などを見ても思い半(なか)ばにすぐるであろう。
ところが以上かいた事は他動的不可抗力による苦難であるが、そうではなく自分自ら進んで苦難を求める信仰も少なくはない。
すなわちキリスト教における一派の戒律厳守、禁欲主義者、修道院に一生を捧げる人達もそうだが、彼のマホメット教、中国の道教やラマ教、印度(インド)の婆羅門(バラモン)教なども同様であって、彼らは禁欲をもって信仰の主眼としている事である。
また日本における昔からある幾多の宗教にしても、それと大小の異(ちが)いはあるが、大体は同じであり、受難にしても神道が散々仏教から圧迫され、一時は伊勢の大廟(たいびょう)に阿弥陀如来を安置したことや、神道行者の難行苦行もそうだし、仏者の受難も並大抵ではなかった事も人の知るところである。
その中での最も著名なものとしては、彼の日蓮上人であろう。
彼の有名な竜(たつ)の口法難の際、断罪に処されようとし、刃を振り上げられた途端一大奇蹟が現われ、危く死を免れた事などもそうである。
また仏教のある派によっては極端な程戒律を守り、求めて難行苦行に身を晒(さら)し、修行三昧に耽(ふけ)る信仰も、跡を絶たないのである。
以上あらゆる宗教を総括してみても、今日までそのことごとくは地獄的であって、
苦難をもって宗教の本来と心得、魂を磨く手段とされて来たのであって、
ついには苦しみを楽しみとする一種の変態的人間とさえなってしまったのである。
これを忌憚(きたん)なくいえば、その宗教の力が弱かったため、自力を加えねばならなかったのである。
このような地獄的信仰の世界に、忽然として現われたのが我メシヤ教である。
何しろ本教のすべては今までの宗教とは根本的に異うどころか、むしろ反対でさえあり、地獄的苦行を最も排斥し、天国的生活をもって真の信仰であるとしているので、その説くところは心も行も、既成宗教とは雲泥の相違である。
しかも本教輪廓の大なる事は、宗教も、哲学も、科学も、芸術もことごとく包含されており、特に人類救いの根本である健康の解決、農業の革命等、驚異に価するものばかりでそのことごとくは地獄をして天国化する条件のすべてであるといってもいいので、これこそ真の神の愛であり、仏の慈悲でなくて何であろう。
この意味において難行苦行は邪道であり、歓喜溢るる天国的生活こそ真に救われたのである。
これが世界全体に拡充するとしたら、ここに地上天国は如実に出現するのであって、以上のごとく本教のモットーである天国世界の第一歩はまず家庭からであり、そのような家庭が日に月に増えるとしたら、やがては世界全体が天国化するのは知れた事である。
以上の真相が分ったとしたら、いかなる人でも本教を謳歌(おうか)し、絶讃し、直ちに入信しなければならないはずだが、何といってもある種の小乗宗教や無神思想の観念に煩(わずら)わされているので、反って疑念を起したり誤解したりするので、それだけ幸福を延ばしている訳である。
しかしながら本教の真相が必ず分る日の来るのは間違いないから、私はその時を待つと共に、今は神命のまま日夜奮励努力しているのである。」
明主様御教え 「天国的宗教と地獄的宗教」 (昭和26年10月24日発行)
「世間宗教とさえいえば、その信仰者は精神的にも肉体的にも、多大の恩恵を蒙り、安心立命を得て、幸福な家庭が作れるものと信じ、
それにつれて社会も国家もよくなり、この世は天国楽土になるという理想を目標として、一意専心拝んでいるのは衆知の通りであるが、
ここに誰も気が付かない重要な事柄があるからかいてみるが、それは宗教にも天国的宗教と地獄的宗教の差別のある事である。
それについて遠慮なくいえば、今日までの宗教はことごとくといいたい程地獄的宗教であって、
真に天国的宗教はなかったといってもいいのである。
としたら我メシヤ教こそ、初めて生まれたところの天国的宗教である事は、言うまでもなく、
従って今日までの宗教とは、何から何まで格段の異(ちが)いさである。
信者は充分知っている事だが、本教がこれほど進んだ医学でも治らない病気を、訳なく治してしまう事実は、毎号本紙に満載している通りであるが、
それはどんな人でも、数日間教修を受けただけで、驚くべき治的病能力を発揮出来るのである。
博士から見離された病人でも治せるし、自分で自分の病気も治せるので、ほとんど信じられないくらいである。
しかし事実は厳然たる事実であるから、疑う人はまず実地に触れてみられたいのである。
そのような訳で本教へ入信するや、月日が経つにつれて、自分も家族の者も日を逐(お)うて健康になってゆき、
ついには病なき家庭となり、元気溌剌たる者のみになるので、
一家は明るく、すべてが順調に運び、真に歓喜の生活者となるのである。
もちろん何年も何十年も、医者や薬の御厄介になっていたのが、全然縁切りとなってしまうから、
経済上からも、精神上からいっても、その利益の莫大なる想像も出来ない程である。
これこそ全くの天国の救いであって、今日のごとき地獄の世の中に喘いでいる人は、到底信じ得られない程で、これこそ人間理想の夢の実現でなくて何であろう。
右のような訳としたら、今の世の中の多くの信仰との異(ちが)いさである。
事実従来の宗教によっては熱心に信仰しても、病気に罹るのは一般人とほとんど同様で、
止むなくお医者の御厄介になるが、容易に治らないばかりか、往々不幸な結果になる事もあるが、
その場合寿命だから仕方がないと諦めてしまう。
そうかと思うと常日頃、ヤレ風邪を引くな、結核菌や伝染病菌に冒されるな、寝冷えをするな、暴飲暴食をするな等、何や彼や五月蝿(うるさ)い事ばかり言われ、戦々兢々とその日を送っているのが実状である。
しかも最も悲喜劇ともいうべきは、長年 病床に在って呻吟(しんぎん)しながら、御当人は神に救われたといって満足している人をよく見受けるが、
これなどは吾々からみると全く自己錯覚である。
このようになっても運命と諦め、無理に苦脳を押えつけ、強いて満足しているという常識でちょっと考えられないこの観念を、信仰の御蔭と心得ているのだから可哀想なものである。
それでも御当人だけは精神的に救われたとしても、周囲や家族の者は、実に惨めなものである。
御本人もそれを知らない事はあるまいが、肉体的苦痛の余り、そんな事を考える余裕すらないのであろう。
これを一言にして言えば、精神は救われても肉体は救われないという訳で、言わば半分救われて、後の半分は救われないのである。
従って真に救われたという事は、霊肉共に救われる事であるが、こういう宗教は恐らく世界にないであろう。
このような訳でせめて半分だけでも救われたいと思って、既成宗教の信仰者となるのだから、
天国とはおよそ遠去かっている事で、ヤハリ地獄的救いでしかないのである。
何よりも今日大宗教となると、ほとんど病院を経営しているにみて明らかである。
しかも社会はこれを是認し、立派な宗教事業と心得ているのだから困ったものである。
何となればその宗教に治病の力が全然ない事を表白している以外の何物でもないからである。
本来なれば科学より宗教の方が形而上(けいじじょう。形をもっていないもの。哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。)の存在であるべきだが、
これでは宗教の方が科学以下になってしまっている。
一言にしていえば宗教としての生命は喪失してしまった訳である。
これに引換え本教の特色である病気治しの成績であるが、事実科学ではどうにも治らない患者を、ドシドシ治している。
これこそ生命ある宗教と言わずして何ぞやである。
次に本教は芸術を大いに奨励している。
恐らく既成宗教も数あるが、本教くらい芸術に重きを置いているものは外にあるまい。
というのはいつもいう通り、天国とは芸術の世界であるからで、すなわち芸術は真善美の中の美である以上、最も重要なものである。
言うまでもなく、人間にとって美から受ける感化は軽視出来ないものがある。
美によって心を楽しませると共に、知らず識らずの内に品性を向上させ、平和愛好の思想が醸成されるからである。
この事は大自然を見てもよく判る。まず第一は山水の美である。
四季折々の旅行等から受ける景観の美は、常日頃の穢れを洗い浄め、元気を快復し、明朗なる精神を育(はぐく)み、しかも歴史上の智識をも豊富にされるのである。
またいかなる町でも村でも至るところの木々の緑、花の色、百鳥(ももとり)の囀(さえず)り、春の野に舞う蝶々、秋虫の集(すだ)く情緒等々、人間を娯しませるあらゆるものは地に充ちている。
天を仰げば日月星辰(せいしん)の輝きは、人の心をして悠久な神秘境に誘(いざな)うのである。
としたらこれら一切は深い神意の表われでなくして何であろう。
その他飲食(おんじき)にしても山の幸海の幸はもちろん、人間の味覚を楽しませるものの、いかに多いかである。
取り分け言いたい事は、人間についての美である。舞い踊る姿、唄う声の麗(うるわ)しさ、スポーツマンの均整美、女性の裸体美は固(もと)より、
人間天与の技能としての絵画、彫刻を始め、種々の美術工芸、建築、庭園美等々、これらも数え上げれば限りない程であって、全くこの世界には自然と人間の美が充ち溢れている。
これらを見て考えられる事は、神の御意志の那辺(なへん)にあるかで、言うまでもなく将来天国を造るべく、その要素の準備でなくて何であろうと思われるのである。
私はこの意味においての一模型として、現在地上天国を造りつつあるが、
この構想はあらゆる自然と人工美を綜合調和させたもので、今日まで何人も試みた事のない画期的新芸術品であろう。
これによって万人神意を覚り、人生の歓びを深からしめ、心性の向上に大いに役立たせんとするのであるから、
これをもってみても本教こそ天国的宗教である事が分るであろう。
ところが、既成宗教においては、この美の観念に対しては、昔から実に無関心であった。
否反って美を否定する事が、宗教本来のもののように錯覚して来た事である。
それは大抵な宗教信者は、熱心であればあるほど 粗衣粗食、茅屋(あばらや)に住み、最低生活に甘んじているのである。
これでは全く真善美ではなく、真善醜といってもよかろう。
こういう信者の家庭に入ると、何となく湿っぽく陰欝(いんうつ)であり、全く地獄の感がするのは衆知の通りで、これを吾々は信仰地獄といいたいのである。
その頭で吾々の方を見るから分りようはずがない。
何しろ地獄の眼で見る以上、本教のやり方が間違っているように思えるのであるが、実はこの観方こそ恐るべき迷信である。
従って、この迷信を打破し、目醒めさせ、天国的宗教こそ真の宗教である事を、認識させたいのである。
こうみてくると、厄介なのは現代の世相である。
それは科学迷信ばかりではなく、宗教迷信も加わって、地獄世界を作っているのであるから、この盲点を充分判らせなければならないのである。
それには宗教以上の超宗教、すなわち天国的宗教が出現する事であって、それが我メシヤ教である事を明言するのである。
その理由こそ今までは夜の世界であったがためで、いよいよ昼の世界に転換せんとする、
今天国創造の大使命をもって生まれたのが我メシヤ教である事を知るであろう。」
明主様御教え 「所謂、迷信の解剖 信仰は飽く迄冷静に」 (昭和24年5月14日発行)
「ともすれば、本教団に向かって迷信の言葉を浴せるが、一体迷信の真の意味は何であるか、これを解剖してみよう。
もちろん、迷信とは正信の反対である、とすれば迷い迷った揚句、正しからざるものを正しいと誤り信ずるという事であるが、
その正しからざるという意味は果してどういう解釈であろうか、これをまず徹底してみよう、
例えば信仰上利益のないものを利益のあるように思わせたり、
病気が治るように見せかけてその実 効果がなかったり、
その宗教の創始者である人物を特別に生神様のごとく信じさせたりするが
その実は普通の人間であって巧妙な作為でそう思わせようとする等である、以上はもちろん迷信の説明である。
ところが病人に対し、医療が治ると請け合うので患者もその医師に絶対の信頼を置き、多額の費用や長い時日を費やしたる結果、
予期に反し治らないばかりか死の転機にまで及ぶという事も、
また年々多額の国帑(こくど。国庫の財貨のこと)を費やし、結核療養所を数多く作り、大いに努力するに係わらず、事実は更に結核患者が減らないにかかわらず、
いつかは解決さるるという、頼りない希望をもって継続しつつあるという事も、厳格なる意味からいえば立派な迷信であろう。
しかしこれらは患者が医学を迷信するよりも、医家が医学を迷信しているという方が当っているかもしれない、いわば善意の迷信である。
ところが同じ迷信といっても計画的に人を騙すのとは大いに異なり
実際は良心的に社会人類のために尽すという動機善であるから非難する事は出来ないが、
実を言うとこの善意の迷信は、その迷信者自身が可なりと思う強い信念がある以上、
多数者を同化する力も強いのでむしろ社会に与える弊害は大きい訳である。
以上の理によって本教を解剖してみる時、本教が行っている救いの業は、言うところと行う結果とにわずかの矛盾がないばかりか、むしろ言う以上の良果を挙げている以上、迷信の言葉は当らない。
ただ今日まで本教の救いのごとき素晴しい例がなかったから信じられないだけの事である、
人間はすべて経験にない事は信じられないという弱点があるが、これもまた致し方あるまい、
ところが始末の悪い事は、一犬 吠ゆれば万犬これに習うということわざの通り、
少し信用ある人がいささかも触れてみた事のない癖に非難の言を発すると、群衆は付和雷同するという群衆心理で、これが厄介千万である、
しかしながら本当のものはいかに抑えつけられても、非難されてもそれは一時的で、遂には世の信頼を受ける事になるのは真理である、
「信ぜよ、さらば与えられん」という事や「信じなければ利益がない」などとはよく言われる言葉であるが、
本教に限ってそういう事は決して言わない、むしろ反対に大いに疑えと言うのである、
何となれば初めから何らの利益も認めないのに信ずるという事は己を偽る事である、
何程疑って疑り抜いても疑り得ない真とすれば、信ぜざるを得ない事になるのは当然である、
そうして本教には特に奇蹟があり利益があり過ぎる程である、本教の発展が何よりもそれを証拠立てている。
しかしこういう事も心得ておかねばならない、
世の中には一の利益があると、三にも四にも拡大して有難がる人があるが、これも本当ではない、
いわば利益の魔術にかかるので、この点よく間違いやすいのである、
ゆえに一の利益あれば一だけ信じ三の利益あらば三だけ信じ十の利益があれば初めて絶対的信仰に入ればいいのである、
信仰といえどもいささかの不合理も許されないからである。
今一つ注意すべき事は信仰は飽くまで冷静を保たなければならない、
有難さのあまり熱狂的となり常軌を逸する人が往々あるが、こういう信仰こそ盲信であり狂信であって、
かような信仰者を第三者から見れば、その宗教を疑わざるを得ない事となり反って救世の妨害者としての罪を犯す結果となるから、大いに慎まなければならない、
従って正しい信仰はどこまでも常識的で品位を損せず、世人から尊敬を受けるようにすべきである。」
明主様御教え 「浄財と不浄財」 (昭和10年7月25日発行)
「それは、名前など一切言えませんけれどもある宗教の非常な、熱心な信者がありました。
その信者が、神様の事について、結構な御用をしたんでありますが、その人は、家賃を何年も払わずにいるんであります。
ツマリ、払うべきを払わないで御用をしたのであります。
で、これは、どういう風に解釈するかと言いますと、払うべき物を払わぬという事は、例えば、物を買って品物を持って来ても、金を払わぬというのと違いはありません。
家を借りる際には、最初、家賃を払う、家を貸すというので借りたんで、例えば品物にしても、これは一円だから一円払えば品物を上げるというのと同じであります。
銭を払わないで品物を持ってくるとなると怪しからん事で犯罪になりますが、
家を借りて家賃を払わないのも、けっきょく同じ事であります。
どうしても、これは盗みであります。
本当から言えば、家賃なんかは一日も、遅らせるべきものではないのでありまして、
一日遅れれば一日、それだけの盗みの罪が構成される事になります。
そんな金で、御用をしても真の神様なら、そんな不浄の金は御使いになるはずがないのであります。
でありますから地代とか家賃とか約束した仕払は、絶対に遅らせるべきものではないのであります。
そういう払うべきものを払わねば、矢張り入るべき金も入るものではありません。
金は昔から、湯水のようだとか、湧くとか言われていますが、
全く水のようなもので、払うべきものを払うとどしどし流れて来るものであります。
金を払わねば入るべき物も滞ってしまうのであります。
霊的に言うと、そうであります。
霊的が体的になるのでありますから、金に困る人とか、豊でない人はどこかにそういう間違いがあるんであります。
そういう間違った事がなければ、困るべきものではないので、それが天地の原則であります。
そういう無理をし人に迷惑をかけて神様の御用をしたって、決して善い事をしたのではないのであります。
よくお寺や、伽藍(がらん)が焼けますが、永久に残る寺は滅多にありません。
日本では、奈良の法隆寺位なものでありましょう。
有名な堂宇はよく焼けます。
それは、そういう不浄な金が多いので、建てたが故であります。
面白い話がありますが、無銭飲食をした者があって、警官が捉えて調べてみると懐に百円持っている。
そんなに金を持っていて、なぜ、そんな事をしたかと訊くと、
その男は阿弥陀様の信者で、これは、阿弥陀様へ百円キッチリ上げるときめてあるんだから、一銭も手を付けられぬ、外には銭がないから無銭飲食をしたんだと、平気で言ったそうであります。
こんなのが迷信の最も恐ろしいところであります。
それに似た様な事がよくあるんであります。
これは、大変な間違いでありますが、観音信仰はこういう間違いはない、誤魔化しのない、つまり総てが真実であります。
観音様を信仰し、観音行をすれば本当の人間になるから、人から指一本さされる事がない、争いや苦情が起らないのであります。
争いや苦情が無くなれば裁判所などの必要がなくなって来る。
間違った事をしながら、理屈を付けて誤魔化そうとするから苦情や争いが起り裁判所の必要があります。
世の中の人が皆、間違わないようになった時が大光明世界であります。」(岡田仁斎)
明主様御教え 「神様が発展の調節」 (昭和27年3月12日発行)
「(一部のみ引用) そうして本教は地上天国を造るのであるから、何よりもまず自分一家が天国にならなければならない。
それにはまず自分自身の心が天国になる事で、心の天国とは心に苦悩のない状態である。
という訳で焦るのも苦悩なら、思うようにならないと煩悶する悩みも地獄であるから、少なくとも苦悩から脱却する事である。
それには感謝によって苦悩を打ち消すのが一番いい方法で、つまり心の中に地獄を作らない事である。
それについて心得べき事は従来のあらゆる宗教は信仰の苦しみをよいとしている。
中にはわざわざ苦しみを求める信仰さえあるくらいで、
世界的大宗教であるキリスト教ですら、歴史をみれば、ほとんど苦難で開いている。
そういう事が一般人の頭にあるので、本教信者になってもそれがつきまとって離れ切らない。
右は全く今までの世の中は、夜の世界すなわち地獄世界であったから、
たとえ立派な信仰者となっても、地獄の苦しみから脱却出来なかったのである。
ところがいよいよ夜は終りを告げ、ここに昼の世界とならんとしている今であって、
しかも本教が指導者となって天国を造るのであるから
前述のごとくどこまでも地獄を造らないよう、天国を心の中に築く事である。」
明主様御教え 「鰯の頭も信心とは大いなる誤りである」 (昭和10年代御執筆)
「昔から唱えられて来た「鰯(いわし)の頭も信心から」と言う言葉がある。その言葉を一般の人は、真理であるかの様に思っているのであるが、これは大変な誤りである。
そもそも人間が、信仰的信念を以て拝む場合、その本体即ち、的であるところのものは、飽くまでも崇高なる神格と、正しい第一義的の神霊でなくてはならないのである。
それは、いかなる意味かと言うと、崇敬し、拝跪(はいき)すべき御神霊は、人間よりも、霊的段階の最上位の御神格程良いのである。
何となれば、常に礼拝する御神格が高ければ高いだけ、人間の霊魂はより向上すべきものなのである。
この理によって、鰯の頭を拝めば、鰯の頭以下の霊格に墜ち、狐狸を拝めば、獣類以下に墜ちるのは当然である。
故にこういう低級信仰を続けるにおいては、知らず識らず、その人の心性は獣類以下に下劣となり、利己的となるものである。
その結果、善に属する事よりも、悪に属する行為をし勝ちになり、それが又、罪を構成するから、その罪によっていつかは不幸を招き、悲惨な境遇となるのである。
故に熱心な信仰をしながら、不幸や病気、災難などに、次々悩まされるという訳は、その信仰の的たる神霊が、実は、低位の神か又は邪神系統に属する神なのであるから、その点を充分注意しなければ、反って信仰すればする程、不幸な境遇に陥るのである。
真に正しい、高位の神仏を信仰、礼拝するにおいては、月日を経るに従い、病人は無くなり、物質は豊かになり、一家円満にして、自然に栄えてゆくものである。
しかし、こういう信仰はまことに少いので、世の中を見渡しても、ほとんど見当らない位である。
大抵の信仰は、いか程信仰しても、不幸が消えないので止むを得ず、不幸は神の試練だとか、罪障消滅の為だとか、種々苦しい言訳を作り、果(はて)は不幸を楽しむのが、真の信仰に徹底した人のようにいう様になったので、実に間違いもはなはだしいのである。
これを以てみても、今日までの信仰の価値は想像出来るであろう。
しからば真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在(あらせ)らるるかというと、それは主の神の表現神で被在らるる天照皇大神様であられるのである。
天照皇大神様は、最尊最真の御神格に渉らせらるる故に、人民が自己の希望を念願し奉るごときは、まことに恐多いのである。
恐多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願い言は叶(かな)わないのと同じ意味であるのである。
この故を以て、主神は、伊都能売神(いづのめのかみ)を介して観世音菩薩に、救の力を与え給うたのである。
ここに、一切衆生を救わせ給うとしては、神の御名においては、その格位に対する神律上、ある程度より下らせ給う事は、不可能であるから、止むを得ず、神界より下位である仏界に、顕現され給うのである。
しかも菩薩位は仏界においても、低位であるから、いかなる卑しき、賤(しず)が伏屋(ふせや)でも、奉斎する以上、鎮まり給いて、御守護被遊(あそばさ)るるのである。
随って、正しき事は、すべて受入れ賜うのである。
最高の御神格に被在(あらせ)らるる、天照大御神様を御奉斎するには、相応の理によって、その神床も祭壇も、在厳にして、清浄でなくては恐多いのである。
勿論一切檜造りにして、礼拝する上にも、その都度斎戒沐浴して、弥(いや)が上にも慎重な心構えを以て、なさなければならないのである。
今日のごとく、千余年以上、仏教弘通された為に、神を忘れておった日本人としては、今直ちに、厳格なる式法を以て臨むのは、全く無理であろうと思うのである。
それ故に、いかなる家、いかなる場所といえども、それ相応に、簡略に奉斎され得て、しかもいかなる願事を申しても、非礼の罪を赦させ給うのが、観世音菩薩の大慈大悲の御心であり、
又、時所位に応じ円通自在、自由無礙なる所以(ゆえん)であり、到るところ、救いの光を恵ませ給い一切衆生をして一人も漏れなく、慈光に浴せしめん、有難き御本願であるのである。
無礙光(むげこう)如来の御名こそ、まことに能(よ)く、それを表わし給うと思うのである。
又現今、各宗教の祭神及び本仏は、外国系統が多いのであるが、それはほとんど、世人は気が付かないのである。
日本人は、最優秀の霊格であるから、それに相応しない、外国の神仏を拝むのは、大いに間違っているのである。
今日これ程多くの宗教があり、それぞれ信仰をしているに拘わらず、病気や不幸が多い原因としては、それらの点もすくなからずあるのである。
これを要するに、日本人としては、天照大神様を尊信し、伊都能売神又は、観世音菩薩に対し奉り、御守護と御霊徳を願い奉る事が、最も間違いない信仰である事を、心得ねばならないのである。」
明主様御教え 「太陽の救い」 (昭和27年11月19日発行)
「(一部のみ引用) 現在識者とされている人達程、必ずと言いたい程新宗教とさえいえば、最初から色眼鏡で見る癖がある。
どうせ近頃の出来星宗教であるから、時世に便乗して巧い教理をデッチ上げ、
愚夫愚婦を迷わせて懐を肥し、教祖様などと納まりかえっているに違いないと決めているので、
たとえ病気に罹っても医者にも掛からせず おまけに血の汗絞って稼いだ金まで捲き上げられて有難がっているのであるから、
困った世の中だくらいに思っているらしい。
なるほどそれが事実としたらその通りで、吾々宗教人といえども共鳴にはばからないのはもちろんである。
しかしそれも満更間違ってはいないとも思うというのは新宗教中二、三を除いては感心出来ないものも相当あるからである。
その例として世間よくある大きな声で経文を読み鐘や太鼓、拍子木等を叩き、近所迷惑などお構いなしでいい気持になっているのを見ると、一種の騒音罪悪であろう。
また衆人環視の中で、多勢の信徒が変な歌を唄いながら、妙な手付で何の会釈もなく舞踊(おど)っており、さながら夢心地の陶酔境である。
これを見せつけられて余りいい気持のしないのは吾々のみではあるまい。
としたらこれらも社会的に見てどうかと思うのである。
そうかと思うと信仰に熱心な余り一人よがりになってしまい、他の宗教や無信仰の人達を軽蔑するばかりか、世間並の交際さえ嫌う人も往々見受けるが、
極端になると神憑りを喜び、気狂い染みた人間を作る信仰さえあるので、これらもプラスよりマイナスの方が多いと見ねばなるまい。
また罪のないのもある。
髪を伸ばし、異様な服装を着け、生神様然と納まり返っている自称教祖などもよくあるが、
これらは全く嫌味タップリで、よくこんな生神様を信仰する人もあるかと思うと、世の中は広いものである。
また昔からある種の信仰には付物の難行苦行であって、寒中の水垢離(みずごり)、深山へ籠っての断食や滝を浴びるなど夢中になっているが、
なるほど御当人は大満足であろうが、吾々普通人にはサッパリその了見が分らないので、むしろ可哀想に思うくらいである。
以上ザットかいてみたが、要するに世間離れのしたやり方を宗教本来のものと思っているこの迷信も困りものである。
これらを見るにつけ、私は宗教人でありながら苦行をいいとする宗教など、実に嫌なものであると思い、常に人にもいっている。
以上のごとく今日低級信仰が巾っているので、最初かいたごとく有識者ならず共、軽侮の念を起さざるを得ないのは当然である。(後半省略)」
明主様御教え 「プラグマチズム」 (昭和23年9月5日発行)
「(一部のみ引用) ここで私は注意したい事がある。
それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に、
宗教信者の宗教臭きは顰蹙(ひんしゅく)に価する。
特に熱心な信者にしてしかりである。
世間よく信仰を鼻の先へブラ下げているような人がある。
これを第三者から見る時、一種の不快を感ずるものであるから、
理想的にいえば、いささかの宗教臭さもなく普通人と少しも変わらない。
ただその言行が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。
一口に言えば、アク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰ではいけない。
世間ある種の信者などは、熱心のあまり精神病者かと疑わるる程の者さえあるが、
この種の信者に限って極端に主観的で家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、
世人からその宗教を疑わるる結果となるが、
これらは指導者に責任があり、大いに注意すべきであると思う。」